時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(No.73) 便利で厄介な数

2009年01月31日 21時36分32秒 | Weblog
 数は結構不思議なものだ。
数で表されると分かりやすい。
昨日,県内の公立高校の志願者登録数が発表されたので,高校入試の例で考えてみる。
入試は3月5日に行われるので,「もう直前だ」というよりも,「残り34日」と数字で表されれば期間が具体的に見えてくる。

しかし,そうでもないときがある。
 
 13948人が定員といわれてもよく分からないが,それが「記録が残っている中では過去最低」と説明されると,その数字の持つ意味が見えてくる。

 データなどを示す時も,「茶は,静岡県,鹿児島県,京都府での生産が盛んだ。」と言われるよりも「1位静岡 2位鹿児島 3位京都」と数字を交えると説得力も増すように思える。

 歴史の学習においても,年号を覚えることはあまり本質ではないと言われているが,時代の流れをつかむ上で年号が分かれば分かりやすいし,説明の際にも年号を用いた方が分かりやすい。

 このように数で示されることで,あるいは示した数に説明を加えることで説得的に説明ができるし,説明された側も何となく説得力のある説明を聞いているように思う。
 ただし,数で示されることで見えにくくなってしまうこともあるように思う。

 自転車が関連する交通事故は全事故の2割を占めているそうだ。そのような現状の中で,昨年,改正道路交通法が施行された。自転車の歩道通行に関する記述が特に目立つ。ここまでから判断できることは,「自転車が歩道を無秩序に走っていること」が事故の原因のように思える。
 しかし,自転車の事故の相手を見てみると,自転車の事故は8割以上が自動車相手の事故であり,さらに対二輪車の件数も足すと9割弱になるようである。つまり,今まで法律を知らずに,歩道を走っていた者が,車道を通行するようになればなおさら事故は増えるようにも思えてしまう。もっとも,対歩行者の事故も10年前の約5倍になっているようではあるが,割合では2%未満である。対自動車との関係を改善する方が得られる効果が得やすそうに見える。法律こそ整備されたものの,道路の現状は改善されていない。自転車が車道を通っているがために,自動車が道路の中央へ大きく寄っている交通量の多い道路もある。その場合,歩道通行の例外が適用されるのだが,その場合,自転車は徐行をしなければならず,歩行者がいれば一時停止をする必要もある。少しでも急ぐなら車道のほうがいいだろう。道路の改善無しに,対自動車の事故は増えていくのではないだろうか。
 
 同じ数値であるはずだが,統計表をどこまで細分化してみるかでデータの解釈に差が出てくる。


 数字によって人間が勘違いをすることも多い。
 予備校の合格者数表記に「医学部○○人」という発表がある。
 医者を目指している人がこのデータを活用する場合,この数字だけでは十分に欲しい情報が得られているとは言いがたい。医学部には医学科と看護科など複数の学科が設置されているからだ。
 昨日発表された高校入試の倍率にしても,倍率が高ければ,不合格者数が増えるのは事実だが,実際の倍率は,受験しない者などが出てきてそれよりも若干下がる。自分の受ける学校が他の学校よりも倍率が高かった場合,必要以上のプレッシャーがかかってしまう。そのような場合,緊張が減る分,倍率を知らない(気にしない)方が平常心でいられるかもしれない。

 数字は便利であるが,それによって案外振り回されているところもある。
 数字とのうまく付き合えると,世の中の見え方が変わってくるかもしれない。
 数字だけでなく,その数字の持っている意味まで考えるようにするだけでも,見方はだいぶ変わるのではないだろうか。

(No.72) 秘密基地

2009年01月30日 23時59分58秒 | 現在の中の過去
 幼稚園から小学校低学年にかけてだろうか。近所で友達と秘密基地を作って遊んでいた。
 先日,そのとき作った秘密基地の現状を見て回った。
 当時の面影のあるもの,全く変わってしまったものなどそれぞれだった。
 社会の変化とも密接にかかわっている部分もあるのでその辺にも触れながら見ていきたい。

