縄文人の反乱 日本を大事に

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

【日本とトルコの友好の歴史】

2014年02月27日 17時36分37秒 | 色んな情報

【日本とトルコの友好の歴史】

1890年9月17日、トルコの軍艦エルトゥールル号が、
樫野崎沖で岩礁にぶつかり、沈没しました。...
乗船者は650名。生存者63名のうち58名が負傷。
つまり587名が死亡するという大惨事でした。

村民達は遭難したトルコ人を献身的に介抱しました。
この年は漁獲量も少なく、米価の暴騰などで食糧事情は最悪でした。
自分達でさえ飢えを凌ぐのに精一杯という状況の中、村民達は貴重な米を炊き出し、蓄えていたサツマイモをふかして出しました。
鶏は、村民達の最後の非常食でしたが、これも遭難者達に振る舞いました。
村民達は乗客員達に対し、献身的に看護にあたったのです。

エルトゥールル号の遭難を憂慮した天皇・皇后両陛下の意向を受け、
生存者を東京に移送する軍艦八重山が大島港に到着しました。

エルトゥールル号の生存者は、手厚く看護してくれた大島の村民達に見送られ、正午に大島港を出発する事となりました。

1985年3月17日、イラクのサダム・フセインは、
「今から48時間後、イランの上空を航行するすべての飛行機を、イラク空軍の攻撃対象とする」と唐突な爆弾発言をしました。
各国政府は自国民をイラクから脱出させようと奔走、そんな中、日本政府の対応は遅れました。

その時点でテヘランに取り残された日本人は200人以上、政府の対応が遅れた事により、日航機による救出は、事実上不可能になってしまったのです。
伊藤忠商事の森永尭氏はトルコのオザル首相に日本人の救出を頼りました。

オザル首相は「オーケーだ。すべてアレンジする」
「我々は日本人に恩返ししなければいけないからね」
と言い日本人の救出を引き受けました。

すぐにオザル首相の指示を受けたトルコ航空が救助機のパイロットを募ると、なんとその場にいた全員が手を挙げたのです。
トルコ人スタッフが命がけのフライトをしたおかげで、215名の日本人の命は救われたのです。
日本の学校でこの事実が教えられる事はありません。
しかし、トルコではエルトゥールル号の事件は教科書にも載っています。

トルコが親日的な理由は、近代史上初めて、有色人種が白人国家に勝利した日露戦争、そしてこのエルトゥールル号事件によるものなのです。


●藤原正彦 国語教育の重要性

2014年02月27日 16時44分41秒 | 色んな情報

●藤原正彦 国語教育の重要性
◆http://www.youtube.com/watch?v=Xhi2bE1o2r0
◆http://www.youtube.com/watch?v=BOA3oAVDiPw
●日下 公人(くさか きみんど)日本の評論家、作家  http://p.tl/StPH  http://p.tl/9Ln0
◆http://www.youtube.com/watch?v=SEXMddtcEmM
◆http://www.youtube.com/watch?v=3EklJA3U6JI
●藤原正彦・小学校英語教育反対
◆http://www.youtube.com/watch?v=lUp_uy47dIg

●藤原正彦 - カネより大事なコトがある


●たてし

2014年02月27日 14時32分08秒 | 色んな情報

●たてし
◆たてし  【〈殺陣〉師】
殺陣(たて)を考案し、立ち回りの型を俳優に教える人。
 
◆時代劇小説  http://p.tl/XV8z
☆殺陣(たて)または擬闘 http://p.tl/kmwN 舞台、映画、テレビドラマなどで披露
 
◆チャンバラ  http://p.tl/KKdn
チャンチャンバラバラの略。白刃を持って斬(き)り合うことの俗称で、演劇、映画、テレビなどの用語として使われている。1917年(大正6)に新国劇を旗揚げした沢田正二郎が従来にない迫真的な殺陣(たて)を考えた。
 
◆御家人斬九郎 殺陣 .
http://www.youtube.com/watch?v=xgL2RVso0Io
 
◆三船敏郎物語 | 超高速殺陣の秘密
http://www.youtube.com/watch?v=_le_9ntlet0
 
◆.三船敏郎 七人斬り
http://www.youtube.com/watch?v=zTM5rwzLRcI
 
◆子連れ狼名シーン①怒りの拝一刀 .
http://www.youtube.com/watch?v=JEREGFspS4Q


●たて

2014年02月27日 14時08分09秒 | 色んな情報

●たて
◆たて  【立て】
(名)
〔動詞「立てる」の連用形から〕
(1)筋。趣旨。
「なあにそりやあ軍書の講釈だ。あつちのは―が違はあ/滑稽本・浮世床(初)」
(2)きまり。おきて。たてまえ。
「この廓(さと)の―だといつても/人情本・娘節用」
(3)宴会。酒宴。遊興。
「是か、こりや―に行く大尽衣装ぢや/浄瑠璃・新版歌祭文」
(4)遊興費などを一人でひきうけること。おごり。
「わたしが―でござります/歌舞伎・韓人漢文」
(接頭)
役目などを表す名詞に付いて、中心となるものの意を表す。第一の。筆頭の。
「―行司」「―女形(おやま)」
(接尾)
(1)動詞の連用形に付いて、その動作が終わったばかりの意を表す。…したばかり。
「焼き―のいも」「出来―のほやほや」
→だて
(2)助数詞。勝負に続けざまに負けた数を数えるのに用いる。連敗。
「三―を食う」
----------
・たて  【建(て)】
株の信用取引や商品の先物取引で、売買の契約をしたこと。
「売り―」「買い―」「―玉(ぎよく)」
----------
・たて  【盾/楯】
(1)戦闘の際、敵の矢・刀槍・銃による攻撃から体を隠し、身を守るための防御用の武具。手に持って使う持ち盾(手盾)と、地上に置いて用いる置き盾(掻盾(かいだて))がある。
(2)自分の身を守るのに都合のいいような手段。
「証文を―に居座る」
» (成句)盾に取る
» (成句)盾の半面
» (成句)盾の両面を見よ
» (成句)盾を突く
----------
・たて  【〈殺陣〉】
演劇・映画で、斬り合いや捕り物の場面の立ち回りの演技。また、その演技を振り付けること。
「―をつける」「―師」
----------
・たて  【縦/竪/経】
(1)(水平に対して)上下の方向。垂直の方向。また、その長さ。
「―に線を引く」「―長」
(2)(左右に対して)前後への方向。また、その長さ。
「―に並ぶ」
(3)(比喩的に)同僚との関係ではなく、上司と部下との関係。
「―の人間関係」
(4)南北の方向。また、その距離。
(5)「経(たて)糸」に同じ。
「―もなく緯(ぬき)も定めず娘子(おとめ)らが織るもみち葉に霜な降りそね/万葉 1512」
⇔横
» (成句)縦から見ても横から見ても
» (成句)縦の物を横にもしない
----------
・たて  【館】
「たち(館)」に同じ。多く関東・東北地方で用いた。
----------
・たて
(連語)
〔過去・完了の助動詞「た」に終助詞「て」の付いたもの〕たよ。たわい。
「さやうさやう、申しやし―/滑稽本・和合人」
「楯」に似た言葉»  盾  手楯
 
