時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(240) 規則遵守教

2009年11月30日 02時53分39秒 | Weblog
 集団で何かをしようとした場合,秩序を維持するために規則というものは必要になる。 その規則に反する行為をしてしまうと何らかの制裁を受けることもある。規則という形ではないが仕事のやり方を統一するためにマニュアルが作成されることもある。マニュアル自体はそれまでのやり方の集大成として作られることが大半なので,効率やミス防止に貢献できるやり方だといえそうだ。本来,作業のやりやすさは個人によってあう方法に差があるはずで,マニュアルのやり方に慣れてくると完璧なマニュアル通りではなく,自己流が混ざってくる人もいる。それで,万が一ミスが起こった場合はマニュアルに従わなかったことを強く問いつめられるだろう。
 このように規則やマニュアルは守るべきものであり,その内容が守るに値するものなのか吟味することはほとんどない。しかし,規則やマニュアルだってあらゆる場面を想定して作られてはいない。例外というものが存在し,その例外が多ければ多いほど複雑で分かりにくい規則になってしまう。規則どおりにやった結果,悪いほうへ向かってしまうこともある。かなり前の記事だが竜ヶ水の乗客避難指示がその例だろう。規則に反した乗務員の行動は結果的に乗客の命を救い,機転と評され。テレビでも称えられる結果になった。しかし,相手は自然であるのでそのやり方が常にうまくいくわけではないし,この誘導も土砂崩れのタイミングなどによって失敗した可能性だってある。その場合も,車内に残しておくよりは助かる可能性が高められ,落ち度がなかったとしても,その行為は機転どころか規則違反の行為となり,処分が下されただろう。学校や会社の身だしなみ規則にもこれはどうだろうというのも見受けられる。シャツの腕まくりがダメだったり,衛星商品を扱うわけでもないのに中学生でもしないような髪型(耳眉が髪で一切隠れないこと)を大学生のバイトに求めたり・・・会社はあくまで会社であって社長の意見が全ての部分もあるが,あまりにきついと人が集まらなくなるだろう。道路交通法の規定にも,ここまで守ったらその乗り物を使う意味がなくなるよなというものもある。(自転車の通行帯のついていない横断歩道の渡り方など)
 規則があることによって流れがスムースになっている部分も多い。しかし,いつでも使えるような万能なものでもなければ,その存在によって制限しなくてもいい部分が制限されることもある。そして,中には作った人たちの自己満足で存在に意味が感じられないものもある。
 規則だから守るということも大切だが,その規則の意味を少し考え直してみるともたまには必要なのかなと思う。

(239) 教職科目の講義の構成員

2009年11月29日 19時29分21秒 | Weblog
 教員免許の更新制が導入されて,若干受講者数が減ったと言う噂もある教員免許取得のための講義。そこでは,教科の内容や教授法などの理論について学ぶほかに,実践例の分析が行われたり,指導案作成の手法の指導を受けたり,模擬授業をしたりなどといういうことが行われている。実際の現場を想定して行われるのだが,やはり現場との差が出てくる。それは,教員免許のための講義の受講生の構成が原因だろう。免許を取ろうとする教科に少しは興味がなければ免許をとろうとすることはほとんどないだろう。そうなると受講生は教科にある程度興味を持ち,その教科が得意だった人が多いということになる。模擬授業では授業後に,講義の参加者で検討会が行われる。そこで出される質疑で「教師が教科書を読んで疑問に思うことや興味をもったことは生徒も疑問に思ったり,興味をもったりするはずだ」という意見を聞いたことがある。確かに,教科書の裏側を追究することは面白いとは思った。しかし,実際の生徒には教科が苦手なだけではなく,興味すら持てない人もいる。まして,話を長時間聞くのが嫌,活字を読むのも嫌という生徒もいる。逆に受験のみが目標になり,受験で使えない知識は聞くに値しないと思っている生徒もいる。受験に特化した塾では,面白おかしく授業ができること,受験に役立つ知識や戦略を与える授業が行われているところもある。
 しかし,大学の教職科目で作られる授業は学問の本質を追究するのには重要な視点を与えてくれるものになっていることが多い。実際の現場でそのまま使うと言うことはなかなか厳しくても部分部分を取り入れることはできそうだ。
 教育が理論だけでは十分とは言えず,実践が重要になる活動であることも講義室と現場の乖離が広がる原因なのかもしれない。好きな人ばかりいる集団では,苦手な人,嫌いな人の視点というのがなかなか意識できない。大人の言う「生徒目線で」という言葉を否定している大学の先生もいたが,子ども以上に知識や経験のある大人が生徒になりきることは不可能なのでその言葉も納得できる。
 模擬授業の形態にも現場と同じようにはいかない。大学生を生徒だと思い込んでもどうしても生徒と同じ対応はできないし,生徒を演じている学生側もわざと間違えたり,分かりませんと答えたりもするが,生徒になりきれているとはいえなさそうだ。
 模擬授業の学級構成は,実際の現場とは違うこと,生徒になりきることには限界があることを頭の片隅に入れておいた方が現場に出たときのギャップを感じずに済むかもしれない。
 さらに,教科の内容に関する科目では,大学生しか相手にしていないような大学の教員と現場とのギャップがある場合もある。

