時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(601) 区を英語にすると

2011年06月26日 05時17分56秒 | Weblog

 東京にある特別区の「区」と政令指定都市にある「区」は別の性格ものであるが,漢字で書く分には同じ表記になっている。住所欄に「区市町村」と書いてあって,それに丸をつけるタイプの記入欄の場合,区に〇を付け「名古屋市中区」と表記する人も見られるが,この場合の区は東京の特別区をさしていることが多いのではないかと思う。
 漢字では同じ区も英訳となると差が表れる。

京都市
 

 英字の部分を見るとそのまま「ku」と書かれている。

大阪市

 区に当たる部分には「ward」が与えられている。

 ただこちらの表示板の場合,どの区も「ku」になっている。

堺市

 この表示の場合,「ward」だ。

 そして,今度は東京の表示。
 

 区に当たる部分の訳は「city」になっている。市の下に置かれた区でない以上,市と同等の機能を果たしているのは事実だ。しかし,英語から日本語に訳す場合は,東京の区なのか市の名前なのかを知らないと正確には訳せないだろう。
 他にも政令指定都市でなくても,兵庫県の姫路市や香美町には住所表記内に「区」の区分がある。同じ言葉でも実態によって意味が変わってるというのはなかなかややこしい。

(567) 離れているけれど似た地名

2011年03月10日 23時54分39秒 | Weblog

 茨城県水戸から福島県郡山行きの列車で常陸大宮へ向かっていたときに途中で通った駅。

(2011年3月5日撮影)

 どっかで見たことあるような字の組み合わせだった。

 大阪市平野区の喜連瓜破。

(2011年3月26日撮影 28日追加)

 駅名に由来している複合地名で…

 

 実際は喜連と瓜破だ。
 隣接はしていたものの本来なかった地名から一文字ずつ取った文字を組み合わせてできている地名があるのには何か不思議なものを感じた。瓜が入っている地名自体あまり見ない気がするし…

(552) 不意打ちの針

2011年02月17日 23時31分59秒 | Weblog


 道路沿いにあった金網。

 よく見ると一番上と一番下に有刺鉄線がある。

 侵入防止には効果がある反面,この近くで車道と反対側に寄ったり,金網の方へ転んでしまったら痛い目に遭うんだろうなと思っている。自転車のタイヤに当たっても即パンクしそうだし。
 
 実際ここではないが,一度だけ何となく手をかけた場所に有刺鉄線があったからそう思うのだろうか。しかもその有刺鉄線が意味を成していない撤去されていないだけのものだったのでなおさら腹が立った。
 必要なくなったと思われる鉄線が残っている場所も結構多い。危険なものだから撤去義務でも設けて欲しいと思うときがある。上の写真のものは役割を果たしているとは思うが,気付きにくいので有刺鉄線注意ぐらいの表示は欲しい。いちいち立てる場所はないだろうけど…

(437) mの前がnになる県

2010年10月21日 23時52分27秒 | Weblog

 前日の記事で書いた,bpmの前の「ん」はmでつづるというヘボン式ローマ字のきまり。
 英作文をしていると,群馬という言葉を使おうとしたときに,群馬もmの前にんの音が来ていることに気付いた。
 忘れ去られがちなこの法則も,県名が該当するならこの県では敏感かもしれないと思って件のホームページを見ると…



 gunmaと書かれていた。

 検索ワードに「群馬」と入れ,出てきた施設のページに飛んでみた。英語表記の部分やURLの群馬の部分を見ていった。

群馬大学      gunma 
群馬銀行      gunma
群馬テレビ     gunma
群馬バス      gunma
群馬サファリパーク gunma

 と「n」ばかりだった。
 
 m表記を何とか探そうと考えていると,他の地名では今のところJRの駅名で「m」以外の表記を見たことはなかった。ただし,群馬市はないので,群馬駅があるかどうかは不安だったが,とりあえず検索してみると…

 群馬藤岡と群馬総社の駅が引っかかった。
 その表記を見ると,共に「m」で表記されていた。

 県自体が「n」を使用しているので,その理由を探してみると県のホームページの中で,パスポート表記との差の説明を求められた時の対応についてのページがあり,「1954年内閣告示第一号による綴り方で、国際標準化機構(ISO)が1989年に承認したISO3602にも準拠する綴り方」とあった。
URL http://www.pref.gunma.jp/cts/PortalServlet;jsessionid=8A099716D82A36476DD5367E5C44A6C3?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=94521

