時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(No.53) 19の三種の神器

2008年12月31日 22時36分22秒 | 現在の中の過去
 おそらく,2008年最後の記事。
 このブログを始めたときに,テーマの背景に「社会の急速な変化」があることを挙げた。
 今回は,自分が4つ下の世代と接する機会があったときに感じた変化について書きたい。

 まず,下の簡単な図はある地域におけるある建物の立地を表している。

・思いつくものを挙げたので,漏れがあるかもしれない。
・道は主なものだけ。
・位置は大体の位置。



何の立地か分かるだろうか?
 もともと多かったものが,県外資本の会社が入ってくるなどして最近急に多くなったものだ。
 















 


 正解は,塾の立地。

 周辺に中学校が2つあるこの地区は激戦区となっている。
 鹿児島の中学生の塾通い率の高さの表れかもしれない。
 高校になると補習を学校がするせいかその割合は中学の時ほどはない。

 自分自身も中学校のとき塾に通っていた。
 そのときは授業開始時刻が学校の終業後1時間程度だったということもあるが,「直(ちょく)塾」などといって,学校帰りに家に帰らず,そのまま塾に行ったこともよくあった。これは自分の通っていた塾だけの風潮かもしれないが,特に夏は体操服で塾に行くこともあった。塾に行く格好は,制服で行くか,体操服で行くかぐらいで他はほとんど気にしたことはなかった。


 大学生になったばかりの4年前。
信号待ちなどで,塾通いの中学生の姿を見ることがあった。
始めは何とも思っていなかったが,そのようなことが何度か続くうちに,自分の頃の塾通いとはどうも違うところがあるのに気付いた。
どうやら塾に通うのに,3種の神器ともいえそうなアイテムがあるように思えてきた。もちろん,全員がそうというわけではない。だが,大多数に当てはまりそうだ。



 その「3種の神器」だが・・・

・靴
・靴下
・バッグ

 この3つは,どの中学生を見てもみんな同じで,そうでなければ「お前だけ違う」と馬鹿にされている場面も見たことがある。
 もちろん,全て学校指定のものではない。


 靴は,メーカのものなど,学校の指定靴でないもの。
 靴下はスニーカーソックス(くるぶし程度までの短いもの。)
 バッグはエナメルバッグ。


 3つともそんなに高いものでもないし(種類にもよるが),学校以外の日常で使うものだ。
 しかも,世間で流行しているものだ。
 特に上二つは自分自身も現に使っている。(エナメルバッグについては,自転車に積むのも不便だし,場所も取るので便利だと思えないため,自分は持っていない。塾にとってもせまい机と机の間の通路にあの場所をとるかばんがおいてあれば,机間巡視も大変だろう。)


 学校により,雰囲気が変わることから自分の学校だけだったかもしれない。
 もしかしたら,鈍感な自分が気付かなかっただけかもしれない。
 だが,学校から着の身着のまま,まして足元がはっきり見える体操服で塾に行っても,周りが気になることもなかったのだから,自分に出身中学ではその傾向はなかったのではないかと思う。

 4年間の内に,塾は服装を整えて行く場所になったようだ。
 その後,数年間の変化はあまりない。
 
このような状況下においても,最近よく見かける郵便局のバイトの高校生と思われる集団はほとんど白一色の靴を履いている。郵便局が指定を出しているのだろう。流石に制服でとまでは行かないようだ。生徒手帳に「外出する時は制服で」と書かれている学校が多いのを考えると,制服にこだわらず,靴にこだわっているのは意外だ。


 最近の小学校では,制服着用のところでも,靴や靴下は自由となっているところも見られる。日本のこれまでの常識とは逆のことだが,子どもの権利条約(日本は部分的に留保)の内容やそれに対する勧告を考えると全員の服装などを同じにする管理主義教育は見直すべきとの指摘もある。

 全員の服装を同じにすることには,良い点もあれば,悪い点もある。
 良い点としては,よく言われることに「学校は勉強する場だから,勉強以外のものに興味を払う必要はない」というのがある。本業の勉強に集中できなくなるのは困りものだが,勉強ができないほど時間を奪われるものだろうか?
 他に「非行に走らない」というものもある。極端に目立つ格好をすれば,不良グループに絡まれることもあろうが,少し(ド派手でない靴や靴下程度)ならそんなこともないだろう。
 あまり注目されていない視点ではあるが,この立場を肯定できる理由として,「経済的視点」があるように思う。指定のものであれば,各家庭の経済負担は一緒になる。(もう少し安価にすべき気もするが・・・)いくら日本が豊かになったとはいえ,格差社会であり,低所得者は存在する。自分が持っていないものやいろんなものを買ってもらえる環境へのうらやましさなどから起こる盗難なども防げるだろう。(盗難などは学校や家庭で教育すべきことかもしれないが…)

 結局,この辺の問題はどちらがいいとも言いにくいグレーな問題だと思う。
 もう少し柔軟性があってもいいとは思うが・・・
 どちらにせよ,中途半端で止めておくのだけは避けるべきと感じる。
 一部の先生は禁止といっていても,他の先生が(あまり分からずに)普段から見過ごしていた場合,禁止だと思っている生徒とそうだとは思っていない生徒の間で感覚のずれが生じるからだ。



 4年間という短い期間の社会の変化とそこから派生した学校における問題についての記事ではっきりとしない記事で最後にふさわしかったかどうかは分からない。それだけ考えなければならないことでもあるが・・・



―――――

 とりあえず,今年最後の記事でした。来年も閲覧よろしくお願いします。それでは,良いお年をお迎え下さい!

