縄文人の反乱 日本を大事に

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舞の海伝説

2013年07月31日 19時08分49秒 | 色んな情報
舞の海伝説
2013/07/31(水)         京免 史朗
舞の海が暴言 「韓国が日本批判の横断幕?…韓国が歴史を歪曲して教育してるからでしょ」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1375239123/
他局が放送したサッカー東アジア杯サッカー大会の日本の活躍には目もくれなかった「モーニングバード!」だが、
 日本への不当極まりない敵対的行為があったとなれば、話はまったく別である。日韓戦で韓国サポーターが
 「歴史を忘れた民族に未来はない」なる巨大な横断幕を掲げていた。

 待ちきれないとばかりに「反論」したのは、元相撲取りでコメンテイターの舞の海秀平であった。
 「逆に日本側から言うと、(韓国が)歴史を歪曲するからこういう事態が起きるんじゃないか。そういう教えをしてるから、
...  そういう認識をして、こういう人たちが出てくるんじゃないか」

 「そう」と「こう」が多すぎるが、要は一部の政治家や匿名ネットなどが盛んに主張する典型的な「愛国」的論法を
 言ったものであろう。「真実の歴史」を教えない反日教育が悪いんであるというわけである。
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舞の海伝説

安藤美姫出産ニュース
ママでも五輪を目指そう、とスタジオは賞賛一色
舞の海「五輪を前に出産するなんてアスリートとしてどうなのか」
スタジオ凍りつく

富士山世界遺産決定ニュース
喜びに沸く地元の声、スタジオもお祝いムード一色
舞の海「登山者が増えてゴミも増えたら世界遺産取り消しですよね」
スタジオ凍りつく

中韓首脳会談ニュース
中韓の日本外しについて心配するスタジオにて

舞の海「それで何か日本が困ることあるんでしょうか?」
スタジオ凍りつく

日下公人さんが言っていた。

2013年07月31日 15時55分10秒 | 色んな情報
日下公人さんが言っていた。
戦前は陛下に責任全部任せて戦争に行くだけと。みんなの平和を祈りで治める。宣教師のミカエルだったかな 聖人としたらしいけど日本人はなんかも含めて天皇との繫がりがあるから気楽な人生送れる。イエスさんは私を救っても 先祖は救えないと云ったらソレはおかしいなどと言われて二年も持たずに鬱になって帰ったらしいから。日本人の基本はも普通もなく 何でもかんでも平等だった。今もそうではない。台湾でも同じ様な思想で暮らしていた。台湾の人はそりゃあびっくらしたと思う。板世界の何処へ言って仕事しても 麻生さんの動画で有名だけど納期に向かいみんなで力を合わせる。その他のことは仕事終わらせてからにしよう。イラクでもソレしかして来なかった。今も昔もズーと同じだからラクダよ。藤原さんは保育園や幼稚園で年長者が年少者をいじめたら親なり指導者が何も言わずに血相変えてそばへ行き ゲンコツ一発 後は何も言わない。子供はなんでと言えないし言わなくて自分のしたことを考える。そしていけないことだと納得する。今はソレをしないから人が人としていけないこととして良い事を 一度で覚えてしまう。ソレが基本として色んなことを覚える。台湾でもそんな風にしていたのではない。半島の人は同じ様にされていたのに身に付けられなかったんだね。私は可哀想だなと思う。コンナ簡単なこと覚えておくと世界何処へ行っても怖くない。心が定まった人間ほど 始末の悪いものはない。今は金に動かされる日本人多いけど。デモあのヒゲの隊長たちが今 イラクでバラ撒いたタネが向で中東の国で花咲かせる時期になっているようだ。種子島へ鉄砲持ってきた宣教師はその辺り理解できなかった。だからハッキリ言うと精神病 モット言うと気違いになった。我々も一つ間違えると彼と一緒になるよ。日本人てラクダね。シンプルだからね。日本で生まれて一人勝ちしていると言われている。人としての基本を今でも血の中に流れているんだね。ありがたい。ナンマイダ。

