ひょうごの在来種保存会

会員さんも800名を越えました。活動報告を発信します。

保存会通信18号(25年秋)野瀬のかんぴょう顛末記     代表 山根成人

2014年01月25日 | 保存会通信

 3月、相生市野瀬の高畑さんに電話した時、「私のユーチューブを見たという人に種も道具もみんなあげてしまった」と言われ、かなり落ちこんでいたが、もう一度訪問して何か手がかりを、との淡い期待をもって出かけた。

 お会いしてみると健康上には問題無いようで、すこぶる元気な様子だった。春小豆のことからかんぴょうのよかった70年代の話題になると機嫌がよくなってくれた。しかし種のことになるとダメ。「どこにもない、誰も持ってない。道具は女衆が見るのも嫌だからみんな焼いている。道具を送った人も誰だかもう分からない」と取り付くシマがない。40分ぐらい何とか粘り最後まで一緒に作っていた人のことを話したので
 「亡くなったったその人は何ちゅう人ですか?」
 「広瀬さんいう人やけど、何も残っとらんで」
 「でもまあ一度いってみようかなと思うんですが」
 「ダメやけど、あそこの娘さんがものすごく頭のええ人でなあ、今は相生市の漁業組合長をしとるはずや、帰り道やから寄ったらええやろ」

 送り先の手がかりを何度聞いてもダメ、只、皮むき器のことは「高畑さん、あれはお宅のものですがねえ、ホンマは地域の文化財でっせ。伝えておかなアカンのですわ」としつこく言うていると最後に「こっちの倉庫の2階にひょっとしたらあるかな、そこまで言うなら見てみようか」と言ってくれた。
 そして玄関に下りかけた時、娘さんの好江さんが送りに来られたので、
 「あの時の住所とか何とか残ってませんかねえ」
 「お宅があのインターネットの人ですか」
 「ええ、山根です。執こういうてごめんね」
 「なんかそういうものは残してるかも知れんな」
 といって玄関の下駄箱の上を探し始めてくれた。

 「あった、これやな」

 宅急便の控えが残っていたのだ。思わず両手で彼女の手をにぎり頭を下げていた。やっぱり来なあかん、粘らなアカン。神さんは褒美をくれるんや。仙台市の野沢長生さんという方だった。これさえあればもう今日の収穫は充分。大きな倉庫の中を全部見せてくれたが道具は見当たらなかった。
 「まあいいですわ、この方と連絡とってお願いしてみます。私も勝手なもので送り状だけで満足していた。好江さんは親切な方で携帯番号も交換してくれ何かあったら連絡してあげると言うて下さった。晴れ晴れして充実感さえ感じる。

 帰り道漁業組合の事務所へ立ち寄り
 「変なこと尋ねますが、すみません旧姓広瀬さんという方はーーー」
 「私ですが、何か」
 「ああよかった、関係のない話ですがかんぴょうのことで」
 「私かんぴょうのことは全然――ホント知りませんよ」
 言葉にケンがなかったので保存会のことなど少し話してみると
 「父が亡くなってから、近所の西川さんという方が種がほしいと来られたので。お渡ししたとは聞きましたよ」
 「エッホントですか」
 あーあ何と今まで怠慢だったのかと猛省。橋本さんは親切な方で住宅地図を開き
 「この西川公さんという家、ここですわ」
 「有難うございました。あーあ来てよかった。甲斐がありました。又何かあったらご協力お願いします」
 何とうまく話が進むのかと久々の調査に悦にいる。調子が出てきたので引き返し西川家を探索。すぐに分かったが誰も居られなかったので名刺だけ置いて帰る。

 夜、早速野澤さんに電話。この人もまた感じのいい人で、こっちの言うことを殆ど理解してくれたようで、種は勿論「器械も使ってないので」と言うて下さった。返してもらえれば嬉しいと伝えた。西川さんには翌朝電話して近々お訪ねするように伝えると「機械はあまり使わんが時期になって来たら教えるで」と言ってくれた。

 保存会10年のうちで自分が調査して、目の前で絶滅するような恥ずかしいことになることを出がけまでは覚悟していたが、あの憂鬱はすっ飛んだ。

保存会通信18号(25年秋)  念願の椎葉村へ【山根成人氏真骨頂!】  代表山根成人

2014年01月21日 | 保存会通信17号
これぞ、山根ワールド!!
全くもって匂う文章だ!!
写真もなんにも入れずにアップ!!