 しかし,なぜ訓令式の表記を採用したかの理由は公的な根拠は得られなかった。
 例外の例外ともいえる表記が,こんな有名な地名で見られるとは思わなかった。このことが書いてあるローマ字一覧表はなかなかない。


(436) 意外と多いmで「ん」と読む地名

2010年10月20日 02時42分45秒 | Weblog

 

(2010年10月16日撮影)

 千林大宮商店街。千林のローマ字表記を見ると,「Senbayashi」となっている。反対側の商店街の入口。

(2010年10月16日撮影)

 マスコミ御用達と呼ばれるこの商店街も「SENBAYASHI」という表記だ。この商店街に入ってすぐのところに地下鉄の駅の入口がある。

(2010年10月16日撮影)

 駅名の表記見ると,「Sembayashi」となっている。このすぐ上のアーケードの天井に駅への案内があるが…

(2010年10月16日撮影)

 駅の表記と同じく「Sembayashi」になっている。同じような案内板だが,商店街の奥のほうへ行ったところにある京阪の駅への案内は…

(2010年10月16日撮影)

 「Senbayashi」だった。当の京阪の駅の表記は…

(2010年10月16日撮影)

「Sembayashi」だった。
 もう少し別の表記を探してみる。
 バス停

(2010年10月16日撮影)

「m」を使っている。
 住所表示

(2010年10月16日撮影)

「m」を使用している。
 商店街のURL。

(2010年10月16日撮影)

「n」が使われている。
 銀行の支店名。

(2010年10月16日撮影)

「n」が使われている。
 郵便局

(2010年10月16日撮影)

「n」が使われている。

 表記は2分されている。ローマ字の表記法には複数の方法があり,一概に正解があるとはいえない。しかし,どの表記も最後の「し」を「shi」で綴っている。このことから中学1年で習うヘボン式の表記が使われていると考えられる。ヘボン式の場合,b,p,mの前の「ん」は「m」で表記するというきまりがある。「しんぶんし」と言ったときに,舌の先の位置に注意してみると,最初の「ん」は舌が下の方にあるのに対して,後の方は舌が上の方へ向く。前者が「m」の音になるので,mで綴るというきまりになっている。無意識の内に発音を区別しているのが不思議だ。
 ということで,「Senbayashi」は複数の表記法を混ぜた書き方と思われる。あえて混ぜたというよりは,ただ単にこのきまりが意識されていなかったのではないかと思う。「tempura」や「Namba」が例であげられている他はあまり触れられないようにも感じる。忘れ去られたような存在だが,このきまりを当てはめる例は多い。大阪市内の例を見ていく。



 難波。よく例示される有名な地名。とはいえ「Nanba」の表記も見かけないわけではない。


 船場。よく考えると,千林から「やし」がなくなっただけだ。郵便局は「Senba」だった。


 日本橋。東京の日本橋(にほんばし)も同じだ。他にも新橋など「( )んばし」という地名はどこそこで見かけそうだ。


 天神橋。「n」も「m」もある区別をするにはお得な地名。



 天保山。てんぷらと一緒だ。


 伝法。




 新森。


 本町。上本町,平野本町など前に色々つくこともあり,注意すべき地名かもしれない。


 京橋の写真だが,取り上げるのは隣の天満橋。橋がとれた「天満」も同じだ。


 先述したようにヘボン式だけがローマ字のつづり方ではないが,一番目にすることが多いのもヘボン式ローマ字のように思う。存在感のあまりなさそうなきまりだが,使う場面は多そうだ。
 しかし,この表記にも,かなり有名な地名でヘボン式を用いない地名がある。

(434) 区切りはどこ?