【蛇足】授業検討会で授業者を戸惑わせる質疑。
 ・この授業で生徒に何を伝えたいんですか?
 ・この授業で一番伝えたいことは何ですか?
 ・授業の山場はどこですか?
 あらゆる授業に対して使える。授業者がこれを考えておくことは大切だが,不意打ちで言われると結構戸惑うはず。

(238) テストの世界の言葉

2009年11月28日 19時25分52秒 | Weblog
小中学校ではテスト,高校では考査,大学では試験,入試では学力検査と呼ばれることが多い。呼び方は変わっても,行われる内容はほぼ同じで,口述があるものを除いては,紙に書かれた問題に紙に答えを書いて答えるのが基本だろう。声には出さないが文字を媒体として作問者と解答者の間でやりとりが行われている。そのような点に注目してか,問題文に答える行為を恋人としゃべっているような気分で解くという受験テクニックの存在も聞いたことがある。しかし,もし,恋人がテストの問題文のような言葉遣いでしゃべっているシーンを考えるとかなりわがままで高圧的な恋人のような気もする。そのテストの中における言葉遣いも一通りではない。主に年齢で段階分けがされているように思う。いくつかパターンを見てみたい。年齢層は大体その年代対象の試験で多いと感じたものを使っている。なお内容や漢字は年齢層を意識していない。

1 小学低学年向け
【1】次の問題に答えましょう。
1 花子さんは今6歳です。おとうさんは花子さんよりも28歳年上です。お父さんの年齢は何歳でしょう。
2 花子さんのお母さんは花子さんのお父さんよりも1歳下です。花子さんのお母さんの年齢を求めましょう。

2 小学中学年以上向け
【1】次の問題に答えなさい。
1 花子さんは今6歳です。おとうさんは花子さんよりも28歳年上です。お父さんの年齢は何歳ですか。
2 花子さんのお母さんは花子さんのお父さんよりも1歳下です。花子さんのお母さんの年齢を求めなさい。

3 中学生向け
【1】次の問題に答えなさい。
1 花子さんは今6歳である。おとうさんは花子さんよりも28歳年上である。お父さんの年齢は何歳か。
2 花子さんのお母さんは花子さんのお父さんよりも1歳下である。花子さんのお母さんの年齢を求めよ。

4 高校生向け
【1】次の問題に答えよ。
1 花子さんは今6歳である。おとうさんは花子さんよりも28歳年上である。お父さんの年齢は何歳か。
2 花子さんのお母さんは花子さんのお父さんよりも1歳下である。花子さんのお母さんの年齢を求めよ。