(No.52) 街灯

2008年12月30日 05時46分22秒 | 風景
 街灯を意識して見たことはほとんどないので,どこのものも同じと思っていた。特別な観光地でその観光地をイメージしたデザインのものを見たときに,工夫しているんだなと思ったぐらいだった。桜島では次のような街灯が使われている。

 
(2008年12月14日撮影)


 観光地以外での,街灯の存在感を妙に感じさせられたのは次のような街灯だった。
 まずは普通の街灯から。


(2008年12月15日撮影)


 暗くなり,白い街灯がつき始めた。

 続いて,あれと思った街灯。


(2008年12月16日撮影)


 街の雰囲気が何か違う。
 
 街灯の一つに注目してみる。(上の写真とは別の場所)


(2008年12月11日撮影)


 光が青色になっている。

 後にこれが防犯のためのものだと知る。

 なぜ防犯に役立つのか知らなかったため,暗くすることで視界を悪くすることによるものかと思っていた。

 しかし,視界が悪ければ,余計に危険が増えるし,交通事故など別の問題も出てきそうだ。

 その後,なぜ防犯になるのかが分かった。

 青という色が心を落ち着ける効果があり,それで実績が出たことから,この青色の街灯が普及し始めたようだ。

 そう言われると確かに心が落ち着く気もする。しかし,白よりも暗い気がするので,街が寒い感じに思えた。

 この街灯も飛び飛びであるが,色んな箇所で見られるようになってきた。


 鹿児島で街灯を史跡のように扱っている場所がある。

 国道10号線の「歴史と文化の道」だ。


(2008年12月22日撮影)


 この通りではガス灯が使われている。
 丁度,市の教育総合センターの後の当たりに案内版がある。
 
 日本における最初のガス灯が島津斉彬が1857年に磯庭園の石灯籠に点火したものとある。(その灯篭は仙巌園に展示されている。)ローソクや石油ランプに代わるものとして普及,電気の普及により次第に姿を消すことになった。ガス灯発祥の地として,やすらぎとうるおいを感じるゆとりの道,夢とロマンを偲ぶ歴史の道として整備し,ガス灯を設置したということだ。
 現在,ガス灯のある通りとしては横浜の馬車通り等の方が有名で鹿児島市のものはあまり知られていないようだ。(その証拠かどうか分からないが,ウィキの「ガス灯」の項目のガス灯設置場所の項目に鹿児島市は記載されていない。)
 自分自身も,この街灯がガス灯であったこと,鹿児島とガス灯の関わりについて今まで知らなかった。

 他にも色々な街灯がある。

 
(2008年12月22日撮影)


 ドルフィンポート前のとおりでは,このような街灯が見られる。


(2008年12月22日撮影)

 この街灯。横から見るとイラストが描かれている。
 注意しなければなかなか気付くものではない。

 他のイラストもある。

 
 
(2008年12月22日撮影)


こんな古そうな街灯もあった。


(2008年12月22日撮影)


電球のあたりを見てみると・・・


(2008年12月22日撮影)

 裸電球だ。
 西田の高架線路の脇の通りのものだが,もとからあるのか,レトロな印象を持たせるためのものなのかは分からない。

 商店街などは,店の名前と共に独自の街灯を設置しているところもある。


(2008年12月22日撮影)


 通りの名前に合わせたような街灯もある。
 中央駅から一番街の方にあるベル通り。


(2008年12月22日撮影)


2つともデザインは異なるものの,ベルをイメージした形に見える。


 東谷山の商店街のものは,イラストと町のイメージが結びつかなかった。


(2008年12月29日撮影)

 永田川は流れているものの,下流に堰があり,船が行き来するような川ではない。埋立が進む前,もっと海が近かった頃,船に関わるイベントがあったのかもしれない。


 今までただの風景でしかなかった街灯も少し注意してみると,意外なことに気付くこともある。存在感はそこまでなくても,街の景観を支配する要因になっているのだろう。

(No.51) 旧広木トンネル

2008年12月26日 02時22分30秒 | 現在の中の過去
 このトンネルの存在は,テレビで紹介されたことで知った。現在は別の目的(後述)で使われているが,以前は国鉄のトンネルとして使われていたものだ。テレビで場所が紹介されたが,広木(田上町)ということだった。よく行っているのに,そんな場所がどこにあるのか見当もつかなかった。
 田上寺之下から紫原・桜ヶ丘へ向かう道路を少し行き,バイク屋の交差点を向かって右へ下る道に入る。そこを道なりに行くと,大きな道路は左にカーブし,田上台や星峯へ向かうが,カーブの正面に小さな道がある。そこを通り,指宿スカイラインの下をくぐるとその場所へ着く。トンネル入口へはフェンスがあり,入れないので,フェンスの手前から写真を撮った。


※フェンスの外から撮影。
(2008年11月14日撮影)

 向かって右側のトンネルは現役のJRのトンネル。
 向かって左側にある入り口のふさがれたトンネルが旧広木トンネルだ。
 フェンスに権利者の連絡先が書いてある。


 その権利者は酒屋であり,このトンネルの中で焼酎をねかしている。他にも鉄道のトンネル跡を焼酎を寝かす場として使っている例もあり,気温などの条件が最適なようだ。テレビではトンネルの中も紹介されており,中はレンガで構造されている。

 こちら側の入口があるということは,当然反対側の入口もあることになる。
 先ほどのカーブのところまで戻り,坂を登って,大牧トンネルを通って星峯の方へ向かう。丁度,広木上のバス停が視界に入ったところにその形跡がある。


(2008年12月10日撮影)

 写真は星峯方から大牧トンネル方を見たもので,広木上のバス停よりも大牧トンネル寄りの斜面に何かが確認できる。(丁度車が2台走っている後の面の看板が見える辺り)

 そこに近づいてみると・・・


(2008年12月10日撮影)

 トンネルの跡のようなものがあった。トンネルの下部は地中になっている。この道路ができたのは1980年代の中盤から後半にかけてであるようだ。それまでは,地表がもっと低い場所にあったのだろう。
 道路のある高台から坂を下り,今いた道路を見てみる。


(2008年12月10日撮影)

