ひょうごの在来種保存会

会員さんも800名を越えました。活動報告を発信します。

260524ひょうごの在来種保存会通信編集会議

2014年07月29日 | 保存会通信
編集会議です
もうかなり前のこと
通信もでてますしね。。。

(すいません、忙しくってブログアップできませんでした)

なので会議風景なんか載せずに編集会議場所の梅澤さんとこの料理だけアップします







あまり写真とってない・・・じゃなくってブレまくってました
重ね重ねすいません

ほんと梅澤さんのとこの料理は美味しいし、健康的なメニューなので胃袋にも負担がありません
神戸ではこういうのありません (豆腐とか大豆とかメインの店はあるけど、基本が大違い!)
姫路でも結構いい宴会場なのではないでしょうか・・・

帰りに
かっこええ







保存会通信18号(25年秋)野瀬のかんぴょう顛末記     代表 山根成人

2014年01月25日 | 保存会通信

 3月、相生市野瀬の高畑さんに電話した時、「私のユーチューブを見たという人に種も道具もみんなあげてしまった」と言われ、かなり落ちこんでいたが、もう一度訪問して何か手がかりを、との淡い期待をもって出かけた。

 お会いしてみると健康上には問題無いようで、すこぶる元気な様子だった。春小豆のことからかんぴょうのよかった70年代の話題になると機嫌がよくなってくれた。しかし種のことになるとダメ。「どこにもない、誰も持ってない。道具は女衆が見るのも嫌だからみんな焼いている。道具を送った人も誰だかもう分からない」と取り付くシマがない。40分ぐらい何とか粘り最後まで一緒に作っていた人のことを話したので
 「亡くなったったその人は何ちゅう人ですか?」
 「広瀬さんいう人やけど、何も残っとらんで」
 「でもまあ一度いってみようかなと思うんですが」
 「ダメやけど、あそこの娘さんがものすごく頭のええ人でなあ、今は相生市の漁業組合長をしとるはずや、帰り道やから寄ったらええやろ」

 送り先の手がかりを何度聞いてもダメ、只、皮むき器のことは「高畑さん、あれはお宅のものですがねえ、ホンマは地域の文化財でっせ。伝えておかなアカンのですわ」としつこく言うていると最後に「こっちの倉庫の2階にひょっとしたらあるかな、そこまで言うなら見てみようか」と言ってくれた。
 そして玄関に下りかけた時、娘さんの好江さんが送りに来られたので、
 「あの時の住所とか何とか残ってませんかねえ」
 「お宅があのインターネットの人ですか」
 「ええ、山根です。執こういうてごめんね」
 「なんかそういうものは残してるかも知れんな」
 といって玄関の下駄箱の上を探し始めてくれた。

 「あった、これやな」

 宅急便の控えが残っていたのだ。思わず両手で彼女の手をにぎり頭を下げていた。やっぱり来なあかん、粘らなアカン。神さんは褒美をくれるんや。仙台市の野沢長生さんという方だった。これさえあればもう今日の収穫は充分。大きな倉庫の中を全部見せてくれたが道具は見当たらなかった。
 「まあいいですわ、この方と連絡とってお願いしてみます。私も勝手なもので送り状だけで満足していた。好江さんは親切な方で携帯番号も交換してくれ何かあったら連絡してあげると言うて下さった。晴れ晴れして充実感さえ感じる。

 帰り道漁業組合の事務所へ立ち寄り
 「変なこと尋ねますが、すみません旧姓広瀬さんという方はーーー」
 「私ですが、何か」
 「ああよかった、関係のない話ですがかんぴょうのことで」
 「私かんぴょうのことは全然――ホント知りませんよ」
 言葉にケンがなかったので保存会のことなど少し話してみると
 「父が亡くなってから、近所の西川さんという方が種がほしいと来られたので。お渡ししたとは聞きましたよ」
 「エッホントですか」
 あーあ何と今まで怠慢だったのかと猛省。橋本さんは親切な方で住宅地図を開き
 「この西川公さんという家、ここですわ」
 「有難うございました。あーあ来てよかった。甲斐がありました。又何かあったらご協力お願いします」
 何とうまく話が進むのかと久々の調査に悦にいる。調子が出てきたので引き返し西川家を探索。すぐに分かったが誰も居られなかったので名刺だけ置いて帰る。