誕生日のお祝いありがとう  67歳になりました

2013年07月31日 10時34分45秒 | 色んな情報
誕生日のお祝いありがとう  67歳になりました
沢山のメール有難う
人に言わせると波瀾万丈の人生だと。
確かにそうかもしれないね。
竜馬と一緒で同い年まで夜尿症。
いじめられっこで弱虫。
ハタチの頃精神病院へ通っていた。
その後自殺未遂。
結婚離婚。
美容師を途中でやめて 工場へ就職。
ボランティアを初めて 連合会長にされる。
次男坊が家を継ぎ父の葬式の喪主をスル。
結婚を親類の反対を押し切り結婚。
テンカンの持病持ちだから。
病気聞いたら結婚し その人の病気を直すと。
14年後には治っていた。
子供の養育が気に入らないから離婚しろと言われて従う。
マッサージ師になり 大病で辞める。
急ぎ足で書いたら大分前後してしまった。
マダ色々有った。
自己破産で 最後に生活保護。
コンナ人生 人は馬鹿だと言うだろう。
本人は一生懸命生きてきたつもりでも笑われる。
何でも結果だね。
缶や仙谷らと動機でゆあ名には成れない団塊の世代だけど。
ワタシも罪人になるのかもしれない。
物事は 取り方考え方で色んな感じになる。
嘘言っても判ることだし 同期でも何人かは死んでいる。
私は 生還2割の病気。
だからこれからは おまけだと思い 自分が教えて貰ったことを一つでも多く伝えたい。
デモ結局私が 医師にテンカンだと言われた。
高血圧と大動脈がどれだけ持つかを自分の人生のローソクの残りを一生懸命生きたい。




ありがとう

沖縄情報  野嵩ゲートの惨状 2013/07/30

2013年07月30日 18時16分17秒 | 色んな情報
沖縄情報  野嵩ゲートの惨状 2013/07/30

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手登根 安則
本日の野嵩ゲートの惨状 2013/07/30

先ほど、新聞に大きく取り上げられた野嵩ゲートの現状を視察して参りました。
到着するやいなや、一生懸命にリボンを結ぶラフレシアを発見、私が後ろにいることすら気づきません。
フェンスは上から下まで、まんべんなく汚されており、特に新しく設置したフェンスには、おびただしい数のアカテープと紐が結わえ付けられ、その上から悪臭を放つプラカードが重ねられております。
相変わらず、剥がしにくいように糊面どうしを重ねており、ビニール紐は鉄条網の上部にくくられています。
子供たちが一生懸命に綺麗にした場所が、たった24時間後に、このような状態に成りはてました。

これで終わりではないと思います、毎日追加でアカテープは増えていくことでしょう。
私たちは、仕事がありますので日曜しか集まれません。
彼らはこんなことで報酬を受け取ってるのだろうか?

こんな光景、子供たちに見せ続けるわけには参りません。

『日本の商道』  世界の老舗

2013年07月30日 13時53分34秒 | 色んな情報
『日本の商道』  世界の老舗
京免 史朗

https://fbcdn-sphotos-f-a.akamaihd.net/hphotos-ak-ash4/p480x480/1003170_367531556707490_270628096_n.jpg
.
「敵を知り、己を知れば・・・」 やる気無くすやろ!
韓国には何故老舗が無いのか? → 日帝の弾圧のせい!
                 に、なるんだろうネ。
相変わらずの“上から目線”だけど!
・・・・・・・・・∑(;`∀´)・・・・・・・・・・
...
【書籍】 韓国とは敵同士・憎らしい日本、それでも習うべきことは習おう~『日本の商道』

 韓国国内はもちろん世界中がみな苦しいとさけぶ。破産する大企業が列をなし「働き口を分かちあおう」いう叫びがむなしいほど整理解雇と非正規職労働者の失業は絶えず増えている。

 このような渦中にも創業100年を越えた会社が2万1066社にもなり、創業千年を越えた会社も8社になる国がある。これらの中には創業以来ただ1人も解雇しないで構造調整に成功した企業が並んでいる。経営危機に瀕すれば会社は従業員が不安に思わないように、むしろ信頼と希望を与えて技術革新、アイデア刷新を通じて共に困難を克服する。

 まさに隣りの日本の話だ。多くの侵略と歴史歪曲、独島(ドクト、日本名:竹島)領有権侵奪などで我が国とはかたき同士だが、憎らしいほど長所をたくさん持っている国が日本だ。日本は「老鋪(しにせ=代々受け継がれる店舗)の国」と呼ばれるほど相続店が多い。

 また世界的な景気不況の中でむしろ売り上げが成長する中小企業が少なくない。そして有名な大企業、財閥グループも多い。今日の日本を作った力はここにある。多様な規模、多様な層の上の経済人の天国である。それで彼らは10年不況を経ながらも動揺することなく経済大国の席を強固に守っており、現在の世界的な不況の中でもむしろ健在さを誇示して成長している。

 放送作家出身でサムスン経済研究所「SERICEO」講師のホン・ハザン中央大招聘教授が20年間余り日本の隅々を足でまわって執筆した「日本の商道-顧客が見ている」(蒼海)は今日の日本を築いた具体的な日本の商道と日本商人の歴史を記した本だ。参考文献だけで構成された学術本ではなく、日本の商人、数百人に直接会って取材し、執筆だけで7年かかった「日本の商道」ドキュメンタリーであるわけだ。

