縄文人の反乱 日本を大事に

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●まろほし

2014年02月26日 21時20分53秒 | 色んな情報

●まろほし
◆十手  http://p.tl/OMtd
・その他・逸話など
宮本武蔵の父、新免無二斎(宮本無二斎)は当理流(當理流)の十手術の達人といわれ、将軍足利義昭から賞められたと伝えられる。
マロホシ圓明實手流や一角流十手術などには鉤と十字状の大きい鍔を持ち、槍状の穂先を持った使用状況によってオプションを変形させて用いる特異な實手:機械十手(一角流では「マロホシ」)が伝わっている。これらは現在では使用法は失伝しているが、圓明實手流と類戚関係にある鉄人實手流の伝書には右手に太刀、左手に實手を持った絵図面が載せられている。
 
◆まろほし銀次捕物帳 / 徳間文庫  http://p.tl/xnJI
 
◆子連れ狼 「まろほし豆庄」
http://www.youtube.com/watch?v=aZ0kWa_AV_g&list=PLEB9E83DF4F5EDBFE
老人と娘の親子連れ。
せっかちな父親に文句を言いながら、ついて来る娘。

その時、遠くの枯れ野で浪人同士の斬り合いが始まった。


老人と娘が見守る中、囲まれた方の浪人が次々と敵を斬り捨てる。
勝負あったかに思えたが、残りの一人が箱車に乗った幼子に刀を突きつける。
 
◆マロホシ十手  http://p.tl/BD9e
 マロホシ十手は極めて珍しい存在で現在の所たった一丁しか発見されていない。

名称を不詳であったが一角流伝書に近似した図があり、それによると「マロホシ」と呼ばれていたらしい事が分かる。ただ微細には図にも異同があり、折り畳みの出来る部分まで明確に描かれていない事、チェーン(この工作は中々に高度な技術である)のない。また手貫緒が翼を通している点など相違点がある。しかし大体は同じ器械であり、マロホシ十手という名称は中々粋であると思われる。


●お七里さん

2014年02月26日 20時14分19秒 | 色んな情報

●お七里さん
◆しちり-びきゃく  【七里飛脚】
 七里継ぎ宿に待機し、急な使いを果たした中間(ちゆうげん)。
・「七里飛脚(びきやく)」の略。
 
◆七里飛脚   歴史民俗用語辞典
読み方:シチリビキャク
江戸時代の脚夫。藩から江戸にいたる街道の七里ごとに置いた。
 
◆七里(しちり、ななさと)
・七里(ななさと):埼玉県さいたま市見沼区にある地区名で、かつてあった村名。
・七里ガ浜(しちりがはま):神奈川県鎌倉市にある地名で、浜の名称・七里ヶ浜から由来。
・七里ヶ浜駅:上記にある駅
・七里村(しちりむら):山梨県にかつてあった塩山市の旧名。現在の甲州市。
・七里岩(しちりいわ):山梨県にある台地。
・中山七里(なかやましちり):岐阜県下呂市にある渓谷。
・七里の渡し(しちりのわたし):東海道五十三次にあった海上の渡し。
・七里御浜(しちりみはま):三重県熊野市にある浜。
・日本人の姓。
 

 
◆きゃくふ  【脚夫】
(1)「運脚(うんきやく)」に同じ。
(2)郵便配達をする人の古称。
「脚夫」に似た言葉»   軽子  運送人
 
◆脚夫   歴史民俗用語辞典
読み方:キャクフ
律令時代、いろいろな官物を歩いて運輸した人夫。
別名 運脚(うんきゃく)
 

 
◆うんきゃく 【運脚】
律令時代に、租税の庸(よう)・調を都まで運んだ人夫。農民にとって重い負担となった。脚夫。担夫。
 
◆運脚   歴史民俗用語辞典
読み方:ウンキャク
律令時代のいろいろな官物を歩いて運輸した人夫。
別名 担夫、脚夫(きゃくふ)
 

 
◆かるこ  【軽子】
(1)軽籠(かるこ)で荷物を運んだ人足。運び人足。人夫。
(2)江戸深川の遊里の仲居(なかい)。
(3)墨糸の端につける木片。墨打ちの際、先端の針で材料に留める。
→墨壺
「軽子」に似た言葉»    脚夫  運送人
 
