ひょうごの在来種保存会

会員さんも800名を越えました。活動報告を発信します。

保存会10周年記念 山根成人さん渾身の最終回 映画「よみがえりのレシピ」と山形在来作物研究会江頭先生

2013年06月18日 | 保存会通信17号





第三回 10周年記念映画と講演

 山形在来作物研究会に学ぶ

山根成人
「私自身が将来の在来種保存活動で最も敬意と期待を持っている山形在来作物研会の会長、江頭宏昌氏をお招きして、彼らの創った映画と講演会を下記の要領で催します。きっと喜んでいただけると思っておりますので是非ご参加下さい。」


●と き 7月27日(土) 9時受付開始 終了予定17時
●ところ 兵庫県立大学 姫路環境人間キャンパス (姫路市新在家本町)
●参加費 2000円 (映画のみは1000円)

昼食各自持参(別途依頼あり)

●予 定
・9:30 開会挨拶 山根 成人
・9:40 映画「甦りのレシピ」
(当会世話人ハリマスロフード協会との共催)
・11:30 挨拶 保存会10年の生みの親 保田茂 氏
       神戸大学名誉教授

・12:00 昼食
・13:00 講演 甦りのレシピと在来作物研究会の10年
       山形在来作物研究会 会長 江頭 宏昌氏

・15:30 対談 山形と兵庫 山根 成人 江頭 宏昌氏
・16:00 終了
・16:10 保存会今後運営の各地域の代表世話人の紹介
      ・摂津三田地区 小林 保
      ・但馬地区 北村 宣弘
      ・丹波篠山地区 酒井 菊代
      ・神戸淡路地区 小坂 高司
      ・ハリマ地区 田中 秀樹 池島 耕
       ・国内全般 土井 孝浩
•17:00 閉会

● 参加のお申し込みは下記へお願いします。

【注意】講師の足の都合もあります。宴会するかもしれません。昼食がかわるかもしれません・・・・・・。
いつものことですが、予定がかわるかもしれません。
修正がありましたらこのページでお伝えしますので、申込された方は、時折、チェックしてください。


ひょうごの在来種保存会

【本 部FAX 079-284-3330(これが一番確実)
E-mail : seed-yamane@giga.ocn.ne.jp

【神戸支部】sakura148@mail.goo.ne.jp

保存会通信17号(25年春)【活動報告】(2012年9月~2013年3月)

2013年06月16日 | 保存会通信17号
【活動報告】(2012年9月~2013年3月)

11月4日 

エビ芋収穫芋煮祭
今年は最悪に近い不出来。各地どこも悪かったというのが慰めみたい。
夏の焼け付くような乾きが大きな原因だったようだがーーーちょっと工夫努力も足りなかったのではと


11月7日

初めての神に感謝
姫路の護国神社の宮司(スローフードの平井さんの友人)気持ちよく受けてくれたので収穫物をお供えして神(自然)に感謝。
姫路のエビ芋、姫路ショウガ、神力米と龍力酒造の新酒、加西の大豆など供える。
来年からは23日の新嘗祭の日にということに。
護国神社を誤解しないでーーー皆さん近隣各地で身近な神社で祈りのときを持つのは無意味でないと思います。
護国神社= 右より思想――― 関係ありません。くれぐれも。
平井さん曰く護国は五穀ということでーーー。県内の神社はみな五穀豊穣祈願の神さんで。


11月10日

柳田さん宅へ。この日から10年の活動をまとめるための再訪問を始めたがその第1日目だ。
明日の篠山山の芋イベントの前日で夫婦で泊めてもらう。
美酒を頂きながら今までの話を確認する。
彼は当会の代表的なモデルでもあるし、私の最も大切な生産者の一人である。
いや生産者には止まってない活動家でもある。


11月11日

丹波山の芋を応援する会
大阪の住本君の呼びかけ、中村重男さんの男気で実現した一流シェフの料理会。
こんな心意気に感動した。詳細は別記


11月12日

鳥取のショウガ
年を感じさせない爽快な人と出会えた。
中原孝志さん(80)。
60年前に姫路から導入したのが始まりという縁に驚いた。
浜茶のも出会える。詳細池島君別記。

その後竹野海岸で昼食を用意してくれていると久保さんからの連絡。
流木を整理しそれで塩を作り地域活動にしている福田則雄さんと竹森明光さんには頭が下がる。
羽釜で炊けた飯に久々感動。
その後クワイがあるというので近くの笠浪幸壽さんを訪問したが、自家用を小さな溝に植えつけているだけだったので
増殖をお願いする。
ただこの人もマルチ百姓,自給生活に近く、すばらしい生活者だった。
但馬はすごい、すごい。


