時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(No.36) 作成者像

2008年11月30日 03時30分31秒 | Weblog
 開設から1ヶ月以上が経っていた。
 事務記事を除く記事数が今回も含めて36。記事数もそこそこたまってきた。

 よく犯罪者や変わった言動を起こしている人をマスコミで取り上げる場合,ブログがあればかなり重要な資料になっているように思う。確かにブログの記事の傾向などを見ていくと,その作成者について分かることは多い。しかし,ブログ(ブログに限ったことではなく,小・中学校の卒業文集なども)その人の一面のみを捉えたに過ぎず,その人全てを理解するなんて無理なことだ。近所の人にインタビューは定番だが,近所の人がどれだけ当該者を理解しているのだろうか?あまりにも自信満々でインタビューに応じている人を見ると,思わず「本当に分かってないだろう」などとつっこんでしまう。
 
 
 話は変わるが,自分(作成者)を分析する資料としてこのブログが与えられた場合,どのような人物像が見えるのか分析してみたい。


 記事の話題は,回数の比重を考えなければ,川,鉄道,開発などが多く,制度,開発,離島そして,トイレなどにも触れていて幅が広い。
 
 川が多いのは大学の専攻が影響している部分もあるが,それ以前からも水辺の風景が好きなことの方が大きいかもしれない。
 

 もどかしいのがかなりの頻度で記事に登場する「鉄道」だ。登場の仕方には差があるものの16の記事に登場している。(AMUのツリーなど鉄道の雰囲気があまり感じられないものは除外した)

 こうなると,いわゆる「鉄」とか「鉄ちゃん」ということも推測できる。

 実際どうかと言われれば,鉄道は好きであるし,興味はあるが,その域には達していないし,達そうとも思っていないということになるだろうか。実際今話題になっている「0系新幹線」もどんな新幹線なのかニュースの映像を見るまでは分からなかった。

 旅の手段として用いることもあるので,使わない人よりは知識はあるだろう。
 また記事を書いたり,書くために現地に行くにあたって,その道の方が書かれたHPやウィキも参照しているので,そうした部分からも少しは詳しくなっている。「駅名票」「ホームの数え方」「跨線橋」などの言葉や表現方法の存在にも気付いた。今までの記事では「駅名の看板」とか「上下入れ替えができる駅」とか「歩道橋」とか書いていたはず。専門語はあまり使いたくないので,今後はどうするかは検討中。
 だが,駅の写真を撮りに行く場合の手段は旅行時を除き,原則自転車である。おまけに,駅に着いても入場券が必要な部分への出入りは1回もしていない。
 
 ただ,駅に対してはマニアの域ではないがある程度興味がある。このブログのテーマに合う部分も多いからだ。ブログを始めたのは最近だが,以前からこのブログに書いているような視線をもっていたからこそ開設する気になったのだろうし。
 2年前に提出したレポートで,駅の看板(駅名票)のイラストから地域の自然とのかかわりを分析したことがある。そのとき,駅や鉄道線路を「鉄道会社は,利潤を追求するために,一定以上の利用者がいると見込んだ地区を通るように線路を設置し,基本的に集落の近くに駅を設置していると考えられる。したがって,駅周辺または鉄道路線の周囲には人々が生活をしている土地があり,そこにはその土地の文化が形成されていると想定できる」とした上で,駅を「外部から鉄道を利用してその地を訪れる人々が,その地で最初に訪れる玄関のような存在の場所」として取り上げていた。実際駅員だけでなく,地域の方々が駅を整備しているところも多くある。(いらなくなった本を持って行ってもかまわないとしていたり,トイレの掃除やちょっとしたスペースに小物を飾っていたりなど)
 またこうした面とは別に,都市問題などと鉄道との結び付きも強い。「開かずの踏切」「高架化」「駅前商店街」「駅による市街地の分断」などがその例だ。都市に限らず,「三セク可」「廃線」「新駅設置」などはどこの地域とも関わりがあることだ。そのため,鉄道は作ったら終わりということはなく,絶えず見直されている。だから,変化も多い。変化を取り上げるこのブログにとって格好の対象だ。


 とりあえず,鉄道マニアか否かの内容はこれぐらいにしておきたい。



 制度に関する記事に法文や議事録の引用があることからも,作成者像に誤解が生じそうだ。確かに法律学を入門程度はかじっている。実際の裁判や議会(委員会)を見たことがある。そうした経験の反映はあるものの,記事のレベルはかなり低いことからも専門ではないことが表れているかな?


 あと,全体して「自然」「たどれるもの」「広く浅く」の傾向があるように思う。

 自然は,一応本業の専攻を更に細かく見ると「自然」という文字が入ってくるので関わりは強い。それを抜きにしても,かつてキャンプやハイキングなどに参加していたことからもそれなりに自然環境の中で過ごしてきた。今も海や森の近くに行くことは多い。たまに意味もなく行くことすらある。「自然」とはいっても本当の意味で純粋な自然はほとんどない。何らかの人間の手が加えられていることが多い。日本三景などにしても,完全な自然ではなく,神社などの建造物が含まれている。そのような自然と人間活動の合わさった風景にも興味を持っているし,そのような風景を撮影するのも好きだ。

 「たどれるもの」には川,線路(廃線含む),国道などが出ているだろうか。どのぐらいまで踏破したか達成具合を確かめられるので,それなりの達成感も生じる。「たどる」という活動も好んでしている。(このブログのタイトル通りだけど。)

 「広く浅く」興味を持つものは結構多い。だが,その道を極めたものはない。
 「広く」に関しては大学の専攻が総合科学に分類される以上,自分の学問分野だけやっていては見えてこない部分が多いことにも拠るだろう。もちろん,そのなかでの専門を深めることも大切だが・・・
 他方「浅く」については浅くしようとは思ってはいないが,「広く」の弊害としてやむを得ないものかとも思う。本当の専門分野が「浅く」なりそうになっているのは危ないけど。
 専門関係以外にも「教育学」も教員免許を取る程度に学んでいるのでこのことも影響しているかな。教科も社会科だし。