◆軽子   歴史民俗用語辞典
読み方:カルコ
江戸時代、人に雇われ、背負い荷物を担ぎ運ぶ人足。
 
◆軽子   隠語大辞典
読み方:かるこ
以前江戸の日本橋、魚河岸などで船から問屋迄の荷役を勤めた者であるが現今では青物市場(やつちやば)橋詰等にて立ちん坊として荷主の助力をなす者を云ふ。
 

 
◆青物市場 隠語大辞典
読み方:やっちゃば,やつちやば
1.本郷区駒込浅嘉町にあり、毎朝市を開きてヤッチヤヤッチヤヤッチヤと呼び声高く張り揚ぐるより起れり。
2.〔俗〕青物市場の事。
3.青物市場。八百市場の転化。〔業〕
4.青物市場。八百市場の転語。
分類   東京、業


●温石(おんじゅく)

2014年02月26日 19時27分38秒 | 色んな情報

●温石(おんじゅく)
◆おんじゃく  【温石】
(1)焼いた石を綿などで包んだもの。冬、体を暖めるのに使った。焼き石。[季]冬。《草庵の―の暖唯一つ/虚子》
(2)〔温石をぼろ切れに包んで用いたことから〕ぼろを着ている人をあざけっていう語。
 
◆温石  季語・季題辞典
読み方:オンジャク
腹部を暖めるために、蛇紋石の類を火で焼き、布切れで包んで懐中するもの
季節 冬
分類 人事
 
◆温石(おんじゃく)http://p.tl/ExLB
平安時代末頃から江戸時代にかけて、石を温めて真綿や布などでくるみ懐中に入れて胸や腹などの暖を取るために用いた道具
防寒だけでなく治療の効果も期待され、温める石は滑石・蝋石・蛇紋岩・角閃岩等が好まれた。懐炉の原型にあたると考えられる。中世においては滑石製の石鍋の破片を転用したものも多い。

漢方医学の世界においては、熱熨法(今日では温罨法と呼ばれるのが一般的である)に用いられた。温石を用いる方法を「蔵身法」と呼び、今日の岩盤浴も原理的にはこれに近いと言える。

また、「懐石料理」の語源としては、禅寺で修行僧が空腹や寒さをしのぐため温石を懐中に入れたことから、茶の席で出す一時の空腹しのぎ程度の軽い料理、あるいは客人をもてなす料理をそう呼んだという説がある。

なお、以下にみるように、温石の出土例では、小孔(小さい穴)が穿かれたものが多いが、これは火鉢などで石を温めたとき、その石でヤケドをしないよう、直接、手などにふれないための工夫と考えられる。つまり、針金状のものを孔に刺し入れるか、火箸を孔に引っかけるかして、温まった石を引き寄せ、布などにくるんだものであろう。
 

 
◆かいろ  【懐炉】
懐中に入れ、体を温める器具。懐炉灰またはベンジンなどの燃料に点火して金属製の小箱に入れ密閉して用いる。[季]冬。
 
◆懐炉   季語・季題辞典
読み方:カイロ
ふところに入れて体を暖める具
季節 冬
分類 人事
 
◆懐炉(かいろ)http://p.tl/AWWb 懐中に入れて暖をとる道具である。


●折助●

2014年02月26日 19時06分46秒 | 色んな情報

●折助●
◆おりすけ 【折助】
江戸時代、武家で使われた小者(こもの)の異称。
「旦那さまも―も孰(どれ)が孰やら/滑稽本・浮世風呂(前)」
「折助」に似た言葉»    下男  召使い  僕従  使用人  下働き
 
◆折助  隠語大辞典
読み方:おりすけ
1.制服巡査。〔第二類 人物風俗〕
2.制服巡査を云ふ。
3.制服巡査のこと。
 
◆こもの  【小者】
(1)年の若い人。
「おのれ程の―と組んで勝負はすまじきぞ/太平記 9」
(2)武家で、中間(ちゆうげん)の下位にあって、走り使いなどする者。こびと。
(3)町家で、身分の低い奉公人。下男。丁稚(でつち)。
「跡より―若い者/浮世草子・永代蔵 1」
(4)「小物(4)」に同じ。
「小者」に似た言葉»    下男  召使い  僕従  使用人  下働き
 