11月24日

駅前講座の最終日。4人入会


12月2日~3日

赤花そば、 井口さんとのお別れ
2日は北本夫妻と4人で赤花ソバの本田さん訪問、休業中の民宿にむりやり宿泊。
翌日もソバ談義と工場見学。

3日はイゴ芋の田野良幸さん訪問。
偶然井口さん入院と重なる。
詳細別記。


2013年1月11日

印南野学園講演 松島先生入会
25年来の知人で元播磨農業高校の池上先生と連絡とってくれ、入会してくれ地元西脇市で協力お願いする。


1月12日

大屋有機農業学校で講演。
あとの昼食会で種の話題が出て今後につながる。詳細別記。


1月21~24日

長崎、福岡の旅
私的な旅であったが長崎で岩崎さんの畑見学。
福岡で古野さんの畑見学。詳細別記。


1月26~27日

食「地の座」の市。
今年始めて展示を取りやめた。
スペースがなくなったこともある。
生産者は数人出展。大盛況でマンネリ打破の勢いだった。


2月2日

丹波若者百姓出会いの会
詳細別記。福岡と池島この会のことは何年も前から気になっていたが小沼会員が世話人の一人と聞き、初めて案内してもらった。毎年100人くらいの若い百姓が夜を徹しての集いを続けているからだ。
聞けば17年続いているというから驚きだ。
参加申し込んだところ逆に講演を頼まれることになったが実に感動的な集まりで、播磨と何らかの接点ができたらいいなあと実感した。
夜冷えるのも怖いし、その日のうちに帰ることにしていたが、だんだん帰りたくなくなってくるほど不思議な魅力があった。
こんなオジンがそんな気分になるんだからね。
何故だろう、まず自由であるこは言えるなあ。


2月6日

甦りのレシピの渡辺監督と農業会館で3月9日のシンポジウムで上映する映画の打ち合わせ。
監督といってもまだ30歳ちょっと新進気鋭これからの人だ。
自ら全国をPRして奔走しているようだった。


2月17~18日

引退記念イベント
岩崎政利さん船越建明さんを招いて。詳細は別に資料あり。
10年前から夏の江頭さんと三人で私のトリをやってもらおうと決めていた。
この日のためかなり労力を使ったが楽しいものだった。
参加180人余り、県外から研究者たちの参加もあり充実したものになった。
今になって気配りの足りなかったのは坂番さんと浜口さんが前日から姫路に宿泊していることを知らなかった。
多分岩手からの山田佳奈さんも前日からだろう、当日も交流会も出たのできっと姫路で泊まったことだろう。
酔って気が回ってなかったのは言い訳にならないな。反省。
初めてなので少し心配していた「かもめ食堂」船橋律ちゃんの弁当も好評を得た。
米や野菜も大半はメンバー栽培のものを使ってもらい、今後に自信をもてただろう。   
交流会の豆の蔵もいつものことだが60人近くで溢れかえったが大した不満も出なかったように思う。
参加者の皆様、手伝ってくれた皆様本当にありがとう。
翌日は田中君や牛尾さんの畑に行ってもいいと思っていたが天気も悪かったので朝食後ウチの茶の間で田中君、浜口さん合
流して昼間で喋っていた。
結構中身のある時間で却ってよかったかも。


3月3日

名古屋で
小用で東京に行っていた帰りに、先日の講演会に参加してくれていた金ごまの亀山さんと愛知在来種保存会設立に向けて活動を始めた高木さんとゆっくり話しようということで名古屋駅で会う。
高木さんは農業畑一筋で私なんかよりすべてに優れた人物だった。。
JA営農部で長い経験を持ち、名刺には23億売る直売所「あぐりタウン・元気の郷」のフードクリエーター、日本野菜ソムリエ協会講師、岐阜県立国際園芸アカデミー非常勤講師、調理師など多彩である。
裏面にも「種工房」とかコンサルタント有限会社「いちゆう」代表取締役とか。
話はすぐに核心に入り、自分の今までの人生を打ち明け、今からの為の現在の心境を話してくれたので、私のほうも同じような気持ちになっていた。
人の心をつかむ訓練ができているというか天性のものか「仕事の出来る男」だなと感心した。
種を扱って収入を求めるなら種屋をやればいいが、私としてはいつもの調子で
「アンタ、もう十分儲けてきているし、今後も講師料だけでもかなりあるようやから、もうお金儲けはやめてむしろ持ち出しになる仕事した方が豊かになりまっせ」と提案。
「ここですっきりふっきれました」ということで決着。
今後に向けては何の問題もなさそう。
立派な仲間ができたと実感できた1時間だった。


3月9日

食の研究会
甦りのレシピ上映と奥村彪生氏 今回は自分の提案も通り充実した内容を期待していたが、それ以上の成果があったように思う。映画は夏に再度姫路でやることになっているが、十分期待できる。
結局は江頭さんプロディースだが、それもとってもよかった。
彼もそれなりに絵になっていたし、学者的な硬さもなく自然体での語りが全体のレベルに一役買っていたように感じられた。
それにしても渡辺監督は若いのにうまくまとめているなあと感心。
今後我々の活動に教材としてとても役に立つことは間違いない、ありがとう。