 まず,友達と「秘密の百丁目」と名前をつけていた基地から。

 県営住宅の脇のポンプ室付近に「百丁目」はある。

(2009年1月27日撮影)


 「百丁目」への入口。
 かすかに跡は残っているが,最近は入る子どもは減ってそうだ。(本来遊ぶのは好ましくない場所であるが・・・)

(2009年1月27日撮影)


 「百丁目」への裏口。写真を撮ろうとしたら猫がものすごい勢いで飛び出してきた。

(2009年1月26日撮影)

 ここからはまだ入れそうだ。

 「百丁目」の面影はかなり残っていた。


 次に,「百丁目」と同様にポンプ室の近くに作った秘密基地。


(2009年1月26日撮影)

 茂みの中に木の枝(武器のつもりだったかな)とかを隠して遊んでいたように思う。
 あと,ここに穴掘って,地下に基地を作ろうという壮大な計画も立てていた。
 今となれば,掘るためには許可が必要になることも分かるのだが,法律のわからない子どもに掘っていけない理由が分からないし,親もそんなことを考えるなんて想像しないだろう。

 その近くにあった秘密基地。

(2009年1月27日撮影)

 道路と駐輪場の間にあった秘密基地。
 現在は柵とポールで入りにくくしているが,もともとはなかった。近所の人の子どもが遊ぶと危ない場所として柵がつけられたのだろう。しかし,小学生のときはポールができたおかげで,なおさら秘密基地感が高まったように思え,ここを乗り越えて入っていた。柵がなかった頃は壁の溝に手と足をかけて登っていた。大人の意図が伝わらない子どもだったんだなと今更ながら思う。

 その近くの緑地帯にも秘密基地を作っていた。


(2009年1月29日撮影)

 昔はここがトンネルのようになっていて,くぐるのを楽しんでいた。


(2009年1月27日撮影)

 脇にある植え込みは迷路のようになっていて,そこをたどりながら緑地とその外へ移動して遊んでいた。
 奥に見える木がある植え込みでは木に登ったり,植え込みに隠れたりして遊んでいた。


(2009年1月26日撮影)

 迷路の形跡は少し残っているが,以前はもっと背丈の高い植え込みがあり,その植え込みには中が空洞になっているところがあり,そこに基地を作っていた。

 緑地体内の基地は面影は残っているものの,木の枝が切ってあったり,植え込みが切られていたりで今は秘密基地としての機能はほとんど残っていない。


 秘密基地の跡地を見て,「大人の危ないという判断で,子どもが秘密基地を作れる場所はほとんど残っていないこと」が分かった。
 このことは子どもを危険から守ることに大きく貢献している。子どもにとって危険な目に遭うことが前ほどはなくなった。このことはもちろんいいことであるのだが,子どもに本当の危険を理解させるのには逆効果の部分もあるだろう。本当に痛い目に遭わなければ,分からないこともあるからだ。
 
 このようなある意味での「温室」が出来上がった背景には,大人の危険から子どもを守りたいという純粋な気持ちに加え,安全面の欠けていた施設を設置した者にとっては,訴訟を防ぐ意図で取り組んだ場合もあるだろう。
 大人の事情で,子どもが学ばずに過ぎていくことも増えているように思う。
 危険から学ばせるのも死んだら終わりになので危ない面も大いにあるのだけれど・・・

(No.71) 菩薩堂

2009年01月29日 00時56分33秒 | 現在の中の過去
 「いづろ」に続いて,ひらがなの地名に関する記事。
 
 まずは由来から。

 第16代の島津義久が信仰した網掛け地蔵がこの通りにあった菩薩堂に安置されたことから,その菩薩堂の前にある通りに菩薩堂通の名がつけられたという。網掛け地蔵は加治木・帖佐の海中に光があり,漁師の網に地蔵がかかり,それを本尊としたものだといわれる。

 その菩薩堂があった場所には,今も・・・


(2008年5月25日撮影)


 これはある建物の一角だ。
 待ち合わせ場所になることもあると思われるぐらいの場所。


(2008年5月25日撮影)