 この本は大阪・京都・近江・名古屋・東京の商人など日本の代表的な五大商人を紹介する。豊臣秀吉時代から徳川家康時代にかけて、政策的に育成された商人が大阪商人ならば、千年間日本の首都という自負心と歴史的伝統で商道を成し遂げた京都商人がいる。またカヤの行商から始めて世界のあちこちに進出し、合資・会計・マーケティング・流通で優れた商才を見せる近江商人がいて、質が良い木材生産地としてかつて機械と工業分野で抜群の実力を見せた名古屋商人がいる。さらに西欧近代文物の最大受恵者で世界的な名品の天国を作った東京、銀座商人がいる。

 「千年が過ぎるまで同じ場所で忍耐強く最高の製品を作り出す日本老舗商人らの姿は、もはや商売人の姿ではなく、顧客に宗教的に仕える修道者の姿まで見ることができる」という著者は、従業員が真の会社の資産だと考え当面の利益を残すことより顧客に信頼を与えて地域社会を助けることを優先する日本商人の原則は揺れることがない日本の底力だとほめる。

 いつも見下げるばかりの日本がそばにある。排斥すべきことは排斥しても、習うべきことは習わなければならないのではないだろうか。

■■ Japan On the Globe(311)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

2013年07月30日 13時27分25秒 | 色んな情報
■■ Japan On the Globe(311)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
作成者: 京免 史朗さん
長文ですが頑張って読んで下さい!
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■■ Japan On the Globe(311)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

国柄探訪: 聖徳太子の大戦略

 聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何を
感じ取ったのか?
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■1.読めないところはホニャラと読みましょう。■

 日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙な
きや。

 齋藤先生は授業の冒頭でいきなり黒板にこう書いて言った。
「さあ、読んで下さい。読めないところはホニャラと読みまし
ょう。」 小学校6年生の子供たちを先生は列ごとに指名して、
順番に読ませていく。

 ひのでるショのテンシ、ショを、ニチボツするショのテ
ンシにいたす。ホニャラなきや。

 わけのわからなさに笑いが起こる。初夏の風が通う教室は和
やかな気分につつまれた。「学校で学びたい歴史」[1]で紹介
されている齋藤武夫先生の授業風景である。

「たいへんよく読めました。ほとんど正解と言っていいでしょ
う。それではふつうの読み方を教えましょう。」と言って先生
は、こう読み上げた。

ひいづるところのテンシ、ショを、ひぼっするところのテ
ンシにいたす、つつがなきや。

 先生について、子供たちに後を続かせる。その後、子供たち
だけで声をそろえて二度ほど読ませる。皆で一斉に読むので
「斉読」と呼んでいる。

■2.誰が誰に出した手紙でしょう?■

 これは、歴史上たいへん有名な手紙の書き出しです。あ
る意味で日本の歴史の中で最も重要な手紙だと言えるかも
知れません。誰が誰に出した手紙でしょう?

 先生の問いかけに、一人の生徒が答えた。「聖徳太子からツ
ツガナキヤさんに出した。」

 すばらしい。聖徳太子は半分正解です。ですが、ツツガ
ナキヤは人の名前ではありません。この手紙は、当時の女
性天皇だった推古天皇の摂政、今で言えば総理大臣だった
聖徳太子が書いて、推古天皇の名で、どこかの国のトップ
に出したものです。国書と言って、国から国へ出した手紙
です。どこの国に出したのでしょう。

「中国だと思います」とすかさず、別の生徒が答える。

 大正解。この国書は推古天皇から中国の皇帝にあてた手
紙です。出されたのは西暦607年、この国書を出すまで
の100年ほどの間、日本は中国との直接のつきあいはあ
りませんでした。中国はいくつかの国に分裂して争ってい
たからです。

 ところが、ちょうど聖徳太子の頃、隋という大帝国が中
国を統一します。聖徳太子は中国から進んだ文化を学ぼう
として、遣隋使という使いを中国に送りました。その代表
が小野妹子です。「妹子」ですが、この人は男性ですよ。
この国書は、小野妹子が隋の皇帝に渡したものです。

 ここで齋藤先生は、もう一度、手紙の文章を皆で斉読させた。
漢文の歯切れの良いリズムが子供たちの体に心地よく響いてく
る。それは聖徳太子の強い意志を伝えるかのようだ。