 自分自身で書いているから,気付く面もあるのだろうが,このブログから読み取れる(誤解されそうな)作成者像はこんなものかと思う。



 話は変わって,ブログの記事から記事の作成過程に移る。
 ブログに掲載する写真を撮っているとき,何も知らない人が見たらどんな人だと思われているのだろうか。間違いなく「かなりの変わり者」だろう。そんなもののどこが珍しいんだというものの写真も撮っている。川の跡とか市電の電停跡地とかそのことを知らない人にとってはただの道路でしかないだろう。そんなものを取っている人は,理解不能に違いない。

 おまけに史跡なども全て目立つ場所にはないし,普通の人が興味を持たないようなものや意識がないものまで探したりするので(もちろん法に抵触する探し方はしないが),ある意味不審者かもしれない。近くで窃盗とか起きたときには容疑者候補になるんだろうな。犯罪の目撃情報と犯人が一致していることは案外多くない。大幅にはずれていることすらある。「さかきばらせいと」も始めは35歳ぐらいの男だったし,名古屋の通り魔も最初は「男」と考えられていた。物騒な世の中になったなと思う。



※カテゴリーはweblogだが,これまでの記事をたどっているという点では,テーマに沿っているはず・・・

ブックマーク(リンク)について

2008年11月29日 01時01分50秒 | 事務記事
 ブックマークに登録されている外部サイトについて,サイト名,下の文章よりも少し詳しく紹介します。

※ 個人のページ
未定タイトル
 現京都市在住の高校時代の友人によるブログ。
読んだ本のこと、旅行のこと、行ったミュージアムや映画,歴史・考古・語学などの勉強,人と会って学んだこと,京都での生活などカテゴリが多岐に渡っています。旧ブログも残っています。

夢みる風力発電機 ―スカイコミュの書評や雑記―
 大学の友人のブログ。文学を専攻していた彼の書評や雑感などが取り上げられています。ものの見方変わります。このブログの記事の調査にも何度か一緒に行ってます。

※随時追加していきます。
 なお,このブログ,または記事へ対するリンクはご自由に張っていただいて構いません。一言連絡を頂ければ,相互リンクなどもお願いさせて頂けるのでありがたいです。

(No.35) 市電上町線

2008年11月29日 00時06分21秒 | 旅・散策の足跡
 市電上町線が廃線になったのは,1985年のことのようだ。(伊敷線も同時廃止)それよりに後に産まれた自分でも,その話は何度か聞いたことがある。しかし,清水町まで市電があったといわれても,今の路線のどこからつながるのか想像がつかなかった。HPなどを読み漁って,何とかルートをつかめたので,その経路をたどってみることにした。(伊敷線はまた別の機会に取り上げる予定。→こちら)



(2008年11月12日撮影)

 市役所前電停。この電停は跡ではなく現存だ。ここから鹿児島駅前電停方で上町線と分岐していたようだ。



(2008年11月12日撮影)

 水族館口電停のひとつ手前の交差点。ここから上町線は城山方向へ向かっていたようだ。道路の幅が結構広いのもその名残だろう。この「水族館口」という電停もよく名前が変わっている。以前は,「県庁跡」その前は「県庁前」だった。公共施設の移動の跡が分かる。



(2008年11月12日撮影)

 裁判所と県民交流センターに挟まれたこの道路の中央に「私学校跡電停」はあった。しかし,私学校跡があるのは,県民交流センターの場所でも裁判所の場所でもない。 



(2008年11月12日撮影)

 写真に向かって,左手に鶴丸城の堀が,右手には病院がある。この病院の場所が私学校跡だ。



(2008年11月12日撮影)

 病院の敷地内に記念碑が残されている。征韓論をめぐっての対立後,西郷隆盛が鹿児島に帰ってきたときに,西郷を慕って帰郷した若者達に押され,求められるがままに設立したのがこの私学校だ。この私学校の過激派の生徒により西南戦争が始まり,4年でこの私学校は終わってしまった。
 そのときの銃弾の跡が塀に残っている。
 鹿児島大学の附属病院もこの地にあったときがあるらしく,記念碑が残っている。


(2008年11月7日撮影)

 私学校あとを過ぎ,坂を登って岩崎谷の方へ向かい,右折したところからは専用軌道となっていたようだ。写真は現在の岩崎谷バス停から高架上の道路を移したもの。この高架がかつての市電の線路跡で,この橋でJRの線路と交差していた。



(2008年11月28日撮影)

 正面に見える橋はかつては鉄橋であり,その上を市電が走っていた。JRの上を走る市電は想像がつかない。この橋の右側に「岩崎谷電停」があったようだ。高架電停で桜島を望む眺めはかなり良かったらしい。今はこの高架が車専用となっているためにその景色を見ることはできない。

 おそらく,近くの長田陸橋上からもほぼ同一の眺めが見られると思い,そこから写真を撮ってみた。

(2008年11月28日撮影)




(2008年11月7日撮影)

 高架部分の長田町電停側。今は長田町バス停がここにある。



(2008年11月28日撮影)

 高架道路からまっすぐ行くと病院のところで上町方へ向かう道と冷水峠へ向かう道とに分かれている。ここに長田町電停があった。この先は国道10号の方へせまい道の中を軌道と道路が走っていたようだ。



(2008年11月7日撮影)

 地元の大手銀行に挟まれたこの場所に「竪馬場電停」があったようだ。今は市電が通っていた通りと垂直に坂元を経て,吉田へ向かう県道が走っている。



(2008年11月28日撮影)

 せまい道路から国道10号に出る直前のこの場所に「柳町電停」があった。国道ではなく,せまい道路の方に作られていたのが意外だ。せまかったためにこの電停には安全地帯がなかったらしい。



(2008年11月7日撮影)

 国道を吉野方向へ向かい,稲荷川を越えると春日交番の前につく。春日交番は最近リニュアルされ,風景が変わってしまった。この交差点が「春日町電停」跡。今では広く感じる国道も市電が通っていた頃は窮屈だったのだろう。廃止の原因にそのこともあるようだ。今は国道と交わることはあっても国道の中央を市電が走っている光景は見られない。



(2008年11月7日撮影)