 夜、早速野澤さんに電話。この人もまた感じのいい人で、こっちの言うことを殆ど理解してくれたようで、種は勿論「器械も使ってないので」と言うて下さった。返してもらえれば嬉しいと伝えた。西川さんには翌朝電話して近々お訪ねするように伝えると「機械はあまり使わんが時期になって来たら教えるで」と言ってくれた。

 保存会10年のうちで自分が調査して、目の前で絶滅するような恥ずかしいことになることを出がけまでは覚悟していたが、あの憂鬱はすっ飛んだ。

保存会通信18号(25年秋) 山形在来作物研究会より学ぶ お米の勉強会 村山日南子

2014年01月13日 | 保存会通信
お米についての連続勉強会
2013年7月27日(土)午前9時半~午後5時、於:兵庫県立大新在家キャンパス(環境人間学部) 記録:村山、写真:村山


 長い充実した1日でした。

 映画「よみがえりのレシピ」は去る5月18日に神戸アートビレッジセンターで観て、報告を6月14日発行の7月号に載せました。映画の後、監督の渡辺智史さんと山根さんの対談もありました。とても中身の濃い、見ごたえのある映画で、1回観るだけではもったいないような映画でした。そして、映画以上に驚いたのは、監督の渡辺さんの若さでした。山根さんがその場で仰ったようになぜ山形にはこんなに優れた人が多く出るのだろう、と感嘆しました。
 そんな訳で再度この映画を見るのを楽しみに、そして、江頭先生にお会いできるのも楽しみに出かけました。

 映画「よみがえりのレシピ」鑑賞
 先ずは、山根さんのあいさつ、続いて映画「よみがえりのレシピ」上映。そして、ひょうごの在来種保存会の生みの親の保田茂先生のお話の予定でしたが、先生はご病気とのことで、代わりに江頭先生が少し話されました。



 映画は淡々と撮られているのに、在来種を作っておられる方々の思いや暮らしぶりと共に、その野菜を畑で食べてすぐにレシピが浮かび、料理にして、その農家さんたち皆さんに食べさせる、才能あふれるイタリア料理の店「アル・ケッチァーノ」のオーシェフ奥田政行さんの料理と食事風景が映し出されるという組立でした。作るところから消費までを1つ1つ追った映画でした。
 また、江頭宏昌先生は、在来種の保存の必要性を机上で訴えるのではなく、奥田さんと一緒に農家さんを1軒1軒歩き、共に作り、共に食べ、共に広めることに成功なさっている動く学者さんです。



★焼き畑のカブたち

 庄内では食糧難を救う意味もあり焼き畑でいろいろなカブが作られてきました。藤沢カブ、宝谷カブ、温海カブ、田川カブ、夫々の農家さんが映し出されました。
 藤沢カブの生産農家さん、渡会美代子さんは、後藤勝利さんにカブの種を譲って作ってもらうことになったあと、しばらくして亡くなり、映画もご覧になれなかったそうです。
 人間が作り続けてきた種は、人間が作らなくなれば、即消えてしまいます。自然種の絶滅よりずっと沢山の種があっという間に消えていきました。藤沢カブは間一髪絶滅を逃れました。



★だだちゃ豆たち

 庄内の方々はだだちゃ豆の枝豆が大好き。各家で自家採種が繰り返されて20種類以上の営統があり、夫々少しずつ見た目、香り、味が違うという。茹で方も「我が家流」が一番、近所を読んで大量の枝豆を振る舞い、茹で方を楽しく競う様子が映し出されました。

★美味しいからと、作り続けられてきた野菜たち

☆外内島(とのじま)キュウリは、漬物屋さんからの全部買うから作ってほしいとの依頼や江頭先生の説得によって作られ続けてきて、今では地元の小学校で対売、種取りまで続けられるようになりました。