 地蔵角交番。

 そこからやや海側へ行くと国道に出る。その国道にあるのがこのバス停。


(2008年5月25日撮影)



 いづろ同様に菩薩堂がなまったのだろう。
 地蔵角交番とはやや離れているので,両者を結びつけるのはなかなか難しい。

(No.70) 暇,遊,学

2009年01月28日 23時58分23秒 | 現在の中の過去
 以前にも書いたように思うが,大学4年になり,授業数がすかすかになるのもなと思い,1年生向けの教養科目を受講している。。その授業の一つが今日終わった。
 専門に入ってから受けてみると入学時とは違った印象で受けられる。(自分の専攻がある意味なんでもありなところがあるので,事実上専門の基礎ぐらいの授業になっているとは思うが・・・)

 大学も理科離れに力を入れているのか,数学や理科(物理)の文系向け講義を今年度から開講している。専門のことを専門ではない人にどのような方法で楽しく伝えるのかに関心があったので受けてみた。授業名には「娯楽」「遊び心」などの言葉が入っている。名前からして楽そうなのでとる学生も多く,200人以上(登録数)を相手にした授業となった。
 「娯楽」の方は人数が多いながらも,実際にやらせる活動が多く,教員の話術等もあり,評判はよさそうだった。
 「遊び心」の方は,人数が教員の予想を上回り,受講者が直接実験する機会もシラバスほどはなく,授業の前半は講義形式だったこともあり,周りの受講生から「この授業のどこが遊び心なの」とか「あの人この授業面白いと思ってるの」とかの評判も聞こえ,教員が挙手等を求めても手を挙げずに,無視して楽しんでいるような時もあった。(授業態度については別問題もあるのだろうが,授業がつまらんっていうのが原因の一つには違いない。)学問の世界の中で,ある程度の期間生きている教員は,学問や科学の楽しさは分かっている。しかし,まだ大学に入学したばかりの1年生には,高校までの教科書教育から抜け切れてない部分もあるのだろう。そして,何を面白いと思うかには個人差がある。

schoolの語源は「学ぶ」ではなく,「余暇」だった。暇だから学問をしていた。
空や自然を見て色々なことに想いを巡らせていたのだろうし,散歩をしながら一筆書きで川に囲まれた町を1周するにはどうすればいいのかなどを考えていたという。中国地方の某国立大学も「学問は最大の遊び」のような言葉を,キャッチフレーズに掲げている。

最近は暇がなくなったのではないだろうか。携帯電話,インターネットなどなど,暇を作らずに済むようになった。そして,暇があっても学問をするよりも楽しいことはいくらでもある。昔の人と今の人でも差があるだろう。
 しかも,学問の世界も専門化,細分化が進んでいる。さらに,学問で遊ぶということは,ある程度トレーニングをして,ある程度の像が分かってこなければそうできるものではない。とっかかりが悪く,一見難しそうだから他のことをしようと思えば,その楽しさを見出せる機会はなかなか来ないだろう。
自分自身も,大学1年の頃,授業は卒業に必要な単位のために受けている感覚が強かったし(自分の興味にあったものは楽しんでいたが),卒論だって,論文作成上のルールの煩わしさなどから,楽しいと思えたのは提出の1週間前ぐらいになって研究成果が見え始めてからだった。
 諸科学の成果を学ぶことも大切だろう。しかし,今の日本の高校までの教育は教科書が絶対的に正しいという前提の部分があるように思う。それを認めている先生もいたが,受験もあり,そのための授業を行っている場合が多いように思う。もちろん,指導内容にはある程度の束縛がある。試験には明確な正解がある世界から,大学に入っていきなり今まで習ってきたことを疑えと言われてもどう疑えばいいのか分からない。(もちろん教科書に書いてあっても世間的にあやしいとされ始めたことについてはまず出題されないのだが。)
 暇がなくなっただけでなく,教育の在り方にも問題がありそうだ。