 NHKのドキュメントで知ってからずっと行きたかったが、この三月、椎葉勝さんがウチで食事をしたご縁があり(会員の有元さんのご縁)一気に話が進んだ。

 1日のフェリーで大分港へ、2日の朝7時に着いてからが大変だった。阿蘇山は最高の条件で観光できた。雄大な景観と雨上がりの後の晴れ間だろう、みどりの山々が筆舌を超えた輝きで感動。阿蘇神社に参拝し、阿蘇高菜のタカナ飯をいただく。至る所で湧き出る水の豊かさには悔しいような羨ましさも感じてしまった。

 一宮を昼過ぎにたち、いよいよ椎葉へ。高千穂を過ぎ、いよいよ椎葉村に入ったが、立派な舗装道路と思ったより秘境を感じさせない景観にどこか物足りなさを感じながら鶴富屋敷に到着。那須家32代目の末裔というおばあちゃんが鶴富姫のロマン溢れる話を聞かせてくれた。
「民宿焼畑の椎葉さんはどの辺ですか」と尋ねると「あそこはまだまだずっと奥に入らんとな。」まだ山中に40~50分走らないとということ。「どうりでなあ、これでは秘境でないからなあ」と意外な納得。
実際ダムの北岸に沿ってどこまで続くのかと思うほどくねくねと走らされ、最西端からまた奥へ。ほんとに秘境を味わった観があった。

 どんつまりの「民宿焼畑」に着いたのは3時を過ぎていただろうか。勝さんは山に行って明日の準備で留守だったが、ばあちゃんが歓迎してくれ、彼女の豪邸に案内してくれた。「ウオッシュレットやでえ」と、有元さんに聞いていた別棟だった。早くも第一の目的だったくに子オババとの出会い。オババは映像どうりで元気そのもの、それに客(人間)が好きでたまらんという性格が強烈に伝わってきた。
 自分の居間に案内しテレビをつけ過去の録画も見せながらどんどん喋る。最近出来たという本(オババだけを書いた本)も出してきて早速販売、後で勝るさんが言うには「はや売りよったか」。
 風呂に入り、6時半の夕食は本宅で我々入れて14人の食事が並べられていた。ここでもオババがテーブルごとに料理の説明をしてまわる。概ね本やテレビそのものでたくさんの山菜料理に山女の塩焼きがついたもの。名物ワクド汁も勿論。
 さっき大歓迎してくれた勝さんもすぐに自分たちの席に来てビールを飲む。早速オババの喋る姿に「ウソ八百ばかいうからな」という。オババは全く意に介していない。「ホントはな、来るとは考えてなかった。親分ありがとう」、「なんでそこで親分がでてくるんや」、「そらヤクザの町から来たんだから」などと言いながら大いに喜んでくれた。嬉しい嬉しいといいながら途中特製のどぶろくも振舞ってくれた。
 築150年?の家は一面が物入れになり、その木がいぶされ立派な梁とともに黒光りがして貫禄を呈しながら何ともいえぬ安らぎを発散していた。
 一番最後まで粘ってかなりいい気分になったころ奥さんも出てきて記念撮影。はったりやの亭主にぴったりの穏やかで芯の強そうな人であった。