 現在の道路は結構高いところにある。
 道路が建設されるよりも結構前,旧広木トンネルが使われていた頃は,この場所に列車の上下の入れ替えを行うための施設があったようだ。駅ではないが,列車が停まる場所があったことになる。
 今では,列車の停まることのないこの場所だが,来年春にはそうではなくなる。


(2008年10月25日撮影)

 さっきのトンネル跡から星峯の方へもう少し行くと工事をしている場所がある。
 この地に広木駅という無人駅が来年春に開業する。駅立地としては,田上台,星峯からはやや離れている上に,駅までの道が夜は暗いため,バスの方が便利な気もする。
 この駅の開業により鹿児島中央~上伊集院間の9.6km駅がない状況が変化する。鳥取県出身の人と話をした際に,鳥取駅の隣の駅(福部駅)の一つがそこそこ離れた(調べたところ11.2km)無人駅であることを根拠に田舎と言っていた。
 その福部駅を今年9月に通過した。
 そのときの写真。


(2008年9月8日撮影)

 2004年11月1日に鳥取市と合併する前は福部村に所属しており,市村界を1駅間で越えることになる。
 しかし,鹿児島も同じような状況だった。鹿児島中央(西鹿児島)の隣駅は3駅ある。鹿児島駅は別として,郡元駅は,2005年10月まで無人駅であったし,上伊集院も高校があるなどで利用者がそれなりにいるために有人駅となってはいるが,10km離れている。2004年11月1日(鳥取市と同じ日。)に合併するまでは,松元町にあった駅で,一駅間で市町界を越えている。条件としては似たようなものだった。郡元駅の有人化,広木駅の開業(隣駅が無人駅は復活だが)で,このような対決も鉄道の面では鹿児島が負けることになりそうだ。

(No.50) 【七つの福の旅・その4】 ~大きな焼畑~

2008年12月24日 00時46分36秒 | 旅・散策の足跡
その3からの続き。

 矢岳駅を出て,しばらくするとアナウンスが流れた。そのころ車窓からは,次のような案内板が見えた。


(2007年11月13日撮影)

 これから先はループ線を下り,スイッチバックをして大畑駅に入るようだ。ところどころ下に駅や線路が見えるなどループ線を感じられる瞬間というのも無いわけではないが,衛星写真や航空写真で見るのが,一番美しく,そして分かりやすく思える。何となく,ループ線を下っているんだなと感じながら,列車は大畑駅に着いた。ほとんどの客は人吉まで行くようだが,自分はこの駅で下車した。他の乗客の駅見学が終わってから列車が発車するので,この駅までの切符しか購入していなかったにも関わらず,車掌(というより案内のお姉さんか?)と運転手から「ここで降りるんですね」と確認があった。それぐらい,この駅で降りる客は少ないのだろう。この駅で降りた理由だが,山の中にあるこの駅に興味が無かったわけではない。周囲に人家一つしかないような場所にある駅。ゆっくりと周辺を歩いてみたくなる。しかし,それだけではない。他の列車であれば,この駅に降りてしまうと待ち時間が2時間ということもある。だが,この列車の場合は,30分経てば,今乗った列車が人吉で折り返してくる。人吉まで行って同じ列車に乗る場合,人吉には9分しかいられない。ここから先の沿線の見所も個人的にはそんなにないと思った。人吉~大畑が10km近くあるので運賃も180円上がる。そんなことを考えていたら大畑駅で昼食を取り,散策をしながら30分待つほうがいいと思ったからだ。

 
(2007年11月13日撮影)

 矢岳と同じすりガラスの駅名表示がここにもある。イラストつきの方は大畑梅園だ。高速で熊本方面へ向かうときに高架橋の下に見ることができる。駅からは山道を1kmぐらい下ったところにある。そのあたりまでは,人家もないと聞く。大畑小学校があるのも高速近くの集落だ。大畑自体も駅周辺よりも,そちらを指す地名なのだろう。駅自体も交換のためのスイッチバックを目的に作られたものであるようだし。


(2007年11月13日撮影)

 駅舎の入口。前に紹介した2駅と似ているが,郵便ポストがついている。駅舎内には名刺がたくさん貼ってある。


(2007年11月13日撮影)

 駅舎のホーム側と列車。


(2007年11月13日撮影)

 ホーム上にある水鉢。コケがついているので飲もうとも思わないが,丁寧にこの水は飲めませんとある。今も水が湧いているのには驚く。


(2007年11月13日撮影)

 給水塔と呼ばれる建物。他の駅のものも見たが,いまいち使い方や使用目的が分からない。蒸気機関車には必要だったようだ。


(2007年11月13日撮影)

 駅舎の前はすぐ崖であり,神社への鳥居がある。この写真の鳥居と道は比較的新しそうだが,もう少し奥へ行くと・・・


(2007年11月13日撮影)

 古そうな鳥居と先ほどと比べてあまり使用されていないような道が見える。


(2007年11月13日撮影)

 駅から線路が止まっている方向へ向かっていくと見える風景。

 ここまで結構な距離にわたり線路が引かれている。かつて鹿児島本線だった頃や急行列車が走っていた頃は,もっと長い列車が来ていたのだろう。(今は長くて2両の列車しか止まらないのだろうが・・・)

 行きも帰りも平日であったにも関わらず,それなりに人が乗っていた。それなりに観光資源化しているのだと感じた。

 吉松に着いた後は,大隅横川に寄って,鹿児島へ帰った。横川については別の機会に取り上げたい。

 鹿児島に帰り着いたところで4回に渡ったこのシリーズも終わった。

(No.49) ハーパン

2008年12月22日 06時32分10秒 | 現在の中の過去
 (No.46)少し懐かしい風景の【4】???の関連記事です。


 短パンをはいている子どもの絵を描くように言われたらどのように描くだろうか?










 イメージした絵のズボンの丈の長さはどれくらいだっただろうか?