◆日本語活用形辞書
・絶て、経て、截て、建て、立て、断て、発て、裁て
読み方:たて
タ行五段活用の動詞「絶つ」「経つ」「截つ」「建つ」「立つ」「断つ」「発つ」「裁つ」の命令形。
----------
・閉て、建て、立て、点て
読み方:たて
タ行下一段活用の動詞「閉てる」「建てる」「立てる」「点てる」の連用形である「閉て」「建て」「立て」「点て」、あるいは連用形が名詞化したもの。
----------
・奉て、献て
読み方:たて
タ行下二段活用の動詞「奉つ」「献つ」の連用形である「奉て」「献て」、あるいは連用形が名詞化したもの。
 
◆たて  隠語大辞典
1.太公望連の賭博をいふ。
2.太公望連の賭博をいう。
----------
・タテ
読み方:たて
1.門ノコトヲ云フ。〔第七類 家屋其他建造物之部・埼玉県〕
2.門ノコトヲ云フ。〔第七類 家屋其他建造物之部・静岡県〕
3.門ノコトヲ云フ。〔第七類 家屋其他建造物之部・富山県〕
4.門ノコトヲ云フ。〔第七類 家屋其他建造物之部・和歌山県〕
5.門ノコトヲ云フ。〔第七類 家屋其他建造物之部・福岡県〕
6.門扉。〔第五類 一般建物〕
分類 和歌山県、埼玉県、富山県、福岡県、静岡県
----------
・他手
読み方:たて
当手に対するもので自己の取引銀行以外の銀行から振り出した手形、小切手等をいう。
分類 会社・株式/経済
----------
・建
読み方:たて
定期取引にて売買の契約を為したること、売建とは売りの契約、買建とは買ひの契約を為したるをいふ。
----------
・立
読み方:たて
1.芝居にて大勢を相手に太刀打ちをすること、修羅場にいふ。
2.立廻りに同じ。
分類 演劇
----------
・立
読み方:たて
下座三味線の首位。
分類 芸能


●斬馬刀

2014年02月27日 13時30分11秒 | 色んな情報

●斬馬刀
◆水鴎流(すいおうりゅう)
武術の流派の一つ。正式には水鴎流居合剣法(すいおうりゅういあいけんぽう)という
戦国時代末期に三間与一左衛門景延(みま よいちざえもん かげのぶ:1577年-1665年)が創始した武術で、静岡県に現存する。

居合剣法(居合)(48本)を中心に、剣法(15本)、薙刀術(40本)、杖術(42本)、小具足(10本)を含み、第9代の福原景利が正木流万力鎖術より編み出した正木流鎖鎌術(16本)をも併伝している。流儀の特長としては、実際に相手を立てて稽古することを重視している。

現宗家は第15代 勝瀬善光景弘。静岡市清水区の碧雲館道場で指導に当たる。

なお、漫画『子連れ狼』の主人公・拝一刀が学んだ剣術流派として知られているが、これは偶然の一致である。作中では水の中(主に川や池)での立ち合いで無類の強さを発揮するものであり、登場する剣技は一部を除き全て創作である。
 

 
◆『子連れ狼』(こづれおおかみ)
小池一夫原作・小島剛夕画の日本の時代劇漫画(劇画)作品。
1970年9月から1976年4月まで『漫画アクション』(双葉社)に連載された。
 

 
◆斬馬刀  http://p.tl/d/JkSw
ざんばとう
日本の刀剣類の一つ。・・・ではなく、本来は後漢~宋代に用いられた対騎兵用の武器であるが、近年の創作物の影響で大太刀・長巻と混同される場合が多い。本来は大太刀とも設計思想・国籍・時代が異なる全く別の武器でもある
 
◆斬馬刀とは (ザンバトウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科  http://p.tl/y4I7
1.中国大陸で使われた対騎兵用の武器であり漢・宋・明代に用いられたといわれており、
漢代に用いられた物は薙刀に近く宋代に使用されたものは長めの刀剣(おそらく直刀)のようなもの
と言われているがその他の王朝の物は詳細は不明。
2.大太刀ないし長巻の誤った名称。元ネタは「バイオレンスジャック」の登場人物が扱う巨大な刀から
という説が有力。また、  江戸時代以前の日本側の文献には斬馬刀という名称の武器は登場せず本来は、
大太刀や長巻とは国もコンセプトも違う「完全な」別物である。
3.1.や2.に関連して架空か実在か問わず大型両手刀剣をこう呼ぶことがある。
 
◆残念!斬馬刀は敵将の馬の足を狙う、セコイ武器だった。http://p.tl/62gu


●袖志の女

2014年02月27日 13時07分56秒 | 色んな情報

●袖志の女
◆http://www.youtube.com/watch?v=86A8RTVldeI&list=PLEB9E83DF4F5EDBFE
 
◆時代劇での言葉 先日「子連れ狼」の放送を見ていて疑問に思ったのですが 劇中に...http://p.tl/_BNc
 
◆第21話「袖志の女」 http://p.tl/hhnP
あ、菅井きんだ。平成版『子連れ狼』で見たエピソードを錦之介バージョンで見るのは初めて。原作は一緒でもかなり変更がありますね。それはさておき、女だけの里に子連れ狼の姿は一種異様でしたね。それから、たった1度の契りだけで夫と呼べるものなのか疑問。大五郎はいじめられてました。でも、そんなことでは負けません(笑)。
 