奥村先生は今年の一月にそ早朝のNHKラジオ番組を夢うつつの中で聞いていたが、とてもいい話だったので、彼のことを思い出し、今日のイベントに呼んでくれるように頼んだ。
民俗学と伝統的な食の世界を自由に話している世界は他にはあまりない。
種のことも含め、我々現代人の今一番の問題は「どう生きたらいいのか、どこに向かって進んだらいいのか」であり、それはどこから生まれたかという基礎的な精神生活を失っているからだと思う。
根無し草だからどこに飛んでいくかが分からない。
単なる経済成長しただけ、科学研究での成果、あらゆるテクノロジーなどすべてがそのこと単体だから、行き先が分からないままなのだ。
そして誰も気づかず走り続けている。

伝統的な食と文化、民族の成り立ちを学び、そこに精神の基礎を置く。
また動物的にそのことに気づいているから歴史、先祖、存在の真実などの学びに目が行き始めたのだろう。
奥村彪生氏はその意味で日本でこの分野の第一人者であろう。
というより他にいない。
経歴自体は一流でないのと結構楽しみながらの生活だから学ぶものも軽い気持ちで受けてしまっているきらいがあるが、早急に学問の総合的な基礎にすえつけねばならないだろう。
文学、社会学、哲学、理学、工学、建築学、栄養学、環境学、すべてにおいてこの歴史を学んでおく必要があるだろう。
後の交流会にも付き合ってくれたが75歳、そう何時までもというわけにもゆかない。
ずっとお呼びしての勉強会を続けていく場を作り出そう。

保存会通信17号(25年春)九州旅。岩崎、古野 保存会世話人代表 山根 成人

2013年06月11日 | 保存会通信17号
2013年1月21日~九州旅。岩崎、古野
保存会世話人代表 山根 成人

久しぶりに長崎旅行だったが、とにかく岩崎さんとこに最初に寄せてもらうことにした。
武雄温泉からレンタカーを借り、昼前には待ち合わせの展望台に着いた。
早速畑に向かう。

途中びっくりしたのは畑の土。
真っ赤といえるほどの赤土でテニスコートで時々見られるようなどぎつい色だった。
後で聞いたらこれは客土して入れたのだと言う。
「その土で作ったものは高く売れるとか言うてますよ」てなこと。

畑は3箇所見せてもらったが、1月末というのにどの畑もまだまだぎっしり元気な野菜が生きていた。
これをどうやって売り切るのだろうかと人事ながら気になった。
それにしても彼の説明を聞いているとこちらまで楽しくなるほど全く曇りがない。

「野菜の種はかわいい」と彼は言うが、それから育ち、また次の種を育む野菜たちにも同じようなまなざしで付き合っている。
一つ一つ入手の経路とそのルーツを語る姿は楽しくて仕様がないくらい生き生きとしている。
ダイコン、カブ、ブロッコリー。
2つ目には人参、水菜、ネギ、キャベツなんかがいづれも200メートルくらいありそうな長い畝に作られている。
前に来たときはこの2番目の畑であることはおぼろげながら記憶に残っていた。

100軒余りの消費者に配送していくだけでも大変な作業。
勿論作付け面積から言えば他にも販売先があるだろう。
「何人かに手伝ってはもらいますがね」

家族は奥さんとお母さんくらいだから収穫はほとんど出来ないだろう。
それに講演、集会、採種と保存、「ようやるなあ」としかいえないが、楽しそうな姿を見ているとそんな心配は無用だ。

耕作面積は3町歩、最後の畑は親戚に頼まれたと言うていたが、その奥には小さな休憩小屋も作り、中にはプロジェクターまで用意されていたから、ここにも見学者が来るのだろう。

作物の性質と味も一つ一つ克明に説明する姿からは実際に栽培し、食べているということが伝わってくるから聞くものを納得させ
る力がみなぎっている。
おろしダイコンにはコレだとか、カブの美味さではコレが一番とかすべてに実際に体験したものが言葉になっているところがすごいと思った。


昼を近くの食堂で済ませ、茶を飲みながら1時間余り喋っていたが飽きることがない。
めったに会うこともないが何のわだかまりもない会話が弾む「同胞なんだなあ」と感じあえる仲間であることを実感。
幸せなひと時を作ってもらった。


2日目は平戸へ、
長崎よりは勿論鄙びているがそれなりの歴史がある町で、古い商店街は味があった。

店は閉められていたがまだ現役だろうと思わせる種屋さんの立派な看板を見て思わずシャッターを押してしまった。
三浦按針の住んだ家が品のある喫茶処としていかされていたのも印象的。