 おそらく,膝にかかるぐらいか膝下までかのどちらかが多いように思う。

 これが,小学校の制服を着ている男の子と指定があれば,また違った絵になるだろう。

 今の短パンの主流はハーフパンツまたはスリークォーターパンツになっているだろう。小学校の制服のように股下少しというのは,制服を除いてほとんど見ることはない。

 これが,1990年代,前半ともなれば全く違う結果になるだろう。
 この頃までは,短パンといえば,股下少ししかないものがほとんどだった。

 以前から,世界中のどこにもハーフパンツが存在していなかったわけではないようだ。短パンの常識を覆すきっかけとなったのは,バスケットボールのユニホームに採用されたことがきっかけで,1993年ごろから大量生産が始まったようだ。
 自分の通っていた小学校は制服がなく,私服で登校していた。

 入学当初は,ハーフパンツは見たことがなかった(はず)。小2頃から徐々にハーフパンツが普及し始め,小3の頃にはほとんどがハーフパンツになっていたように思う。教師サイドにとっても急な変化だったためか,小2の担任が当時ハーフパンツをあまり好んでいなかったのを覚えている。ウィキでハーフパンツを引くと,だぶだぶしたズボンと表現されていることからも,一部の層からは毛嫌いされていることが何となく伝わってくる。

 そして,小6の秋には,体操服もハーフパンツ(厳密にはクォーターパンツ)が導入された。半年で卒業する6年生には,従来の体操服からの移行処置がとられた。半年という短い期間ではあったが,女子の全員と男子の半分近くが新体操服を選んでいた。学校指定の服にもハーフパンツが導入されたのには,女子の体操服であったブルマーが性的嗜好の対象となっていたことも大きく影響しているだろう。男子と同じ短パンにしても今度は下着が見えてしまうため,少し丈の長いクォーターパンツが採用されたのだろう。そのような背景もあってか隣の校区の中学校では比較的最近まで,女子は紺のハーフパンツ,男子は従来の白のショートパンツであった。

 それを変えるきっかけとなったのはおそらくジェンダーフリーの考え方(男女が同じものを着用するという考え)ではないかと思う。自分の中学校でも,以前は男女で体育服の色が上下共に違ったが,自分達の1つ下の学年から下の色が統一され,今は上下共に同じものを着用している。下校中の中学生を見て,襟元が紺だったので,後姿から男子だろうと思っていたら,追い越した際に女子だと気付いたこともあった。自分の出身の高校でも二つ上の先輩までは男女で色が違っていたが,一つ上の代から男女の色が統一されていた。ジェンダーフリーの考え方は,トイレや更衣室まで同一にしようという展開まで及んだところもあるらしい。体操服は統一されても,制服の統一にまで及ばなかったのは興味深い。そのようなこともあって,ジェンダーフリーという言葉は,色々な誤解を招くことから政府などの公式な使用は避けられているようだ。男女が平等に扱うのは当然だが,同質ではないことへの配慮もした上の平等であるべきだろう。ここで具体的に書くと本筋から外れるので,別の機会で取り上げたいと思う。

 ここまでの流れだと,男子のショートパンツには問題はなかったが,ジェンダーフリーの動きが起こったために廃止になったとも考えられるが,男子のショートパンツにも問題点がないわけではない。下着にトランクスを着用していた場合,性器の一部がズボンの隙間から見えることがあるし,トランクスがショートパンツの下からはみ出ることもある。(自分の高校はクォーターパンツであったが,丈が短くはみ出ることもあったが・・・)トランクスの着用の低年齢化が進んでいることも考えるとショートパンツに全く問題点がなかったとは言えなさそうだ。それでも小学校の制服では,股下数センチが主流なので,重大な問題点としては考えられていないのだろう。ハーフパンツの制服に違和感があるだけかもしれないが・・・

 もちろんハーフパンツにも,腰パンをしてみたり,極端に大きなサイズのものを着用してだらっとした印象にしやすくなるという,いかにも学校側が好まなそうな理由もあるが,色々考えるとハーフパンツが一番問題がなくなるのだろう。
 このような状況を考えるとNo.46で取り上げた学校で,あの丈のズボンが採用されていることはある意味で貴重な存在かもしれない。

 他のハーフパンツの普及が与えた影響として,大人でも素足を出すことに抵抗感がなくなり,大人の衣服の選択肢も増えることになった。大学でも夏になると,短パン姿の学生がかなり増える。そのことを見苦しいとする人もいるし,海外には足をさらすことが認められない文化もあるので,TPOをわきまえた着用が必要そうだ。

 流行は一過性の場合も多くあるが,ハーフパンツはそのタイプの流行ではなかった。たかだか5年程度の短い間にほぼ全てを変え,学校という変化しにくい体質のあるものまで変えてしまう勢いは流行の中でも特殊だと言えるだろう。携帯がそれに匹敵するかもしれないとも思っていたが,最近の動きを見ると学校を変えるまでは行かなそうだ。

(No.48) 公園遊具

2008年12月20日 22時50分06秒 | 風景

(No.46)少し懐かしい風景の【2】遊具で公園の遊具について少し紹介した。

 今回は,自分が懐かしさを感じた公園の遊具について書きたい。


(2008年11月7日撮影)

 伊敷台と玉里団地の間にある日当平公園。
 何となく昔からありそうな遊具。
 この写真ではあまり見えないが,水飲み場は象をイメージしてある。


(2008年11月7日撮影)

 奥に行き,すべり台を見てみるとローラースライダーのようになっていた。
 一時期はこの手のすべり台を良く見た気がする。


(2008年11月18日撮影)

 三和町の市営住宅の中にある公園。
 象をイメージしたすべり台。
 就学前に遊んだことがあった遊具だが,未だに健在だった。


(2008年11月18日撮影)

 その脇には,鳥のついたベンチがある。
 奥のブランコも古そうに見える。


(2008年11月7日撮影)

 実方公園。
 公園内に桐野利秋誕生地がある。
 すべり台も古そうだが,その脇にある木のような遊具が懐かしい。


(2008年12月18日撮影)