■3.皇帝はなぜ怒ったのか?■

 さて、隋の宮殿に着いた小野妹子は、皇帝の煬帝(よう
だい)に天皇からの国書を渡しました。皇帝は手紙を読み
始めたとたん「このような野蛮国の無礼な手紙が来ても、
これからは私に見せるな」と臣下に言いつけたそうです。
この手紙のどこかに皇帝を怒らせる言葉があったのですね。
それはどの言葉でしょう。

「なんとなくだけど、<つつがなきや>」と自信なさそうな答。

「つつがなきや」は意味が分からないからね。怪しいと思
ったでしょう。でも残念でした。これは「お元気ですか
?」という意味です。

 別の生徒が答えた。「<日出づる処の天子>と<日没する処の
天子>です。<日出づる>日本はこれから発展していく感じです
が、中国は<日没する>でこれから夜になるみたいです。」

 本当にそうですね。先生も子供の頃はそう教わりました。
だから正解とします。でも、これについては単に東と西と
いう意味で、皇帝もそんなに気にしなかったのではないか、
というのが、最近の研究のようです。実は皇帝がいちばん
許せなかったのは「天子」という言葉なのです。なぜでし
ょう?

 日本の天皇と中国の皇帝が同じえらさになってしまう。
だから、そんなことぜったいに許せんって中国は怒ったん
だと思いました。

「よく考えましたね」と齋藤先生は当時の「冊封(さくほう
)」体制について説明を始める。中国の皇帝が一番偉くて、周
りの国は皇帝の家来であり、中国に貢ぎ物をして、そのお返し
に自分の国の「王」だと認めて貰う仕組みである。
 
■4.どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを書いたのか?■

 いよいよ授業は、核心の問いに到達した。齋藤先生は言った。

 聖徳太子は、どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを
書いたのでしょうか? 自分の考えをノートに書きなさい。

 その授業でいちばんノーミソを使ってほしいところでは書か
せるのがよい、というのが齋藤先生の流儀だ。生徒たちは一生
懸命ノートに向かう。静かな教室に鉛筆の走る音だけが聞こえ
る。しばらくしてから挙手している生徒を指名して答えさせる。

 これからは、中国と日本の関係を親分子分じゃなくて、
日本は独立して中国と同じになる。

 前は日本は中国に従っていたから、「邪馬台国」の邪と
か、「卑弥呼」の卑しいとか、悪い字を使われていたじゃ
ないですか。そういう関係はイヤだと思った。

 言っている内容は似ているが、言い方にそれぞれの子供の個
性が出る。

■5.そんなにうまくいくのか?■

「ちょっとみんなに言いたいんですけど」と一人の生徒が反論
する。

 国と国とが平等になって独立するのはいいんですけど、
日本はこれから中国から文化とかを学んで発展したいんじ
ゃないですか。それなのに、いま親分子分の関係をやめて
中国から離れてしまったら、文化や技術をまなべなくなっ
ちゃうんじゃないですか?

 この反論から、生徒間の議論が始まった。

 中国の下にいたら、何でも自由にはできない。それだっ
たら、中国から学べないとしても、独立してやっていく方
がいい。

 中国から学んでも、国としては平等になろうということ
だから、中国にそれを認めてもらえれば、それはできると
思います。

 でも、実際には皇帝は怒っているんですよね。うまくい
かないと思うんですけど。

 一人の子供の反論から始まった議論で、子供たちは分かって
いたつもりの風景を、反対側からも見るようになった。反論が
出せる教室は素晴らしい、というのが齋藤先生の思いである。

■6.聖徳太子の読み■

 みんなよく考えました。冊封体制から離れて、国として
中国と対等の関係になるというのが、まさしく聖徳太子の
考えです。

 とくに最後の話し合いはたいへん重要です。たしかに、
もしこの政策によって中国からまったく学べないことにな
ったら、留学生を送れなくなって、聖徳太子の考えた日本
の発展はなくなるかもしれません。学べなくとも中国の子
分でいるよりは独立を選ぶという意見がありましたが、実
は聖徳太子にはある読みがあったらしいのです。ある理由
があって、日本を独立させるにはこの計画はかならず成功
するという確信がもてた。だから聖徳太子は決断したので
す。その理由を説明しましょう。

 隋は、朝鮮北部を領土とする高句麗との戦争にてこずってい
た。その戦争を有利に運ぶために、隋は日本を味方にしておき
たいはずだ、そういう聖徳太子の国際情勢の判断を、齋藤先生
は地図を使って説明していく。遠くの国を味方にして、近くの
国を攻める「遠交近攻策」という中国伝統の戦略についても説
明する。子供たちから「すごいなあ」という嘆声がもれてきた。
最後に齋藤先生はこうまとめた。