☆甚五右ヱ門芋は、佐藤家で作り続けられてきた一子相伝の里芋で、現在は信栄さんの指導で孫の春樹さんが作っておられます。

☆梓山大根は、3年漬け置きしてもシャリシャリ感が残る辛味ダイコン、釜田憲治さんが種を守っています。

☆もってのほかは山形の方々が大好きな食用菊、黄色とピンクがあり、地元の人はピンクが好き、関西のお店では黄色を売っています。

 どのお野菜も、作っている農家さんと、奥田シェフの料理、農家さんほか皆の美味しそうな、満ち足りた様子が映し出されて、生産から、流通、加工、消費へ、そして生産農家さんへと、野菜と共に想いを共有できる循環がなりたっていて感動しました。


「『よみがえりのレシピ』と在来作物研究会の10年」

山形在来作物研究会代表江頭宏昌先生のお話



1.在来作物とは

☆在来作物との出会い

 私の学生時代の悩みは、科学の目的は何か?科学や科学技術の向う先は果たしてこれでいいのか?当時の育種改良は、農家が楽して高品質のものを沢山作れることが目的でした。
 そして、1994年川喜多次郎の「創造と伝統」に出会い、問題を創造的に解決するには3つの科学が必要だということを学びました。書斎の科学だけではダメで、実験科学と野外科学が私の研究には必要と、研究の道筋を立てました。足が地についた生き方、市民パワーの結集、世代から世代へ引き継ぐ、この3つの方向で、自分には一体何ができるのか?
 そこで出会ったのが、山形大学の元教授の青葉高先生の本「北国の野菜風土誌」でした。そこには、「野菜の在来品種は生きた文化財である」と書かれていて、戦後間もないころから日本各地の在来野菜の大切さと保存を訴えてこられていました。先生の記録によると、1976年の山形県内には76種類の在来野菜がありました。

 「在来野菜は生きた文化財」!

 では、今はどうなっているのだろう、まずは現状調査から始めようと決心しました。これで3つの科学が実践でき、自分の問題意識を実践に移せるかもしれないと直感しました。

☆在来作物とは

 山形在来作物研究会で決めた定義では、「ある地域で、世代を超えて栽培者自身によって種苗の保存が続けられ、生活に利用されてきた作物」です。野菜だけでなく、果樹、穀物、観賞植物なども含み、また、農業上、その他利用上、特徴が明瞭に区別できる作物の種類は在来品種と呼びます。

 在来作物は商業品種に比べて、収量は少なく、耐病性も弱く、外観もよくなく、日持ちもよくなく、味も万人向けではなく、苦い、辛い、強い香り等個性的ですが、食品(モノ)であると同時に、歴史、文化、栽培法や利用法など地域固有の知的財産の面も持ちます。
また、「生きた」文化財ですので、作り続ける人がいなくなれば消失して、二度と同じ遺伝子を持つ野菜を作り出すことは出来ません。

☆「在来作物」と「伝統野菜」との違い

 伝統野菜は、ブランド価値を高めることを目的として、場所や栽培期間、品質等の条件を決め、自治体や民間等の団体が認証したものをさすことが多いですが、在来作物はブランド価値とは無関係に、野菜、穀物、果樹、花弁等の作物の在来品種の多様性を守るための呼称です。

 「在来作物」は、新しく農家が自家採種を始めたものでも、世代を超えて自家採種で栽培され続ければ未来の在来作物になりうるし、自家採種する人が増えれば、風土に合った在来系統が育成され、多様性を高めることにもなります。