 枯木ヶ迫ちびっこ広場の遊具。すべり台脇の草むらに埋もれた飛び石のようなものやブランコ奥に見える高さの低いベンチがどこか懐かしい。ちびっこ広場は細かい路地などに多く見られる。


(2008年11月28日撮影)

 真砂本町公園。すべり台を含む遊具の方は新しくなっていたが,塀に穴が空いたのような遊具や中央の動物の遊具などは塗装は直されているのだろうが,幼少期に遊んだものがほぼそのままの姿で残っていた。


(2008年11月20日撮影)

 高見公園。東谷山の線路沿いにある。
 キリンのすべり台があった。
 幼稚園から小学生の頃にかけて,自分の家の近くにあり,友達と遊んだ公園にも,ほぼ同一のすべり台があり,それにちなんでキリン公園の名前で呼ばれていた。本当の名前が使われることはほとんどなかった。今はごく普通のすべり台となり,キリン公園の面影はない。
 しかし,こちらの遊具は残っていた。


(2008年12月19日撮影)

 近づいて見てみる。

(2006年2月28日撮影)


 入口の柵もかなり古そうだ。
 
(2006年2月28日撮影)

 

 関連して紹介したいのが,東坂元のせばる団地にあるこの公園。


(2007年3月11日撮影)

 象をモデルにしたすべり台がある。
 それだけならどこにでもありそうな公園だが,名前が珍しい。



(2007年3月11日撮影)

 地名が少しも含まれない公園名はなかなかない。


(2008年12月17日撮影)

 先ほどのキリン公園とならんで友達と遊んでいたのが,県営住宅の中にあるこの公園。動物の乗り物も付け替えられておらず,築山から下るすべり台もまだ残っていた。近くの公園の遊具がどんどん変わったり,撤去されたりしているため,かつての原型をとどめている場所は珍しい。


 遊具の老朽化であったり,公園の地価の貯水施設を建設する際に遊具もリニュアルしたりすることで世代交代の時期でもあるのだろうが,前回も挙げた公園遊具での事故が多少は影響しているだろう。首や指を挟むおそれのある揺れたり,回転したりという遊具は目にすることはない。今回は取り上げなかったが,シーソーが少し前に確認した時に残っている公園もあった気がするが,場所が特定できない。
 鹿児島では見られないが,大阪へ行った時に,公園が完全に封鎖されている場面を何度か見た。遊具の安全性が確認できていないようにも,ホームレスの住居になるのを避けているようにも思えた。その理由は分からなかった。

(No.47) 赤野進吾

2008年12月18日 18時44分44秒 | 風景
※写真の撮影日は省略。ただし,撮影日は2008年11月以降である。

 (No.46)少し懐かしい風景の【1】信号機で信号機について少し触れた。

 今回はその信号機のある風景について,色々な信号を間違い探しのような感覚で見ていきたい。

 まず,何の変哲もない信号から。


 次に少し見かけない信号。




 信号機がつけ方が少し異なっている。
 つけ方が他の信号と異なっている例をもう一つ。

 2つの歩行者用信号が見えるが,よく見るとつけ方が違う。
 信号の赤も青も光っていないが,それは故障ではなく点滅中に撮影したためである。



 次は,歩行者用信号機の形を比べてみたい。両方ともよく見る型ではあるが・・・

 


 左の方が右より丸みを帯びていて柔らかい印象を受けないだろうか?

 信号機の印象を変えているものは,形のほかにもある。

    


 色が違うだけでも,印象は結構変わってくる。
 個人的な印象かもしれないが,黒は町の中心部などで,グレーやベージュは橋の近くでよく見かける気がする。


 最近,新型の歩行者用信号に今までとは異なる特徴が現れた。下の写真の左が旧来,右が最近出てきたものだ。

 


 新型を初めて見たとき,何か違和感はあったのだが,その原因が何であるのかははっきり分かっていなかった。


 何度か見たときにようやく,人の絵の中に色が入ったことに気付いた。
 これは,外国では青が進め,赤が止まれとは必ずしも限らないため,より理解しやすく,絵が目立つようにしたためらしい。

 色がつく部分を変えたことで,イラストにある工夫が加えられている。赤信号によく違いが出ている。
 



 何が違うか分かっただろうか?




 イラストがよりはっきり見えるように新型のイラストの人の方が太く描かれている。

 さらに,歩行者用信号機は変化していき,次のようなタイプも現れた。
 この写真は同じ交差点の2つの信号機を撮ったものだが,片方が後になって交通量の増加によりつけられたものなので設置時期に差がある。



 向かって左が新しく,右が古い。



 
 信号機の厚さが全く異なっている。

 別の場所でこの薄い信号機を見たときは,あまりの薄さに驚いた。

 イラストのおじさんは太っても,信号機自体はやせてしまった。

 
 あと,歩行者用信号機には,残り時間が分かるものもある。

 大阪では,デジタル数字で残り何秒と表示されているのを見たことがある。それに比べるとこの待ち時間表記は,やや分かりにくく,目安にしか過ぎない。しかも,青の時と赤の時で目盛りの減り方の速さが全く違う。
 あと,真ん中の型の残り時間表示は赤の時と青の時で違いがある。

 




 これまでは歩行者用信号が中心であったので,今度は自動車用を見てみたい。こちらは歩行者用ほどの差はない。





 真ん中は他よりもサイズが大きく,右はライトの光が異なっている。左→下→右の順に昔から見られる気がする。ライトの光の変化については,踏切の警報機でも同様のことが見られる。


 主な信号機で感じる変化は取り上げ終わった気がするので,以下は珍しい信号機について見ていきたい。

 


 昔はよく見かけた信号機。絵柄が割れたように見える。





 歩行者用信号機と横断歩道の位置関係。
 離れている上にかなり高い場所にある。





 見るところでは飽きるぐらい見ている気もする。
 信号の周に枠がついている。信号の存在感を出すためだろうか?