観光は一応終わったのだが、
「母さん、ワシ古野さんに会いたいんやけどなあ、電話して、もし具合が悪いか、歓迎してくれ
ないようやったらこのまま帰る。もし歓迎してくれたら博多でもう一泊してもええか? ええやろ?」
「ええでえ電話してみたら」
長い間顔は合わせてないし、声も10年くらいは聞いてない。
どういうかちょっと分からなかったがとにかく電話。

運良く奥さん(久美子さん)が電話に出た
「ああ古野さん。姫路の山根やけど、久しぶりです」
「やあーー山根さん、お久しぶりです」
もうこの声のトーンでよかったと確信できた。
「長崎へ女房と旅してたんやけど、どうもあんたらに会いたくなってなあ、急に電話したんやけど」
「まあ懐かしい、寄ってください、今どこですか」
「着くのが遅くなると思うのですがね、今武雄温泉4時ごろになるかも。それにそっちの都合もあるやろし」
「いいですよとにかく来て下さい」

亭主の返事も聞かずにええんかいなと思うたが
「今日韓国から二組来ていて若い研修生ともう一組は今田んぼで電気柵の説明してるから夜一緒に食べましょうよ」
と言う。
「そんならお言葉に甘えまっせ、着いたら電話しますわ」

こんな調子で気分よく訪問できることになり、桂川駅まで久美子さんが迎えにきてくれた。
「隆男さんは現場で研修中だからもう少し遅くなりますけど、私が畑の案内させてもらいますよ」
この親密感はなんだろう。

小雨まじりの夕闇の中の畑の見学、
ここは岩崎さんと違って野菜類が殆ど収穫を終え、もう春の準備が感じられる様子だった。
広い畑の中、500メートルくらい先に3人の人影がある
「あれダンナか?」
「そう、現場で指導してるのよ」
まさにくれかけようとしている圃場の一角で話し合ってる農民3人の姿は何ともいえぬ情感は美しい絵でもあった。

それにしてもこの一箇所で6~7ヘクタールがかたまってある。
ここもここもと殆どが古野の圃場。
頼まれるというより貸してくれと頼み込んだというからすごい。

「ここは電気柵してるでしょう。米をやる田んぼは全部電気柵してるからよく分かるでしょ」
一番広い圃場から少しはなれたところではレンコンまで植えている。
まだ真っ暗になってないので少し離れた畑も案内するといって里山の裏側に回った。
「ここは私の郷のほうでね。ここは田圃だけ、後何もやらない」
という小川沿いからさっきの里山に向かう。

途中、古野さんが始めて就農したときの1年間堆肥つくりだけに費やしたという畑―――やはり思い出の詰まった地なのだろう。
地にはいつくばって草と土に命をかけてきた男のスタート地点だなあと我がことのような感慨をおぼえた。

終わったときもう闇になっていた。
しばらくしてダンナが帰ってきた。

「ヨー済まんな。前触れもなしに」
「よう来てくれてホント嬉しいね、今日はにぎやかだから一緒に飲もうと思ってね、ちょうどいい」
この挨拶で長い間会ってない空白は完全になくなった。

若い研修生が4人、畑にいたのが3人、7人の韓国人とにぎやかに楽しい晩餐会になった。
久美子さんのキムチつくりの先生という女性のキムチはあっさりとしていて今まで初めて味わったことのないものだった。
特に水キムチはうまかった。

「この酒飲んでくれ、ウチの米で作ったものや」
「へーーそれはよばれんとあかんなあ」
無農薬ヒノヒカリ、いわゆる飯米で作った酒「一鳥万宝」
カモの働きで出来た無農薬の純米種,有機米というのはザラにはない。
まさに宝物、少しある酸味が甘く感じられる女性好みの酒かなと思いつつ、こんな酒がここで飲める幸せを感じながら盃を重ねた。
国宝級とかいう「韓国の秘蔵の焼酎も取り出して宴は盛り上がった。

「山根さん有機農業やっててよかったですねえ」同感。
当時はよかった。

最高の旅ができた三日間、生きていることに感謝できた。ありがとう。

保存会通信17号(25年春)在来種と土の関係  保存会会員 西山 雄太

2013年06月10日 | 保存会通信17号
在来種と土の関係
              保存会会員 西山 雄太

「種採りの際に、どういう土の状態を作っていけば良いのか?」
これは悩ましいテーマです。

種採りの技術書はあっても、良い種をとるための土の状態については、ほとんど記載はありません。
在来種も種だけで、その味や形ができてきた訳ではなく、その地方の風土(気候や環境、土)が育んできたものです。
その種の個性を残していくためには、昔からその種を育ててきた人と同じような土づくりも一緒にしなければ、本来の個性を引き出すのは難しいのではないでしょうか。