 中国(隋)を先生として尊敬しこれからも学んでいくが、
国と国との関係は対等になりたい。中国との親分・子分関
係をやめて、国としては中国と対等の関係にしたい。ズバ
リ言えば自立した国、独立した国になりたいと聖徳太子は
考え、この国書でその考えを実行したのです。

■7.<皇帝>と<天皇>■

 これに続けて、齋藤先生は次のように黒板に書いた。

東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す。

 今度はすぐに読み方を教え、全員で斉読する。「ヒムガシの
テンノウ、つつしみて、ニシのコウテイにもうす。」

 これは、その翌年に、再び隋の皇帝に送った国書の書き
出しです。東の国日本の天皇が、西の国隋の皇帝に心をこ
めて申し上げる、という意味です。

 聖徳太子は、このときも中国の冊封体制からはずれて独
立する、中国と日本を対等な関係にするという大方針を変
えませんでした。それがわかる言葉はどれでしょう。

「<皇帝>と<天皇>だと思います」とすぐに一人の生徒が答えた。

 その通りです。<皇>という字は中国の<皇帝>だけが使え
る特別な文字でした。だから、子分の国の王様には<王>と
いう字を使わせていたのです。ところが、この手紙で日本
の王は<天皇>ですよと言ったわけです。「これからは日本
も<皇>の字を使います」という事です。

 天皇には北極星という意味があるそうです。天の星はす
べて北極星の周りを回りますね。国のまとまりの中心とい
う感じがよく表れている言葉です。

 中国の皇帝はまた怒ったでしょうが、実際はどうだった
か、記録はありません。しかし、この後も遣隋使は続けら
れたので、隋は<天皇>という言葉を受け入れたことがわか
ります。この国書によって、日本の自立は完成したと見て
よいでしょう。

 聖徳太子は、見事に「中国から進んだ文化を学ぶ」「国
としては自立し、中国と対等につきあう」という二つのね
らいを実現したのです。

■8.子供たちの感想■

 この授業のあとで、子供たちは次のような感想文を書いた。

 聖徳太子がいなかったら、もしかしたら今でも日本は中
国の家来になってしまっていたのかなと思った。国の大き
さや力はちがっても、同じ国々なのだから、対等につきあ
うのがよいと思った。

 聖徳太子の方針はすごくいいと思った。「自分の国は自
分の足で立つ!」「今までのような日本ではだめだ」。そ
う気づいたのだと思う。・・・今こうして「日本」という
国が独立してやっていけるのも聖徳太子のおかげだと思っ
た。

 聖徳太子の隋と大和(日本)が平等につきあえる国にす
るという考えは、ふつうの人は思いつかない。私なら、自
立したらもうつきあいはないと思ってしまう。独立はつき
あいがなくなるわけではない。現在の日本と中国も昔を見
習ってほしいと思った。

 隋に、日本も隋も平等だという手紙を出した聖徳太子の
勇気に感動しました。隋の皇帝に怒られたりどなられたり
したのを耐えた小野妹子も、すごい根性だなと感心しまし
た。

 ぼくはみんなと少しちがって、わざと隋の皇帝を怒らす
なんて「何やってるんだよ」と思っていた。自分が聖徳太
子だったとしても、こんな危険な賭けはやらなかったと思
った。ぼくも日本を独立させたいと思うのはいっしょだけ
ど、もっとちがうやり方を考えたと思う。ただ、聖徳太子
が国づくりの天才だということはまちがいない。日本の国
に誇りを持っているのだと思う。

■9.今の日本に欠けているものを教える歴史授業■

 生徒たちは、この授業から実に多くの事を受け止めている。
国家の独立と対等な外交を求める気概、時には相手を怒らして
も主張を貫徹する交渉力、そしてその根底にある自国への誇り。
今の日本に欠けているものばかりである。

 こうしたことが抽象論でなく、具体的な事件を通して学べる
点が、わが国の歴史の豊かさなのである。その豊かな地下水脈
から先祖の思いや考えを疋田して、子供たちの素直な感性に注
ぎ込み、そこから瑞々しい感動を呼び起こす齋藤先生の授業方
法には感嘆の念を禁じ得ない。

 齋藤先生の「学校で学びたい歴史」には、さらにキリシタン
問題、廃藩置県、東京裁判などを通じて、我らの父祖がどのよ
うな思いと考えで、それぞれの困難な時代を生き抜いてきたの
か、を生徒に考えさせる授業が紹介されている。こういう授業
で育った子供たちが大人になっら、まさに「国際派日本人」と
してわが国の未来を開き、国際社会で立派に活躍してくれるだ
ろう。
(文責:伊勢雅臣)