☆在来作物消失の原因

 農業人口の減少、古くさいというイメージ、生産や流通効率が悪くて市場価値が低い、栽培者の高齢化、都市化による農地の減少、保存食、飢饉時の備えの不要化等々。

2.山形在来作物研究会の設立とその活動

 03年11月30日設立、目的は、失われつつある作物の在来品種にもう一度光を当て、その多面的な価値を再評価して利活用を図ること。山形大学農学部の教員有志が中心となり発足。会長は08年度まで元山形大学農学部教授の高樹英明先生。山形に拘り、「山形在来作物研究会」としました。専門的な学会とは違い、高校生や主婦なども気軽に楽しく参加できる開かれた研究会にするため年会費は2000円。会費のみの運営で心配したが多くの方々の協力により、会報「SEED」も発行できました。在来作物の「種子」を守ると同時に、教育研究、食文化、農業、食品産業に新しい「種」をまきたいという願いを込めて会報の名前は「SEED」。毎年一回公開フオーラムを開き、全国から毎回150名前後の会員が集い、農家の声を聴く、料理・加工品を食べる、採種の意義を考える、保存食を考えること等をしてきました。2005年4月から在作研幹事が中心となり、料理人、県職員などが執筆者となり、隔週で4年間、計100回山形新聞に「やまがた在来作物」を連載し、県内の在来作物や食文化を丁寧に紹介しました。また、これをもとに、07年に「どこかの畑の片すみで」、10年に「おしゃべりな畑」を出版しました。

3.農家・レストラン・研究者とのつながりが原点

☆なぜ、お金にもならない、手間のかかる在来作物を継承してきたのか?

 農家を訪ねる度にその理由を聞くと、美味しいから、お世話になった人に喜んで食べてもらいたいから、自分の代で種を絶やしたくないから、などの言葉が返ってきました。
 これを聞き、残ってきたのは、農家の良心と想いの賜物だと思い知りました。そして、自分ができることは、そうした農家の今の想いを記録し、今の世間や未来に伝えることではないか。また農家が大切に継承してきた作物や農法をより広い視野から評価し、励ますことではないかと強く思いました。

☆アル・ケッチアーノの奥田政行さんとの出会い

 農家の訪問調査を始めた頃奥田さんと親しくなり、一緒に農家を回るようになりました。奥田さんは在来野菜ばかりではなく、魚、山菜、肉、果樹など様々な食材を発掘して、創作料理に取り組み、市民や全国から評判を呼んでいました。
 私は、新しい在来作物が見つかる度に、その特性を生かした新しい料理を奥田さんに創作してもらいました。もし、奥田さんの料理がなかったら在来作物の広がりはなかったと思います。在来作物を用いた新しい食文化を開拓したとして、奥田氏山形在来作物研究会が共同で2010年5月に第一回「辻静雄食文化賞」を受賞しました。

4.在来作物の魅力

 在来作物には多様性、地域の個性、つながり、という3つの魅力があります。

<多様性>
 山形を代表する果実、サクランボの代表品種「佐藤錦」は農家が作りだした在来品種ですが、最初の交配は1912年、品種名が付いたのが1928年です。当時は加工用サクランボが一般的でしたが、1970年代になると、加工用を抜いて生産量が首位になり、交配から約100年
経った2010年時点で、山形県のサクランボの全国出荷量シェアは72%です。鶴岡の「ダダチャ豆」も100年以上の歴史を持ち旧鶴岡市内で20億円以上の生産額を誇っています。今の価値観に合わないからといって、このことから、無価値に見える在来品種を捨てるべきではないということが分かります。

<地域の個性>
 山形を代表する在来野菜カブは山間地を中心に20種類前後の在来品種が分布し、郷土色あふれる食べ方もそこに根づいています。カブは短期間で栽培でき、寒さにも強く、保存性もよく、飢饉時には穀物に変わる重要な食べ物となってきました。

<つながり>
 在来作物を通して、都市住民との交流や、家庭でも世代間で食の継承が広がります。

5.山形の在来作物をとりまく近年の動き
 今年13年11月で山形在来作物研究会発足満10年。栽培農家さん、レストラン奥田さん、我々研究者と、理解あるマスコミが、一緒に様々なことをしてきました。そして、在来作物について市民の意識も高まってきました。山形県も力を入れ2011年に「やまがた伝統野菜展開指針」を出し、伝統野菜を「地域の宝」として、全県的な取り組みを展開していくことになりました。
 伝統野菜の栽培実態はさまざまで、ただ一軒の農家が家宝として継承しているもの、地域の数軒の農家が栽培し、地元で消費されているもの、生産が拡大し県外・全国に流通しているものなどがありますが、一律に生産拡大を目的にするのではなく、野菜の特性や現場に応じてやっていこうという提案です。