種採りと土の状態について、先日の講演会の後の懇親会で、岩崎政利さんから話を伺っていると、
「関東の土は耕土が深くて羨ましい、うちは30センチほどしかないから」という話がありました。
岩崎さんの畑は、種採りに向いた万能で理想的な土なんだろうと、漠然と思っていましたが、やはり合わないものもある個性のある土だという事でした。
岩崎さんはその環境の中で、合う作物を育て、より本来の特性を持った状態を残されています。
在来種も、それを育む土も、良し悪しの2択で判断することはできず、その個性や特性を、発揮させる環境を用意することが、大切であると改めて気付きました。

その種に合う土、そこに普遍的な答えはなく、元々の土の状態、種採りをしてきた方の土づくりの方法など、様々な要因を組み合わせてできる個性の上に、成り立っているようです。
自分の育てる土や環境を知って、種の個性を育める土の状態をつくっていくことが、これからのテーマの一つです。

 

保存会通信17号(25年春)生姜の歴史深い「瑞穂生姜」の里〈鳥取県気高町〉   保存会世話人 池島 耕

2013年06月09日 | 保存会通信17号
生姜の歴史深い「瑞穂生姜」の里〈鳥取県気高町〉
  保存会世話人 池島 耕

NHK番組の特集で知った、鳥取の「瑞穂しょうが」。
同じく産地として目指している姫路から、鳥取県気高町に中原孝志さん(80)を訪ねました。



「まずは畑を」と、お話しを聞く前に収穫まっただ中の生姜畑を見学したのですが、やはりこちらも播磨と同じく夏の日照りと乾きの影響からか、見た目にも株が小さい様子。
中原さんの第一声も「今年は…」と寂しそうな感じでした。




そんなことも忘れるかのような事実が!
60年前、中原さんが気高町を生姜の産地に、と決め、種しょうがを買いに行ったのが何と「姫路の妻鹿」。
やはり当時播磨でも浜手を中心に生姜の栽培が盛んだったことがうかがえます。
残念ながら、当時持ち帰った「姫路」種は現在残っていなかったのですが、思いも知れぬ縁に一同歓喜。

今回は主に産地としての歴史や保存方法についてお聞きしました。
気高町では60年間も系統選抜してきた経緯もあり、町内には17もの横穴(!)が掘られ、各家々で生姜を保管されていました。
中でも中原さんの種保存は、穴の奥に生姜を並べ、白まさ土を上からかけて埋めておくという独自の方法でした。
その影響からか、生姜も保管中に白く美しくなるのだとか。



「保管中も息をしとるでな」
と、種生姜をやさしく扱う眼差しには感動を覚えました。
保存用のまさ土も、病気さえでなければそのまま穴の中で8年はもつそうです。



鳥取はもともと生姜の歴史が深く、江戸時代の文献に記録があったり、戦国時代に地元の大名亀井茲矩が南蛮貿易で小生姜を手に入れた言い伝えが残っていたりと、地元の方々の生姜への思いも強い。
生姜以外にも「はま茶」という豆科植物のお茶も生産され、“農業立国” 気高町の農への貴高さがうかがえました。

保存会通信17号(25年春)大屋町で種の話し  保存会世話人代表 山根成人

2013年06月08日 | 保存会通信17号
大屋町で種の話し
     保存会世話人代表 山根成人

2013年1月13日 
昨年から保田先生主催の農業講座「大屋有機農業学校」で種の話。

この日は話が終わってから昼食会があり、福田さん、久保さん、主催側の和田さん、上垣さんなどと歓談が会ったが、その中身
がとても面白かった。

「大屋町には今のところ全く在来種が登録されてないのです、但馬は兵庫の種の宝庫なのに残念なんです。必ずあります、どうか心に留めておいて下さい」と講演中にお願いしていた。

そんな中「コブタカナ」と「テントウ」という名が出てきた。

テントウというのは数年前に豊岡の田中実さんからちょっと聞いていただけだが、久保さんが「テントウなんてどこにでもあるからなあーあ、そんなんわざわざ言うなんて考えられんわ」

ちょっと私の早合点で特別採種されてきた在来作物と考えていたが「とうがらし」の意味で使われてきたような節があることに気づいた。

「そんなら何でテントウなんていうんやろなあ」
「そりゃ知らんけど、上向いて出来るからちがうの?ピーマンやったら下向いてるやろ」
なるほどそんならタカのツメことなんだろうか。
「種は採り続けているんやな」
「そりゃあんなもの買う人は少ないでえ、使うために置いてたらそれが種になるんやから」
言われてみればその通り。タカのツメを採ってるだけなのか。これも早合点?
田中さんに聞いたときもう少し大きな姿が私の記憶を作っている。
ここは再度調べてみる必要がある夏の仕事にしよう。テントウと呼ぶ唐辛子はかなりあちこちで作られているとのこと。