 最後の最後まで心配していた天気だが、何とか大丈夫だろうと誰もがその星空に確信を持てた様に3日の朝は焼畑のための朝だった。
「山根さんのお陰や、先生有難うホンマに」この男は私に「親分、先生、山根さん、会長、大将」など出任せにイロイロな名称をつける。
 7時の朝食を済ませ山に向かう。カテーリと言われている仲間の応援隊と各地からの参加者総勢40人余り、第一のヤボ(焼畑)で勝さんの説明を聞く。彼は心がとても弾んでいるようで、天候に恵まれたことに最高度の喜びをかみしめているようだった。
 予定通り火をつけられるのは6年目、昨年は何度も雨で延期、結果も思ったようにいかなかったらしい。大体の準備と山の神への供物も揃い祈りのときが来た。
 「偽宮司だけどな」などといいながら例の「今からこのヤボに火を入れ申す、蛇、虫けらども早々に立ち去りたまえ、――――――――――」全員が竹で作った杯でカンパイ。無事を祈る。一番の高所から火が入れられパチパチパチと想像以上の燃える音。わき道に沿って下に向かって火をいれていく、しばらくして一面に火が降りていく様はすごい迫力だった。
 半分以上燃え下がったところで下からも火を入れる。オババはなにかぶつぶつつぶやいている「風の神様、下に向かわれくだされ」という風なことを言うていたようだった。小さな燃材を拾いながら終わるまでずっとそういって祈っていた。腰を折って只祈るだけの姿はだんだん荘厳ささえ感じられる純粋さが自分の胸に入り込んでくるのが分かる。近くに寄ると猛烈な熱さと音、その真ん中に立つ自分に何か誇らしさすら感じられる。
「オババ今日のヤボ焼きは何点やった?」と聞くと「あー90・・・いや、100点だなあ」と何十回やった過去を追憶しながらの言葉は感謝の実感にあふれた安堵が漂っていた。

 二つ目の畑もスムーズに終わり昼の休憩。どの顔も満足の喜びに満ちていた。自然の偶然の中で与えられた幸せにつつましい美しい顔に見えた。こんなうまくいくことはそうザラにないのだということはすぐに理解できた。
まだ煙の残るなか、ソバの種が配られちょっとアバウトでないかと思えるくらいの指導で始まった。焼け跡の温度は30度以下になっているのだという。平家かぶらも混植で蒔かれ、その後ヨシ?で作った箒でなでていく。

3時ごろ下に下り「焼畑体験ハウス」に集まり交流会。有志で600万かけて作ったというしっかりしたログハウスはそばうち教室用の道具や昔の農具などが飾られていた。
4時からの交流会はこの焼畑再生会会長の挨拶に始まり全員簡単な自己紹介。東京、神奈川、奈良、京都、姫路、大阪など各地からアメリカ人も一人いる。
鳥と野菜の網焼きをメーンに山女の塩焼き、山女のなまのぶつ切り、コロッケ、ドーナツ、サラダ、などなど。ヒエツキ節の名人も参加「おひねりがないなあ」と愚痴りながら2曲も聞かせてくれ、座が一気に盛り上がった。
延々と宴席は続くが卑しい私は何時もラストまで粘る。お開きのカンパイの音頭をとらせてもらい気分をよくしてもう一杯。宿に帰ってからもまだくたばらない。戻ったとき星が見えずパラパラと雨が降ってきた。みんなに歓声があがる。これで雨が降ったら1週間でそばが芽を切る、降らねば2週間と勝さんが言ったのをみんな覚えていたからだ。
すべてに恵まれていたんだなあ。と誰もがまたまた豊かな気分で床についたことだろう。
母さんの話では夜中雨で目が開いたというくらい降ったそうだ。 言うことなし。

字の書けないオババだが研究者からは「クニコ博士」とも言われている。近辺の植物500種類は食べ方効能まで熟知している。料理の仕方、保存の仕方、生きる知恵、最高の幸せを感じる術。現代の知識人間がひれ伏してしまう本来の人間の姿をすべての動作で演出してくれている。
 恥ずかしさを感じつつも無限の生活力を土とともに生き抜いている姿は神々しいくらい。

 学ぶことだらけの旅だった。彼の息子の龍也は役場に勤めているが後継を決めている。羨ましくも力強い生き方は混迷する現代社会の大きな方向性の一つとしての価値が評価されていくだろう。まだまだ書きたいことが一杯だが紙面がない。興味のある方は連絡下さい。

保存会通信18号(25年秋) 西脇市高嶋のたけのこ 生産者北田さんを訪ねて 小坂高司

2014年01月18日 | 保存会通信17号
 (去年の取材時にアップしましたが、通信掲載版もアップします)