 
◆草忍とは  http://p.tl/INbD
   例えるならば、草のように、忍者のように、気配をなくして、そこに人がいないかのように静かな存在になってみよう、一本の草が、そよぐ風に身を委ねるように一度何もかも地球に身を預けてみようという意味です。

 人間の知識を超えたところにある様々な問題を理解するには、まず、自分自身が深く落ち着き、地球のリズムを感じることができなければ、本当の理解に至ることができないと思うのです。
 

 
◆忍者にまつわる雑学  http://p.tl/HkBT
忍者という存在は、神秘的な部分と身近な部分を併せ持っているといえます。フィクションではどちらかと言えば、忍者の神秘的な部分ばかりがクローズアップされることが多いのですが、忍者の身近な部分もまた素晴らしい知恵や経験が蓄積されているのです。 

 
◆忍者ってほんとうにいたんですか?  http://p.tl/gfli
 またくのいちと言われる女忍者の役目は体で敵を籠絡し、情報を引き出したり相手を言うがままに操ったり味方の手引きをするというものでした。 敵の本拠地に忍び込んで機密書類や証拠品を盗み出したりその構造を解析したりする役目もありました。(時には先に潜入させたくのいちの手引きを受けることもありました)
 一連のこれらは特に江戸時代に多かったものです。 幕府の忍をおそれ嫌がった薩摩が人工的に方言を作り出し、この方言を真似ることが難しかったことから「草」を潜入させてもすぐにばれてしまい、情報収集がなかなか成功せず、それが功を奏して島津は幕府に知られずに莫大な資金を蓄えることが出来、それが明治維新に繋がったというのは有名な話です。


●箱根関

2014年02月27日 11時45分13秒 | 色んな情報

●箱根関
◆箱根関所(はこねのせきしょ)http://p.tl/o9_E かつて箱根にあった関所である。
箱根関所。2007年3月に復元された。
狭義においては江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国足柄下郡箱根(現箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の箱根関所(はこねせきしょ)を指すが、広義における「箱根関」は江戸時代以前に箱根山山麓に置かれた関所及び江戸幕府が東海道と並行して走る脇往還に設置した関所も含んでいる。
・解説
箱根に関所が設置された始期については定かではないが、律令期には既に箱根峠を経由する箱根路が開設されるとともにその路上に関所が設置されており、足柄峠の足柄路とともに関東防衛の役割を担った。平将門の乱の際に平将門が箱根に兵を派遣してこれを封鎖することを考え、承久の乱の際にも北条義時が御家人から出された箱根路・足柄路に置かれた関を固めて同地で官軍を食い止める策を斥けて兵を上洛させたと伝えられている(『吾妻鏡』承久3年5月19日条・『承久記』など)。室町幕府の鎌倉府も箱根に関所を設置して関銭の徴収を行った事が知られ、康暦2年(1380年)には、箱根の蘆川宿に関を3年間限定で設置して円覚寺の修繕に充てたと伝えられ、その後も応永13年(1406年)に箱根山中の水飲峠に水飲関が置かれたという。その後、戦国時代に後北条氏が箱根山の西側(伊豆国)に山中城を設置した際に関所の機能を吸収したという。

後北条氏滅亡後、江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置したのである。

箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされ、通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。これにより、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。

箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。

箱根関所以外にも箱根裏街道には仙石原関、足柄路の流れを汲む矢倉沢往還には矢倉沢関所、熱海入湯道(熱海道)に根府川関所など5ヶ所の脇往還にも関所が設置された。江戸幕府の公式な箱根関所と5つの脇関所から江戸時代の箱根関が構成され、それ以外の経路を通過することは「関所破り」「関所抜け」として固く禁じられていた。

明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したときに廃止された(ただし、幕末の慶応の改革の段階で簡単な検問機能のみに縮小されていた)。跡地は国の史跡とされ、昭和40年(1965年)になって箱根町立箱根関所資料館が開設された。
 
◆入鉄炮出女 - Wikipedia  http://p.tl/Io4z
 入鉄炮出女(いりてっぽうとでおんな)は、江戸時代における交通政策の1つ。「入り鉄炮出女」とも表記される。
・解説
関所の機能についての端的な表現として用いられた言葉で、江戸に入ってくる鉄砲(「入鉄炮/入鉄砲」)と、大名の家族の女性が江戸より出て行かないように江戸から外に出て行く女(「出女」)、特に注意して取り締まられたという意味でこう呼ばれていた。

江戸と地方を結ぶ関所を通過する際には入鉄炮には老中が発行する鉄炮手形、出女には留守居が発行する女手形の携帯が義務付けられていた。

鉄砲を関所の内側(江戸方面)に入れる際には、鉄炮手形を関所に提出させ、次に関所に備え付けられた「判鑑」にて手形に記された老中の印鑑が真正であるかを確認し、更に鉄砲の所有者・挺数・玉目・出発地と目的地が手形の記載通りであるかを確かめた後に初めて通過を許した。また、鉄砲などを隠す空間を作りやすい長持の検査も厳重に行われた。江戸時代には東海道の新居関がその厳重な監視で知られていた。なお、意外にも江戸からの鉄砲の持ち出しについては簡単な検査ののちに通過を許したとされている。

女性が関所の外側(地方)に出る際には女手形を提出させ、次に関所に備え付けられた「判鑑」にて手形に記された幕府留守居の印鑑が真正であるかを確認した。女手形は別名「御留守居証文」ともいい、関所を通るにあたって旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記されていた。箱根関の場合は特に厳しく、女の身体的特徴を専門に検分する人見女(髪改め女)が常駐し、出女の監視を行っていた。人見女の検査は厳重であり、髪の毛の有無や身体的特徴、ほくろや妊娠の有無などについてまで吟味されたという。更に女による男装の疑いがあれば、男に対しても同様の検査が行われたとされている。これは通行手形の発行手続が男の方が容易であり、女が男の振りをして手形の発行を受ける可能性があったからである。もっとも江戸幕府が伊勢神宮参拝者や温泉湯治などを行う者に対しては「書替手形」と呼ばれる特別な手形を出す例があり、これを受けた者については予め幕府が身元を確認したものと看做してより簡単な手続で済まされる例もあった。