◆小者   歴史民俗用語辞典
読み方:コモノ
武家などに雇われ雑役に使われた者。
 
◆小者  隠語大辞典
読み方:こしゃ
大物でない芸人。こせこせした下積みの芸人。
分類 芸能
----------
・小者
読み方:こもの
男の召使。
 
◆武家奉公人(ぶけほうこうにん)http://p.tl/bZnM
文字通り武家に奉公する者を言う。
本来、江戸時代以前では主家に仕える(奉公する)武士も含めて単に奉公人と呼んだが、江戸時代以降はもっぱら非武士身分の中間や小者を指した(ただし、若党のような武士層もいた)。
 
◆種類
武家奉公人は若党、中間、小者などの呼称があるが、地域、藩、各武家によっても意味合いに差があり、厳密な区別はできるものではない。したがって下記にある若党、中間、小者に分けた解説はあくまで参考程度の内容である。

・若党(わかとう)
戦国期には、郎党の中の新しい者、若い者を指すのが、由来とされる。
一般的には小者と大差がないイメージだが、江戸期、旗本に使えている家臣(大名であれば藩士)を指す場合や城代家老の家臣などに、若党の呼称を用いることがあり、その場合は、武士身分の人物を指すわけだから、注意すべきである。「供侍何名」などという場合の「侍」とは、この若党のことを指す。
・中間(ちゅうげん)
脇差1つを挿し、時には戦いにも参加し、平時は雑用を行った。大名行列等では奴(やっこ)の役を務めた。
渡り中間に代表されるように、一時限りの奉公の場合が多い。
・一時限りの中間
今で言うみなし公務員。広く一般的に知られる中間はこれを指す。
江戸期になると、年季契約や、必要な時のみ口入れ屋から雇い入れるということがしばしば行われた。多くは百姓の次男以下などが奉公したが、江戸など大都市では渡り中間のような屋敷を渡り歩く専門の奉公人を雇うことも多かった。
・特殊な中間
実態は足軽と同等扱い。広く一般的に知られる中間は上記どおりだが、藩に正式に採用されている家(世襲で藩に仕え、苗字帯刀が許されているもの)や幕末に特殊な事例に用いて採用されたりした物を指す。身分は平民と武士の間。やはり特殊な事例である。
長州藩の山縣有朋や伊藤博文が資料などの記述で、足軽扱いされるのは本来の広く一般的に知られる中間と紛らわしいためであろう。
・小者(こもの)
私的武家奉公人。住み込みで主に雑用を行った。小人、下男とも言う。町方同心が捕物で使ったものを小者と呼ぶことがあった。平民身分。
 
◆奴(やっこ)http://p.tl/s5sG 江戸時代の武家の下僕のこと。
武家に働く者の中でも低い身分にあたり、「中間(ちゅうげん)」や「折助(おりすけ)」と呼ばれていた武家奉公人を、蔑むときの呼び名である。「家つ子」(やつこ)が語源であるとされる。

農民や一般町民が雇われてなることが多かったらしい。武士が出かける時の荷物持ちなど、雑務をこなしていた。参勤交代の時には大勢の奴が必要となるため、このときだけ臨時で雇われるということも多かったという。

奴は、大きな四角形を染めた半纏を着ていることが多かった。この紋所は、「釘抜紋」と呼ばれる。この紋所から、食材を大きめの立方体に切ることを「奴に切る」と表現するようになった。「冷奴」は豆腐を奴に切って食べることからその名がついた。

現代でも正月などに凧揚げをする際によく見かける「奴凧(やっこだこ)」は、この奴の筒袖を張った姿をまねて作ったものである。一説には、身分の低い者の姿を大名屋敷などを遥かに見下ろすところに揚げることによって、庶民がささやかな仕返しをしていたのだともいう。

また、遊郭や花柳界の女性がこの身分の男性の言行をまねることがあったことより、遊女や芸者を「○○奴」と呼ぶことがあった。

なお、『古事記』が編纂された古代においては奴は奴隷階級を意味していたと考えられる。


『肉の種類別、塩コショウを振る最適なタイミング』

2014年02月26日 18時30分51秒 | 色んな情報

『肉の種類別、塩コショウを振る最適なタイミング』
                      2009.06.13
京免 史朗
肉の味付けに欠かせないのが塩コショウ。シンプルな調味料ですが、肉の旨みを引き出しもすれば、損ないもするそうで、味付けの絶妙のタイミングは、プロのシェフの間でも、日々試行錯誤されている研究テーマのひとつだとか。
...
フードとワインの情報ブログメディア「Food & Wine」では、レストランシェフ歴10年のOliver Schwaner-Albrightさんが、鶏肉・豚肉・牛リブ・ラムのそれぞれの肉について、調理直前に味付けしたものと一日前に味付けしたものの2パターンで、どのように違いがあるのか実験した結果を紹介しています。
 