 中学生については小学生と同様にすべて「~なさい。」の文体のものもある。また,「~なさい」文体であっても文末がです・ます調ではなく,だ・である調になっているものもある。大問の指示文のみ「~なさい」で中問小問の指示が命令形が多い中で,反対に大問の指示文のみ命令形で中問小問の指示が「~なさい」となっているものも見られる。高校入試問題を見ると,公立の場合都道府県により,大問小問ともに「~なさい」のもの,大問は「~なさい」小問は命令形のもの,大問小問ともに命令形のものがある。「~なさい」の部分についてはです・ます調,だ・である調のものの両方がある。割合ではすべて「~なさい」のものが多い。大問のみ「~なさい」だったのが,最近すべて「~なさい」の文体になったところもいくつかあった。(広島・熊本など)中学生の教科書が,最近,だ・である調からです・ます調に変わったことを考えると入試の文体が変わるのも自然な動きなのかもしれない。命令形に慣れるまでは「~書け」「~せよ」と書かれているのに嫌気を感じる人も多い。話し言葉の世界でもここまであからさまな命令口調の連打はなく,「~せよ」の場合,「~しろ」の方がよく使われ,聞きなれないのも原因かなと思う。当時は疑問には思っていなかったが,大問だけ「~なさい」にしてあることの意図はよく分からない。結構,この文体で書かれたものはあるのでどのようにして浸透したのか興味深い。命令形でいいと思いつつも大問だけは丁寧に「~なさい」にしてあることにちょっとした優しさを表現できたのかな?
 高校は「~なさい」という問題文を見る方がまれでセンター試験もすべて命令形だが,大学入試の個別試験では「~なさい」が結構見られる。

 大学の試験や就職試験となると様々な文体が混ざっている。ある程度の大人を相手にしているからか「~してください」という問題指示文も見られる。
 また,小学低学年に限らず発展的な問題や楽しませる意図のある問題の場合は「~しましょう」「~しよう」という指示文も見られる。

 基本的な文体はあっても実際問題を作っているとそのルールに従わない出題をしてしまうことも少なくない。入試問題や副教材の問題集の問題をそのまま打ち出した場合,そちらにつられてしまうことも多いようだ。全体として文体は統一するように申し合わせはしていたが,作った先生の普段の癖が表れてしまう場合もある。

 普通ではないコミュニケーションが行われている試験という場に使われる言葉遣いにも独特な法則がある。どの文体にせよ,こんな口調の恋人がいたらすぐに嫌になりそうだ。

(237) 一人称「先生」

2009年11月27日 05時22分10秒 | Weblog
 学校や塾の先生が使っている独特の一人称に「先生」というものがある。自分の知る限りでは小学校の先生はほぼ全員,中学校でも多数派になると思う。高校や大学ではほとんど聞かなくなった。それ以外の一人称には私,僕,俺などが記憶をたどったところ見受けられた。
 特に意図があって「先生」と言っている先生は少なく,慣例的に「先生」と言っている人が大半であるのではないかと推測している。先生という言葉も人により捉え方は違うだろうが,何か「偉そうな」イメージがある。それを自分で言うと言うことは,自分が先生だと誇示しているのではないかという意味合いで受け取ることもできるように思う。それが原因かは分からないが,自分で自分のことを先生といえない先生もいるそうだ。しかし,普段の授業などでは一人称「先生」を使わない先生が朝礼でのスピーチになると「先生は・・・だと思います。」と言っていたり,塾でアルバイトをしていた知人が教育実習に行った時に「自分で先生といえないタイプだけど,実習中は先生を一人称にしていて,気持ちが悪かった」と言っていたりするのを考えると,先生が自分のことを先生と呼ぶのは,改まった場で私(わたし)とか僕とか俺ではなく,私(わたくし)と呼ぶのと同じで,ちゃんとした場で使える一人称なのかもしれない。年が上になるにつれて使わなくなる点も面白い。昔から年賀状のやり取りをしている先生がいるのだが,以前は「先生は元気です」と書いていたのが,ある時から「私も年をとるはずですね」のように一人称が変化していた。比較的低年齢層に使う一人称なのかもしれない。小・中学生に特に男の先生は「私」はというと堅苦しく聞こえ,「僕」ではくだけていて,少し弱々しいし,「俺」だと高圧的だし,しかも子どもにもあまり使わせたくないと思っているしなどと考えていると低年齢層にあわせる一人称があまりないのもあるかもしれない。