 終点の清水町電停跡。横断歩道の手前が電停だったのだと思う。奥には諏訪神社が見える。現在の清水町バス停は一つ春日町よりの交差点の近くにある。

 
 てっきり,鹿児島駅前の電停から続いているのかと思っていた上町線も実際は岩崎谷を経由していたことが分かった。現在は経営状況のいい市電も悪い時期が続いていたらしい。今では2系統しかない市電が4系統あった時代があったのは,やはり想像がつかない。

(No.34) 奨学金制度

2008年11月28日 23時59分59秒 | 現在の中の過去
※ 特に断りのない限り,「奨学金」は,学生支援機構の奨学金のことを指す。

 一昨日,奨学金の返済の手続きの書類を窓口へ提出した。来年10月から長い返済期間が始まる。
 その返還手続きがやたら厄介だった。
 まず,保証人。返還時には自分の両親の片方を原則とする連帯保証人に加えて,保証人が必要となった。この保証人の条件が結構厄介である。「4親等以内でかつ65歳未満」という条件だった。もし,この条件を満たせない場合,機構の所定の用紙で理由を届出なければならないという仕組みだ。家族も多様化しているし,親戚づきあいも様々だろう。このような状態において,この条件は少し厳しい気がする。保証人無しでは返還手続きが受理されない。返還の段階で要求するのではなく,貸与の段階で保証人を要求して欲しい。(自分は父方の親戚が県内にいたため,そこまで苦労することはなかったが,直接サインと印鑑をもらって,印鑑証明書まで示すのは遠くに離れた親戚であった場合きつい。)
 他にも,連帯保証人・保証人の印鑑証明書,連帯保証人の源泉収入証明書,本人の住民票や金融機関に届け出た口座の用紙のコピーなど,借金(奨学金)を返すためにも,手数料やらコピー費やら交通費(郵送費)やらが結構かかる。

 この手続きも終わり,卒業後には返還へ入る。しかし,借りた額をそのまま返せばよいというわけではない。この機構の奨学金には,第1種(無利子)と第2種(有利子)がある。高校生で奨学金制度の説明があったとき,日本の奨学金制度をあまり知らず,貸与であることは知っていたが,それが有利子ということに驚いた。確かに利率は金融機関に比べればかなり低い。(年利約1.4%)とはいえ,途中で切らなければ48ヶ月に渡って貸与されるものであるから,貸与額は普通100万を超える。そのぐらい借りるといい加減に計算しても利子は最低10万以上になる。しかも,奨学金は一定額をある程度払い続けて,最後に繰り上げ返上で利子額を減額できるが,先に大きな額を返して,利息のつく元金を減らすことはできない。返還回数も機構側が指定した回数を2択から選ぶしかない。利子の額も必然的に決まってくる。

 日本の奨学金制度は外国と比べると貧弱であることもよく言われている。海外では給与制のところも少なくない。日本の場合,ただの貸与ならともかく利子がつく。高校生やその保護者の奨学金に対するイメージは,意外と甘いもの(借りられるなら借りるべきもの)として考えられていることもあるように思う。契約書の意味を十分に理解していれば,低利子で猶予制度がある点を除いては,普通のローンであることは分かる。しかし,そのように甘いもののように思われていることを考えると,かつての奨学金と今の奨学金の制度はどうも違っているのではないだろうかと感じた。その奨学金制度の変遷をたどってみたい。

 第一の転機といえるのが,1984年中曽根内閣による有利子の奨学金制度を導入だろう。有利子の根拠については,江田五月議員のHPで見られる「衆議院・文教委員会 日本育英会法案について」の委員会録からうかがえる。(以下の抜き書きでは前後が省略されることにより,若干ニュアンスが変わって伝わる可能性が考えられるため,必要があれば原典に当たってください。)

1 財源が得られないため,奨学生の数も増やせず,国立大学が授業料を上げたにもかかわらず,貸与額の増額ができない。
2 学生にもさまざまな、いろいろな立場(経済,社会,経済の環境)の学生がいる。
3 奨学金自体あるいは奨学金制度自体が持つ教育的機能を考えると,有利子貸与で借りたものは返すのが当たり前,しかも利子つけて返すのが当たり前ということを教えるのが非常に教育的だ。

 など,いろいろと議論されている。
 奨学制度充実のための財源が足りないから,奨学生から利子という形で後輩の奨学生の枠の拡大や貸与額のアップへの協力をお願いするということなのだろう。
 金がないから奨学金を借りているのに,その金がない(なかった)奨学生から利子を取ろうという考えにはどうも納得がいかない。しかし,これで奨学金に利子がつくわけ,利子の目的と言うものがようやく見えてきたように思う。

 しかし,注意したいのは,ここでは,「あくまで無利子が主体であり,有利子は補助的なもの」という議論がなされていることだ。それから20年も経った今は,大学の掲示板で募集している奨学金はほとんど有利子のものという状態だ。(少なくとも自分の通う大学では)

 次の転機が,2004年に小泉内閣の構造改革によって,日本育英会が廃止され,独立行政法人日本学生支援機構に移行したことだ。このことによって組織の独立採算制が重視されることとなる。研究業績や教育関係の職につくことでの返還の免除もなくなり,延滞者には,10%の延滞金も課されるようになった。
 一番の疑問は,奨学金制度を半民間のような組織に本当に任せてよかったのかということだ。ただでさえ,日本の大学の授業料の高さは世界一クラスであるのに・・・

 最後に,平成19年度(2007年度)以降に採用された奨学生に適用される「利率見直し制度」だ。5年ごとに市場金利の上下変動に基づき,奨学金の利率が変動してしまう制度だ。下がればラッキーだが,上がる可能性も十分にある。
(追記)自分が該当しない制度だったので誤解していたが,「利率固定制度」と選択ができるようだ。それでも,どっちがいいか決めるのは賭けのような気もしないではない。