関所破りは重大な犯罪とされ、これを行おうとした者、あるいはそれを手引きしたものは磔などの厳罰が課された。もっとも、裏金や賄賂などで内々に関所を通過する者が後を絶えず、加えて文久の改革の参勤交代緩和によって、関所での手続自体が大幅に緩和されて「女手形」も簡素化された。そして慶応3年(1867年)8月には慶応の改革に伴って、手形が無くても関所の通行が許可されるようになり、事実上関所改めは廃止されることとなった。
 
◆関所 「女改め」厳しい検問 : 広重をたどって 中山道編 http://p.tl/mBKR
 贄川(にえかわ)宿(長野県塩尻市)の話を続ける。地名の由来は昔、温泉が出たことにちなみ「熱川(にえかわ)」と書かれ、後に贄川と転じたとか、諏訪大社の神事にコイやマスを「贄(にえ)(お供え)」として奉納したからだという。いずれにしても、奈良井川の谷筋が狭く、深くなり、道を確保するのがやっとという地形を生かして贄川関所はあった。

 
◆女 改 め  http://p.tl/IdqU
 幕府は大名の妻子が江戸から国元へ逃げ出すことを厳重に警戒し、女性が関所を通過する場合には上り下りとも女手形が必要であった。

女手形には通行人数、乗物の有無とその数、出発地と目的地等のほか、禅尼・尼・比丘尼・髪切・小女の区別を明記することが義務づけられていた

禅尼とは身分の高い人の後室とかその姉妹で髪を剃った人をいい、尼は普通の女性の髪を剃った人、比丘尼はいわゆる女僧のことをいう。髪切とは髪の長短ではなく惣髪の先を切り揃えている女性をいい、小女とは零歳児から振り袖を着用している女児をいう。
 
◆出女  http://p.tl/0ctP
  「御留守居証文」を携えた出女が関所に差し掛かると、まずは江戸口千人溜りで待機します。やがて関所役人から「こちらへ」と声がかかり、関所構内へと入り、居並ぶ関所役人の前へ進みます。ここで、関所役人に箱根関所あての「証文」を差し出すのです。役人は「証文」の文面を確認した後、女性を検査する専門官に改めを指示します。この人は、「人見女」と言われる役人ですが、たいていお婆さんで、「改め婆」などと呼ばれ、女性の旅人から恐れられていました。「改め婆」は、出女の髪を解き、「証文」に記載されている髪形や特徴を調べるのです。「改め婆」は検査の結果を役人に告げ、異常がないことが確認されれば、関所を通る許可が下ります。もし「証文」記載と一致しなければ、関所を通ることはできず、「証文」の取り直しが命ぜられます。
 なお、女改めが行われている時は、他の旅人は関所構内に入ることはできず、江戸口・京口の両千人溜りで待たされることになります。
 

 
◆関所(せきしょ)http://p.tl/lj7p
交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。単に関(せき)とも。
陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。
陸路では、峠や河岸に設置されることが多い。
 

 
◆荷留(にどめ)http://p.tl/ol2S
生活物資(主にコメ)を地域外へ移動させることを禁ずる命令、もしくは行動。港にて船の荷揚げ荷下ろしを制限することは津留(つどめ)と呼ばれた。戦国時代から明治時代初頭にかけて行われた。

多くは各藩や直轄奉行所などが発する公的な命令であったが、飢饉の拡大を恐れた農民や住民が私的な関所を設けて行う例も見られた。

戦国時代には、敵地への経済封鎖の一環として、米穀や塩の輸送を禁じることが行われた。「敵に塩を送る」という故事のきっかけは、今川氏真によって甲州側への荷留(塩止め)が行われたことがきっかけである。

江戸時代の場合は、食糧確保のための自衛措置や一部の者が不当な収益をあげることを目的に行われるようになった。江戸時代は、藩単位で見ると農業政策はまちまちであり、冷害などで米の収穫量が減少すると、地域ごとに米の保有量や米価に大きな不均衡が生じた。平常時に不均衡が生じると、物資の移動により均衡状態に向かうこととなるが、さまざまな思惑、例えば、

飢餓輸出的な物資の流出防止
敵対する隣接藩への報復措置
米価つり上げを狙う商家や官吏の結託
などの理由により、しばしば荷留が行われるようになった。具体的な方法としては、関所における物資流通の制限、沖仲仕の活動停止など多岐にわたる。


●まんどう 【万灯】燈篭流し

2014年02月27日 10時19分15秒 | 色んな情報

●まんどう  【万灯】燈篭流し
◆まんどう  【万灯】
(1)数多くのともしび。特に、仏前にともす多くの灯明。まんとう。
「長者の―より貧者の一灯」
(2)「万度(3)」に同じ。特に、一〇月一三日東京池上の本門寺や堀の内の妙法寺など日蓮宗の寺で、御命講(おめいこう)の夜に掲げて練り歩く灯籠提灯(とうろうちようちん)。[季]秋。《―の花ふるへつゝ山門へ/山口青邨》
--------------------------------------------------------------------------------
・まんどう  【満堂】
堂いっぱいに満ちていること。また、堂にいる人全部。満場。
 
◆万灯   隠語大辞典
読み方:まんどう
1.月夜ノコトヲ云フ。〔第八類 天然之部・茨城県〕
2.月影鮮カナル夜半。〔第一類 天文事変〕
3.月影鮮かなる夜半のことをいふ。〔犯罪語〕
4.月夜を云ふ。
分類  犯罪語、茨城県
 
◆万灯 【まんどう】 百科事典マイペディア
万灯供養,万灯会(え)の略。懺悔(ざんげ)や罪障消滅のために,仏・菩薩に多くの灯籠(とうろう)(万灯)に灯明をともして供える法会。日本の初例は651年宮廷で開催されたといわれるが,8世紀には東大寺・本元興寺(もとがんごうじ)・薬師寺などで恒例の法会となり,中世以降は庶民層にも貧者の1灯が強調された。
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。
 