 昨春、西脇市の農産物直売所「北はりま旬菜館」でお客さんが取り囲んで筍談義の中心となった「高嶋のたけのこ」。
 この産地を調査してきました。

 お話を伺ったのは、高嶋のたけのこ生産者、北田さんです。

 明治中頃、山本宇ノ介さんが京都から竹を5本買い、荷車引いて一日かけて帰ってきました。この5本を元に増やしてきたのがきっかけです。

 竹林は約3ヘクタール、十戸ばかりの方が所有されています。昔は市場にも出荷していましたが、現在は4件が直売所等に出荷しているだけで、他は自家用のようです。

 筍の作業は冬の竹林づくりが最も大切です。竹の根は毎年広がっていくので、手入れをしないと土中に根が張りすぎ、土中が詰まってしまい、筍は小さく形も悪くなります。そのため、竹林では毎年、110センチくらいずつ、土を上に載せます。
 毎年少しずつというのが大切であり、一度に積むと土中で竹になってしまうとのこと。毎年の作業が必要なんですね。
 盛る土は、夏の間の草や落ち葉など田山の有機物と竹林の一部の土を掘って、筍を生育させる区画に土を移動します。
 土をとってしまった区画は竹も根も掃除してしまうこととなりますが、また周辺から根が伸びてきますので、数年後はその区画で収穫できます。
 年月をかけて土が竹林内をぐるぐる回っているのです。養分も、筍を出荷して外に出て行く分だけ、外から田の草などの有機物が供給されていて、まさに資源循環された世界です。

 土づくりのほか、竹の管理も大切です。手入れされた竹林は竹と竹の間が広く、適度に本数管理されています。
「傘をさして歩くことができる」というのはよく言ったもので、筍にじゃまにならず、土に日が適度に当たり、作業性も良い間隔です。
 また、生えている竹も「親竹(おやだけ)」と言い、周辺に他の竹は増やさず大切に管理され、何年間も筍を産みます。
 北田さんの園では親竹に生えた年が刻まれており、これを目安に数年から十年程度の間に更新が行われています。
 更新は一定の年月が経った親竹周辺で、目に留まった筍をそのまま大きくされ、4メートルくらいになった6月頃、大きく左右に振られます。振られた若い竹はまだ強度ができていないためか先が折れます。
 一定の高さで先が折れるとその上には伸びず、枝を張ることとなります。こうすると雪や風に倒れなくなるということでした。伝統の知恵ですね。


 30年位前は共同の加工場が設置され、ゆでたけのこを缶詰(一斗缶)や瓶詰めにし、市内の飲食業や市場で出荷されていたそうです。現在でも一部の家庭で缶詰加工が残っているようです。
(取材後にページに掲載しましたが、通信用をアップします)

 たけのこ栽培は10月に米づくりを終えた後、11月から冬の間、家族で山の手入れ作業を行い、5月まで収穫を行うという、年間の作業が米づくりと相性が良いようです。北田さんも「子供の頃、鍬もって家族総出で土を動かした。」そうです。


 お話を伺ったあと、園に行って収穫方法を見せていただきました。美しく手入れされた竹林の一部にひび割れた地面があり、北田さんが「ココに1本、出かけてます」と。

 これだ!

 これがテレビで見た筍収穫のお決まりの光景です。でも実際に見ると起伏や枯葉もあり、結構わかりづらいものです。
 「(筍先端の)葉が見えれば、どの方向に生えるか、わかりますよ。方向がわかれば、地中の姿や根の位置もわかるので、傷をつけずに収穫できます。」
 北田さんは地面の割れたところを丁寧に鍬で掘り始められます。
 しばらく掘ってみるが、あれ?出てこない。。。?・・と思った瞬間、地中から黄色い葉先が見えてきました。てっきり地面にひび割れができているものだから筍はすぐそこのところにきているのかと思いましたが、10センチも深いところにありました。

 丁寧に周辺の土を取り払われると、特別の鍬の登場です。なんと刃が1メートルもある特注。これはテレビでも見た事無い。「もう少し長いものが欲しいのですけどね。」と北田さん。こんな鍬、いったいどんな使い方をするのかと思えば、テコの原理で掘り起こさます。