 

 矢印が表示される部分だけ,上の信号機と色が違う。
 部品がたまたまなかったのだろうか?



 自転車専用の信号。鹿児島ではあまり見ないが,大分市では歩行者は歩道橋,自転車が道路を横断歩道のようにわたる交差点が多く見られた。

 縦型の信号機は見通しが悪い場所の予告灯などで使われている。

 それ以外に使われている交差点が県庁の裏にあった。


 この方向に進む車のみ,奥に横型の信号機がある。他の3方向からは交差点の中央上部にあるこの縦の信号機をみるしかない。

最後にこの画像。



 左上に見える自動車用の信号機。
 自動車の道路は歩行者用信号の向きからも判断できる通り向かって左側にある。右側は自動車工場の駐車場に停められている車だ。
 この信号を交差点に進入する自動車が確認することはほぼ不可能だろう。
 しかし,信号はしっかり動いている。
 もしかすると隣の道路がループの陸橋とつながっているので,ループを車で下ってくると良く見え,予告灯になっているのかもしれない。
 その道路の脇の歩道から信号機を見てみる。

 道路は歩道よりも低い位置にあり,自然に視界に入る感じではなさそうだ。
 何のための信号なのかよく分からない。


 あと,画像では表現できないが,目が不自由な方のための音も変化してきている。新しいものが同じ音をより繰り返しているように聞こえた。

 信号機,規格は同じはずだが,意外といろいろなものがある。

(No.46) 少し懐かしい風景

2008年12月16日 01時56分33秒 | 風景
注:タイトルに「懐かしい」とあるので,誤解を生じるかもしれませんが,ここに写っている風景の場所がもう過去になっているとか時代遅れになっているとかといった意味ではありません。時の主流から外れていても,安易にそれに従わず,それまでの状態を維持していくのも素晴らしいことと思います。