 日本語の一人称の使い分けは,使う方の立場の時は悩まされるところもあるが,人の使い分けなどの基準を考えてみると興味深いことが分かることが結構多い。

(236) 学校間文化の衝突

2009年11月26日 05時08分13秒 | Weblog
 ※自分の体験談を書いている部分では,世代間のギャップにご注意下さい。

 学校にはそれぞれの独自の文化が築かれている。そのことは,学校内では当たり前とされているので,普段は気付くことはほとんどないだろう。そのことに気付くのは,転校の経験がなければ小学校から中学校に進級する時と中学校から高校へ進級する時ではないだろうか。

 小学校と中学校にはおそらくどこの学校に通っていても共通に感じるであろう文化の違いがある。そのギャップが,中学校で子どもが荒れる原因の一つとして挙げられていることもある。
 その例の一つに先輩という制度がある。小学校の時には上級生もお兄さん,お姉さんという感じで「~先輩」「(男子に対して)~さん」とかではなく,「~くん」とか「~ちゃん」と呼べて,敬語で話すこともない。そんな存在だった上級生に中学校に入ってから出会うと,お兄ちゃん,お姉ちゃんではなく先輩という存在に変わっている。時に先生よりも怖い存在になっていることもある。しかも,このことが中学校に入学した時にオリエンテーションなどでは必ずしも告げられない。その場合,周りの様子から先輩という文化を察しないといけない。
 他にも,テストという共通の文化ではあるのだが,その扱われ方が大きく変わってくる。学習内容も定着に差が出てくる。

 ここまでは日本全国どこにでも当てはまるであろう文化の差だが学校別に差があるものもある。自分が体験した例では,ブリーフからトランクスへの移行の差異があった。自分の中学校は基本的に3つの小学校の出身者が進学していた。一つの小学校ではブリーフの男子が多かったが,他の2つの小学校では小学生の内にトランクスへの移行がほぼ終わっていた。いくら一つの小学校でトランクス移行が進んでいなくても,ブリーフはださいというイメージがあった。1学期間ぐらいかけてそのギャップがほぼ埋められていった。
 このことも原因の一つなのかこの中学校には制服の下に体操服を年中着る文化が成立していた。当初は,汚れるための服の上から制服を着るなんてとんでもない都言う意見が先生達の中にあり,禁止事項だった。しばらくすると,禁止ではなくなり,制服の下に着ていいものとして体操服という項目が追加された。朝会でも,生活部の担当者から,「制服の下に着ていいものは,黒・紺のはみ出さないトレーナー,体操服です。」というアナウンスが行われている。転勤で配属になった先生が,「男子も下に短パンはいてるんだ」と驚いていた。自分達のころは体操服を着るか着ないかは半々ぐらいだった。最近は,ほぼ100%に近い男子が制服の下に体操服を着るようになったようだ。パンツを見られることは全裸を見られるのに匹敵するぐらいの恥ずかしさになっている。体操服を下に着ることが禁止されている部活のユニホームに着替えるなどやむを得ない場合はトイレに行って着替えることもあるらしい。高校に進学すると,おそらくこの文化は少数なので,はじめは抵抗を感じつつも,多数の文化に吸収されていくのだろう。
 校則や校風などによって学校の文化が左右されることも多い。高校では,その差が特に現れるのではないだろうか?別の高校に進学した中学校時代の友達同士が,「(白の)スニーカーじゃなくて(黒の)革靴いいな」などと話している場面を見たことがある。

 学校間の文化の差を感じるのは,生徒だけではない。人事異動にあったばかりの教師もほぼ同じ体験をするだろう。その文化によって生徒指導のあり方も変わってくる。


 学校の中にいること,そして進学などにより新しい文化に触れることで軽い異文化理解の体験ができているのかもしれない。その点においては,学校は社会や世界の縮図ということができそうだ。

(235) 正解のある世界

2009年11月25日 02時24分24秒 | Weblog
 義務教育の小中学校はもちろん,高校もほとんどの日本人が経験する世界だろう。授業や各活動を通して社会に出る準備をしていく場所だ。学校を社会の縮図という言い方も珍しくないし,在学中はそのことに疑問も持っていなかった。しかし,最近になって,この学校という世界が極めて特殊な世界のように思えてきた。今回から5回の記事では,学校という社会の不思議さを取り上げてみたい。