 基準も厳しく,採用人数も少なかったのかもしれないが,全員が無利子で奨学金を借りられた時代はとっくの昔に終わっている。(しかし,大学進学率も今ほどはないだろう。)正当な理由があれば,返還が猶予(その期間は無利息)され,利子も金融機関に比べれば低い。(あくまで猶予であり,免除は本人死亡の場合しかない。)しかし,卒業後の就職も十分に保障されず,賃金も下がりつつある今,利子つきで返還するのはなかなか困難ではないだろうか。
 奨学金を「奨学ローン」として認識し,ご利用は計画的にしていくことは大切だろう。金融機関で教育ローンを借りるよりはましだが,本当に必要なのか熟慮してから借りる必要があるだろう。無利子の1種に採用されれば,利子が上乗せされない話は別かもしれない。第二種でも3月中旬に全学を一括返上すれば,利子はつかないらしいが,それはほぼ不可能だろう。

 他の奨学金の問題点に採用基準が親の年収と本人の成績(しかも進学前の学校でのもので,進学後の成績は考慮されていない。継続願で自己申告する程度)という状態では,真に奨学金を必要としている人を十分に判断できない可能性も高い。
 また,本当にお金が必要になる入学時や前期の授業料納入時には奨学金は支給されず,5月中旬になってからまとめて支給される。それまでは何らかの形で資金調達を奨学金以外でしなければならない。もちろん入学前から奨学金を貸与するわけにもいかないのは分かる。

 色々と教育問題が話題になり,教育改革が叫ばれている。
 しかしながら,奨学金に対する話題はあまり触れられていない。高等教育や後期中等教育を充実させるために,少しでもかつての形に近い奨学金制度に戻すことが必要ではないだろうか。借りるのが不安になるような奨学金制度は好ましくないのではなかろうか。しかも,国立大学も2004年から法人化され,学費の値下げはそう容易にはできなくなっている。今後,奨学金の貸与を受ける側にとっていい方向へ行かないかなと思う。

(No.33) 暗川

2008年11月27日 15時00分10秒 | 現在の中の過去
 沖永良部島は珊瑚礁でできている島であり,川が少ない。川も地上に現れるのではなく,地下を流れている場合が多い。
 そんな沖永良部島では,上下水道が普及する前までは,島の重要な飲用水源となっていたのが,暗川であり,集落の立地にも影響を与えていた。
 暗川は,鍾乳洞の中を流れる川のことで,「くらごう」と読む。段丘間の急斜面から湧水している。暗川は,住民の生活の場であったため,島の文化史をよく示すものとして保存する動きがある。
 暗川の中でも県指定の天然記念物で知名町の文化財にも指定されている暗川に住吉の暗川がある。
住吉の暗川を上から見た写真。


(2008年3月21日撮影)

 上から見ただけではここに暗川があることは,よく分からない。
 階段を降りて入り口の方へ。


(2008年3月21日撮影)

 暗い印象がするが,ここは水汲み場であり,地域の人々の交流の場であった。水汲みにも長い階段を登らなければならない。かなりの重労働だっただろう。住民の方も水がほとんどなく,水汲みに使うこともほとんどなく,奥の方まで入ることもないと言っていた。

 場所は変わって瀬利覚の「ジッキョヌホー(瀬利覚の川)」。


(2008年3月20日撮影)

 暗川を鍾乳洞の中の川とかいう定義でとらえると,これは暗川とはいえないだろうが,地下から湧いてきた水という点では同じだ。今年6月に「平成の名水百選」に選ばれた。(写真の段階ではまだ登録されてなかった。)
 

(2008年3月20日撮影)

 県の水質検査があるために住民の方が清掃をしており,子どもが水遊びをしたり,野菜などを洗ったりという光景が見られる。かつては,体を洗っていたこともあったそうである。名水に登録されたのもこうした努力の成果だろう。


 他にも暗川はあるが,最後にあしきぶの湧水を取り上げたい。

(2008年3月21日撮影)

 祠のような場所から水が湧いている。そこから人工の川の流れを下っていくと公園になっている。


(2008年3月21日撮影)

 公園の名前が書かれている下に唄が書かれている。

 だんじゅ うとうむちゅぬ あしきぶの水は 
 めぐるうながい とまるたかど

意味
なるほど よく知られている 「あしきぶ」の水は 
「うながい(地名)」をめぐって 「たかど(地名)」まで流れている

 水稲を育てていた時代には,米作りに活用されていたようだ。
 また,古くから「ヨージゴー」として人々に崇められ,その水は先祖や神に供えられていた。
 ここで湧き出た水は伏流となり,与多川へ流れるため,余多川の源流ともいえる。


 河川の少ない沖永良部。水が得られる場所は,重要な場所となっている。

(No.32) 【遡上】 彦四郎川編

2008年11月26日 17時31分56秒 | 遡上

「【遡上】新川編 ~その1~」で彦四郎川との合流点を示した。
 今回は,新川を少し離れ,支流の彦四郎川を遡上してみたい。


(2008年11月18日撮影)

 前回の記事と同じ写真だが,新川に流れる彦四郎川。
 奥に見えるのは消防の訓練施設だ。


(2008年11月10日撮影)

 消防の訓練施設の下を流れた彦四郎川。
 かつての橋の形跡が見られる。
 この反対側からは川が地表に現れる。


(2008年11月10日撮影)

 もう少し進んで,公園の脇を通り,道路とぶつかると川はまた地下に消えてしまう。


(2008年11月10日撮影)

 地下に川が消えた場所をほぼまっすぐ行った気象台の横の道路。おそらく,こ野下を彦四郎川が流れているように思う。ガードレールは橋の跡か?