 根の位置をしっかり確認してこの特注鍬で「グサッ。グイグイ・・・ぽこっ。」とまさに匠の技です。
 30センチくらいでしょうか。「この筍は土のまだまだ土の中で大きくなるけど、食べるにはこのくらいが美味しい。」というサイズだそうです。

 掘った後の穴には鶏糞ひしゃく2杯の「お礼」を入れて綺麗に埋め戻します。説明いただきながらですが堀始めから20分くらいかかったでしょうか、この手間による対価として考えると、かなりサービス価格でないかと思います。
 高嶋のたけのこは白く太く美しいたけのこです。
 たけのこは日に当たると皮に色が出るとともに、地上に出た筍としては動物に食べられないようにアクを発生させるのですが、日に当たる前に掘り出す高嶋のたけのこはエグ味も無く、柔らかくいただけます。

 私も旬菜館で買ったり職場の方からいただいて食べましたが、太い部分も「束がほぐれる」といった感じです。「アクが少ないのでヌカがいらない」というのも納得。筍の刺身は苦手なので、軽めの水煮でいただきましたが、香り高く歯切れ良く、当然ヌカの臭いも無いので塩も醤油も無くおいしくいただけました。「この竹林からこのようなすばらしい筍が出来る。この先人の残した財産をなんとか次世代につなぎたい。」と北田さんお二人。高嶋のたけのこが新しい動きを見せ始めました。

2014年2月15-16日 史上最強の地産地消軍団、その名も『地の座』!!第8回目の「味覚の展示場」

2014年01月14日 | 保存会通信17号
農商工連携とか六次産業化とか・・・そういう前より本格的に動いているんですよね

農業サイドからの動きではないんだな・・これが・・・

商工サイドから強烈に一次産業を引きつけて、地場農水産物を使った新商品の開発を行う


開発された商品はこのような人目に晒されて・・・審査員はたくさんの市民・・・


すごい


この活動・・・・・・・・・最強の地産地消だと思う


今回も保存会、でるよ


多分・・・(企画者の心情)



保存会通信18号(25年秋) 山形在来作物研究会より学ぶ お米の勉強会 村山日南子

2014年01月13日 | 保存会通信
お米についての連続勉強会
2013年7月27日(土)午前9時半~午後5時、於:兵庫県立大新在家キャンパス(環境人間学部) 記録:村山、写真:村山


 長い充実した1日でした。

 映画「よみがえりのレシピ」は去る5月18日に神戸アートビレッジセンターで観て、報告を6月14日発行の7月号に載せました。映画の後、監督の渡辺智史さんと山根さんの対談もありました。とても中身の濃い、見ごたえのある映画で、1回観るだけではもったいないような映画でした。そして、映画以上に驚いたのは、監督の渡辺さんの若さでした。山根さんがその場で仰ったようになぜ山形にはこんなに優れた人が多く出るのだろう、と感嘆しました。
 そんな訳で再度この映画を見るのを楽しみに、そして、江頭先生にお会いできるのも楽しみに出かけました。

 映画「よみがえりのレシピ」鑑賞
 先ずは、山根さんのあいさつ、続いて映画「よみがえりのレシピ」上映。そして、ひょうごの在来種保存会の生みの親の保田茂先生のお話の予定でしたが、先生はご病気とのことで、代わりに江頭先生が少し話されました。



 映画は淡々と撮られているのに、在来種を作っておられる方々の思いや暮らしぶりと共に、その野菜を畑で食べてすぐにレシピが浮かび、料理にして、その農家さんたち皆さんに食べさせる、才能あふれるイタリア料理の店「アル・ケッチァーノ」のオーシェフ奥田政行さんの料理と食事風景が映し出されるという組立でした。作るところから消費までを1つ1つ追った映画でした。
 また、江頭宏昌先生は、在来種の保存の必要性を机上で訴えるのではなく、奥田さんと一緒に農家さんを1軒1軒歩き、共に作り、共に食べ、共に広めることに成功なさっている動く学者さんです。