「他に何か作ってるものがないか?」
「急に言われてもなあ。コブタカナもあるけど、あんなもの特に取り立てて言うほどでもないないだろう」
「取り立てて言うほどでなくてもええんや、要するに種を買わずに作り続けている作物ということや。」
「コブタカナは面白いなあ、長崎のコブタカナはスローフードの世界遺産みたいなものに認定されたでえ。
そしたら3年ほど前に中町(現:多可町中区)のチヨちゃんというおばあちゃんが「こぶ菜」というて彼女が嫁に来たとき、おばあちゃんが若いころに既にあったというから、ゆうに100年は超えている。
名前もタカナとは言わずコブナーーーだから食べ方も漬物とは限らない。
若い葉のおひたし、揚げとの煮物。炒め物など「菜っ葉」として立派に通用している。
ハリマで同じものが出たから『播州コブナ』と名づけたんや、そんならここではコブタカナと呼んでいる。
多分同じようなものだと思うが、これを調査してくれへんか、詳しく。
とにかく作っておられる人の名簿だけ集めてよ。必ずまた来るから」

ということで実りの多い昼食になった。やっぱり足を運ばなアカンと再実感。

それにしても和田さん上垣さんともにいい感じの人できっとこれから種の発掘に尽力してくれることが確信できた。
但馬には何時来ても手ぶらで帰ることが少ない。北村君とことも近い。
今年はまた足しげく但馬を攻めるかーーー面白いね。

  よもつきじほじれば湧き出る在来種  山根成人

保存会通信17号(25年春)【追悼】美方わさび 井口利次さんとのお別れ

2013年06月07日 | 保存会通信17号
井口利次さんとのお別れー設立時よりの強力な世話人
 保存会世話人代表 山根成人

 12月3日。
 昨日赤花ソバの本田さんのお世話になり、この日は小代区新屋の田野良幸さんを訪ね、お願いしていたイゴ芋を譲ってもらう予定だった。
 それでも途中井口さんに挨拶だけでも思い、立ち寄ったところ、田野さん夫妻がいて、井口さんはさっき豊岡病院に入院したと言う。
 家の中をごそごそしているので尋ねてみると田野さんの奥さんが井口さんの妹さんだということで、
 「何や、そんなこと教えてくれなんだからなあ、そんなご兄弟や」
 急なことだったので戸締りとか水周りとか点検していたところへ私が来たのだ。
 「骨か何かが喉に引っかかり、咽喉科にいっていたがうまくいかなかったようで、豊岡病院にまわされたようです」
 「そんならお顔だけでも見に行ってきますわ」
 「いやいや、それがかなり容態が深刻で行ってもダメです。会えませんから」
 へえー喉くらいと思ったが
 「手当てしているときに血が肺のほうにいったらしいのです。よう分からんのですがねえ。それに兄貴は血小板がもともと少なく血が止まりにくいのです。それでことが大きくなってるんです」
 「そうですか、心配やけどどうしようもありませんねえ。今日は埋めてもらってたイゴ芋をいただくつもりで来たのですがこんなことになるとはねえ」

 落ち着かない様子なので家に行って勝手に掘り起こしてきましょうかと言うたが、一緒にきてくれることになった。
 畑の隅に一株だけ置いてくれていたようで「まだ大丈夫と思うけどこっちは寒いからねえ」「大丈夫みたいですねとにかくもう一度味を確かめたいのでムリをいいました。有難うございます」ということで、またすぐに井口家に戻った。
 私は大谷の稲尾さん宅によって平井さんから頼まれていた唐辛子( 韓国在来種デファ草の生産と価格についての話をしてから帰路についた。


 それから数日して訃報は入った。
 どうも悪い予感が当たってしまった。
 葬式にも出席できずウチの仏さんの前で冥福を祈った。

 思い起こせば10年前に保存会を設立してからこんなに時間と熱意を持って応援してくれた人は他にない。
 ワサビの生き字引であるだけでなく、町長も経験し、村全体を知り尽くした人で、誰もがこの地域の第一人者と認めていた。
 自費でつくった百円道路、林道のによるワサビ田の壊滅、スキー場による河川の汚染など疲弊した集落にいつも頭を悩ませて、自ら畑ワサビに取り組みその経済性を呼びかけてもいたが、晩年は思うように行かないことも多かったようだし昨年は大雪と鹿の害で自分の畑も壊滅状態にまでやられていた。

 井口さんが我々にしてくださったことをせめて箇条書きにでもして記憶に留めて置こう。
・ 学生や仲間と訪問した際、昼夜を問わずワサビや地域の歴史と現状などの話をしてくれた。
・ 美方ワサビの熱血漢稲尾実さん紹介いただく。
・ 美方大納言復活させた奥谷光正さんを家に招き紹介いただいた。
・ 美方イゴ芋も紹介。田野弘子さん、田野良幸さん夫妻紹介いただく。
・ ケビ岡ワサビの調査に同行してくれ、宅見義久さんと交流。