鶏肉: 一日前に味付けしたもののほうが美味

焼け具合は双方であまり変わりがなく、皮はパリっと身はジューシーに仕上がった。しかし、直前に味付けしたもののほうが皮部分に塩コショウが偏っており、若干しょっぱい。一方、一日前に味付けした鶏肉は香りもよく、味のバランスもピカイチ。

ラム肉: 一日前に味付けしたもののほうが美味

一日前に味付けしたラム肉のほうが直前に味付けしたものよりもずっと美味しかった。

牛リブ: あまり違いはない

牛リブ(肋骨部の肉)は、一日前に味付けしたものも直前に味付けしたものも、ほとんど違いはなかった。この実験に参加した他の試食者の評価も五分五分といったところ。

豚肉: 直前に味付けしたもののほうが美味

調理の直前に味付けした豚肉は肉汁たっぷりで美味しかったのだが、一日前に味付けしたものは身が乾いていて旨みが損なわれていた。

たかが塩コショウ、されど塩コショウ。なかなか奥深いものですね。鶏肉やラム肉は前日に味付けするという、ちょっとした手間をかけることでグッと美味しくいただけるようですので、ぜひ一度お試しを。

The Juicy Secret to Seasoning Meat [Food & Wine]

Adam Pash(原文/松岡由希子)


●号衣(かんぱん)

2014年02月26日 18時10分49秒 | 色んな情報

●号衣(かんぱん)
◆ごうい  【号衣】
武家で、家紋を背に染め出して中間(ちゆうげん)などの仕着せとした衣服。法被(はっぴ)など。
 
◆ぶけ  【武家】
(1)武士の家柄。武門。
(2)鎌倉時代以降、公家(くげ)に対して幕府・将軍およびその配下の御家人などの称。
(3)将軍に仕える人。転じて、一般に武士。
 
◆武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とし貴族階級の官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。現代では武士一般を指すこともある。
 
◆かもん  【家紋】
各家がしるしとしている紋章。定紋。徳川家の葵(あおい)の紋の類。
 
◆家紋(かもん)
特に日本において古くより出自といった自らの家系、血統、家柄・地位を表すために用いられてきた紋章である。
単に紋所(もんどころ)や紋とも呼ばれる。
日本だけで241種、5116紋以上の家紋がある。
また、現在採取されているだけで2万近くの家紋が確認されている。
 
◆ちゅうげん  【中間】
(名)
(1)二つの物事のあいだ。あいだ。ちゅうかん。
「彼の両国の―に舎衛国有り/今昔 5」
(2)〔仏〕 二つのものの間。有と無の間、前仏と後仏の間など。
→中間禅
→二仏(にぶつ)中間
(3)(「仲間」とも書く)武家の奉公人の一部をさす呼称。その起源は鎌倉時代にさかのぼるが、近世に入ると足軽・小者の中間に位置する雑卒として幕府・諸藩の職制に組み込まれ、城門の警固や行列の供回りなどに使役された。中間男。
(形動ナリ)
中途半端なさま。どっちつかず。
「いと事の外なることどもの、もし聞えあらば―になりぬべき身なめり/源氏(真木柱)」
 
◆しきせ  【仕着せ/為着せ/四季施】
(1)主人が使用人に、その季節の衣服を与えること。また、その衣服。普通は、盆・暮れの二度。おしきせ。
(2)江戸時代、幕府が諸役人に時服を与えたこと。また、その衣服。おしきせ。
 
◆おしきせ  【御仕着せ】
(1)「仕着せ」に同じ。
(2)上から一方的に与えられたり、定められたりしていること。
 
◆はっぴ  【法被/半被】
(1)長着の上に羽織る、膝丈または腰丈の衣服。広袖で、袖付けより袖口の広がったものもある。襠(まち)も襟の折り返しもなく、胸にひもが付く。江戸時代、武家の中間(ちゆうげん)から大家の下僕・職人などが主家の紋や屋号を染め抜いたものを着たのに始まる。現在は職人などが用いる。
(2)能装束の一。広袖で、胸ひものない上衣。金襴(きんらん)や錦を用いる。甲冑(かつちゆう)姿の武将・天狗・鬼畜類の扮装に、袴と共に用いる。
 