(No.69) あぼ

2009年01月27日 02時45分11秒 | Weblog
 昨日の記事である名簿原稿のことを取り上げた。今回はその続きの部分に関連した内容を書きたい。
【   】(←自分にふさわしいと思う一人称を記入)は,昭和【  】年【  】月【  】日生の【   】座で,血液型は【  】型だが,皆はよく【    】型(複数可)と予想する。

 これで冒頭の一文が終わる。
 下線部①の一人称については昨日の記事の中で書いた。
 次に下線部②について,これは2007年4月に大学2年生以上が所属している団体においての名簿だったので,その頃は大学1年生の早生まれで,浪人をしていない場合が「平成」生まれだった。そのため,この名簿の原稿はそのままの状態ではその団体で使うことはできない。大学の場合,浪人生や留年者もそこそこ出てくることや社会人の再入学もあるため,昭和世代の学生が全くいなくなるというのはそう早くは来ないように思える。昭和の生まれに古いイメージがつきそうだが,平成に生まれなくて良かったと思うときの方が多い。

 さて,この記事の本題になる下線部③の血液型についてだ。
 最近は「○型の説明書」という本も出されている。(当てはまるのは半分ぐらいという注意書きがあるらしいが・・・)
 これは,血液型性格判断が信用されているという前提があって出されることになる。日常生活で血液型について聞かれるのも,性格判断の要素が強いのではないだろうか。このような文化があるのは,日本だけであり,外国人が日本で血液型を聞かれると,献血か輸血でもするのかと思ってしまうようだ。
 血液型と性格との因果関係が認められているように思えるが,実際にはそれを疑う意見も多い。この名簿の原稿の作成者も,血液型を聞いておきながら,予想される血液型も聞いていることからある程度は疑っていることが考えられる。

 血液型と性格との関係についての研究が行われたこともあったが,現在では十分な科学的な根拠はないと言われている。
 自分自身も占い師に「あなた最近不幸なことがあったでしょ」と言われ,「何で分かったんですか!」という展開と似ているのではないかと思っている。人間の性格にありがちな要素を4つに分けてみただけと考えている。几帳面=A型というイメージにせよ,人間誰でも自分なりのこだわりというものは持っているはずだからある面においてみんな几帳面と判断できるのではないだろうか。あとは,2次的な性格形成もあるように思う。自分は「A型だから几帳面なんだ」という思い込みから自然と「A型」らしくふるまってしまうこともあるように感じる。

 2年前の自分が血液型性格判断に書いた文章が以下の文章だ。
血液型と性格は、関係があるとよく言われる。試しに、身の周りにいる人の血液型を予想しよう。すると、予想が当たることは案外多い。しかし、本当に血液型と性格が完全に一致すれば、予想が外れるのはおかしいことになる。私は最近「B型」だと言われるが実はA型である。「B型」の性格として一般的に言われる特徴が表れているのだろう。今はそんな行動をとりながらも、かつては「A型」以外の血液型に見られたことはなかった。だが、高校卒業後、自分を取り巻く環境が変わり、いい加減な面が多くなって来たと思う。性格は環境によって変化しないと言い切ることはできない。したがって、血液型と性格との関係は疑わしい面が多いはずだ。

 この文章は血液型について語る目的で作成されたものではなく,限られたスペースに入る長さで,条件を満たされる表現に推敲したために文としては違和感があるところもある。

 そのためにかたくなに血液型を聞かれるのを嫌がる人もいる。血液型だけで絶対的に性格を決められるのを嫌がってのことだろう。確かに,少なからず血液型性格判断に科学的な根拠がなく,外れる場合も多いことから,それを絶対的に信じて,決め付けてしまう状況になればまずいだろう。他方,単なる話題として使われている場合もあるように思う。かたくなに拒む気持ちも分からなくもないが単なるコミュニケーションツール程度に考えられればいいのではないかと思う。科学的ではなくても,話の種として楽しめればそれでいいと思う。B型やAB型に変なイメージが多いことは少し気になるが・・・
 
 このように血液型性格判断が流行った理由として挙げられていることに,①「血液型も遺伝することの多い,家族の性格も似て来る」②「マスコミや本が取り上げていたから(日本人は本に記載されていることは正しいと思うため)」③「4種類で大雑把過ぎもせず,また覚えやすいから」などがある。
 それぞれの理由から考えさせられることも多い。