 学校という社会の独特な文化の一つが「正解のある世界」ということだろう。(もちろん全てではない。)教科書に書かれていることを学び,テストでその理解度を問われる。テストの答案は○×△で評価され,点数がつく。客観評価がしがたい問題であっても,教師判断で点数がつくこともある。勉強に関することだけでなく,生活面に関しても,「いい」「わるい」の区別は割とはっきりしているように感じる。そして,絶対的な正義というものも存在しているように思う。
 しかし,大学に入ってオリエンテーションで,「大学での勉強は教科書の内容を疑うことから始まる」と言われた。このことを理解できたのは大学に入ってかなり経ってからだった。指導教員の「質問をしても自分も分からない場合がある」という言葉や実習で出された課題について解答を考えられる限り示され,さらに他の考え方もあるかもしれないと付け加えられたことが大きなきっかけだっただろうか。それまでは,いくらやってもすっきりしない感じがして,居心地が悪かった。
 働く場においても一緒だろう。マニュアルというものは存在しているが,それだけでは対応できないことも多い。まして,マニュアルに書かれた内容に反する行動をとることが必要な時もある。マニュアルはそれまでの経験からはベストなやり方のかもしれないが,それを取り組んでいるうちにもっといい別のやり方が見えてくることもある。その場合,マニュアルが覆ることもありえる。「分からなかったら質問しろと言われたので上司に質問したらそんなことも分からないのか,自分で考えれば分かるだろうと言われ,質問せずに間違えたら何故質問をしなかった」というような理不尽ともいえそうな場面で,上司にそのことを問いつめても何の解決にもならないし,むしろ自分の立場を追い込むことになるだろう。
 これらの世界で次のステップに進むために必要な受験という仕組みや,最近話題になっている学力低下などの話題も正解がある世界において成り立っているものではないだろうか。この学力というものを考えてみると,全ての学力が試験で測れるものではないように感じる。特に思考力については,答案として表れないところも多い。「(順序がばらばらになった)次の会話を自然な流れになるように並べ替えなさい」という問題の観点別評価が【話す・聞く力】なんて書いてあると本当かと思ってしまう。おそらく,「学力とは何か」という問に明確な答えというものはないのではないだろうか。いろいろな学力は出てくるが,全てをあげることはできないし,逆にそれらを一括した端的な言葉というものはなかなか出てこない。
 その一方で,就職試験にSPIも取り入れられ,就活にも正解のある世界が導入されつつある。

 卒論で悩んでいた時に,中学生レベルの一問一答の問題を解いてみると本当に気楽だった。明確な答えのある世界は居心地が良かった。
 身の回りは対人関係,子育てなどどのやり方が正解と言いがたいことであふれている。正解が得られないことに悩みながら,生きていくのは必至なのかもしれない。

※ この記事自体も,今のところは雑多な内容の羅列なので完成とはいえないのでしょうが,頭の中がモヤモヤとしていることの表れということでご了承下さい。

(234) 刀を帯びた方の元邸宅

2009年11月24日 23時54分01秒 | 現在の中の過去
 城西公園から原良を経由して,明和に向かう道の坂を本格的に登る前の道が狭くなり始めた辺りに「小松帯刀屋敷跡」と書かれた案内がある。その案内にしたがって,住宅街の小道を進んでいくとこのような場所に着く。

(2008年12月18日撮影)

 生垣の前に説明版と碑がある。

(2008年12月11日撮影)

 最初に行った碑は生垣の手入れをしていてしっかりと見ることができなかったので,別の日に再度訪問した。
 脇にある坂を登ると・・・

(2008年12月18日撮影)

 さっきのものよりも古そうな碑があった。
 邸宅の様子。

(2008年12月18日撮影)

 大河ドラマ効果で注目を浴びるようになった小松帯刀。
 明治維新に貢献したことはこの碑を見る限り,かなり前から評価されていたのだろう。しかし,その評価は多くの人に共有されるものではなかった。この邸宅跡も場所が場所なだけに,テレビなどで紹介されるまでは存在すら知らない人も多かったと思う。篤姫についても同じだろう。
 150年ぐらい経った今になってようやく注目を浴びるようになった。功績というものはすぐに評価されないだけではなく,その評価されていることを当人は生きているうちに知ることができないものなのかもしれない。