◆まん‐どう 【万灯】
1 数多くの灯火。
2 四角い枠に紙をはって箱形にし、「某社御祭礼・氏子中・子供中」などと書き、下に長い柄をつけてささげ持つもの。祭礼などに、中に灯火をともして担ぎ歩いたり飾ったりする。万度(まんど)。《季 秋》
3 「万灯会(まんどうえ)」の略。
 
◆世界大百科事典内の万灯の言及.
【万灯会】より
…1万坏あるいはそれに準ずる多くの灯明をともして,仏・神を供養する法会。単に万灯ともいわれる。繁栄安穏を祈り,懺悔滅罪のために個人あるいは国家などが行ったもので,万灯会に対して千灯会といわれる法会も行われた。…
 

 
◆吉原の万灯籠(よしわらのまんどろ)http://p.tl/-Bca
京都府舞鶴市に伝わる伝説的で勇壮な火祭りのひとつ。京都府登録無形民俗文化財に登録されている。
約300年程前に、大くらげが大発生し、漁がまったく出来なくなったこと、また、同時期に海での事故死が多発したことから、くらげ退治と海難防止、併せて豊漁を祈願して始められたもの。

魚の型をした高さ約18mの竹でつくられた舟型の万灯籠に、愛宕山にある愛宕神社から運んできた神火を点火し、伊佐津川の中に立てて回転させ、海神様の怒りを静めたところから始まったとされる。
 
◆万灯夜へようこそ! | 越前朝倉万灯夜  http://mantouya.jp/
越前朝倉万灯夜(えちぜんあさくらまんとうや). 約10,000個のキャンドルが一乗谷朝倉氏遺跡で灯ります。展望台から見下ろすキャンドルの灯る景色は、歴史を感じさせてくれて夏の最後の思い出になるでしょう。ご家族・お友達・カップルで是非お越し下さいませ。
 
◆長者の万灯より貧者の一灯 - 故事ことわざ辞典
【読み】  ちょうじゃのまんとうよりひんじゃのいっとう 
【意味】  長者の万灯より貧者の一灯とは、金持ちが見栄をはったり、儀礼的に多くの寄進をするよりも、貧しい人が真心を込めてする寄進のほうが尊いということ。 

【長者の万灯より貧者の一灯の解説】
【注釈】  金持ちが捧げる多くの灯明より、貧しい者が真心を込めて供える一つの灯明の方が、仏は喜ぶという意味から。
大事なのは量や金額ではなく、誠意の有無だという教え。
『阿闍世王受決経』にある以下の故事に基づく。
阿闍世王が釈迦を招待したとき、宮殿から祇園精舎へ帰る道を、たくさんの灯火でともした。
それを見た貧しい老婆が、自分も灯火をしたくてなんとかお金を工面し、やっと一本の灯火をともすことができた。
阿闍世王がともした灯火が消えた後も、老婆がともした一本の灯火は朝になっても消えなかったという。
「長者の万灯より貧女の一灯」「長者の千灯より貧者の一灯」、単に「貧者の一灯」とも。 
【出典】  『阿闍世王受決経』 
【注意】  - 
【類義】  長者の万貫貧者の一文/貧女の一銭 
【対義】  - 
【英語】  the widow's mite.(貧者の一灯)
He who gives little gives from his heart; he who gives much gives from his wealth.(少し与える者はその真心を与え、多く与える者はその富より与える) 
【用例】  「長者の万灯より貧者の一灯で、彼からの募金は涙が出るほど嬉しかった」


●まろほし

2014年02月26日 21時20分53秒 | 色んな情報

●まろほし
◆十手  http://p.tl/OMtd
・その他・逸話など
宮本武蔵の父、新免無二斎(宮本無二斎)は当理流(當理流)の十手術の達人といわれ、将軍足利義昭から賞められたと伝えられる。
マロホシ圓明實手流や一角流十手術などには鉤と十字状の大きい鍔を持ち、槍状の穂先を持った使用状況によってオプションを変形させて用いる特異な實手:機械十手(一角流では「マロホシ」)が伝わっている。これらは現在では使用法は失伝しているが、圓明實手流と類戚関係にある鉄人實手流の伝書には右手に太刀、左手に實手を持った絵図面が載せられている。
 
◆まろほし銀次捕物帳 / 徳間文庫  http://p.tl/xnJI
 
◆子連れ狼 「まろほし豆庄」
http://www.youtube.com/watch?v=aZ0kWa_AV_g&list=PLEB9E83DF4F5EDBFE
老人と娘の親子連れ。
せっかちな父親に文句を言いながら、ついて来る娘。

その時、遠くの枯れ野で浪人同士の斬り合いが始まった。


老人と娘が見守る中、囲まれた方の浪人が次々と敵を斬り捨てる。
勝負あったかに思えたが、残りの一人が箱車に乗った幼子に刀を突きつける。
 
◆マロホシ十手  http://p.tl/BD9e
 マロホシ十手は極めて珍しい存在で現在の所たった一丁しか発見されていない。

名称を不詳であったが一角流伝書に近似した図があり、それによると「マロホシ」と呼ばれていたらしい事が分かる。ただ微細には図にも異同があり、折り畳みの出来る部分まで明確に描かれていない事、チェーン(この工作は中々に高度な技術である)のない。また手貫緒が翼を通している点など相違点がある。しかし大体は同じ器械であり、マロホシ十手という名称は中々粋であると思われる。


●お七里さん

2014年02月26日 20時14分19秒 | 色んな情報

●お七里さん
◆しちり-びきゃく  【七里飛脚】
 七里継ぎ宿に待機し、急な使いを果たした中間(ちゆうげん)。
・「七里飛脚(びきやく)」の略。
 
◆七里飛脚   歴史民俗用語辞典
読み方:シチリビキャク
江戸時代の脚夫。藩から江戸にいたる街道の七里ごとに置いた。
 
◆七里(しちり、ななさと)
・七里(ななさと):埼玉県さいたま市見沼区にある地区名で、かつてあった村名。
・七里ガ浜(しちりがはま):神奈川県鎌倉市にある地名で、浜の名称・七里ヶ浜から由来。
・七里ヶ浜駅:上記にある駅
・七里村(しちりむら):山梨県にかつてあった塩山市の旧名。現在の甲州市。
・七里岩(しちりいわ):山梨県にある台地。
・中山七里(なかやましちり):岐阜県下呂市にある渓谷。
・七里の渡し(しちりのわたし):東海道五十三次にあった海上の渡し。
・七里御浜(しちりみはま):三重県熊野市にある浜。
・日本人の姓。
 