① 遺伝の仕組みを考えると,AB型の親からO型の子どもは生まれないし,O型の親がAB型の子どもを生むことができないのもよく知られているし,推理物等で親子関係を見破る際の根拠にも使われている。そう考えると血液型も場合によっては家庭環境が分かる危ない個人情報なのかとも思ったが,親子セットで血液型が出そろうことはそんなにないだろう。子どもの家に友達が遊びに来た時ぐらいかもしれない。

② これに関連した疑似科学などについては別の独立した記事で取り上げたい。

③ ある程度単純であることが大切だと思わされた。最近,自転車の通行に関する交通ルールを考えさせられる機会があったがこれがなかなか複雑である。小学生でも乗るものなのだから,もう少し分かりやすさ,守りやすさがあってもいいように思う。これについても深くはまた別の機会に・・・

 血液型性格判断から派生させるだけも結構色々なことを考えられるものだ。

※タイトルは血液型のABOをローマ字読みしたもの。

(No.68) 藤誰俺岡阪奈鹿熊・・・

2009年01月26日 08時26分16秒 | 過去になる現在
 タイトルの漢字が何か分かるだろうか?

 最初の3字を除くと,いずれも都道府県名に使われている漢字という点で共通している。


 しかし,この漢字の列はここで終わりではなく,まだ続いている。続きを以下に載せる。


頃 韓 弥 斬 虎 狙 脇 尻 叩 闇 籠 呂
亀 頬 膝 鶴 匂 嘘 須 噂 濡 笠 嬉 股
眉 朋 覗 鎌 凄 撫 溜 謎 稽 曾



 これらの漢字の共通点は分かっただろうか?



 これらの漢字が話題になったのは少し前で,最近はあまり取り上げられていないように思う。
 これらの漢字は,法令,公用文書,新聞,放送など一般の社会生活で現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安とされている「常用漢字」に新たに追加されることが検討されている220字のうち,基本的に加える方針のSランクに分類された42字だ。以下,基本的に残すが不要なものは落とす方針のAランク150字,特に必要な漢字だけを拾う方針のBランク27字,そしてその下にCランクが1字(綬のみ)ある。

 1981年に1945字の漢字が常用漢字として指定されて以来の改訂となる。改訂の理由はIT化などによる漢字環境の変化だという。逆に銑(せん),錘(すい),勺(しゃく),斤(きん),匁(もんめ),脹(ちょう)の6字は現在は常用漢字であるが,ほとんど使われないために今後外される方針であるようだ。


 さて,最初に挙げたSランクの漢字の中にも,常用漢字として扱うことにもめた漢字がいくつかある。

 その一つが「俺」という漢字だ。

 もめた理由は,俺という言葉が同等以下の身分のものに対して使う一人称であるために,法令,公用文書,新聞,放送など一般の社会生活では必要ないためとするものなどがある。(注:俺という言葉の意味についてはいくつか議論あり)また,できるだけ子どもに使わせたくない言葉であるという理由も聞いたような気がする。

 法令や公文書では俺という言葉を使うことはまずないだろう。しかし,新聞や放送などは決して書き言葉のみで構成されることはなく,話し言葉でも構成されうるメディアである。また,一般の社会生活とあることから日常生活で使うのであれば常用漢字に指定する必要もあるのではないかと思う。もっとも「オレ」というカタカナ表記をすれば,漢字は必要ないが・・・

--------------
注 カテゴリーの「過去になる現在」の内容はおおよそここまでで,以下は作成者の考えを載せた「weblog」の内容に近くなります。勝手な意見というわけでもなく,根拠がないというわけでもないのですが,根拠を明確に示せないので,あくまで参考ということでお願いします。言葉のイメージへの言及もありますが,他にもいい言葉があると思うので,解釈の一例として考えてください。


