時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(No.70) 暇,遊,学

2009年01月28日 23時58分23秒 | 現在の中の過去
 以前にも書いたように思うが,大学4年になり,授業数がすかすかになるのもなと思い,1年生向けの教養科目を受講している。。その授業の一つが今日終わった。
 専門に入ってから受けてみると入学時とは違った印象で受けられる。(自分の専攻がある意味なんでもありなところがあるので,事実上専門の基礎ぐらいの授業になっているとは思うが・・・)

 大学も理科離れに力を入れているのか,数学や理科(物理)の文系向け講義を今年度から開講している。専門のことを専門ではない人にどのような方法で楽しく伝えるのかに関心があったので受けてみた。授業名には「娯楽」「遊び心」などの言葉が入っている。名前からして楽そうなのでとる学生も多く,200人以上(登録数)を相手にした授業となった。
 「娯楽」の方は人数が多いながらも,実際にやらせる活動が多く,教員の話術等もあり,評判はよさそうだった。
 「遊び心」の方は,人数が教員の予想を上回り,受講者が直接実験する機会もシラバスほどはなく,授業の前半は講義形式だったこともあり,周りの受講生から「この授業のどこが遊び心なの」とか「あの人この授業面白いと思ってるの」とかの評判も聞こえ,教員が挙手等を求めても手を挙げずに,無視して楽しんでいるような時もあった。(授業態度については別問題もあるのだろうが,授業がつまらんっていうのが原因の一つには違いない。)学問の世界の中で,ある程度の期間生きている教員は,学問や科学の楽しさは分かっている。しかし,まだ大学に入学したばかりの1年生には,高校までの教科書教育から抜け切れてない部分もあるのだろう。そして,何を面白いと思うかには個人差がある。

schoolの語源は「学ぶ」ではなく,「余暇」だった。暇だから学問をしていた。
空や自然を見て色々なことに想いを巡らせていたのだろうし,散歩をしながら一筆書きで川に囲まれた町を1周するにはどうすればいいのかなどを考えていたという。中国地方の某国立大学も「学問は最大の遊び」のような言葉を,キャッチフレーズに掲げている。

最近は暇がなくなったのではないだろうか。携帯電話,インターネットなどなど,暇を作らずに済むようになった。そして,暇があっても学問をするよりも楽しいことはいくらでもある。昔の人と今の人でも差があるだろう。
 しかも,学問の世界も専門化,細分化が進んでいる。さらに,学問で遊ぶということは,ある程度トレーニングをして,ある程度の像が分かってこなければそうできるものではない。とっかかりが悪く,一見難しそうだから他のことをしようと思えば,その楽しさを見出せる機会はなかなか来ないだろう。
自分自身も,大学1年の頃,授業は卒業に必要な単位のために受けている感覚が強かったし(自分の興味にあったものは楽しんでいたが),卒論だって,論文作成上のルールの煩わしさなどから,楽しいと思えたのは提出の1週間前ぐらいになって研究成果が見え始めてからだった。
 諸科学の成果を学ぶことも大切だろう。しかし,今の日本の高校までの教育は教科書が絶対的に正しいという前提の部分があるように思う。それを認めている先生もいたが,受験もあり,そのための授業を行っている場合が多いように思う。もちろん,指導内容にはある程度の束縛がある。試験には明確な正解がある世界から,大学に入っていきなり今まで習ってきたことを疑えと言われてもどう疑えばいいのか分からない。(もちろん教科書に書いてあっても世間的にあやしいとされ始めたことについてはまず出題されないのだが。)
 暇がなくなっただけでなく,教育の在り方にも問題がありそうだ。

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