 鶴岡市も2010年にユネスコ創造都市ネットワークの食文化都市への加盟を目指して多様なことをはじめ、在来作物を次世代に伝えるためのレシピ集「はたけの味」、お米のレシピ集「たんぽの味」が出版されました。また地元の在来作物を活用し、ビジネスに結びつけるための講座が開かれています。山形大学農学部でも同様な講座「おしゃべりな畑実践講座」が2010年から毎年、無料で開講してきまして、 150名以上の修了生が知識と仲間のネットワークを生かして活躍しています。
 2011年10月に映画「よみがえりのレシピ」が公開されました。これは、「市民プロデューサ一になりませんか」と寄付金を集めて出来上がった、山形市民の手作りの映画です。在来作物を中心にして、栽培農家、レストラン、研究者、小学校、加工業者などにスポットをあてながら、食といのちと農の本来的な意味をごく自然に考えさせます。全国で上映が進むにつれて、在来作物の価値に目覚める人が急増しています。

6.おわりに

 在来作物の種子と利用の文化を守ってきたのは、効率化の波にもめげずに、また儲けとは無関係に、良心と愛情を持って継承してきた農家であることを忘れてはなりません。
 この地域の宝、在来作物を、今後どう保全し、継承していけばよいのか、各地で地域の事情を考慮した創造的な試行錯誤が必要でしょう。
 在来作物以外にも「無名の宝」が沢山あります。故郷の景観、里山、土、人の暮らしぶり、文化芸能、神様や仏様等々。在来作物の保全と継承を考えることは、「無名の宝」を維持するヒントにもなるのかもしれません。





質疑

 山形は、種の囲い込みが強いが、外に出さないと消えてしまう危険も強いのではないか、ジーンバンク計画はないのかとの質問に対して、「種は旅して伝わってきた」のも確かなので、反省している面もあります。ジーンバンクは運営が大変なので、利用しながら守っていくしかないと考えています。



おまけ

(こんな歌もあります)

「種をあやして」
作詞 あおきふみお
作曲 横澤 芳一
歌と演奏 影法師
企画制作 ひなた村

畑に育つ 野菜はやがて
花を咲かせて 種を稔らす
茎の枯れる頃 愛しむように
百姓の手が 種をあやす
※幾百年 幾千年
百姓は種をあやしてきた
明日蒔く種を 失くさぬために
いのちを未来に つなぐために

ここに伝わる 種は見てきた
私につながる いのちの歴史
私がこうして 生きているのは
あやし続けた 種あるおかげ
※繰り返し

いつしか百姓は 種をあやさず
どこかで作られた 種を播いてる
そこから未来は 見えるだろうか
そこからいのちは つながるだろうか
※繰り返し


保存会通信18号(25年秋)2013年6月22日~  ソバと雑穀、岩手の旅      代表 山根成人

2013年12月21日 | 保存会通信
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 2月の集会に岩手から来てくれた岩手県立大の山田加奈先生のお誘いで「種の話」を。
 途中主催の「岩手食文化研究会」の活動冊子など送ってこられて「しまった受けるのでなかった」と少し後悔したほど立派な活動をされている団体だった。しかし成り行き上しかたないのと個人的に行ってみたいという色気もありお受けした。


 23日、昼頃着いたが駅には先生が迎えに来てくれていた。
 少し市内を歩きながら案内してくれたが印象はとてもきれいな街だった。まず路上のゴミがほとんどない、歴史ある建物が残っている、水辺の植物が生かされている。姫路とは随分の差を感じざるをえなかった。
 会場には旧知の里内藍さんが来てくれていてびっくりしたが嬉しかった。来れたらというくらいに思っていたので、まさかという驚き。