 では,日常生活で「俺」という言葉はどれくらい使われているだろうか。ある例を参考に考えてみたい。

ある団体の名簿で自分にふさわしいと思う一人称を尋ねる項目があった。一人称を聞かれることなんてまずない。しかし,完成した名簿に対してこの一人称の項目に対しての反応はそれなりにあったようだ。それだけ個性を反映する項目だったといえるのではないだろうか。
 まず,女性は「私」「わたし」のみであり,「あたし」や「(下の名前)」はいなかった。おそらく何の迷いもなく,記入したのだと思う。一方,男性の方は,僕・俺・自分等に分かれていた。
 「自分」という一人称も興味深い。特に音声ではなく,文字として表すので「俺」と書くのも戸惑うし,かといって「僕」と書くのもな~という感覚になると,丁度便利な言葉が「自分」であるのだろう。この自分という一人称,話し言葉でも,俺にも僕にも抵抗がある場合に使い勝手が良い。言葉の持つイメージとして,「僕」は「幼い」「弱い」などのイメージが,「俺」には「かっこいい」「強い」などのイメージがあるように思う。(あくまで個人の意見であり,言葉の持つイメージを言葉でピッタリと表すことは簡単ではないということは分かっているが・・・)

 小学生の発表モデルに「ぼくは○○だと思います」などが挙げられることから,最初に教えられる一人称は「ぼく」がたいていなのだろう。それが小学校高学年頃になると「俺」へと変化していく。(最近ではもっと早い段階から移行しているかもしれない)そして,中学校の段階では「俺」が多数派になっている。

 大体の男の子が「俺」へ移行していく時期に乗り遅れた場合,「僕」から「俺」に変えるのは意外と大変なものだ。周囲や自分自身のイメージなどとの葛藤を強いられる。その後は,俺に移行できる人もいれば,僕に戻る場合もあれば,どちらにもなれずに自分を使う場合などがあるように思う。頑張って「俺」と言っている人を見ると,本人には申し訳ないが,頑張っているな~(たまにやっぱ違和感があるな)と感じていた。


 しかし,不思議なものである程度年をとってくると,当然「私」への移行もあるが,逆に「僕」に戻る場合もあるようだ。

 一人称が豊富な日本ならではの現象であり,悩みなのかもしれない。

(No.67) 鹿児島の雪景色

2009年01月25日 05時10分09秒 | 風景
 昨日の夜,雪が降っていた。

(2008年1月24日撮影)

屋根の上に雪がのっている。

夜の間に積もるかと思い,今(4時ごろ)外を見てみると・・・


雨になっていた。


 鹿児島で雪が積もることは滅多にない。
 交通事情などにかなりの影響が出て,迷惑ではあるのだが,その迷惑さを上回るぐらいの喜びを感じるときもある。


 ここ最近は雪が積もったという経験があまりないが,2004年(2004年度か?),2005年と連続で雪が積もる年があった。

 2004年度のときの写真は残っていないが,2005年12月の写真はあるので,いくつか以下に載せる。


 午前中はまだ雪が降っていた。


(2005年12月22日撮影)


 雪がやみ,午後になり,気温が上がってきても・・・

 まだ雪が残っている。


(2005年12月22日撮影)



(2005年12月22日撮影)


 せっかくなので小さな雪だるまを作って景色を撮影してみた。

 当時,大学1年だったはずだが,雪遊びを十分に楽しんだ気がする。雪だるまを作っている際,通行者がにこやかにこっちを見ていたが,こんな機会滅多にないと思い,雪だるま作りを続けた。

 2004年度も高3の受験前だったはずだが,学校の渡り廊下などで雪遊びをしていたような気がする。

 鹿児島で雪が降るのは子どもだけでなく大人もお祭り気分になっていることが多い。

(No.66) 南薩鉄道の廃線跡【伊集院~上日置】

2009年01月24日 06時56分33秒 | 現在の中の過去
 松元経由で伊集院方面を訪問した。当初は,1日で帰る予定が翌日も十分な時間があったので,JRで鹿児島市に帰り,翌日も伊集院方面の散策をすることにした。2日目,列車を降りた伊集院駅のホームから駅舎の方を見てみる。