★焼き畑のカブたち

 庄内では食糧難を救う意味もあり焼き畑でいろいろなカブが作られてきました。藤沢カブ、宝谷カブ、温海カブ、田川カブ、夫々の農家さんが映し出されました。
 藤沢カブの生産農家さん、渡会美代子さんは、後藤勝利さんにカブの種を譲って作ってもらうことになったあと、しばらくして亡くなり、映画もご覧になれなかったそうです。
 人間が作り続けてきた種は、人間が作らなくなれば、即消えてしまいます。自然種の絶滅よりずっと沢山の種があっという間に消えていきました。藤沢カブは間一髪絶滅を逃れました。



★だだちゃ豆たち

 庄内の方々はだだちゃ豆の枝豆が大好き。各家で自家採種が繰り返されて20種類以上の営統があり、夫々少しずつ見た目、香り、味が違うという。茹で方も「我が家流」が一番、近所を読んで大量の枝豆を振る舞い、茹で方を楽しく競う様子が映し出されました。

★美味しいからと、作り続けられてきた野菜たち

☆外内島(とのじま)キュウリは、漬物屋さんからの全部買うから作ってほしいとの依頼や江頭先生の説得によって作られ続けてきて、今では地元の小学校で対売、種取りまで続けられるようになりました。

☆甚五右ヱ門芋は、佐藤家で作り続けられてきた一子相伝の里芋で、現在は信栄さんの指導で孫の春樹さんが作っておられます。

☆梓山大根は、3年漬け置きしてもシャリシャリ感が残る辛味ダイコン、釜田憲治さんが種を守っています。

☆もってのほかは山形の方々が大好きな食用菊、黄色とピンクがあり、地元の人はピンクが好き、関西のお店では黄色を売っています。

 どのお野菜も、作っている農家さんと、奥田シェフの料理、農家さんほか皆の美味しそうな、満ち足りた様子が映し出されて、生産から、流通、加工、消費へ、そして生産農家さんへと、野菜と共に想いを共有できる循環がなりたっていて感動しました。


「『よみがえりのレシピ』と在来作物研究会の10年」

山形在来作物研究会代表江頭宏昌先生のお話



1.在来作物とは

☆在来作物との出会い

 私の学生時代の悩みは、科学の目的は何か?科学や科学技術の向う先は果たしてこれでいいのか?当時の育種改良は、農家が楽して高品質のものを沢山作れることが目的でした。
 そして、1994年川喜多次郎の「創造と伝統」に出会い、問題を創造的に解決するには3つの科学が必要だということを学びました。書斎の科学だけではダメで、実験科学と野外科学が私の研究には必要と、研究の道筋を立てました。足が地についた生き方、市民パワーの結集、世代から世代へ引き継ぐ、この3つの方向で、自分には一体何ができるのか?
 そこで出会ったのが、山形大学の元教授の青葉高先生の本「北国の野菜風土誌」でした。そこには、「野菜の在来品種は生きた文化財である」と書かれていて、戦後間もないころから日本各地の在来野菜の大切さと保存を訴えてこられていました。先生の記録によると、1976年の山形県内には76種類の在来野菜がありました。

 「在来野菜は生きた文化財」!

 では、今はどうなっているのだろう、まずは現状調査から始めようと決心しました。これで3つの科学が実践でき、自分の問題意識を実践に移せるかもしれないと直感しました。

☆在来作物とは

 山形在来作物研究会で決めた定義では、「ある地域で、世代を超えて栽培者自身によって種苗の保存が続けられ、生活に利用されてきた作物」です。野菜だけでなく、果樹、穀物、観賞植物なども含み、また、農業上、その他利用上、特徴が明瞭に区別できる作物の種類は在来品種と呼びます。

 在来作物は商業品種に比べて、収量は少なく、耐病性も弱く、外観もよくなく、日持ちもよくなく、味も万人向けではなく、苦い、辛い、強い香り等個性的ですが、食品(モノ)であると同時に、歴史、文化、栽培法や利用法など地域固有の知的財産の面も持ちます。
また、「生きた」文化財ですので、作り続ける人がいなくなれば消失して、二度と同じ遺伝子を持つ野菜を作り出すことは出来ません。