◆法被  歴史民俗用語辞典
読み方:ハッピ
(1)禅宗で高僧の椅子の背にかけた覆布。
(2)江戸時代、武家の奉公人・中間などが着用した羽織のようなもの。
(3)襟、背、腰まわりなどに、屋号、家紋、姓名などの印を染めた半纏。
別名 半被
 
◆法被(はっぴ)
日本の伝統衣装で、祭などの際に着用し、また、職人などが着用する印半纏のことである。半被とも表記する。
一般に、腰丈または膝丈の羽織の形式で、襟の折返しも胸紐もなく、筒袖または広袖の単純な形をしているのが特徴である。

元々、武士が家紋を大きく染め抜いた法被を着用したのに始まり、それを職人や町火消なども着用するようになった。本来の法被は胸紐つきの単(ひとえ)であるのに対し、半纏は袷(あわせ)であるが、江戸時代末期に区別がなくなった。襟から胸元にかけて縦に文字(襟文字)を入れることで着用している者の所属や名、意思を表したりすることができる。「大工留吉」「め組小頭」「いらっしゃいませ」など。祭礼に用いる法被には、それぞれ所属や年齢などから「御祭禮」、「若睦」、「中若」、「小若」などの襟文字が入れられる。

消防団では現在も消防団員の制服であり、出初式の梯子乗りなどでも見かけられる(総務省消防庁の「消防団員服制基準」では「乙種衣」と呼称している。ただし全ての分団に貸与されるわけではない。)。これは消防の興りである町火消から続く伝統である。最近では、消防団や祭礼のみならず、プロ野球などのスポーツの応援や百貨店などのセール時に店員が着用する衣装などさまざまな用途に使われている。さらに日本航空では、長年ファーストクラスの機内着として法被が採用されていた。

・名称由来
「はっぴ」という語は、古代、束帯を着る際に袍(ほう)の下に着用した袖のない胴衣「半臂」(はんぴ)に由来するとされる。「法被」の字は、高僧が座る椅子の背もたれに掛ける布のことを「法被」(はっぴ)というが、衣服の法被と全く関連がないことから、単なる宛て字と見られている。


☆アメリカが恐れたのは日本人の精神構造

2014年02月26日 15時15分55秒 | 色んな情報
☆アメリカが恐れたのは日本人の精神構造
   『この国の権力中枢を握る者は誰か』 徳間書店

戦後のアメリカの対日政策あるいは極東政策の基本になったのは、大東亜戦争の経験です。

あの戦争で日本軍がいかに強かったか、アメリカはどれほど多大な犠牲を払わねばならなかったか、たんに経済力や軍事力で圧倒しても、あの特攻隊に象徴される日本人の精神構造を変えないかぎり、やつらはまた必ず立ち上がってくるに違いない。アメリカはそう考えたのです。

そこでGHQの諜報・保安・検閲などを担当する参謀第二部(G2)を中心に、日本人の精神構造をいかに改造していくか、二度と立ち上がれないような日本人にどうつくり変えていくかという戦略が練られました。たとえば学制改革をはじめとするさまざまな教育制度の改革です。旧制高校のようなエリート養成の場を残しておくとろくなことがないといって、六・三・三制にした。もちろん教育の内容を変え、歴史の認識を根本的に変える。それにともなっていろいろな法制をつくり上げていく。

憲法にしても教育基本法にしてもそうですが、戦後に制定あるいは改定されたあらゆる法律は、みんな日本人を改造するという目的のためにつくられたものです。憲法というとすぐに戦争放棄条項が取り上げられますが、それより重大なのは基本的人権、個人の尊厳という問題です。これは要するに、世の中でいちばん大事なのはあなた自身ですよ、あなたの命を守ることがすべての中心なんですよ、みんな自分のためなんですよという個人主義を、換言すれば利己主義を、国民教育の根幹に据えたということです。

それに協力したのが日本の役人です。文部官僚はじめ、内務官僚、外務官僚がこぞってGHQに協力しました。日本人の精神改造政策を日本人自身の手によってさせる。アメリカが得意とするやり方です。そうしてたとえば日教組などをつくって、子供たちの教育を担う教師を、民主教育の尖兵として洗脳していきました。

板垣 英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」

2014年02月26日 14時33分18秒 | 色んな情報
板垣 英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」