 最後まで私のしつこい頼みに耳を傾けてくださった。
 何か劇的なお別れになったが保存会の象徴的な協力者であった。

 本当に有難うございました。 合掌

                     山根成人

保存会通信17号(25年春)『丹波百姓の会偵察記』  保存会会員 福岡 まさあき

2013年06月06日 | 保存会通信17号
『丹波百姓の会偵察記』 
保存会会員 福岡 まさあき


丹波百姓の会(年1回、丹波のとある寺のお堂で100人の農民が集まるというつどい。)

この文章は、その偵察記である。

姫路よりきたひがし。車で2時間進むと丹波の地に入る。
会場はお寺の敷地にある大きな木造の建物だ。確かに100人集まってもだいじょうぶだ。

周りにも畑がある。田んぼもある。やる気あふれる若者たち5、6人。
管理機ですいたり、畝を立ててたり。石灰をまいている人もいる。
こんなに大量の若者が農業をしているのを見るのも初めてだ。
「理想の農村」という絵図。
なるほど、会場のセッティングも大事だということだ。

雰囲気にのまれる。兵庫県全域から来ているらしい。
いや、車のナンバープレートを見ると県外からも来ている。
初めて来た人に、ガツンといわすのも大事なのだろう。
私たちもデモンストレーション代わりに周りで農作業をしておかないといけないのか。メモメモ。

会場に入ると、2500円の会費を払い、木を輪切りにした名札を受け取る。
名札には(例:丹波市 田中大介)のように書き込む。
ノートに名前と住所を書き込む。希望すると、来年の案内を葉書でもらえるらしい。
このあたりのノウハウはさすが何年も運営されている方たちだ。謙虚に学ばねば。

百姓の会の内容
講演会+自己紹介+食事会

講演会:今回は在来種保存会の山根さん。
自己紹介:100人なので、ひとりひとりは短くても全体では長い。
食事:ごはんや豚汁は主催の方がつくってくださっている。そして、参加者持ち寄りの料理。
食に関心の高い方たちの料理だけあって、おいしい!おいしい!!

講演会後にも、若い農家の方が熱心に質問されていた。
兵庫県には同世代のまじめな農家がたくさんいらっしゃることに心強く感じた。
参加者の半分は農家。半分は食や農業、環境に関心の高い方たち。
反原発の歌を歌うヒッピーバンドさんで宴はもりあがった。本物のヒッピーさんなんて初めてお会いした。

保存会通信17号(25年春)枝豆及び大豆について 丹波地区世話人 土井 孝浩

2013年06月05日 | 保存会通信17号
枝豆及び大豆について
丹波地区世話人 土井 孝浩


 丹波の地で農に勤しむ土井孝浩です。
 さて、今回は枝豆について文献からの投稿をさせてもらいます。

 枝豆は大豆を未熟なうちに収穫したもので農水省の統計では未成熟大豆というらしい。
 未熟な大豆は鮮度が落ちやすく、枝や葉、根をつけて持ち帰り、枝つきのまま茹でて食べたので「枝豆」と呼ぶ。
 田の畦(あぜ)などに植えていたので畦豆ともいう。
 大豆の原種は中国からシベリア、日本に自生しているツルマメといわれていて、縄文時代から弥生時代初期に稲作とともに渡来した五穀のひとつ。
 大豆のタンパク質は畑の肉とよばれるほど栄養価が高く、食物として長い歴史のなか、利用法も色々と工夫されてきた。
 煮豆、豆腐、納豆、もやし、枝豆など直接的に食べるほか、味噌、醤油という調味料の材料、油脂原料、飼料、工業用、肥料などにも用いられ、脂肪の重要な資源作物でもある。

 枝豆としての利用は平安時代から食習慣にもあったようで、九月の十三夜の供え物のひとつに枝豆があり、「豆名月」とも呼ばれ、枝豆売りも登場していたとか。
 戦前までは国内でも多く生産されていたが、現在は枝豆以外、ほとんど輸入品になってしまっている。
 大豆で面白いのは、大豆が欧米に知られたのが17~18世紀と遅いことである。黒船のペリー提督が1854年に日本から持ち帰り、農商務省で試作を始めたのが1896年という説、1804年に中国の帆船が安価な底荷として大豆をアメリカに運び、1829年に農家が栽培を始めたという説などあるが、歴史的に普及したのはかなり遅い。

 20世紀に入ってからアメリカの大豆生産は急激に増加して、現在は世界第一の大豆生産国になっている。そして今はアメリカの作付けされる多くの大豆は特許を通った遺伝子組換(GM)品種。アメリカで開発された大豆が逆に中国やインド、ブラジルなどにGM品種として作付されているのである。
 大豆の英名はソイビーンでソイとは醤油のことであり、大豆が醤油の重要原料であることを知っていてつけられているのだろう。醤油を利用するアジア圏にはなくてはならない作物である。