(2008年11月10日撮影)

 産業道路を越えると見える風景。
 今は歩道が広くとられている道路だが,かつてはこの道の向かって右側の脇の方に川が姿を現しており,道路わきの建物とは橋でつながっていたように思う。別の場所(宇宿のビッグⅡから人工島へ向かう道)であるが,ちょうど下の写真のような風景が見られたと思う。


(2008年11月18日撮影)

 さっきの道路をまっすぐ行くと国道225号線にぶつかる。かつて川が見えていたときも国道の下で地下化していた。その後は地下をどう流れているか分からないが,次に地表で見られる場所はここだ。


(2008年11月11日撮影)

 後に見えているのは,「二軒茶屋電停」の記事で紹介した南港踏切だ。
自分が彦四郎川の名前を知ったのもこの場所が最初だったと思う。8・6水害で氾濫して周囲に被害を及ぼした。現在は,写真のように整備されているが,かつては川が線路の下に潜っていくのが見えていたように思う。


(2008年11月11日撮影)

 さっきの写真を撮った橋の上から反対方向を見てみる。急な傾斜で丘の上の方へ向かっている。
 この上まで行くと,こんな感じになっている。


(2008年11月18日撮影)

 堰がある。この奥の風景はこれまでとはまた変わったものとなる。


(2008年11月15日撮影)

 さっきの道はあれ以上進むことはできないが,紫原の上からその後の彦四郎川の流れを見ることができる。奥に見える家が前の写真を撮った南新町だ。
 地形図でも「市街地」として分類されている紫原にもまだこのような原野?が残っている。ちょうど写真の下でまたどこかへつながっている。しかし,この後はどこへ行っているのか分からない。


(2008年11月15日撮影)

 彦四郎川を上から眺めた場所から紫原の中心の方へ向かっていく。
 この場所はかつて工事をしていたが,そのときの案内板に彦四郎川改良工事のように記されていた。この下を彦四郎川が流れているのかもしれない。


(2008年11月15日撮影)

 写真左に見える公園がむらさき公園だ。
 先ほどの工事はこの辺りまで続いていた。
 かつてよく遊んだ公園であるが,まさかこの下に川があるとは考えたこともなかった。(実際あるのかも分からないが・・・)
 余談ではあるが,写真左の家があった場所はかつて生協があった。このせまい場所によく建てたなと今になって思う。(現在は桜並木通り沿いへ移転。)

 ここまで書いた後に「彦四郎川」で検索してみると,鹿児島大学理学部紀要の岩松嘩教授の1976年の論文「シラス崩災の一型式-1976年6月梅雨前線豪雨による鹿児島市紫原台地周縁部の崖崩れについて-」にあたった。その論文には「彦四郎谷の中程にダムを作り,その上流部にシラスを埋め立てて宅地を造成した。現在は1974年当時より人家が建てこみ,空地はほとんどない。」と記されている。そうなると,先ほどの2枚の写真の場所はもともと谷であった場所で,作られたダムより上流部がシラスによって埋め立てられた場所ということになる。


 小さな川ではあるが,それだけに人の手を加えることも容易であり,変化は大きい川だ。

(No.31) 祝日

2008年11月25日 05時28分39秒 | 現在の中の過去
 昨日は祝日だったが,大学では授業が行われた。今年度後期に入ってから月曜日の祝日が3回あったが,すべて休みではなく,授業が行われた。教養科目では,月曜日に授業をした代わりに,授業数が確保できている水曜日や木曜日の授業を休講にしていたが,自分の学部の専門科目では,そのような措置は行われなかった。つまり,教養科目のみが休講にされても,専門科目があれば,その日は休日にはならない。
 このような背景もあり,祝日の意味と言うものが薄れているように感じる。祝日がどのような目的で制定されていたのか制定時にさかのぼって考えてみたい。


 まず,祝日がどんな日であるかだが,「祝日法第1条」には,次のように記されている。

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第一条  自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。
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 今までこんな気持ちで祝日を迎えてきたことがあっただろうか?

 この条文を読んで初めて知った気がする。

 では,それぞれの祝日がどんな意味をもっているのか見てみたい。

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(下線,斜体は作成者による。)
第二条  「国民の祝日」を次のように定める。
元日 一月一日 年のはじめを祝う。
成人の日 一月の第二月曜日 おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。
春分の日 春分日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。
昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
憲法記念日 五月三日 日本国憲法 の施行を記念し、国の成長を期する。
みどりの日 五月四日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
海の日 七月の第三月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。
敬老の日 九月の第三月曜日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。
秋分の日 秋分日 祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ。
体育の日 十月の第二月曜日 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。
文化の日 十一月三日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。
勤労感謝の日 十一月二十三日 勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。
天皇誕生日 十二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。
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 名前から何となく,どんな日なのかは予想がついたが,厳密な意味を知ったのはこの「祝日法」の条文を読んだ時だった。
 「春分の日」「秋分の日」は,昼と夜の長さが一緒ぐらいの認識しかなかった。亡くなった人を(特に)偲ぶのは「秋分の日」だからというよりも,「彼岸だから」だった。
 この数年で,名称が変わった祝日もある。斜体表記になっている祝日だ。「みどりの日」は2006年まで4月29日であり,それは昭和天皇の誕生日であり,昭和天皇がみどりを愛されていたことに由来すると聞いていた。一方,現在(2007年から)のみどりの日である5月4日は,以前は「国民の休日」であった。しかし,これは「国民の休日」という祝日が5月4日と定められていたのではなく,祝日法第三条3項に「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(日曜日にあたる日及び前項に規定する休日にあたる日を除く。)は、休日とする。 」(注:この条文は旧条文であり2006年まで適用。2007年からは「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。 」)という規定に基づくものであり,5月4日が祝日に挟まれていたことによるものだった。
  
 一方,下線を付した祝日は,ハッピーマンデー制度により,毎年違う日が祝日となっている。では,この制度が導入されるまでの日付がぱっと出てくるだろうか?