 講演はいつものように「エフワンをご存知の方?」と聞いてみたが知ってる方は少なかったので[種]の変革を含め基本的な話で終わらせたが、さてさて如何なものだったか。
 質問も二~三人あったように思うが、最後にソバを作っている高家さんというご夫人がこぼれ種的な最初の種を採っているが、それでいいのかというような話があった。この質問が縁となり、翌日、彼女を訪ねることになるとは思ってなかったが、結果的には今回の私の一番の収穫はこの人との出会いにあったのだ。


 講演が終わり交流会があると案内されたのは会場の近くの店で。
 これもまあ垢抜けした店で東京だろうが京都だろうがどこに出しても引け取らぬくらいすっきりしていた。スタッフの対応も十分丁寧、料理の出し引き、全体量なども申し分はなかった。東北はすごいと改めて最敬礼。それに参加している面々はそれなりに各方面で何か大事なものを引き受けている人ばかり。岩手の在来種保存会なんてもう出来ているようなもので、在来種部門を誰かが引き受けてくれたらいいだけで、今まですでに二十品種くらいは立派な冊子になっていて、この日来ていたJAの渡辺さん?が担当してその続編を出版するというから恐れ入る。

 すっかり気分がよくなりホテルに荷物を預け、佳奈さんともう一軒ホテルの前の居酒屋に付き合ってもらったがここもまたよかった。地域性が感じられる魚菜に満足。


 24日朝、佳奈さんが迎えに来てくれ今日案内役をしてくれる田沢さんを紹介してくれた。事務局長で今回の講演を企画してくれた人だという。それにしても車を出してくれて一日付き合ってくれるという。
 どこに案内するか決まっていなかったらしく何となく高家さんの話が出て、「遠いけど行きますか」ということになり2時間かけて青森の近く葛巻町に向かった。昨日の高家章子さんの柔らかい物腰とその奥にある堂々とした生活から出た信念のようなものを想起しながら、途中道の駅や直売所も見学、一つの視点であった雑穀の郷もつぶさに見学、それは盛岡にはない様相だった。ここかしこにこの季節にあらゆる雑穀が売られている。これだけ乱された世にも根強く作り続けられている食文化に感動した。売り場に立つだけでも心が熱くなる。

 昼頃だったか江刈川集落に着き「森のそば屋」へ。
 古民家を利用したこじんまりした店ですぐに落ち着いた気分になる。何の前触れもなかったので章子さんは驚いていたが「是非来てくださいとは言いましたが、本当に来てくれるなんて」と何度も喜んでくれた。「今ソバは一番不味い時期になっています」というが決してそんなことはなかった。「保存はどうしてます、冷蔵庫?」「いいえ作り方も、干し方も、打ち方も保存もみんな昔のままでやっているんです、ほら隣でも保存してるんですよ」と窓から見える土壁の小屋を指差す。立派なものだなあと改めて感じ入る。それにしても彼女の話は耳につくほど「お父さん」が出てくる。「お父さんが何度も出てきますけど、お会いしたいですなあ。」すると嬉しそうに「私、年に二回、三百人くらいの集会で講演を依頼されるんですが、ある人が数えていて三十五回、お父さんが出てきたと数えられた」と言う。すごい夫婦だなあ。
 「ところで年にいくらくらい売り上げありますの?」といつものごとく無粋な質問「レストラン(みち草の駅)や売店とあわせて一億くらいです。」どん詰まりのような小さな集落で一億―――また驚かされた。「多いとき一日三百人くらい来てたけど震災後は少し減ってますね。(かつては二万二千人人来たこともありましたが)年間一万二千人くらいが来られているようです」恐れ入りました。

 食べ終わってから2階に案内してくれ「特別だけど」とソバ打ち、そば切りの現場を見せてくれた八十歳を越えた上山千代さんと七十代後半の上山トヨミさん。(正確を期すとこうなりますが・・・)には自然体でソバを切る姿は一切の道具を使ってない。ひょっとして上を向いていても切れるのでないかというほど普段の顔でーーー。この姿は自分の一生の思い出で消えることはまずないだろう。そこで焼きたての山女もご馳走になり感激。