米議会調査局は、日本が韓国と同盟国でなく、憲法上も朝鮮半島有事に参戦できないのを忘れている           2014年02月26日

◆米議会が、韓国の朴槿恵大統領が仕組み、仕掛けている「対日謀略工作」にまんまと引っかかってしまっている。米議会調査局は2月24日、新たにまとめて公表した「日米関係に関する報告書」のなかで、「安倍総理大臣の靖国神社参拝などで日韓関係が冷え込むことはアメリカの国益を損ねる」「安倍総理大臣の歴史観は、第2次世界大戦とその後の日本占領についてのアメリカ人の考えとぶつかる危険がある」などと懸念を示したことが、その何よりの証拠である。
米議会調査局は、朴槿恵大統領が、「親日派」だった父・朴正煕元大統領の過去を覆い隠す目的で、あえて「反日を装い、強硬に安倍晋三首相批判を繰り返している」という文字通りの「対日謀略工作」を無視している。朴槿恵大統領の目的は、自らの政権の支持率を高めることにあり、その手段としていまは、安倍晋三首相が利用されている。日本の政権が代われば、新しい首相を批判する。
安倍晋三首相が靖国神社を公式参拝しなかった場合、朴槿恵大統領は、「日韓併合」「歴史教科書」「歴史認識」「竹島」「慰安婦」など次々にカードを切って、安倍晋三首相を批判してくるのである。韓国の対日批判は、安倍晋三首相から始まったわけではない。ましてや、首相の靖国神社公式参拝は、戦後から続いている。
◆米議会調査局は、「安倍総理大臣の歴史観は、第2次世界大戦とその後の日本占領についてのアメリカ人の考えとぶつかる危険がある」と指摘しているけれど、安倍晋三首相が現在進めているのは、「米軍と自衛隊の共同作戦」「日本版NSC設置」「特定秘密保護法制定」「集団的自衛権行使容認」「武器輸出3原則緩和・撤廃」や「日本国憲法改正(国防軍創設)」などである。これらは、「第2次世界大戦とその後の日本占領についてのアメリカ人の考えとぶつかっている問題」なのではないのか。
 それならば、米議会調査局は、安倍晋三首相に「直ちに中止すべきだ」と警告すべきである。日本国憲法は、第9条で「戦力不保持」を明記しているので、当然「自衛隊の存在」さえ認めていない。米議会調査局は、「自衛隊解体」を勧告すべきであろう。
◆その前に、米議会調査局は、「安倍総理大臣の靖国神社参拝などで日韓関係が冷え込むことはアメリカの国益を損ねる」と懸念していると言うけれど、「アメリカの国益」とは、一体何を意味しているのか、不明である。
 おそらく、米議会調査局は、「日米韓3国一体化」が損なわれるとでも言いたいのであろう。しかし、これは、「日米韓3国関係」を大誤解している。日米同盟、米韓同盟関係は、
存在しても、「日韓同盟関係」は存在していないことを見過ごしているからだ。
 米議会調査局は、「東京とソウルの関係の冷え込みをアメリカ政府関係者は一段と懸念している。同盟国どうしの緊張は北朝鮮や、台頭する中国といった問題への連携した対応を妨げている」と言っているけれど、日本と韓国がいつ「同盟国どうし」になったのか。はっきり認識してもらわなければならないのは、「日韓は、同盟国どうし」ではないということだ。
 従って、日本は、米国とだけは「北朝鮮や、台頭する中国といった問題への連携した対応」をすることはできても、韓国とは「連携した対応」をする義務も責任もない。ましてや、「第2次世界大戦とその後の日本占領についてのアメリカ人の考え」に従えば、日本が、朝鮮半島に軍事介入、あるいは米軍を後方支援する考えは、日本国憲法上も許されなかったはずである。この意味で、米議会調査局は、根本的に「歴史認識」を誤っている。そもそも韓国が、日本の軍事介入や後方支援を求めていない。むしろ、嫌がっている。
◆振り返ってみると、ブッシュ政権はじめ歴代米共和党政権が、「対日要求」として強く圧力をかけてきていた「防衛庁の省への昇格」「有事立法」「防衛予算増額」などを日本政府が実現してきたのを受けて、安倍晋三首相は、「米軍と自衛隊の共同作戦」「日本版NSC設置」「特定秘密保護法制定」を成し遂げた後、さらに「集団的自衛権行使容認」「武器輸出3原則緩和・撤廃」や「日本国憲法改正(国防軍創設)」に向けて実行力を発揮しようとしている。
 これに対して、日本国内では、「戦前回帰だ」「右傾化だ」などと厳しい批判があり、中国や韓国からも「軍国主義化している」などと非難轟轟である。
 さて、米議会調査局は、これらの動きが「第2次世界大戦とその後の日本占領についてのアメリカ人の考えとぶつかる」というのであれば、少なくとも、「第2朝鮮戦争」勃発という一旦緩急の場合、米軍と韓国軍の同盟軍だけで戦うことに専念し、日本を巻き込まないようにしなくてはならない。日本は、たった1人といえども、日本人が「血の犠牲」を強いられるのは、まっぴら御免である。