成人の日(1999年まで) 1月15日
 古くは正月に元服が行われたことや、1月15日は松の内でめでたいということから。

海の日(2002年まで) 7月20日
 明治天皇が東北地方の巡幸を終えられた,明治9年7月16日、 明治丸で青森港を出港し,横浜港に安着した日であることから。そのことからもともと海の記念日であったが,1996年より祝日となった。

敬老の日(2002年まで) 9月15日
 (説1)聖徳太子が四天王寺を建てた際に,敬田院・非田院・施薬院・寮病院を設置し,9月15日に設立された非田院が現在の老人ホームの役割を担っていたことに由来。(説2)ある父親想いの息子が,老いた父にお酒を飲ませたいと願っていたらお酒が沸いて出てきたという話を耳にした元正天皇が717年に養老の滝へ行幸し,年号を「養老」に改元したことに由来 など諸説あり

体育の日(1999年まで) 10月10日
 東京オリンピックの開会式の日。晴れの特異日だからというのには疑いの説もある。


 月曜日に移しても,そこまで祝日の意が損ねられないと考えられている祝日でもそれなりの由来があったようだ。



 今年の5月のGW,6日も祝日であったが,それまでは,祝日でなかったことから本当に祝日なのかと確認をしたことを思い出した。

ちなみに今年の5月は・・・
3日(土) 憲法記念の日
4日(日) みどりの日
5日(月) こどもの日
6日(火) 振り替え休日

 以前ならば,日曜日に祝日が来て,月曜日も祝日なので,一日休みを損した気分になっていた。それが6日も休みというのは嬉しくもあったが,抵抗があった。

 その理由も法改正であったようだ。
 祝日法第三条第2項は,
【2006年まで】
2 「国民の祝日」が日曜日にあたるときは、その翌日を休日とする。
【2007年から】
2「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。
となっている。
 2008年5月の場合,4日が日曜日なので,同じく祝日の月曜日を飛ばして,火曜日が振り替え休日になったようだ。


 法律の改正により,より長くまとめて休日を取ることが可能になった。1日ではできることは少ないが,2日以上になるとできることもたくさんある。そうした人にはありがたいだろう。
 しかし,現実には祝日に休めない職業の人もいる。

 冒頭で出した大学も,月曜日の授業が大幅に減ることによって,祝日でも授業を行うことになった。(授業回数15回確保の厳格化が行われたことにもよる。)

 そもそも医療など祝日が関係がない職種もある。

 祝日の意味が薄れているのはもちろんとして,職種によってはかえって休みを取りづらくなってしまったのではないかと思う。

(No.30) 【七つの福の旅・その2】 ~真の幸せ~

2008年11月24日 00時00分00秒 | 旅・散策の足跡

霧島1周で使ったこの切符。

(2008年11月23日撮影)

 昨日だけでも十分元はとっているし,行けそうな場所にはほとんど行ってしまった。唯一通過すらしていない喜入は近いのでわざわざ列車で行こうとも思えなかった。吉松まで切符利用で行けるので,そこから出ている観光列車に乗ってみることにした。1回分にしようと思ったが,やたら長くなりそうなので,何回かに分けて書くことにした。同時に前回の「霧島1周」をシリーズの「その1」となるように名前を付け加えた。


 「甲冑魚」を出た後は,前日とは違い,国分で降りてみた。
 改札口が透明のドアのみで,せまい通路がなく,開放的な印象を受けた。また,霧島市によって駅入り口と反対側の開発のためにエレベータつきの自由通路が作られていた。駅のリニュアルは,結構最近だったようだ。両隣駅は,外装のみの改装で,中身は古いままだったが,ここは古さを感じなかったので,完全に変わっていたのだろう。


(2007年11月13日撮影)


 かつてはこの駅から大隅線が出ていて,その跡が,写真奥の右側の草が生えているところのようだ。時間がなかったので適当に撮った写真をこの記事を各段階になって,Webの情報を探しながら見直して気付いた。
 大隅線については最近までほとんど知らなかったので,根占あたりまであったと思っていて,鹿屋から高山,串良を経て志布志に行っていたなんて考えてもいなかった。自分にとって,大隅半島は意外と近くて遠い場所なので,あんまりよく知らない。「おおすみ」変換したらまず「大隈」が出て来ることが多いので誤変換をよく見かける。パソコンに附属の乗り換え案内すら間違っていた。
 駅を出た後は,東西自由通路を通って,隼人駅へ。
 距離感覚が分からず,あと少しで駅につくのにまだまだ先にあるように思っていた。
 結果的には,時間的に余裕を持って列車に乗り込めた。

 吉松駅に着くと3分後ぐらいに次の列車が発車した。
 その間に階段を上り下りして,反対ホームへ止まっている列車へ。


(2007年11月13日撮影)

 自由席6席以外は全て指定席という座席構成。途中の3駅には5分程度の駅見学時間があり,駅以外の場所でも停車することがあるという観光気分ではなく,ただの移動手段として使う人にとってはかなり迷惑な仕組みだ。観光気分の人にとっては,何の苦痛でもなく,むしろ楽しみだが・・・乗客のほとんどが写真を撮っていたし・・・
 沿線の風景と駅は往復それぞれで見ているが,紹介は往路でまとめてする。



 最初の停車駅がこの駅。

(2007年11月13日撮影)

 「幸」で「さき」はなかなか読みがたい。鹿児島県から熊本県人吉市に向かっているので,その両県かと思ったら,宮崎県。(高速もそうだけど)
 そんな意外なことが多い場所。イラストはおそらく温泉と思われる。
 駅の周りに温泉があるのかと思うが・・・


(2007年11月13日撮影)

 駅前はこんな感じの場所。
 
 前の道路は,県道や市道ではなく,国道447号線。
 宮崎県のえびの市,鹿児島県伊佐市(大口:2008年11月合併)を経て,鹿児島県出水市へ至る道路だ。
 しかし,地図を見てみると,ここから鹿児島県へ向かう部分は,車線も少なく,曲がりくねった山道のようだ。
 この駅にいる間に見た車の数は0。
 
 真幸の小学校・中学校は駅周辺ではなく,京町温泉のあたりにある。
 この西内竪(にしうちたて)の駅周辺にも,人家があったようだが,人家がなくなってしまったきっかけの出来事の跡がこれだ。


(2007年11月13日撮影)

 1972年7月6日午後1時45分頃に発生した山津波だ。この岩塊はその山津波で流れ出たものと書かれている。重さは8t。駅構内は土砂で埋め尽くされてしまったそうだ。

 このような出来事に加え,吉松駅との間にある山神第二トンネルでは,約50人の人が轢死してしまった事故が起こっている。

 このような暗い出来事が起こっている駅だが,名前の通り,幸せに関連したものがある。


(2008年9月10日撮影:この写真のみ別の日に撮影)

 幸せの鐘がホームにある。


(2007年11月13日撮影)