(233) 作家の住んだ城山の麓

2009年11月23日 02時26分26秒 | 現在の中の過去
 城山の西側の斜面にあるといわれている清滝川の水源の池を探して,坂を上りきるとこんな碑を見つけた。

(2009年12月15日撮影)

 鹿児島市により作られた碑のようだがまだ新しい感じがする。花や写真は住民の方が準備されたのかなとも思う。1939年,10歳の時から約2年間この地で過ごしたそうだ。
 碑のある場所から後ろを振り返る。
 
(2009年12月15日撮影)

 碑に向かって右手を見る。
 
(2009年12月15日撮影)

 駐車場越しに桜島が望める。
 碑の紹介文の中に,向田さんのエッセイ(『鹿児島感傷旅行』『眠る盃』)から「故郷の山や河をもたない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい『故郷もどき』なのであろう。」と引用がされている。今でも城山を背にこんな景色の広がっている場所なので,そのころはもっと自然が多かったのではないかと思う。
 城山の上の方へつながる道がないので,あまり平之町や照国町の城山川の坂を上ることはない場所だった。そんな場所でこのような碑に出会えたのは意外だった。

(232) 吉野のキイレツチトリモチ

2009年11月22日 19時59分10秒 | 風景
 国道10号線から吉野の台地へ上る道路の途中,滝之神浄水場に差し掛かる手前にガソリンスタンドがある。その脇に車は通ることのできない下坂がある。
 その道を少し進むと・・・

(2009年2月18日撮影)

 キイレツチトリモチ産地という案内がある。
 脇に案内板はあるが・・・

(2009年3月4日撮影)

 字も薄れて,判読すらできない場所も多い。
 看板の先の地面を見てみる。

(2009年3月4日撮影)



(2009年3月4日撮影)

 紹介文の英語の中に〝yello-white flowers"という語句があるが,この黄色い花のことだろうか?当該部分の日本語は消えてしまっている。
 この案内板の横には62年の豪雨で被災した地区であるとの案内が出ている。
 坂をもう少し下っていくと・・・

(2009年3月4日撮影)

 廃墟の跡があった。
 さらに先に行くと・・・

(2009年2月18日撮影)

 磯地区が見えてきた。
 昼間通った時・・・

(2009年3月4日撮影)

 このまま磯の海岸へつながっている。

 喜入で初めて発見された植物の産地がこの場所である理由は分からない。何かの地図で産地があるとの印は載っていたが,行こうと思って行かないといける場所ではない。しかも,字が読めないとはいえ,案内板も作成されている。しかし,周囲に誘導する案内はない。忘れ去られた場所のような印象が寂しかった。

(231) 歩道橋の入口の茂みの中に・・・

2009年11月21日 02時36分09秒 | 現在の中の過去
 南鹿児島駅上の紫原陸橋から郡元の方向を見てみる。

(2009年2月16日撮影)

 紫原陸橋は車道と歩行者用の階段しかないので,自転車用のスロープのついた歩道橋が見える。

 その歩道橋の紫原側の上り口の傍らには・・・

(2009年2月16日撮影)

 記念碑のようなものがあった。
 階段からは茂みのようになっているので注意しないと存在に気付かずに終わってしまう。
 しかも,この碑の文字の向いている側の道路の先は・・・

(2009年2月16日撮影)

 行き止まりになっている。

 この見落としがちな場所にある記念碑だが,案内板があり,元文の板碑と案内されている。1737年(元文2年)の第22代,島津継豊の時に立てられている。島津家の御典医であった人が無実の罪で打ち首になり,この医師が死ぬ前に「死んだ後でも重病や伝染病に苦しむ人々の願いを聞いてやりたい」と言っていたことを後悔した藩主が建てた碑だそうだ。彫られている文字は「空・風・火・水・地」の5輪を表し,一切の功徳を兼ね備えていることを表している。地元の人から「オシイサア」と呼ばれ,病気を治す神として尊敬されているそうだ。

 この石碑の脇は数え切れないほど通っていたが,この碑の存在に気付いたのはほとんど最近だった。よく通っていた場所の脇にこんなエピソードがあったことに驚いた。