 そうこうしているうちに「お父さんが帰ってこられた」という。
 記念撮影後はお父さんの作業場、水車小屋の見学。これもまた筆舌を超えた夢のような風物だった。小さな小川だが年中かれることのない川から引いた水路はかなりの勢いでバイパスを流れ直径三メートルもある水車をリズミカルに動かしている。すばらしい。中に入ってその工程をすべて丁寧に教えてくれる。収穫した四十五キロのそばが三十キロの粉になるまで。これと四町歩のソバを仲間と栽培するのがお父さんの仕事。見事な連携プレーで尊敬しあっている。こんな桃源郷のような生活スタイルは私の記憶にはない。自分自身の男として人間としての矮小さを感じながらの時間は何かすがすがしい。仏典そのものに浸っているような素直な自分に出会えた気がした。
 もう一基の水車が少し上流にあり、それも見学、最初に立ち上げた十二人の名前も刻まれていた。そばを碾く石臼を見て「これの手入れが結構ねえ」目立てということだろう。その道具も原始的には見えたが彼にとってはとても大切な道具だと話しているようだった。


 それにしても何と豊かな旅だったことだろう。山田佳奈さん、田沢さん、高家さんご夫妻、出合った人々と幻と思える在来のソバ。本当に有難うございました。

 帰りに名古屋で亀山氏と愛知の在来種保存会に向けた話を老舗居酒屋「大甚」で。
今回の旅はすべて棺おけとともに私の脳裏と付き合ってくれるだろう。

 ええ人 ええ酒 ええ話   の旅でした。

ひょうごの在来種保存会通信12号 近く発行!!!

2010年09月26日 | 保存会通信
近日、12号が発刊されます
原稿を戴いた会員様、ありがとうございました
今回も盛りだくさん!! 
(・・・載せられなくて先送りした原稿も多数・・・)
今号も編集に玉さまの手が入っていますので読みやすくなっています
ご期待ください!!!
☆写真は今回の元原稿や途中原稿の一部です。いろいろな原稿から作成しております。


さて、毎号写真を載せていますけど、通信は白黒刷りなのであまり見栄えが良くありません。
写真の代わりにイラストで載せたいんですけど、協力していただける方、いらっしゃいませんでしょうか?
sakura148@mail.goo.ne.jp でお待ちしてます。



北村ワサビ(続編) 【保存会通信8号より】

2010年02月21日 | 保存会通信
次に、種のことをお聞きしました。
北村わさびでは50年くらい前に静岡から導入したダルマを元に、ずっと種をとり続けていらっしゃるとのことです。「伊豆山系ではほとんど谷筋でわさびをつくっていますが、谷筋が違うとその地の水にあったものはできないのです。行き詰ると他から買うことになりますが、それはその地に合っていないので大変な苦労を伴う。わさびはその地でとり続けていくことが大切なんです。」五代目北村宣弘さんはHPに記載している。「当家では祖父の代から50年近くに渡り自家採種を続けています。植物は本来、その地で生き抜いて、より優れた子孫を残そうと環境にゆっくり適応していく能力を備えています。採種をしていくうちに、その地固有の作物に生まれ変わります。この地の湧き水、気候風土、栽培方法にうまく馴れ親しんだわさびは病気や病害虫に強く、たくましい生命力を発揮してくれます。これからも種を採り続け、この地ならではの姿かたちと風味をもったわさびを伝えていきたいと思います。」

全国的に有名な産地の大半は大規模農園で企業的に経営されています。そのような農園では種苗業者等から培養苗を購入するため、わさび農家が採種したりはしません。
お聞きすると実生苗を使う農家も残っているそうですが、ほとんど野菜農家等に種を採ってもらっているようです。
実生は良い苗を作ることができる期間が短く、煩雑になり大変難しいので全国的には仕方が無いことなのでしょうが、それだけに北村わさびさんの高い技術と信念には感服させられます。