自分ではマダだろうと思っていたこと

2013年07月29日 16時26分29秒 | 色んな情報
自分ではマダだろうと思っていたこと
近々 介護を受ける様になるかもしれない。
買い物に行くのに前の時間で行けた距離が二倍三倍かかっきている。
今日も朝から雨がきついようだけども 起きるよりも大分遅かった。
昨日の事フット考えたら 歩くのに何度も足をすっていたなと。
蹴躓くことも何度か有ったかなと 考えた。
先ほど思い切って福祉の方に電話をしてみた。
包括センターというところがありそちらで詳しく聞くように言われた。
部屋見ると布団の包布がアッチコッチ真っ黒になっていたり
天井のスミには蜘蛛の巣が沢山付いていたり。
眼の前になる段ボール箱の上にパンフレットが沢山有りずれ落ちそう。
昔はこんなにだらし無くなくてキチッとしていたのに掃除もしないなと
電話しながら自分の部屋の中を見回していた。
他人の部屋を見ている感じ。
コンナだらしのない事していなかったのになっと。
最近ではそう言えば部屋の中の物を動かしただけでフウフウ言っていた。
ソレで動かさなくなったなと思い いつ頃かなと。
この病気にはマケテはいけないと思っていたのに もう負けているんだな。
明日まで生きられるかと病気の後思ったことがそう言えば有り 寝たくない日々が有った。
今は睡眠薬飲んでも布団の中で最低二時間は目をつむったままでゴロゴロしている。
体を起こしておくのがつらくなるのが9時ころ。
一日何度もゴロゴロ。
私の日を見てくれている人には申し訳ないと思う。
イメージのイラストとは全然似ない人物である。
何を言いたかったのか忘れてしまった。

マスコミを始めとする全ての工作活動は『分断工作』だってご存知?

2013年07月28日 19時47分29秒 | 色んな情報
マスコミを始めとする全ての工作活動は『分断工作』だってご存知?

作成者: 榊原 敦さん


明治維新で世界中に飛び出して行った多くの日本人たちがいた

米国でアメリカ人を驚かせたのは

日本人の

〇勤勉さ

〇団結力

このふたつです

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『同じ日本人じゃないか?』と日本人同志の絆はとても深かったのです

民主党のロゴマークは『日本をふたつに割る』という形をしています

日本にいる帰化人の著名人(工作員)たちの役割の土台は

〇いつも日本人がひとつにまとまって一致団結しないうようにする事

なのです

『正しい』とか『間違っている』ではなくて

『たくさんの意見を発生させて日本人がひとつにまとまらないようにする』

事が実は目的なのです!

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

そういう意味で たくさんの人達を見て行けば

私達日本人が いよいよひとつになって一致団結する時が来たのです!

民主党を見て下さい

リーマンショックによる日本国民の不平不満を『印象操作の報道』で

政府与党に向けさせて

今までになかった『政権交代』や『二大政党制』の向こうに幸せがあると

国民に催眠術を掛けて 21年9月の政権交代を果たしたんですから!

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

あの時には東日本大震災の前で 国民は『自分の事ばかり』だったけど

震災や支那と韓国による『侵略行為』が起こり

戦後初めて 日本国民は『国家』を考えるようになったのです!

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

これからは多くの日本国民がどんどん『国家観』を目覚めさせていきます

誰にも 止める事はできないと思います

マスコミはとにかく何でも『賛成』と『反対』のふたつの世論を作り出します

マスコミの仕事はとにかく『日本人がひとつにまとまらないようにする事』

だからです

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

今の日本国民は二種類です

『目覚めている人』と『目覚めていない人』それだけです!

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

勘違いしないで欲しいのは

『優れている人』と『劣っている人』なのではありません 同じ日本人です

『愛国心のある人』と『ない人』なのではありません 同じ日本人です

『愛国者』と『愚民』なのではありません 同じ日本人です

『知っている人』と『まだ気が付いていない人』の二種類なのです!

『敵』と『味方』なのではありません

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

国家がふたつに割れれば『朝鮮戦争』のようにふたつに 分かれてしまう

『内戦状態』になればどうなるのですか?

『国力が弱くなり』結果として他国から侵略されやすくなるのです

先の民主党政権下で学んだのは 皆さん 実は

『日本国内の世論がひとつにまとまらないと すぐに外国が攻めてくる』

なのではないでしょうか?

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

朝鮮人や支那人工作員の目的はいつも『分断工作』なのです

工作員が一番恐れているのは何か? もうご理解頂けましたね!