 幸せの度合いに応じて鐘をたたく回数が異なる。
 自分もたたいたが,何回たたいてしまったか忘れてしまった。
 

(2007年11月13日撮影)

 駅舎の中。観光を意識してか,時刻表・運賃表も古そうな印象を与える表記になっている。(この区間の他の2駅も)1日上下が5便ずつ。かなり少ないが,18切符のみで旅行をするにはほぼ確実に通らなければならない。(日豊線経由の場合,大分と宮崎の県境がもっときつい。1日上下が3本ずつのみ。)24時間表記に慣れているせいか,午前午後は違和感がある。



(2007年11月13日撮影)

 ホームと駅舎との間。石庭にきれいに目が入れられている。地域の方々による販売が行われることもあるようだ。


(2007年11月13日撮影)

 田の神のような置物の後には絵馬がかけられている。中央上の大きな絵馬には「この駅には真の幸せがあるという目出度いなめでたいな 真幸の駅長」と書かれている。
 近くに人家はなくとも,地域の暖かさを感じる場所だ。


(2007年11月13日撮影)

 駅を出てしばらくして,モニターに映し出された列車前方の風景。
 線路がいくつにも分岐している。
 スイッチバック用の線路だ。
 仕組みは分かっているようないないような不思議な感覚だ。


(2007年11月13日撮影)

 再び,駅の方へ戻ってきて,駅を下に見ながら上の方へ登って行く。

 しばらくすると,駅でもないところに列車がとまった。
 看板があり,次のような風景が見える。


(2007年11月13日撮影)

 霧島連山をバックとして,加久藤カルデラ内のえびの市中心部を眺められる。
 看板には日本一の風景と書かれている日本三大車窓の一つだ。
 日本の三本の指に入るものがこんなに身近な場所にあったのが意外だ。
 えびの市はこの日の昨日。次の駅を目指して,走り回った場所だ。
 高いところから見るとこんなにきれいだったんだと感じた。えびのはえびの高原のイメージしかなく,えびの市街はこれまであまり知らなかった。

 さらに進むと,また列車が止まった。
 今回は運転手のサービスだったようだ。


(2007年11月13日撮影)

 トンネルの入り口の上に文字が彫られている。列車の名前の由来になった人物のどちらかの言葉だったはずだ。

 このトンネルを抜けしばらくすると,次の駅に着く。
(その3へ続く)

(No.29) 小便小僧

2008年11月23日 23時56分56秒 | 現在の中の過去
【注意】特に後半部は食事中および前後の閲覧を避けることを勧めます。


 市民文化ホール横の文化公園に小便小僧がいる。

(2008年4月30日撮影)

 よく見かけているような気もするが,見られる場所はそんなに多くない気がする。
 性犯罪の増加や児童ポルノに関係した法律の制定などもあって,裸体観もここ十年間で変化してきているように思う。
 法律の問題ではないが,男の子兄弟の入浴を撮った場面において性器が見えていた映像などが放送倫理・番組向上機構が問題のある例として指摘していたようだ。 法案が出された時に,イラストなど架空の人物に対しても規制する案も出されていたようだ。それを受けてかどうか分からないが,アニメの((=;ェ;=))でも声優交代後は,入浴とか裸の場面をおさえているらしいし。以前のSかちゃんの家のお風呂に出てきて,微笑んでいるDえもんとN太の場面はもう見られないかもしれない。
 ここまで来ると,小便小僧もどうなんだろうと思ってくるが,今のところ問題はないからこそ各地で生き残っているのだろう。

 このような変化が起こっている中でも,鳥取県境港市には,こんな小便小僧がいる。


(2008年9月9日撮影)

 2008年の3月ぐらいに作られたものだったかと思う。時間に追われていたこともあり,ここに近くまで寄ることはなかったが,遠景の写真があったので拡大してみた。右上の台の上にいるのが例の小便小僧だ。ガイドによると幼少期の鬼太郎らしい。

 さて,小便小僧であれば,池におしっこをしている。しかし,人間の場合そうもいかない。立ち小便をしている人をよく見かけるが,法解釈は専門ではないので,断言はできないが,軽犯罪法次の条文に抵触しそうだ。
「第一条  左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。
二十六  街路又は公園その他公衆の集合する場所で、たんつばを吐き、又は大小便をし、若しくはこれをさせた者」
 そうした場合を除けば,男子が立小便をするのは,トイレの小便器に対してというのがほとんどだろう。小便器の形態は多様であり,時代を感じさせるものもある。現在は新旧の便器が混合しているが,以下では,よく見かけるなと思う小便器の変化を取り上げてみたい。なお,この小便器の変遷を見てみようという考えは,今年(2008年)の3月,ある実習にて1つ下の男子学生とトイレで一緒になったときに,「このタイプの便器,めずらしいよね。」という自分の言葉に対して,彼が「分布とか調べてみたら面白いかも」と返してきたことによる。もちろん,ここでは分布といった大きなことは書けない。ただ,単にその変化を主観的に見ていくだけになるだろう。(もちろん新旧の判断もほとんどが推定。)

【再注意】以下,小便器の写真が出てきます。倫理に反する画像はありませんが,食事中やその前後の方や見たくない方はこれ以下を閲覧しないことを勧めます。















  
(撮影日:右から 2008.11.14 K院駅 / 2008.11.4 T山駅 / 2008.10.26 郡元公園)

 いずれも朝顔と呼ばれる便器だが,水の流し方が異なる。左は水洗化されていないため,水は流れない。(裏に高校があり,利用するが多い有人駅のK駅のトイレだが・・・)中央は,ボタンを押すことで水が流れる。このタイプに便器には本来便器と便器の間に仕切りがつくがここにはない。(路線内ではかなりの利用者があるT山駅のものだが・・・)右端のものはかなり珍しい。水道のひねる栓がついている。水量を調節できるが,止めるのも自分でしなければならない。一方ボタンは,一度押すとしばらくすれば勝手に水が止まる。しかし,誰が触ったかわからないものを触るのにはいくらその後で手を洗うとはいえ,抵抗がある人が多い。
 なお,先ほど出てきた最近あまり見ないといった便器は,この真ん中のタイプ。意識的に見てみると,まだ結構残っている。学校の古い校舎や公衆便所など。