 
◆きゃくふ  【脚夫】
(1)「運脚(うんきやく)」に同じ。
(2)郵便配達をする人の古称。
「脚夫」に似た言葉»   軽子  運送人
 
◆脚夫   歴史民俗用語辞典
読み方:キャクフ
律令時代、いろいろな官物を歩いて運輸した人夫。
別名 運脚(うんきゃく)
 

 
◆うんきゃく 【運脚】
律令時代に、租税の庸(よう)・調を都まで運んだ人夫。農民にとって重い負担となった。脚夫。担夫。
 
◆運脚   歴史民俗用語辞典
読み方:ウンキャク
律令時代のいろいろな官物を歩いて運輸した人夫。
別名 担夫、脚夫(きゃくふ)
 

 
◆かるこ  【軽子】
(1)軽籠(かるこ)で荷物を運んだ人足。運び人足。人夫。
(2)江戸深川の遊里の仲居(なかい)。
(3)墨糸の端につける木片。墨打ちの際、先端の針で材料に留める。
→墨壺
「軽子」に似た言葉»    脚夫  運送人
 
◆軽子   歴史民俗用語辞典
読み方:カルコ
江戸時代、人に雇われ、背負い荷物を担ぎ運ぶ人足。
 
◆軽子   隠語大辞典
読み方:かるこ
以前江戸の日本橋、魚河岸などで船から問屋迄の荷役を勤めた者であるが現今では青物市場(やつちやば)橋詰等にて立ちん坊として荷主の助力をなす者を云ふ。
 

 
◆青物市場 隠語大辞典
読み方:やっちゃば,やつちやば
1.本郷区駒込浅嘉町にあり、毎朝市を開きてヤッチヤヤッチヤヤッチヤと呼び声高く張り揚ぐるより起れり。
2.〔俗〕青物市場の事。
3.青物市場。八百市場の転化。〔業〕
4.青物市場。八百市場の転語。
分類   東京、業


●温石(おんじゅく)

2014年02月26日 19時27分38秒 | 色んな情報

●温石(おんじゅく)
◆おんじゃく  【温石】
(1)焼いた石を綿などで包んだもの。冬、体を暖めるのに使った。焼き石。[季]冬。《草庵の―の暖唯一つ/虚子》
(2)〔温石をぼろ切れに包んで用いたことから〕ぼろを着ている人をあざけっていう語。
 
◆温石  季語・季題辞典
読み方:オンジャク
腹部を暖めるために、蛇紋石の類を火で焼き、布切れで包んで懐中するもの
季節 冬
分類 人事
 
◆温石(おんじゃく)http://p.tl/ExLB
平安時代末頃から江戸時代にかけて、石を温めて真綿や布などでくるみ懐中に入れて胸や腹などの暖を取るために用いた道具
防寒だけでなく治療の効果も期待され、温める石は滑石・蝋石・蛇紋岩・角閃岩等が好まれた。懐炉の原型にあたると考えられる。中世においては滑石製の石鍋の破片を転用したものも多い。

漢方医学の世界においては、熱熨法(今日では温罨法と呼ばれるのが一般的である)に用いられた。温石を用いる方法を「蔵身法」と呼び、今日の岩盤浴も原理的にはこれに近いと言える。

また、「懐石料理」の語源としては、禅寺で修行僧が空腹や寒さをしのぐため温石を懐中に入れたことから、茶の席で出す一時の空腹しのぎ程度の軽い料理、あるいは客人をもてなす料理をそう呼んだという説がある。

なお、以下にみるように、温石の出土例では、小孔(小さい穴)が穿かれたものが多いが、これは火鉢などで石を温めたとき、その石でヤケドをしないよう、直接、手などにふれないための工夫と考えられる。つまり、針金状のものを孔に刺し入れるか、火箸を孔に引っかけるかして、温まった石を引き寄せ、布などにくるんだものであろう。
 

 
◆かいろ  【懐炉】
懐中に入れ、体を温める器具。懐炉灰またはベンジンなどの燃料に点火して金属製の小箱に入れ密閉して用いる。[季]冬。
 
◆懐炉   季語・季題辞典
読み方:カイロ
ふところに入れて体を暖める具
季節 冬
分類 人事
 
◆懐炉(かいろ)http://p.tl/AWWb 懐中に入れて暖をとる道具である。


●折助●

2014年02月26日 19時06分46秒 | 色んな情報

●折助●
◆おりすけ 【折助】
江戸時代、武家で使われた小者(こもの)の異称。
「旦那さまも―も孰(どれ)が孰やら/滑稽本・浮世風呂(前)」
「折助」に似た言葉»    下男  召使い  僕従  使用人  下働き
 
◆折助  隠語大辞典
読み方:おりすけ
1.制服巡査。〔第二類 人物風俗〕
2.制服巡査を云ふ。
3.制服巡査のこと。
 
◆こもの  【小者】
(1)年の若い人。
「おのれ程の―と組んで勝負はすまじきぞ/太平記 9」
(2)武家で、中間(ちゆうげん)の下位にあって、走り使いなどする者。こびと。
(3)町家で、身分の低い奉公人。下男。丁稚(でつち)。
「跡より―若い者/浮世草子・永代蔵 1」
(4)「小物(4)」に同じ。
「小者」に似た言葉»    下男  召使い  僕従  使用人  下働き
 
◆小者   歴史民俗用語辞典
読み方:コモノ
武家などに雇われ雑役に使われた者。
 
◆小者  隠語大辞典
読み方:こしゃ
大物でない芸人。こせこせした下積みの芸人。
分類 芸能
----------
・小者
読み方:こもの
男の召使。
 
◆武家奉公人(ぶけほうこうにん)http://p.tl/bZnM
文字通り武家に奉公する者を言う。
本来、江戸時代以前では主家に仕える(奉公する)武士も含めて単に奉公人と呼んだが、江戸時代以降はもっぱら非武士身分の中間や小者を指した(ただし、若党のような武士層もいた)。
 