『日本人がひとつにまとまって団結して本来の強さを発揮する事』

朝鮮も支那も天皇陛下の下 一億総火の玉となって大東亜戦争を戦った 
 
『戦前までの日本人の団結力』

これを発揮させない事こそが その工作活動の目的だからです!

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

保守の皆様 安倍政権の下 日本国民を一致団結に導いて参りましょう!

きちんとあいさつをして 礼節を護り 背筋を伸ばして 言葉を正しく

大人が子供たちの手本となりましょう!

日々勉強して 自分の知恵と知徳を磨き続けましょう!

今は自分勝手な長老たちも間もなく『目覚める』のではないでしょうか?

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

いつも元気で笑顔でいて下さい 何かを与えられる人でいて下さい

『元気がないと人は攻撃的になるんです』

『弱くなると 誰かに助けてもらいたいと思ってしまう』んです!

『強くなりたい』と願うから強くなれるんです!

『優しくなりたい』と思うから優しくなれるんです!

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

同じ日本人に生まれた奇跡に感謝をして皆で一致団結しましょう!

一致団結できなければ日本人はその本領発揮ができないんです!

どうぞひとりでも多くの方に伝えて下さいな!

樺太はいきなり盗まれました。

2013年07月28日 17時14分42秒 | 色んな情報
樺太はいきなり盗まれました。


川条 しかさんが野島 功成さん

運気が上昇するかどうか分かりませんが、日本人として
大切なことだと思いますので。


なぜ教えない。

樺太はいきなり盗まれました。

樺太を盗むのに、日本人は必死で逃げた。

なぜ逃げている日本人を何千人も犯し殺す必要があるのか?

白旗まであげて樺太を離れていく日本人満杯の船を、何隻も潜水艦で沈める必要があるのか?

樺太の日本人墓地を潰しアパートを建てる…

ロシア人だから仕方ない。今のロシア人はその歴史を知らないなら仕方ない。

恩は石に刻み怨みは水に流すのが日本人。

なぜ日本人がそれを忘れているのか?
ニッキョウソの罪は重い。

※こんな本書きました(≧∀≦)。
下記に1つでもピンときた方は是非ともお読みください。
1・日本の治安はこんなに悪い!!…良くする方法。
2・義務教育で嘘を教えられています…真実を知る方法。
3・日本の伝統や文化が危機!!…守る方法。
4・正しい教科書は採用妨害され!!…採用される方法。
5・文部科学省の教育指導要領は無視!!…解決方法。6 ・国際常識や誇りが無い…解決法。
7・自分の住む国の「建国の精神」「自然観」「死生観」「国家観」など生涯知らないまま…知る方法。
8・自分の国は今年で建国何年目とか、日本の誕生日など知らないまま…解決法。 9・子供の偏差値は上がらない…上げる方法。
10・日本に卑怯者が増える一方…減らす方法。
11・日教組が法律違犯!!…救うか撃退する方法。
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大陸を切り開いた満鉄

2013年07月28日 16時30分50秒 | 色んな情報
大陸を切り開いた満鉄
2013.7.28 11:07

 ■米鉄道王との共同経営を蹴る

 戦前、子供時代を満州(現中国東北部)で過ごした日本人が口をそろえる思い出がある。南満州鉄道(満鉄)線を疾走する特急「あじあ号」の雄姿だ。

 昭和9(1934)年に開発された蒸気機関車が引っ張る汽車だったが、流線形の覆いがつけられ平均時速82・5キロのスピードが出た。大連-ハルビン間944キロを14時間足らずで結んだ。

 当時の日本の特急よりはるかに速く、満州育ちの子供たちのヒーローであり自慢のタネだった。

 その満鉄はもともと、ロシアが建設した東清鉄道の南部支線だった。前にも書いたように、ロシアは東方進出のため明治24(1891)年、自国内を横断するシベリア鉄道建設に着手した。

 しかしバイカル湖以東が難航したため、チタから満州内を通りウラジオストクまでショートカットする東清鉄道の建設を清国に認めさせた。さらに途中のハルビンから、租借している大連・旅順へ南下する南部支線も1903年に完成させ、翌年に始まった日露戦争では多くの兵士を運んだ。

 明治38(1905)年9月に結ばれたポーツマス条約で、この南部支線のうち長春郊外の寛城子-旅順間とそれに付属する利権を日本が譲り受けたのである。

 翌明治39年11月、南満州鉄道株式会社を設立し、その管理、運営を始めた。初代総裁は台湾総督府の民政長官をつとめた後藤新平だった。

 だが、満鉄の「発車ベル」がスムーズに鳴ったわけではない。

 ポーツマス条約締結と時を同じくして、米国の鉄道王と言われたエドワード・ハリマンが来日、日本政府に、鉄道をシンジケートで共同経営するよう持ちかけた。

 桂太郎首相や伊藤博文、井上馨ら元老は乗り気だった。日露戦争で金を使い果たし、鉄道を経営する資金のメドがたっていない。しかも日本単独では、ロシアが満州を奪還しにくるのを防ぐ自信もなかったからだ。