 ある団地へ行ったときのこと。
 
 一見普通の風景なのだが,よく考えると最近あまり見なくなった風景を偶然にも見かけた。
 少し前までは,ごく一般的に見られた風景だ。社会の急激な変化などによってなかなか見ることができなくなった風景を4つ取り上げたい。

~~~~~~~~~~~~~~
【1】 信号機

 まず,その団地に向かう坂の前にある信号機。





(2008年10月29日撮影)



 形は一見普通なのだが,光の強さが弱いのか,昼間は信号が青なのか赤なのかよく見なければ,判読しにくい。

 もともとこのような光の強さだったのか,古くなってこのような光の強さになったのかは分からない。

 少し前までは,このような信号をよく見かけていたように思う。


 この信号機を見てから,信号機に対して意識的になったのか似たような信号をいくつか見つけたが,以前ほどの頻繁ではない。

 信号機。見ない日がないぐらいの日常に溶け込んだ風景だが,注意してみると意外なことに気付くこともある。


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【2】遊具

 次は,この2枚の写真。坂を登った団地内の公園で見られたものだ。





(2008年10月29日撮影)


(2008年10月29日撮影)


 これらの遊具も最近では見られなくなってきたように思う。

 まだ,公園の遊具で友達と遊んでいた頃は,このような遊具が主だった。

 たまに新しくできた公園に行くと,遊具をみて,それとなくその公園が新しい公園だと分かったものだ。

 さらに,最近の公園になると自分達のころに新しかった遊具とはまた違った新しさがある。

 だが,写真のような遊具が残っている公園はそう多くはない。
 ただ単に老朽化が進み,その頃の遊具が取替えになったということも考えられるだろう。しかし,実際はそれだけではない。決定的な出来事があったはずだ。

 公園の遊具で子どもが怪我をするなどが相次ぎ,設置者である自治体に賠償責任が求められるというニュースが集中していた時期があった。

 それから,公園の遊具が急に変わっていったように思う。

 特に問題になった回転式の遊具は,かつてあった公園でも完全に見なくなった。

 子どもに判断力がないから,危険がないように大人が環境を整備してあげることは大切ではあるが,昔,普通に遊んでいた遊具が見られなくなったのはさびしい。

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【3】危険箇所

 続いて紹介するのは,その団地中でもさらに高台になっている場所にあるこの鉄塔だ。


(2008年12月3日撮影)


 何か違和感はないだろうか?



 自分が感じたのは鉄塔の周りに柵がなく,鉄塔の下に行けることだった。

 場所が場所なので,ここの通行者もそれなりに少ないのだろう。

 自分の家の近くの緑地帯の中にも,3本の鉄塔が建っている。

 そのうちの2本は自分が幼稚園の頃から柵で囲ってあった。

 1本は植木で囲んであるだけだったが,結構に植木が柵に変わった。

 鉄塔に限らず,危険箇所に子どもが入らないように柵を設けている箇所は以前に比べてかなり増えた。

 自分が幼稚園,小学生だった頃に,溝の入った塀をよく登っていた。

 かつて,そのようなことをしていた場所にも今では,立派に柵があり,乗り越えない限り中には入れない。

 先ほどの公園の件とも絡んでくるが,危険な可能性のあるものには,近づけないそういう動きが強くなってきたように思う。それで,子どもを危険から守れることは良いことだと思う。ただ,何でもかんでも危ないものには近づかせないようにしておけばいいというものではないようにも思う。危険な目にあったからこそ学べたことというものもないわけではないだろう。

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【4】???

 最後に取り上げるのが,この写真。
 先ほどの鉄塔がある場所から別の方向を写したものだ。


(2008年12月3日撮影)

 夕日の効果もあってかなりきれいな風景だと思う。
 
 あえて,小見出しを「?」で表記したが,この写真に写っている懐かしいものが分かるだろうか。(漢字3文字)

 
 真下に大きく見える施設と関わったものだ。






 
 
 学校が見える。

 この学校は中学校であり,丁度部活をしている頃だった。

 この写真からは絶対に分からないぐらい細かいのだが,向かって手前の方でテニス部が練習をしている。
 懐かしさを残しているのは彼らが着用している服だ。(これが鮮明にわかるような写真をWEB上にアップすると個人が特定できる可能性が出てくるため,遠景でご勘弁を願いたい。なお,この学校のHPの行事紹介で確認できる。)

 彼らが来ているのは,学校の体操服だ。

 この体操服も最近の社会の変化の影響を受けて,変化が激しい。

 上着の変化は今も昔もデザインが若干変わったぐらいで,そんなにはない。

 変化が大きいのは,ズボンの方だ。

 かつては,男:白のショートパンツ 女:ブルマーであったが,今は男女共にクォーターパンツ(ハーフパンツ)が主流だ。

 ここの中学校が以前のままかと言われるとそうではない。

 女子のブルマーは流石に残ってはいない。

 だが,男子のズボンの長さはかつてのショートパンツに匹敵する長さだ。(但し,色は紺)女子も同じものかどうかまでは確認していない。

 以前,この団地に来た時に部活帰りの男子生徒とすれ違い,体操服のズボンを見てその長さに驚いた。それから2年ぐらい経った今でも,まだレイアウトは変わっていなかったようだ。

 体操服の変化については社会の変化を見事に反映している部分があるので,別の記事でまとめてみたい。

 小学生の男子の制服でしかみることがなくなったような丈の長さのズボンがまだ中学校の体操服に見られるのには驚かされた。

 



※次回から数回はこの記事をベースに書く予定です。

(No.45) 日南海岸 【2の2】

2008年12月14日 06時48分01秒 | 旅・散策の足跡
【2の1】からの続き。

 鵜戸神宮を出た(15:26)後は,バスでサンメッセ(15:29着)に向かった。
 1区間(210円)だったので歩こうかとも思ったが,実際にはかなり距離があり,バスでよかったと感じた。ノンストップでの3分はかなりの距離を進むようだ。


(2008年9月1日撮影)

 国道の両側で2体のモアイが出迎えてくれる。
 バス停から約500mは坂道を登ることになる。
 坂を登りきると,駐車場の料金所みたいな建物(カプセル?)があり,そこで料金を払う。本格的な入場ゲートはない。
 チケットも食堂の食券のようなもので「Aランチ」などと書かれるかわりに施設名と入場券とだけ書かれているものだった。
 坂道を暑い中登ってきたこともあり,(車で来いよと言われそうだが・・・)入場の段階では正直がっかりだった。


 入口付近の売店で休憩をしたあと,「太陽の丘」と称される高台へ向かった。
 そこからの風景。



(2008年9月1日撮影)

 
 それまでの疲れや入場でのがっかり感を忘れさせるぐらいの感動があった。
 目下に広がる太平洋とその水平線。
 いつも内海ばかり見ているのでとても雄大に感じた。

 せっかくなので下に見えるブランコも少しだけこいでみた。いい年にもなってと言われそうだが,無性にブランコをこいでみたくなるときがある。ここのブランコは,海に向かってこぐので気持ちよさは格別だった。その後は,下のモアイの広場へ向かった。


(2008年9月1日撮影)

 近くから見たモアイ。イースター島の許可を得て,作られているとのこと。
 それぞれのモアイが違った表情をしている。
 そして,でかい。
 イースター島の人々はどのような思いでこの像を作ったのだろうか?
 
 再び入場口のほうへ向かう。
 入場口付近の売店の前の広場にこんなモアイもいた。



(2008年9月1日撮影)

 M7モアイと知事モアイ。
 2体の間には知事モアイと知事の写真が載っていて,その上に,この2体のモアイは軽いため注意するようにと案内がある。中身はスカスカのようだ。