2010年10月18日 22時47分20秒 | Weblog
山口県の「新南陽」。
電車の中から見えた駅の看板を見ていて,あれっと思うことがあった。

(2010年3月28日撮影)

 ローマ字部分を見ると,「Shinnan-yo」となっている。初め見たときは「しん・なんよう」だと思っていたので,本来は「しんなん・よう」と区切って読むのだと思ってそのまま大阪に帰った。
 山陽とかと同じような感じで,新南という地名があってそれになんか意味を持った「陽」をつけたのだと思い,由来がないかネットで探したがなかった。
 あのハイフンは区切りの場所ではなく,誤読の防止だったようだ。ハイフンをつけずに「Shinnanyo」とすると,「しんなにょ(う)」とも読める。その防止策としてこのような表記法があるようだ。
 先月も・・・

(2010年9月3日撮影)

 こんな表記を見たが,さっきの理由を考えたらハイフンの意味が分かった。「Shinetu」だと「しねつ」という読み方ができる。
 同様のことを防ぐためにハイフンの他にもアポストロフィを使う表記もされているようだ。学校で教えられているローマ字表記には出てこないつづり方,日本語を別の言語に置き換えるのはやっぱり難しい。

(381) 漢字とひらがなの文字数

2010年08月17日 23時43分51秒 | Weblog
堺市の道路にあった方向表示。

(2010年8月17日撮影)

 向かって右側の方に鳥の名前のような地名が並んでいる。しかも正しい読み方は両方とも難しい。
 上の方の地名。

(2009年9月20日撮影)

 漢字では1文字だが,ひらがなにすると4文字になる。漢字が便利な例かもしれない。

 下の方…

(2009年12月9日撮影)

 さっきとは逆で漢字で書くと3文字だが,ひらがなで書くと2文字とひらがなの方が少ない。珍しい例かもしれない。
 同じ部分を含んではいてもこちらになると…

(2009年12月6日撮影)

 漢字とひらがなの文字数が一緒になる。
 同じ場所に難読や誤読の可能性のある地名になるとひらがな表記にする局の駅もあるが…

(2009年12月6日撮影)

 ひらがな書きだった。

(317) 連休は嬉しいものなのか?

2010年05月06日 04時29分52秒 | Weblog
 連休も終わり,7月になるまで祝日がない日々が始まる。
 今年の連休は,何かと連休の存在について考えさせられることが多かった。

※ 以下,小文字部分,自分自身の回想でうまくまとめ切れていないので,面倒な方は結論まで読み飛ばしてください。まとまっていないとはいえ,結論に至る考え方は出ているように思うので,メモ書きレベルですが,とりあえず載せてみます。

 自分自身の中では,連休に対して比較的いいイメージを持っていた。特に日々課題に追われていた高校時代は,大量の宿題が出るにしても嬉しかったように思う。
 しかし,大学1年の夏休みの前,2ヶ月近くの長期休暇を迎えることに不安があった。全く人に会わない訳ではなかったが,そのときは学科全体が1クラスという感じで連絡先を知っている人も少なかったし,高校までの友人についても同じ地域にいるわけではなかった。
 それまでの夏休みは,1ヶ月強の期間で,出校日があったことに加えて,小学校は地元の友達と遊んでいたし,中学校のときは部活や塾で人に会わないのはお盆の時期ぐらいだった。高校は補習と休みの日でも昼間は教室が自習開放されていたため,人と会わない時期はごくわずかだった。
 その不安は,応募していたアルバイトがお盆を除いてほぼ毎日終日あったことで見事に解消された。順調というわけではなかったが,その仕事もその後3年半ぐらいの間続けることになった。シフトが曜日固定性で代わりもそう見つからない仕事だったので,ゼミの飲み会に参加できないことも多く,ゼミの人から「バイトなんだし,たまにはさぼれば…」とか「そんなバイト先辞めちゃえば」とも言われたし,それに加えて仕事がうまくいっていない時期もあったので,本当に辞めようと思っていた時期もあった。それでも結局最後まで続いた理由は,なかなか辞めたいと相談できなかったのが一番大きいだろう。でも,今考えると,きつくても続けたいと思わせる魅力があったのかもしれないとも思う。学校に行かない時期もバイトに行くことで人と会わない孤独を感じずにいられたようだ。バイトを除いても専攻に分かれてからは長期休み中に泊りがけの実習があったし,1年次よりは人と接さない時期は長くなかった。
 そう考えると長い孤独を感じた時期はあまりなかったし,1週間ぐらいであれば一人で自分の趣味に打ち込むのも気分転換になっているように感じた。
 ただ,それは本業に関しては休みといえば休みなのだが,副業としては休みではないことによって人と会わないことを回避していたことになる。休みを休みとして過ごしていないことになる。そう考えると,自分自身が長期休暇というものを避けているのかもしれないと思った。もちろん,普段なかなか会えない人と出かけたり,食事をしたりという休みの状態で孤独を回避していないわけではない。しかし,自分から提案するのが苦手なので,その頻度は他の人より少なめだろう。
 今年のGWは5日という1週間もなかった期間で,普段なら自分の行きたいところにいって,なんなく乗り切れるぐらいの期間だが,前半誰とも会っていなかったこともあって,珍しく孤独を感じていた。自分から,人に声をかけてみようとも思っていたが,なかなかうまい表現ができずに,結局何もできないという悪循環に陥っていた。結果的には,近況を聞く電話がかかってきたり,昼過ぎてから約50km離れた場所での飲み会に誘われたりと,休みではないと関われない人と関わることができた。人と会えるありがたさを強烈に感じた。そうの反動か3月下旬に東京へ行ったときにも大学の同級生と会えたこと,出身大学へ行くと話す相手がいたり,飲み会に参加できたりと帰る場所を作ってくれる人の存在の有難さを妙に感じてしまった。
 さらに,もう一つ今まで孤独からの回避に大きな役割を果たしていたものの存在に気付いた。ある自治的な組織のまとめ役をしていたことだった。その役割があることによって,事務的な感はあるとはいえ人にメールとメールのやり取りはしていたし,その意見を集約することで何かやることがあるという充実感を感じていた。その集約はほとんどの飲み会の開催につながるので,実際に人と会うこともできた。今は,その役割からは外れている。「立場」を利用して孤独を回避していたことになるのだろうか。