「わさびは飲める水だけで生きてきた。とはいえ、やせ地では出来ないのです。」
「これだけ水が豊でも今も水に悩みます。」
「種を採るには恵まれすぎた環境ではよくありません。」
北村さんの言葉には、今までの長い栽培経験の蓄積と技術の自信が感じられる一方、現在も栽培に悩み、さらなる技術向上へ取り組んでいらっしゃる姿が見えます。

また、北村さん親子は「恩恵」という言葉を良く使われます。自然への感謝、自然からの恵み、長い時の流れ・・・栽培に対する思いが伝わってくると同時に、自分も自然に言葉が使えるようになれたら、と思いました。

 自家採種を続け、その地で世代を越えて作り続けられている在来種「北村わさび」。すばらしい方々とお会いできました。なお、北村わさびは大阪黒門市場で購入できますが、五代目が作成されているホームページでも購入できます。
 このホームページはすばらしい出来栄えです。一度ご覧ください。
http://kitamura-wasabi.com/

北村ワサビ 【保存会通信8号より】

2010年02月20日 | 保存会通信
前に北村ワサビを調査し、通信に掲載した私の記事です


「日高でわさび・・・!?」会員の辻本さんからの情報でした(2007年8月神戸新聞の記事)。豊岡で生まれ育ったが、こんなに近くにわさび農家があるなんて知りませんでした。それも相当りっぱな園らしいです。保存会5人で調査を行いました。

豊岡市日高町。JR江原駅から西に、スキー場で有名な神鍋山に向かって車で走ると、にじます、但馬牛、アマゴ・・・美味しそうな看板が目に入ります。そこが「十戸(じゅうご)」という地区で、その街道から少し山側に入ったところに北村わさびはあります。

急な訪問にもかかわらず、北村さんは調査を快く引き受けてくれました。お話を伺います。
現在、北村わさびは北村さん親子で栽培されており、お父さんが4代目、息子さんが5代目とのことですが、なんと北村わさびとして当地で始めた本家から数えると約300年の歴史があるとのことでした。
早速、園を見せて頂きます。北村さん宅のすぐ近く、住宅の合間の路地を通るとつきあたりにあるのは道を遮るトタンの壁。不自然に高いトタンの扉をそっと開けると、そこにはバーンと新緑の世界が広がりました。わさび園です。広い!きれい!

「面積は3反ほど。」とのことですが中央のポンプ小屋や張り巡らされた水路、周辺のハウスや小屋など含め、かなりの広く見えます。鹿が飛び出てきそうな深い緑の森林を背後に、若い黄緑のわさびが広がっているので広く見えるのでしょうか?それにしても綺麗な光景です。
足下のわさびも透明な水に弱々しくゆられて、敷き詰められた石にしがみついているようです。水はとても豊かに静かに流れ、まるで流れが止まっているようなその造形はゼリーのように見えます。

「水源はね、蘇武岳の雨水が地下水になって流れてきています。春は雪解け、夏は梅雨の水。秋は台風、冬は雪。年中絶えることがありません。この辺り15集落で5カ所の水源があり、毎秒700リットル、年中だいたい12.7度と、一定しているんですわ。」 
北村さんの話は自然の話が中心だ。
「ここらへんの地下水は火山灰で漉して湧き出てきます。」
五代目が作成するホームページにも記載がありますが、北村ワサビ園は神鍋山から約5km南にあり、このあたり一帯は、神鍋山(現在休火山)の火山灰がつもった黒ボク土地帯で、神鍋山やその周辺に降った雨や雪が地下に浸透し、堆積した腐葉土や岩石のミネラルを含み、北村さん曰く「天然フィルター」となる黒ボク土をゆっくり通って湧き水となっているとのことです。

園を見渡すと、苗を植えたばかりのところ、収穫が近そうなところ、なにも植えてなく、石がむき出しのところといろいろあります。また寒冷紗も装備されており、これは、このわさび園が本来のわさびに適した標高より低いため、夏場は寒冷紗で覆い気温を調節されているとのことでした。きめ細かい作業が想像されます。



次に、種のことをお聞きしました。・・・・(続く)・・・