 枝豆として食べられる山形庄内の「ダダチャ豆」は新潟の「茶豆」とならんで豆が茶色をおび、莢にしわがあり、独特の香りと
甘みがある。丹波の「黒豆」は正月の煮豆として有名だが、大粒で濃厚な風味があるので枝豆としても利用されている。
 枝豆はトウモロコシ同様、糖分やアミノ酸の減少が早く、常温では二日もすると半減するといわれている。冷凍すればほとんど減少しないので、冷凍向き野菜として海外からも冷凍輸入品が増えている。
 大豆は粒の大きさで分けられることがあるが、一般には大粒種の方が品質は良いといわれていて、製油や豆乳用では大小には関心がない。煮豆や味噌には形が残る大粒がよいが、納豆は小粒種の方が食べやすいので利用されている。

 もうひとつの利用法にモヤシがある。アズキや緑豆を使うことも多いが生野菜の少ない雪国の貴重な栄養食品として東北地方などでは温泉の廃湯をつかったマメモヤシ作りが盛んである。
 モヤシは日本では古来、薬用として用いられ、薬物辞典の「本草和名」や「医心方」にも記載がある。特に精進料理の材料に
も使われ、京都宇治の黄檗山(寺院名)では黄色モヤシを油でいためた、巻煎(けんちん)という料理がある。「食用は黄大豆の芽、薬用は黒大豆の芽」といわれ、医薬用として黒大豆のモヤシが用いられていた。


 丹波篠山地域でも川北・波部黒などは黒豆産地として有名だが、もともとは稲の水張りが困難だった地域。米より大豆を献上していたのは米が思う収量とれなかったから。
 古来に作られていた黒豆の品種は今、改良された育成品種(兵~号)にかわり、病気に強くて作りやすいらしい。
 また以前は、灰屋(はんや)と呼ばれる場所でカヤなどを燃やした焼き土を肥料にもしていたとか。
「昔の在来黒豆はもっと美味しかったのに」と古老の意見をうかがった。
 今は灰屋が農業倉庫などに変わったり、取り壊されていて、そこで火を焚くことがない。

 まだ丹波地域でも古い黒大豆栽培者の中には昔ながらの在来種をつくっている人がいるかもしれません。寺院でも作っていた黒大豆モヤシも食べてみたいものです。

保存会通信17号(25年春)兵庫県但馬地方の食と農の文化にふれる 北村わさび 北村 宜弘

2013年06月04日 | 保存会通信17号
兵庫県但馬地方の食と農の文化にふれる
 但馬地区世話人  北村わさび 北村 宜弘

 地元のスーパー、ガンピーさんでご縁をいただき、自家採種もされているとのことで、一昨年の8月に山根さん、昨年の6月にセレクトの住本さんと見学させてもらいました。

 国道312号線をおりて円山川を渡ってすぐに広がる豊岡市日高町赤崎地区。

「昭和に入ってから11回水害にあいました。住宅浸水は今まで4回、伊勢湾台風、台風23号、それは恐ろしく、甚大な水害でした。でも、円山川の氾濫、洪水のたびに肥沃な土壌がもたらされる、だから赤崎は昔から農業が盛んな地区でもあります。」

 日高町の資料によると、昭和20年代に入るとは「赤崎ごぼう」の名が関西の市場で有名になり、戦後の食糧不足の時代にはカボチャを中心に京阪神市場へ出荷した、とあります。

 「子供の頃から父親の農業をみてきて、働きながら農業も守ってきました。この前まで消防車に乗っていましたが(消防士さん)、仕事もやめて今は専業農家になれました。」

 「8反か9反ほどの栽培面積で40品目、多い時期は16品目になり、出荷も毎日しています。365日、朝から晩まで動いても時間が足りませんね。」

 お話を伺った作業場で、びっしりと記録された作業日誌を見せていただき、そこにはいろいろな「種」もありました。



 「父親からのネギがあって、45年以上は種を採っています。もとは岩津ネギだと思います。白い部分が30㎝、これを目安に出荷しています。目標は40㎝ですが。」

「大根も種を採って30年以上になります。」



 「白ナスは近所の親戚が奈佐路(日高町八代地区)からもらってきた種で、ここで15年ほどになります。」
なぜか但馬では在来種と思われる白ナスをよく見かけます。





 ちょうど種を取り出し、天日干しされていました。


 左がレタス、右がネギの苗です。



「もちろん化学肥料、農薬も一切使っていません。3年かけて木材チップを堆肥にしてい
ます」。作業場の前には堆肥が積んでありました。



 近年は害獣による被害も多く、「村中に電気柵を張っていますが、作っても獣に食べられてしまう。
柵を張って人間のほうが檻に入るしかないですわ」とも言われていました。

 「赤崎ねぎ」とゴボウです。





 種とり人でもある吉谷さんの野菜はガンピーさんでもファンが多く( 私もその一人です)、セレクトさんや玄斎さんなど、大阪や神戸の料理店さんでも使われています。白ナスについては今後調べてみたいなぁと思っています。