 ここまでグダグダ書いてみて(よく言えば頭の中のアイディアを書き出すためのフリーライティングをしてみて),休みというのが必ずしもいい存在ではないのかなと思えてきた。うまく利用できれば,かなりの充実感が味わえる。その一方で,孤独を好まないが,人の中に自分から入っていくのも苦手というような人などにとっては究極の孤独な期間になるかもしれない。仕事などで必然的に人と会える仕組みの方が充実しているのかもしれない。孤独という観点以外にも,家庭に帰るのが面倒という声も聞いたことがある。家事をするよりも仕事をしている方が楽なので,進んで残業をする人もいるという。(というよりも,この意見を聞いたときには大きな共感を覚えた。)休み明けには,休み中に会えなかった人と話ができるから嬉しいという話も聞いたことがある。(これにも大きく共感ができた。)休みがどの人(状況)にとっても歓迎されるものとは限らないこと(=残業や休日出勤は本人が嫌がっているとは限らないこと),休みがあるから仕事の有難さが分かるし,仕事によって休みの有難さというものが分かるように両方あってからこそそれぞれのよさが出てくることなど休みに対する見方が変わってきた。

(お礼) かなりまとまりのない記事ですが,最後まで読んでくださった方有難うございます。

(243) 可視教

2009年12月06日 04時56分21秒 | Weblog
 本当はよく分からない得体の知れないもののはずなのに,何か見えたつもりになってしまうものは結構多い。たとえば,空気にしても見えているといえば見えているのだろうが,空気という言葉を知らなければその存在というものは見えにくいだろう。透明な物質に限らず,人間の内面や能力に関するものも複雑すぎてつかみ辛い。ある程度特徴をまとめることが可能であっても,その人間をずっと見ているわけではないので,見えている部分はかなり限定されてしまう。人間の性格に関しては通知表の行動の記録が分かりやすいように思う。特に優れていると判断されたものに○がつくので,○がないからといってその人物にその性質がないと言うわけではない。小学校の時の通知表が部屋の整理をしていたら出てきたので,自分の行動の記録の欄を振り返ってみた。