☆「在来作物」と「伝統野菜」との違い

 伝統野菜は、ブランド価値を高めることを目的として、場所や栽培期間、品質等の条件を決め、自治体や民間等の団体が認証したものをさすことが多いですが、在来作物はブランド価値とは無関係に、野菜、穀物、果樹、花弁等の作物の在来品種の多様性を守るための呼称です。

 「在来作物」は、新しく農家が自家採種を始めたものでも、世代を超えて自家採種で栽培され続ければ未来の在来作物になりうるし、自家採種する人が増えれば、風土に合った在来系統が育成され、多様性を高めることにもなります。

☆在来作物消失の原因

 農業人口の減少、古くさいというイメージ、生産や流通効率が悪くて市場価値が低い、栽培者の高齢化、都市化による農地の減少、保存食、飢饉時の備えの不要化等々。

2.山形在来作物研究会の設立とその活動

 03年11月30日設立、目的は、失われつつある作物の在来品種にもう一度光を当て、その多面的な価値を再評価して利活用を図ること。山形大学農学部の教員有志が中心となり発足。会長は08年度まで元山形大学農学部教授の高樹英明先生。山形に拘り、「山形在来作物研究会」としました。専門的な学会とは違い、高校生や主婦なども気軽に楽しく参加できる開かれた研究会にするため年会費は2000円。会費のみの運営で心配したが多くの方々の協力により、会報「SEED」も発行できました。在来作物の「種子」を守ると同時に、教育研究、食文化、農業、食品産業に新しい「種」をまきたいという願いを込めて会報の名前は「SEED」。毎年一回公開フオーラムを開き、全国から毎回150名前後の会員が集い、農家の声を聴く、料理・加工品を食べる、採種の意義を考える、保存食を考えること等をしてきました。2005年4月から在作研幹事が中心となり、料理人、県職員などが執筆者となり、隔週で4年間、計100回山形新聞に「やまがた在来作物」を連載し、県内の在来作物や食文化を丁寧に紹介しました。また、これをもとに、07年に「どこかの畑の片すみで」、10年に「おしゃべりな畑」を出版しました。

3.農家・レストラン・研究者とのつながりが原点

☆なぜ、お金にもならない、手間のかかる在来作物を継承してきたのか?

 農家を訪ねる度にその理由を聞くと、美味しいから、お世話になった人に喜んで食べてもらいたいから、自分の代で種を絶やしたくないから、などの言葉が返ってきました。
 これを聞き、残ってきたのは、農家の良心と想いの賜物だと思い知りました。そして、自分ができることは、そうした農家の今の想いを記録し、今の世間や未来に伝えることではないか。また農家が大切に継承してきた作物や農法をより広い視野から評価し、励ますことではないかと強く思いました。

☆アル・ケッチアーノの奥田政行さんとの出会い

 農家の訪問調査を始めた頃奥田さんと親しくなり、一緒に農家を回るようになりました。奥田さんは在来野菜ばかりではなく、魚、山菜、肉、果樹など様々な食材を発掘して、創作料理に取り組み、市民や全国から評判を呼んでいました。
 私は、新しい在来作物が見つかる度に、その特性を生かした新しい料理を奥田さんに創作してもらいました。もし、奥田さんの料理がなかったら在来作物の広がりはなかったと思います。在来作物を用いた新しい食文化を開拓したとして、奥田氏山形在来作物研究会が共同で2010年5月に第一回「辻静雄食文化賞」を受賞しました。

4.在来作物の魅力

 在来作物には多様性、地域の個性、つながり、という3つの魅力があります。

<多様性>
 山形を代表する果実、サクランボの代表品種「佐藤錦」は農家が作りだした在来品種ですが、最初の交配は1912年、品種名が付いたのが1928年です。当時は加工用サクランボが一般的でしたが、1970年代になると、加工用を抜いて生産量が首位になり、交配から約100年
経った2010年時点で、山形県のサクランボの全国出荷量シェアは72%です。鶴岡の「ダダチャ豆」も100年以上の歴史を持ち旧鶴岡市内で20億円以上の生産額を誇っています。今の価値観に合わないからといって、このことから、無価値に見える在来品種を捨てるべきではないということが分かります。

