ぷちとまと

FC東京、もう飽きた。

習慣に疑問を感じた時

2006年11月04日 01時54分46秒 | 雑記
美容院に行ったついでに、5日の天皇杯のチケットを買いにローソンに行こうとしたのですが、行かないという選択肢があることに気付き、行かないことにしました。

FC東京がベスト4まで残るとは全く考えていないので、天皇杯はこの試合しか観ないのだろうと思っていたのですが、勝って当然の相手ですし、別に嬉しくもなんともないですから。その対戦相手であるバンディオンセ神戸には森岡茂、和多田充寿、川崎元気といった元Jリーガーがおり、東京よりも神戸側で観ようかと考えていたくらいでしたが、それに昼間の半分を費す余裕もないかなぁというところです。

アウェーゲームには行かなくなった今でも、基本的にホームゲームは行くものだという習慣は無意識に守られてきたのですが、ついにそこへ疑問が向けられました。

ところで、カミュの『シーシュポスの神話』の中に、次のような文があります。

ふと、舞台装置が崩壊することがある。起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土、----こういう道を、たいていのときはすらすらと辿っている。ところがある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる、すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてがはじまる。《はじまる》これが重大なのだ。機械的な生活の果てに倦怠がある、が、それは同時に意識の運動の端緒となる。意識を目覚めさせ、それにつづく運動を惹き起す。それにつづく運動、それは、あの日常の動作の連鎖への無意識的な回帰か、決定的な目覚めか、そのどちらかだ。そして、目覚めの果てに、やがて、結末が、自殺かあるいは再起か、そのどちらかの結末が訪れる。

この後も延々と不条理についての論証が続くのですが、つまり何だ、不条理な状態の入口に来てしまったってこと?(笑)
僕の中で「決定的な目覚め」が起こってしまったのでしょうか…