  
(撮影日:右から 2008.11.5 法②1F / 2008.11.4 教文6F / 2008.11.5教文1F)

 左端は便器の形は異なるが,管に押しボタンのついた,ボタンで水を流すタイプだ。しかし,中央と左端にはボタンがついていない。使用後,自分の行動によって水を流すことはできない。
 水の流し方だが,中央のものは上にタンクが見える。(タンクが壁の中にあるなど見えないタイプもある。)タンクの中に水がたまると全ての小便器に水が流れる。タンクの水は常時入れられているものと,センサーで人を感知し,人が使用した後に水を溜めるタイプがあるようだ。ここの場合,タンクの横についているのがセンサーだ。このタイプの小便器は,公共施設,学校などで見られたが,使っていない便器にも水を流すなど水の浪費をしてしまったり,使用後すぐに流せないなどのデメリットがある。そのため,現在では数は減ってきているように感じる。もともとこのタイプだったものが,改良された形跡を残しているものもある。
 右端のものは黒い部分がセンサーになっていて,人が離れると水が流れる仕組みになっている。人がいた時間によって流す水の量が変わるらしい。今は,この型の小便器が主流になってきているように感じる。とは言ってもセンサーにも欠点がある。便器の前で話をしている人がいたらセンサーが感知して何度も水が流れてしまったり,尿の量ではなく,人がいた時間だけで水の量を判断したり,掃除など必要な時にすぐに水が流せなかったりしてしまう。


  
(撮影日:右から 2008.11.5 教②講1F / 2008.11.4 中図2F / 2008.11.4 理①1F)

 便器の型も様々だ。左端と中央は便器は同じ型だが,水の流し方がボタンとセンサーで異なる。中央と右端はセンサーによる洗浄だが,いくつか違いがある。

(写真サイズが小さいので,以下に拡大したものを・・・中央のものはちょうど中間にあると思われる型)









1 センサーの黒い部分の大きさが違う。右端が小さい。


2 水を流す管が右では見えない。


3 右端は便器の渕に溝があり,水も水鉄砲のように勢いよく流れる。



といった違いがある。
右の方が新しいデザインだ。
管がなく,センサー窓は小さくというのがスマートなデザインと考えているのだろう。ここでは主にT社のものを取り上げているが,ここで取り上げていないI社のものはまた形態が異なる。T社と異なり,便器中央部がへこんでいないものも多く見られる。

 また,センサーで水を流す便器は今では,大便器にも登場しているが,かつてはなかったため,何かのドラマで女性が男装してトイレに潜んでいたが,センサーで水が流れるのに興味をもって便器に近づいたり,遠ざかったりしている行動が女性であることを暴くきっかけとなっているものがあった。このタイプの便器が普及し始めた頃,「科学の力だ」と感動した子どももいたようだ。当初は使い方が分からないので,下のような自動であることを示す表記がされていたが,最近作られたようなトイレでは見なくなった。それだけ急速に開発されていったのだろう。

(上の中央のように自動洗浄でありながら,使用後は水を流しましょうと書かれたものを使用しているものもあるが・・・)



 一時期は新しいトイレは,学校などを除いて,全部センサー洗浄になっていたように感じたが,最近はボタン型も見るようになった。あまり人が利用しないところでは電力を消費するセンサーよりもボタンの方がいいのだろう。
 トイレが汚れて改築されていくとますますデザインは統一されていき,今のように色々な種類が共存することはなくなっていくかもしれない。


 これまで取り上げてきたものと大きく異なる型を最後に2つ挙げる。


(2006年5月4日撮影)

 肥薩おれんじ鉄道牛ノ浜駅の近くのトイレ。
 筒型になっている。
 上半分がないので違和感がある。
 


(2007年11月12日撮影)

 吉松駅のトイレ。初めトイレに入ったときは,どこに小便器があるのか戸惑ったがセンサーがついていることからここだと判断した。仕切りがあるので,隣が気になることはないが,壁に向かってというのは抵抗がある。使用後離れると自動洗浄が始まるが,水が落ちてくるだけのような印象。この便器,2008年9月10日に吉松駅へ行った時には,新しい便器に取り替えられており,もう見ることはできない。


 埼玉かどこかの料理屋の駐車場のトイレが壁の前に溝があり,壁から水が流れているだけで仕切りも何もなかった。それに比べればかなりましだが・・・


 何気なく使っているトイレの便器からも見えてくるものが結構ある。

(No.28) 【遡上】 新川(鹿児島市)編 ~その1~

2008年11月22日 08時58分12秒 | 遡上
【遡上・鹿児島市新川】の記事一覧
その1その2 その3 その4



下流から遡っていこうと考えていたが,西之谷集落がちょうど工事中だったので,そちらを優先的に書いた。
 今回はせまい範囲になるが,河口付近だけを取り上げたい。


(2008年11月18日撮影)

 新川の河口。三和橋の上から撮影した。
 なぜかこの場所に来るとほっとする。
 近くに来た時は進んでここを通ろうとしているように思う。
 そんな個人的に落ち着いた気分になれる場所だ。


(2008年11月18日撮影)

 三和橋の上。なかなか昔っぽい感じがするのは自分だけだろうか。

 普段はこんな静かな場所だが,2003年9月にはこんな出来事があった。











(2003年9月7日撮影)

 原因は何だったか忘れたが(おそらく台風),船が座礁してしまった。
 こんな大きな船が,この場所にあるのは違和感がある。
 そのときは大きな出来事だったが忘れてしまうのも早い。


(2008年11月18日撮影)

 川沿いを行くと,クライミングジムがある。
 さらに行くと,消防の訓練施設の下で,彦四郎川と呼ばれる小さな川と合流する。この辺りには舟が停められている。


(2008年11月18日撮影)

その少し上流に鶴ヶ崎橋と交わる。橋にはかにや貝の絵が描かれている。
その脇に鴨池小・中学校,給食センターなどがあり,対岸にはマンションが立ち並ぶ。