(2008年12月1日撮影)

 ホームと駅舎は離れていて,その間は駐車場として利用されている。

 駅の歩道橋上から見てみる。

(2008年12月1日撮影)


 この駐車場,もともとは線路だった。
 
 しかも,JR(国鉄)の所有ではなかった。

 鹿児島交通鉄道の線路で,伊集院から枕崎までの路線があった。

 この伊集院駅のやや変わった構造はそのときの名残ということになる。


 今回の記事では,南薩鉄道の廃線跡を隣の上日置駅まで現在も行くことができる部分のみをたどってみた。

 まず,駅を出てしばらく線路沿いを東市来方面へ行くと,橋が見えてくる。
 橋があるところの線路はこのようになっている。


(2008年12月1日撮影)

 2つガードをくぐって線路の反対側へつながる道路になっている。
 
 川側のガードが南薩鉄道の跡で,ガード上に何もない。

 もう一つのガードは幅が広く,その上をJRの線路が通っている。

 ガード下にはこのようなイラストがつけられている。

(2008年11月30日撮影)


 そこから,橋を渡り川の反対側へ行き,橋を渡りきったら向かって右の方へ行く。しばらくして,川の反対側を見ると下の写真のようになっている。


(2008年12月1日撮影)


 丁度真ん中付近に橋の一部が確認できる。
 南薩鉄道はここにかかっていた橋で神之川を渡っていた。
 近づいてみると・・・


(2008年12月1日撮影)


 まだ,だいぶ石があり,形状も残っている。


 線路跡は城山の脇を通っていく。砂利道にわだちが残っていることから,利用者はいるようだ。


(2008年11月30日撮影)

 奥に見える橋は伊集院駅から妙円寺団地へ向かう道路だ。
 
 神之川のせせらぎの音が聞こえなくなると,次のような場所に着く。
 

(2008年12月1日撮影)

 
 築堤上へ登ってみると・・・


(2008年12月1日撮影)

 まだ枕木がまとめておいてある。
 
 この道,地図上は道路となっているが利用者がいなくなったためか,草がボーボーで先へ進むのはあきらめた。


 迂回していったん県道に出てから伊集院の中心街の方へ少し戻ると,別の道路と交差しているところがある。


(2008年11月30日撮影)


 横の斜面を登って上へ行くと・・・


(2008年12月1日撮影)


 枕木が埋もれている。奥に電信柱につるが絡まっているのが見える。
 自分が産まれる以前に使われていたものの形がまだ残っている。

 これより先へは行けそうになかったので,いったん廃線跡をたどるのはやめ,見山経由で東市来の方へ向かった。

 美山から出ている広域農道を通り,途中で大田トンネルへの道を探したが見つからなかったのであきらめて山道へ。
 農道と高速道路の上を橋で越え,山道を15分ぐらい進むと,集落に着いた。


(2008年12月1日撮影)


 この集落には日置市のコミュニティバスのバス停がある。本数は1日3本で火曜日だけが2本多いようだ。

 この集落から県道の方へ下っていく。

 しばらく下っていくと,一見不必要に思えるカーブがある。
 
 そのカーブを曲がろうとしたとき,あるものが目の前に見えた。
 

(2008年12月1日撮影)


 上日置駅跡の給水塔だ。 

 このあたりの地面を見るとまだ枕木が埋もれている。

 給水塔へ近づいてみる。


(2008年12月1日撮影)


 ホームの形がはっきり残っている。


(2008年12月1日撮影)


 ホーム跡の端の方から給水塔の方向を見てみる。

 かつてこの駅にスイッチバック設備があったときは向かって左の藪の上も線路があり,上下列車の交換を行う際に使われていたようだが,その形跡は確認できなかった。

 上日置駅からさらに下ると日吉町へ向かう県道に出る。
 この県道から上日置駅へのアクセスも当初考えており,上日置や毘沙門(上日置駅の旧駅名)というバス停があるのでそれが目安になると考えていたら,実際の小道の入口になるバス停は「上日置」の次の「住吉支所前」だった。