<地域の個性>
 山形を代表する在来野菜カブは山間地を中心に20種類前後の在来品種が分布し、郷土色あふれる食べ方もそこに根づいています。カブは短期間で栽培でき、寒さにも強く、保存性もよく、飢饉時には穀物に変わる重要な食べ物となってきました。

<つながり>
 在来作物を通して、都市住民との交流や、家庭でも世代間で食の継承が広がります。

5.山形の在来作物をとりまく近年の動き
 今年13年11月で山形在来作物研究会発足満10年。栽培農家さん、レストラン奥田さん、我々研究者と、理解あるマスコミが、一緒に様々なことをしてきました。そして、在来作物について市民の意識も高まってきました。山形県も力を入れ2011年に「やまがた伝統野菜展開指針」を出し、伝統野菜を「地域の宝」として、全県的な取り組みを展開していくことになりました。
 伝統野菜の栽培実態はさまざまで、ただ一軒の農家が家宝として継承しているもの、地域の数軒の農家が栽培し、地元で消費されているもの、生産が拡大し県外・全国に流通しているものなどがありますが、一律に生産拡大を目的にするのではなく、野菜の特性や現場に応じてやっていこうという提案です。

 鶴岡市も2010年にユネスコ創造都市ネットワークの食文化都市への加盟を目指して多様なことをはじめ、在来作物を次世代に伝えるためのレシピ集「はたけの味」、お米のレシピ集「たんぽの味」が出版されました。また地元の在来作物を活用し、ビジネスに結びつけるための講座が開かれています。山形大学農学部でも同様な講座「おしゃべりな畑実践講座」が2010年から毎年、無料で開講してきまして、 150名以上の修了生が知識と仲間のネットワークを生かして活躍しています。
 2011年10月に映画「よみがえりのレシピ」が公開されました。これは、「市民プロデューサ一になりませんか」と寄付金を集めて出来上がった、山形市民の手作りの映画です。在来作物を中心にして、栽培農家、レストラン、研究者、小学校、加工業者などにスポットをあてながら、食といのちと農の本来的な意味をごく自然に考えさせます。全国で上映が進むにつれて、在来作物の価値に目覚める人が急増しています。

6.おわりに

 在来作物の種子と利用の文化を守ってきたのは、効率化の波にもめげずに、また儲けとは無関係に、良心と愛情を持って継承してきた農家であることを忘れてはなりません。
 この地域の宝、在来作物を、今後どう保全し、継承していけばよいのか、各地で地域の事情を考慮した創造的な試行錯誤が必要でしょう。
 在来作物以外にも「無名の宝」が沢山あります。故郷の景観、里山、土、人の暮らしぶり、文化芸能、神様や仏様等々。在来作物の保全と継承を考えることは、「無名の宝」を維持するヒントにもなるのかもしれません。





質疑

 山形は、種の囲い込みが強いが、外に出さないと消えてしまう危険も強いのではないか、ジーンバンク計画はないのかとの質問に対して、「種は旅して伝わってきた」のも確かなので、反省している面もあります。ジーンバンクは運営が大変なので、利用しながら守っていくしかないと考えています。



おまけ

(こんな歌もあります)

「種をあやして」
作詞 あおきふみお
作曲 横澤 芳一
歌と演奏 影法師
企画制作 ひなた村

畑に育つ 野菜はやがて
花を咲かせて 種を稔らす
茎の枯れる頃 愛しむように
百姓の手が 種をあやす
※幾百年 幾千年
百姓は種をあやしてきた
明日蒔く種を 失くさぬために
いのちを未来に つなぐために

ここに伝わる 種は見てきた
私につながる いのちの歴史
私がこうして 生きているのは
あやし続けた 種あるおかげ
※繰り返し

いつしか百姓は 種をあやさず
どこかで作られた 種を播いてる
そこから未来は 見えるだろうか
そこからいのちは つながるだろうか
※繰り返し