 ○多い:自主性・根気強さ,責任感
 ○半々:生活習慣,勤労奉仕
 ○まれ:明朗快活,創意工夫,思いやり,協力性,公平公正,公共心
 ○なし:自然愛護

 特に注目したいのが○がまれな項目だ。この欄は学期ごとというよりも学年(つまり学級担任)により差が出ている。「思いやり」に○がついたのは担任の仲介でクラスになじめなさそうな人と一緒に遊んだことがあったり,登山中にきつそうな人のサポートをしたりといった行動を担任が見ていたときだった。中学に入ってからは「思いやり」や「協調性」という項目には一切○はつかなかった。その理由も言動を振り返れば納得できないことはない。先に述べた○の持つ意味は分かっていても,○がつかなかった項目については否定されているように感じたこともあった。(当時の友人に○が8割以上の項目についている人がいたのもその意識に影響しているのだろうが・・・)自分自身の体験はこの辺にしておくが,行動の記録につく○によってその人の人物像が見えてしまった気にはならないだろうか。先に自分自身の例を挙げたが,担任から見た自分の像が良く見えてくるように思う。この結果は6人の担任の出した評価を集計したものなので,ほぼ毎回○をつけられている項目については客観性も認められそうだ。たまに○がつくような項目はたまたま○をあげたくなる(あげたくなくなる)行動が目に付いたとか担任の感じ方に左右されている部分もありそうで,どちらかといえば主観的になっている可能性が高い。学校での行動(が担任にどう見えたか)を可視化してくれる評価欄なのだが,一部の行動からしか判断できず,おそらく統一の尺度もないので評定者によって差が生じざるを得ない。主観的な基準を○といういかにも客観的な表現方法にするのに違和感があるように思える。手間は掛かっても文章評価だけの方が行動を評価するには適しているように思われる。(特に「思いやり」に何が何でも○を付けたいと思えば,担任に見える形で思いやりのある行動だと思わせなければならない。「人を見かけで決めつけるな」というメッセージ性をもった文章では一見いかつくて無愛想な人物の仲間想いな一面を描くなどのストーリーが多い。そのような物語があるように,思いやりの全くない人間なんてそういないと思う。かといって何の根拠もなく○をやるわけにもいかない。
)○がついた理由を考えてみようという実践をネット上で見たことがある。目的は学習だけでなく,行動の面からも個性をとらえ,大事にして欲しいからという趣旨だったようだが,「○○だから△△に評価がついたんだ」というやり方が,○をつけるにはどうすればいいのかを研究させることにもつながりそうで嫌だった。行動って自然に出るからこそ行動だし,だからといって常に表れるものでもないと思う。無理に客観的に可視化しようとすると評価してもらうためのテクニックが生じてしまう。
 行動面について先に書いたが,学力にしても同じだろう。(ここでの学力という言葉は特に注意を書かない限りテストなどで測定できるものには限定しない。)この記事でも触れたが,特に「関心・意欲・態度」や「思考」の学力はテストだけでは測りきれないところがある。人が頭の中で考えていることをすべて伝えることも逆に見ることも不可能だ。となると,評価は行動であったり,ノートや発言の内容だったり,試験の解答だったりと外に現れたものから判断せざるを得ない。研究をしていくうえでは重要な疑問も,解決しようと思えばそれなりの時間を要し,授業の進行の邪魔に感じられることもあるだろう。そのような場合,教師によってはその疑問が生徒の興味や思考の表れととることはできないかもしれない。評価者が見るのは生徒の一部分の学力でしかない。しかし,テストの点数や通知表の評定は学力を可視化しているように感じる。しかも客観的に評価されることが多く,その基準が明確になり,評価を上げるためのテクニックが生じていることなどはなかなか見えにくい。
 だからといって,性格や学力があやふやのものだから,見える形にはできないとなると今度はよく分からない不安が生じてしまう。
 就職などの採用試験の場においても,SPIなどの紙のテストの比重が大きくなったり,その業種に有利な資格を確認したりと,客観的な評価は公正さを保つ上でも欠かせなくなっている。
 裁判においてもどれだけ証拠を示せるかが,判決に影響を与える。判断された罪の重さは刑の種類や刑期等で可視化される。
 事故などの後の相手への謝罪の気持ちなども何回見舞いに行ったか,どのような言葉を話したかなど目に見える部分で評価される。どんなに深く反省していても目に見える行動として示さなければ,謝罪の気持ちがないと言われかねない。
 最近話題になった仕分け作業のような,事業の外部評価も盛んに行われている。何らかの基準が設けられ,そこで出された内容を基に評価が下される。そこに現れなかった内容が評価されることはほとんどないだろう。

 この他にも例はまだまだあるだろう。見えるということはある種の安心感を与えてくれ,その見えさせ方が客観的なほどその姿は信頼性を増してくる。見えないものを見える形にしたいと思うのも自然だと思う。ただ,そうして見えた姿は一面的で,その見え方を意図的に変えるテクニックも編み出せるので,見えている世界にに安住することもできないように感じる。そして,そのテクニックなどを利用してビジネスも展開できる。