◆種類
武家奉公人は若党、中間、小者などの呼称があるが、地域、藩、各武家によっても意味合いに差があり、厳密な区別はできるものではない。したがって下記にある若党、中間、小者に分けた解説はあくまで参考程度の内容である。

・若党(わかとう)
戦国期には、郎党の中の新しい者、若い者を指すのが、由来とされる。
一般的には小者と大差がないイメージだが、江戸期、旗本に使えている家臣(大名であれば藩士)を指す場合や城代家老の家臣などに、若党の呼称を用いることがあり、その場合は、武士身分の人物を指すわけだから、注意すべきである。「供侍何名」などという場合の「侍」とは、この若党のことを指す。
・中間(ちゅうげん)
脇差1つを挿し、時には戦いにも参加し、平時は雑用を行った。大名行列等では奴(やっこ)の役を務めた。
渡り中間に代表されるように、一時限りの奉公の場合が多い。
・一時限りの中間
今で言うみなし公務員。広く一般的に知られる中間はこれを指す。
江戸期になると、年季契約や、必要な時のみ口入れ屋から雇い入れるということがしばしば行われた。多くは百姓の次男以下などが奉公したが、江戸など大都市では渡り中間のような屋敷を渡り歩く専門の奉公人を雇うことも多かった。
・特殊な中間
実態は足軽と同等扱い。広く一般的に知られる中間は上記どおりだが、藩に正式に採用されている家(世襲で藩に仕え、苗字帯刀が許されているもの)や幕末に特殊な事例に用いて採用されたりした物を指す。身分は平民と武士の間。やはり特殊な事例である。
長州藩の山縣有朋や伊藤博文が資料などの記述で、足軽扱いされるのは本来の広く一般的に知られる中間と紛らわしいためであろう。
・小者(こもの)
私的武家奉公人。住み込みで主に雑用を行った。小人、下男とも言う。町方同心が捕物で使ったものを小者と呼ぶことがあった。平民身分。
 
◆奴(やっこ)http://p.tl/s5sG 江戸時代の武家の下僕のこと。
武家に働く者の中でも低い身分にあたり、「中間(ちゅうげん)」や「折助(おりすけ)」と呼ばれていた武家奉公人を、蔑むときの呼び名である。「家つ子」(やつこ)が語源であるとされる。

農民や一般町民が雇われてなることが多かったらしい。武士が出かける時の荷物持ちなど、雑務をこなしていた。参勤交代の時には大勢の奴が必要となるため、このときだけ臨時で雇われるということも多かったという。

奴は、大きな四角形を染めた半纏を着ていることが多かった。この紋所は、「釘抜紋」と呼ばれる。この紋所から、食材を大きめの立方体に切ることを「奴に切る」と表現するようになった。「冷奴」は豆腐を奴に切って食べることからその名がついた。

現代でも正月などに凧揚げをする際によく見かける「奴凧(やっこだこ)」は、この奴の筒袖を張った姿をまねて作ったものである。一説には、身分の低い者の姿を大名屋敷などを遥かに見下ろすところに揚げることによって、庶民がささやかな仕返しをしていたのだともいう。

また、遊郭や花柳界の女性がこの身分の男性の言行をまねることがあったことより、遊女や芸者を「○○奴」と呼ぶことがあった。

なお、『古事記』が編纂された古代においては奴は奴隷階級を意味していたと考えられる。


『肉の種類別、塩コショウを振る最適なタイミング』

2014年02月26日 18時30分51秒 | 色んな情報

『肉の種類別、塩コショウを振る最適なタイミング』
                      2009.06.13
京免 史朗
肉の味付けに欠かせないのが塩コショウ。シンプルな調味料ですが、肉の旨みを引き出しもすれば、損ないもするそうで、味付けの絶妙のタイミングは、プロのシェフの間でも、日々試行錯誤されている研究テーマのひとつだとか。
...
フードとワインの情報ブログメディア「Food & Wine」では、レストランシェフ歴10年のOliver Schwaner-Albrightさんが、鶏肉・豚肉・牛リブ・ラムのそれぞれの肉について、調理直前に味付けしたものと一日前に味付けしたものの2パターンで、どのように違いがあるのか実験した結果を紹介しています。
 

鶏肉: 一日前に味付けしたもののほうが美味

焼け具合は双方であまり変わりがなく、皮はパリっと身はジューシーに仕上がった。しかし、直前に味付けしたもののほうが皮部分に塩コショウが偏っており、若干しょっぱい。一方、一日前に味付けした鶏肉は香りもよく、味のバランスもピカイチ。

ラム肉: 一日前に味付けしたもののほうが美味

一日前に味付けしたラム肉のほうが直前に味付けしたものよりもずっと美味しかった。

牛リブ: あまり違いはない

牛リブ(肋骨部の肉)は、一日前に味付けしたものも直前に味付けしたものも、ほとんど違いはなかった。この実験に参加した他の試食者の評価も五分五分といったところ。

豚肉: 直前に味付けしたもののほうが美味

調理の直前に味付けした豚肉は肉汁たっぷりで美味しかったのだが、一日前に味付けしたものは身が乾いていて旨みが損なわれていた。

たかが塩コショウ、されど塩コショウ。なかなか奥深いものですね。鶏肉やラム肉は前日に味付けするという、ちょっとした手間をかけることでグッと美味しくいただけるようですので、ぜひ一度お試しを。

The Juicy Secret to Seasoning Meat [Food & Wine]

Adam Pash(原文/松岡由希子)


●号衣(かんぱん)

2014年02月26日 18時10分49秒 | 色んな情報

●号衣(かんぱん)
◆ごうい  【号衣】
武家で、家紋を背に染め出して中間(ちゆうげん)などの仕着せとした衣服。法被(はっぴ)など。
 
◆ぶけ  【武家】
(1)武士の家柄。武門。
(2)鎌倉時代以降、公家(くげ)に対して幕府・将軍およびその配下の御家人などの称。
(3)将軍に仕える人。転じて、一般に武士。
 
◆武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とし貴族階級の官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。現代では武士一般を指すこともある。
 
◆かもん  【家紋】
各家がしるしとしている紋章。定紋。徳川家の葵(あおい)の紋の類。
 
◆家紋(かもん)
特に日本において古くより出自といった自らの家系、血統、家柄・地位を表すために用いられてきた紋章である。
単に紋所(もんどころ)や紋とも呼ばれる。
日本だけで241種、5116紋以上の家紋がある。
また、現在採取されているだけで2万近くの家紋が確認されている。
 