 今回はここよりも加世田方へは行かなかった。機会があればこの先もたどってみたい。

(No.65) 【西駅1】 今なお残る「西駅」の名

2009年01月23日 04時56分00秒 | 現在の中の過去
【西駅】の記事

1 今なお残る「西駅」の名(65)
2 地下通路(76)
3 0番ホーム(161)
4 幅の狭まる開かずの間(423)


※2009年1月26日更新

鹿児島市から「西駅」の名前が消えて,まもなく5年になろうとしている。初めは抵抗感しかなかった「中央駅」もだいぶ聞きなれてきた。しかし,未だにあえて「西駅」という言葉を使いたいときがある。とはいっても,このブログで取り上げた際は「西駅」とは書いていない。かといって「中央駅」ではどこの中央なのか分からないし,というよりはただ使いたくないだけか?しかし,「鹿児島中央」なんて書くと文字数がやたら多い気がする。駅の列車案内でも「鹿中央」と省略しているところもあるようだ。「鹿中央」→「かちゅうおう」→「かっちゅうお」→「甲冑魚」ということで過去2回ぐらい,ブログ内では「甲冑魚」と書いていた。余計分かりづらいのだが,意地でも中央駅とは書きたくない心境になるときがある。
 自分だけの例かと思っていたらそうでもなさそうだ。
 駅周辺の交差点名,市電の電停名,駅前のスーパーの店名,商店街の名前などは,全て改名されている。

 だが,未だに西駅という表記を使っている場所を2ヶ所見つけた。電話番号の桁数が増えていない看板があるように,コストや手間の問題で書かないのとは事情が違いそうだ。

 一つ目の例がこれだ。


(2008年12月1日撮影)


 朝市。
 昔からあるものだからだろうか。
 確かに中央駅よりも西駅のほうがしっくりくる。


 もう一つは,西口から少し南の方へ行ったところにある公園で名前が「西駅西口公園」である。

-----以下,2009年1月26日編集追加分


(2009年1月24日撮影)

 公園の奥には駅舎の壁に鹿児島中央駅の文字が大きく取り付けられている。

 さらに偶然見たある薬局のCMにも西駅の名残があった。
 その薬局,駅舎内に店舗を構えている。
 店舗名は「西駅店」だったが,所在地には「鹿児島中央駅2階」と書かれていた。
 

 この3つの場所については意図的に残されているような気もする。


----- ここまで2009年1月26日編集分


 武駅,西鹿児島駅,鹿児島中央駅と変わったのは名前だけではなさそうだ。
 
 変化の激しい西駅周辺については何回かに分けて記事を書いていきたい。

(No.64) 石燈籠

2009年01月22日 16時56分28秒 | 現在の中の過去
タイトルの「石燈籠」。鹿児島市のある地名の由来になっている。

 その場所の様子。

(2008年10月28日撮影)


少し見にくいかもしれないが,交差点の角に3つ石燈籠がある。

そのうちの一つ。


(2008年10月28日撮影)


 この石燈籠は字が薄れてあり,横にある案内板には,向かいの石燈籠は1984年に復元されたものとあるから,これは元々あったものかもしれない。

 夜になると,このようになる。


(2008年12月23日撮影)


 中央に「石燈籠通」の文字がある。


 この「石燈籠」の読みが変わって現在の地名になったと言われている。


 「いしどうろう」が最終的に「いづろ」となったと言われている。

 いづろのアーケードの床のタイルにも石燈籠の絵が描かれている。



(2008年12月23日撮影)

 

 地名の由来となった石燈籠の役割をめぐって2つ説がある。

1 藩政時代には、突きあたりの港の岸壁に石灯籠が一基立っており、錦江湾を航行する船の灯台の役目を果たしていた。それが,現在の位置に移設されたという説

2 島津氏第15代貴久の菩提寺松原山南林寺の参道に並んでいた石燈籠のに1つであったという説


 鹿児島に見られるひらがな・カタカナの地名は漢字表記を見ることで昔の様子が分かることもある。