●今日は何の日 2月26日 二・二六事件(1936年)

2014年02月26日 13時56分58秒 | 色んな情報

●今日は何の日 2月26日 二・二六事件(1936年)
◆二・二六事件 - Wikipedia  http://p.tl/qkKQ
1936年(昭和11年)2月26日から2月29日 にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和 維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。
 
◆515事件と226事件は何が違うんですか - Yahoo!知恵袋  http://p.tl/5Jh2
5・15事件(昭和7年)は海軍の若い将校たちが、ワシントン及びロンドンでの軍縮会議(軍艦の規模など規制)で日本側が軍縮幅を欧米側に対して対等でないことに不満を募らせ、政府の妥協外交に腰抜けだなどと怒り、また、不景気など閉塞感が漂っているのは腐りきった政治家や財閥の者どものせいだと、彼らの粛清を目的としたクーデーターを起こしたもの。 2・26事件(昭和11年)は先の海軍将校たちの軍事クーデーターに触発された陸軍の若手将校たちが、矢張り現行の日本政府のあり方に不満を募らせ、政治の腐敗は元老・重臣・軍閥・官僚などのせいだと、義憤をもって軍事クーデーターを起こしたもの。そして彼らはストイックで現行の政治は天皇の意思に沿わないものだの思考が強く、所謂皇道派に属するものたちで、陸軍内部での対立も背景にあった。それが元老・重臣などと一緒に軍閥という言葉が出てくる、その対立していた派が統制派であった。この対立はやがてクーデーターの失敗(鎮圧され)で、皇道派は力をなくしていった次第で、統制派・東条英機らが台頭してくることになったのです。
 
◆ににろくじけん【二・二六事件】  世界大百科事典
1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタ。満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展し,さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の暗殺などで,両派の対立は激化の一途をたどった。
 
◆二・二六事件に関するQ&A-Yahoo!知恵袋  http://p.tl/ZIEP
 

 
◆五・一五事件 - Wikipedia  http://p.tl/0Qvp
1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件。武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。
 
◆海軍の5・15事件と陸軍の2・26事件から http://p.tl/M9eL
きわめて大雑把な物言いで恐縮だが、
歴史を紐解いてみると、わが国で勃発したクーデターは、


5・15事件=海軍将校が引き起こしたもの
2・26事件=陸軍将校が引き起こしたもの
といっていいだろう。


もっとも5・15事件をクーデターといっていいのか、という声もあろう。

これは兵を巻き込まず、首謀者である将校のみで行ったので、現代でいえばテロといったほうがいいのかもしれない。

 
◆515事件に関するQ&A-Yahoo!知恵袋  http://p.tl/0i-2
 
◆五・一五事件と政党政治の崩壊 - Biglobe  http://p.tl/H_JX
世界恐慌と井上日召の血盟団事件
『満州事変と満州国建設』の項目では、海軍青年将校が引き起こした『五・一五事件』の概略について説明しましたが、日本・西欧列強が急速に軍国主義やナショナリズムの総動員体制に傾斜していった要因の一つとして、アメリカのニューヨーク株式市場の大暴落(暗黒の木曜日)を発生源とする『世界恐慌(大恐慌)』がありました。ニューヨークのウォール街で1929年10月24日に起こった金融恐慌は、世界各地に波及して深刻な不況が拡大しましたが、その原因は供給力・設備投資の過剰と需要の大幅な減少であり、デフレスパイラルが加速して企業の倒産と失業者が急速に増大して労賃も下落を続けました。
 
◆【あれから80年】五・一五事件とは何だったのか? - NAVER まとめ  http://p.tl/pwFh
1932年5月15日、日本の首相が暗殺されるという事件が起きた。もう80年、「生ける語り部」も少なくなった現在。当時の日本の情勢とはどんなものだったのか。