◆ちゅうげん  【中間】
(名)
(1)二つの物事のあいだ。あいだ。ちゅうかん。
「彼の両国の―に舎衛国有り/今昔 5」
(2)〔仏〕 二つのものの間。有と無の間、前仏と後仏の間など。
→中間禅
→二仏(にぶつ)中間
(3)(「仲間」とも書く)武家の奉公人の一部をさす呼称。その起源は鎌倉時代にさかのぼるが、近世に入ると足軽・小者の中間に位置する雑卒として幕府・諸藩の職制に組み込まれ、城門の警固や行列の供回りなどに使役された。中間男。
(形動ナリ)
中途半端なさま。どっちつかず。
「いと事の外なることどもの、もし聞えあらば―になりぬべき身なめり/源氏(真木柱)」
 
◆しきせ  【仕着せ/為着せ/四季施】
(1)主人が使用人に、その季節の衣服を与えること。また、その衣服。普通は、盆・暮れの二度。おしきせ。
(2)江戸時代、幕府が諸役人に時服を与えたこと。また、その衣服。おしきせ。
 
◆おしきせ  【御仕着せ】
(1)「仕着せ」に同じ。
(2)上から一方的に与えられたり、定められたりしていること。
 
◆はっぴ  【法被/半被】
(1)長着の上に羽織る、膝丈または腰丈の衣服。広袖で、袖付けより袖口の広がったものもある。襠(まち)も襟の折り返しもなく、胸にひもが付く。江戸時代、武家の中間(ちゆうげん)から大家の下僕・職人などが主家の紋や屋号を染め抜いたものを着たのに始まる。現在は職人などが用いる。
(2)能装束の一。広袖で、胸ひものない上衣。金襴(きんらん)や錦を用いる。甲冑(かつちゆう)姿の武将・天狗・鬼畜類の扮装に、袴と共に用いる。
 
◆法被  歴史民俗用語辞典
読み方:ハッピ
(1)禅宗で高僧の椅子の背にかけた覆布。
(2)江戸時代、武家の奉公人・中間などが着用した羽織のようなもの。
(3)襟、背、腰まわりなどに、屋号、家紋、姓名などの印を染めた半纏。
別名 半被
 
◆法被(はっぴ)
日本の伝統衣装で、祭などの際に着用し、また、職人などが着用する印半纏のことである。半被とも表記する。
一般に、腰丈または膝丈の羽織の形式で、襟の折返しも胸紐もなく、筒袖または広袖の単純な形をしているのが特徴である。

元々、武士が家紋を大きく染め抜いた法被を着用したのに始まり、それを職人や町火消なども着用するようになった。本来の法被は胸紐つきの単(ひとえ)であるのに対し、半纏は袷(あわせ)であるが、江戸時代末期に区別がなくなった。襟から胸元にかけて縦に文字(襟文字)を入れることで着用している者の所属や名、意思を表したりすることができる。「大工留吉」「め組小頭」「いらっしゃいませ」など。祭礼に用いる法被には、それぞれ所属や年齢などから「御祭禮」、「若睦」、「中若」、「小若」などの襟文字が入れられる。

消防団では現在も消防団員の制服であり、出初式の梯子乗りなどでも見かけられる(総務省消防庁の「消防団員服制基準」では「乙種衣」と呼称している。ただし全ての分団に貸与されるわけではない。)。これは消防の興りである町火消から続く伝統である。最近では、消防団や祭礼のみならず、プロ野球などのスポーツの応援や百貨店などのセール時に店員が着用する衣装などさまざまな用途に使われている。さらに日本航空では、長年ファーストクラスの機内着として法被が採用されていた。

・名称由来
「はっぴ」という語は、古代、束帯を着る際に袍(ほう)の下に着用した袖のない胴衣「半臂」(はんぴ)に由来するとされる。「法被」の字は、高僧が座る椅子の背もたれに掛ける布のことを「法被」(はっぴ)というが、衣服の法被と全く関連がないことから、単なる宛て字と見られている。


☆アメリカが恐れたのは日本人の精神構造

2014年02月26日 15時15分55秒 | 色んな情報
☆アメリカが恐れたのは日本人の精神構造
   『この国の権力中枢を握る者は誰か』 徳間書店

戦後のアメリカの対日政策あるいは極東政策の基本になったのは、大東亜戦争の経験です。

あの戦争で日本軍がいかに強かったか、アメリカはどれほど多大な犠牲を払わねばならなかったか、たんに経済力や軍事力で圧倒しても、あの特攻隊に象徴される日本人の精神構造を変えないかぎり、やつらはまた必ず立ち上がってくるに違いない。アメリカはそう考えたのです。

そこでGHQの諜報・保安・検閲などを担当する参謀第二部(G2)を中心に、日本人の精神構造をいかに改造していくか、二度と立ち上がれないような日本人にどうつくり変えていくかという戦略が練られました。たとえば学制改革をはじめとするさまざまな教育制度の改革です。旧制高校のようなエリート養成の場を残しておくとろくなことがないといって、六・三・三制にした。もちろん教育の内容を変え、歴史の認識を根本的に変える。それにともなっていろいろな法制をつくり上げていく。

憲法にしても教育基本法にしてもそうですが、戦後に制定あるいは改定されたあらゆる法律は、みんな日本人を改造するという目的のためにつくられたものです。憲法というとすぐに戦争放棄条項が取り上げられますが、それより重大なのは基本的人権、個人の尊厳という問題です。これは要するに、世の中でいちばん大事なのはあなた自身ですよ、あなたの命を守ることがすべての中心なんですよ、みんな自分のためなんですよという個人主義を、換言すれば利己主義を、国民教育の根幹に据えたということです。

それに協力したのが日本の役人です。文部官僚はじめ、内務官僚、外務官僚がこぞってGHQに協力しました。日本人の精神改造政策を日本人自身の手によってさせる。アメリカが得意とするやり方です。そうしてたとえば日教組などをつくって、子供たちの教育を担う教師を、民主教育の尖兵として洗脳していきました。