 閉園時間も迫っていたので,バス停に戻り,17:25発のバスで最寄り駅(バスで11分。430円)へ向かった。

 その最寄り駅がここ。(17:36着)
 

(2008年9月1日撮影)

 伊比井(いびい)駅。
 バス停から階段を登ると駅がある。


(2008年9月1日撮影)

 ホームから見た駅舎。かなり古くからありそうな感じだ。
 
 この駅,2002年に「緑水」のCMで使われていたらしい。(参考記事)
 
 そのCMが全く記憶にないので何ともいえないが,列車待ちで40分ぐらいこの駅や周辺の集落を歩いたが,なぜこの駅が選ばれたのかは疑問だった。宮あおいさんの出演でメロディーがや1968年の「あなたのとりこ」が使用されており,恋愛がらみだったらしい。

 18時16分の快速列車で,青島駅へ向かう。

 18時28分,青島駅着。

(2008年9月1日撮影)

 青島駅の構内。乗り場が3ヶ所,日南線の他の駅と比べると規模が大きい。しかも,青島の名前はよく知られており,800mほどで奥に見えるホテルや観光地青島にも着く。そんな場所であるから利用者も多く,にぎやかな駅のようにも思えるが,実際は無人駅である。


(2008年9月1日撮影)

 青島駅の駅舎。観光地とは思えないぐらい,暗い印象だ。(時間も時間だけど・・・)先ほどの写真は左に見える歩道橋の上から撮ったもの。さっきの真ん中に見えるホームへは小さな階段を降りて警報機つきの通路を渡らなければならない。


(2008年9月1日撮影)

 駅前から青島の方へ延びる水路。下水を処理したものを再利用しているらしい。
 奥に若干見えているが,汚れが目立つので,せっかくの試みも台無しのように思えた。
 歩道橋で道路を渡ると,土産物屋街に入る。もう遅いのかほとんど閉店していてさびしかった。そこを抜けると青島だ。


(2008年9月1日撮影)

 店は閉まっていたが,釣りを楽しむ人でにぎわっていた。
 島に渡り,青島神社を見て帰ってきた。
 弥生橋からは本来鬼の洗濯岩がのぞめるのだが,満潮の時間だったようでそれを見ることはできなかった。
 
 駅に引き返し,19時02分発の列車に乗り込む。
 鹿児島へ帰る列車には南宮崎駅でかなり待つ必要があったため,途中で乗り換えて宮崎空港へ行くことにした。
 宮崎空港線への乗換駅となる田吉駅に19時24分に着く。


(2008年9月1日撮影)

 いったん廃止になった駅が宮崎空港線の開通で乗換駅として復活したらしく,用地が制限されていることが感じられる。
 上の写真のような待合室はあるものの,貼り紙に余裕を持ってホームに向かうように書いてある。


(2008年9月1日撮影)

 ホームへは待合室から道路の方へ行き,小さな踏切を渡らなければならない。
 この駅を通過する列車もいるので,踏切が遮断されてホームに渡れないこともあるからだろう。待合室が不便なので,時間がかなりあるとき以外は,ホーム上のベンチで待った方がよさそうな気がする。


(2008年9月1日撮影)

 ホーム上はホーム上で怖いことがある。
 ホームの幅が黄色の線から分かるぐらい,せまいので特急列車が結構なスピードで通過すると結構怖い。日南線から乗り換えない限り,この駅は利用しなくていいので,利用者は少ないだろうが・・・
 奥に見える灯りが宮崎空港だ。19時38分発の列車でその方向へ向かう。
 無人駅での乗り降りが続いた。鹿児島市付近では無人駅であっても全てのドアが開き,駅の運賃箱で自らの意思で精算をすることになる。だが,宮崎市近郊では,ワンマン乗車が徹底され,列車内で運転手に対して精算をすることになる。鹿児島市近郊がほとんど有人駅なのもあるだろうが,それだけ宮崎は利用者が少ないのかもしれない。
 

(2008年9月1日撮影)

 19時41分,宮崎空港駅に着いた。
 駅は高架駅になっていて,空港2Fへの連絡通路もないので,いったん階段を降りてから空港の建物に入らなければならない。空港の隣に駅があることもあってか,宮崎空港は地方空港の中でも利用客が多いらしい。隣の鹿児島県の場合は,空港は大規模だが,最寄り駅が表木山か嘉例川で2kmぐらい離れている。肥薩線の運行本数,駅から空港までの手段を考えるとそれらの駅は使い勝手は悪そうだ。線路を空港近くまで延ばす方法も,空港がある十三塚原がシラス台地なので工事が大変だろう。そういった点から実現しない案だろう。


(2008年9月1日撮影)

 駅のホームからは空港内の滑走路が見える。昼間だったらもっと見ごたえがあったのかもしれない。20時33分の列車で南宮崎へ。


(2008年9月1日撮影)

 30分ぐらい時間があったので,駅周辺を見てみた。隣接して駐輪場がある。駅前はスーパーやバスターミナルもあるのだが,何か寂しい感じがした。駅一階の食堂が営業していないからだろうか。駅も改札やコンビニが2階にあるので下が何か寂しい。
 21時03分発の列車で鹿児島へ向かった。
 列車内は高校生が多く乗っていた。宮崎市近郊で全員降りるのだろうと思っていたら都城付近まで乗っている高校生もいた。宮崎は高校入試の仕組みがやや変わっていたように思う。その影響もあるのかなと思った。
 鹿児島に着いたのは23時半ごろだった。

 知事効果で明るいイメージのある宮崎だったが,この日に訪ねたところは何か寂しさを感じる部分が多かったように思う。

(No.44) 越

2008年12月12日 09時28分39秒 | 過去になる現在
今年の8月,ここで高校3年のクラスの同窓会が開かれた。

店の前に来た時にこの写真を撮った。


(2008年8月29日撮影)

集合場所へいくと,先に来ていた同級生に写真を撮っているのを見られていたことが判明。


その時,同級生から言われた言葉。


「何,撮ってるの?」


そんなに珍しい場所ではないのでそれを聞かれるのは当然だろう。


撮った理由を聞かれたら,「何か違和感があったから」としか言いようがない。


その違和感の正体。 


アーケードの屋根が取り払われていることだ。


かつてここのいづろバス停は何度も利用したことがあったので,屋根があるのに慣れていたため,異常にすっきりした感じがしたのだろう。

 この店のビアガーデンで飲み会をしたのだが,(また来たいと思ったかどうかは別にして)この店で来年以降,会を開くことができなくなると誰が予想しただろうか?

 1ヶ月後の9月末,三越が鹿児島店を2009年5月6日をもって閉鎖することを発表した。

 突然の発表に驚いた。天文館から絶対に消えることのないと思っていたデパートがなくなる。すぐには実感が湧かなかった。大会社でも人員の大幅削減を発表している金融危機後の今の状況の前触れだったのかもしれないなどとも考えた。
 

 それから2ヶ月経った11月,あと少しで閉店となる三越へ足を運んでみた。
 
 先ほどの写真と同じ場所。


(2008年11月28日撮影)

 上のアーケードがほぼ完成している。もともと屋根がある場所だったので,元に戻ったという印象を受けた。
 
 店内を最近まともに見て回ったことがなかったので,少し見ていくことにした。

 エスカレーターへの移動のために,婦人服売り場といういかにも場違いな箇所を通ったが,店員の方々は丁寧に「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。

 ほぼ全て回ったが自分が用がありそうな店舗はあまりなかった。

 それでもこのデパートがなくなると言う現実がさびしい。

 途中会の登り降りに使用した階段が風格があった。


(2008年11月28日撮影)

 先代の丸屋の時代からあったのだろうか?

 屋上に観覧車があった時代もあると聞く。
 
 今後どうなるかはまだはっきりしていないようだが,長い間続いてきたものが終わろうとしている。

 そして,2008年12月。いづろ商店街のアーケードが完成した。


(2008年12月7日撮影)

 記念に商品券などが当たる抽選が行なわれていた。
 もちろん,三越も参加している。
 新しい商店街が築かれていく中で,歴史のある店が去っていく。
 本来ならアーケードができてお祝いムードであろうが,素直に喜べない部分もあるように感じる。