このため10月にハリマン側と協定書に調印するところまでこぎつけたが、ポーツマスから帰国した外相、小村寿太郎が待ったをかけた。「満州は日本の勢力下におくことが国益にかなう」というのが小村の主張だった。

 戦争に勝って得た鉄道まで手放すことへの国民の不満も小村に味方した。結局政府は共同経営を断念、資本金の半分を外債で賄うことで単独経営を決めた。

 このハリマン提案を拒否したことについて、今では「共同経営を受け入れておれば、日本があれほど大陸に深入りすることはなかった」との批判が根強い。だがその後、移民問題などで日米関係が悪化したことなどを考えると、共同経営がうまくいったかどうかさえわからない。

 いずれにせよ満鉄はその後、満州の軍閥政権が敷設した鉄道を次々と吸収する。さらに中国とソ連が共同経営していた東支鉄道も買収するなどで、昭和7年に満州国ができた後は満州全土の鉄道約7千キロをその管理下に置く。

 鉄道事業ばかりではない。それに付属する利権として石炭採掘や製鉄など鉱工業にも力を入れ「満鉄王国」などと呼ばれる一大企業に成長する。大陸を切り開く役割を担ったわけで、多くの日本人が新たな仕事を求め、満州に渡っていくことになった。

 さらに後藤の発案で「満鉄調査部」が設立される。満鉄が事業を拡大するに当たって需要度などを調べるシンクタンクだった。後には約2千人のスタッフを抱え、日本と中国との戦いを想定した「支那抗戦力調査」など「国策調査」も行い、日本の大陸政策に大きな影響を及ぼしていく。

 一方でこの満鉄の事業や、そこで働く日本人を守るという名目で日本陸軍に「関東軍」が設置される。この関東軍と満鉄とが車の両輪のようになって、満州への進出をはかることになる。

 昭和6年の満州事変や翌年の満州国建設も、この日露戦争勝利による鉄道獲得に端を発していたのである。(皿木喜久)

【用語解説】漱石の渡満

 文豪夏目漱石は日露戦争終結から4年後の明治42年、満州と併合前の韓国を訪問した。学生時代の友人である満鉄2代目総裁、中村是公に誘われたからだ。9月12日、船で大連に到着後、主に満鉄の汽車により、旅順、奉天(瀋陽)、長春、京城(ソウル)などを回り、日露戦跡や都市を見学し、10月14日に帰国した。

 その印象を「満洲日日新聞」に「韓満所感」として書いた。その中で日本人が「文明事業の各方面に活躍」しているのを見て「甚(はなは)だ頼母(たのも)しい人種」と感じたという。それまで漱石が抱いていた「自虐的」な日本人観を変えるきっかけになったようだ。

「修身教科書」

2013年07月28日 15時20分51秒 | 色んな情報
「修身教科書」

         京免 史朗


■1.国際派日本人を育てるための「修身教科書」

 これはまるで「国際派日本人」を育てるための教科書ではないか、と思った。戦前の道徳教育の教科書を編集した『国民の修身』[a]がベストセラーとなり、その続編として刊行された『高学年用』[1]を読んでの感想である。その帯には次のような引用がある。

__________
...  我らも国交の大切なことを忘れず、つとめて外国の事情を知り、外国人と交際するに当たっては、常に彼我の和親を増すように心掛けましょう。 我が国 第十課 国交(現代語訳)

 国旗はその国の印でございますから、我ら日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。また礼儀を知る国民としては外国の国旗も相当に敬わなければなりません。 我が国 第四課 国旗

 外国人に対して礼儀に気をつけ、親切にするのは、文明国の人の美風です。 公民の務 第一課 礼儀
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 何かと言うと反日暴動を起こしたり、日の丸を焼いたりする近隣諸国の一部国民に学んで貰いたい事ばかりだ。彼らはいまだ「礼儀を知る国民」でも、「文明国の人」でもないのだろう。

 現代日本人が知るべきは、このような「修身教育」が、戦前から行われていたということである。今回は、この本から、特に国際社会に関する項目を見てみたい。


■2.「外国と対等に交際することになりました」

「外国との交際」に関して、次のように我が国の歩みを振り返る。

__________
 我が国は、徳川幕府が久しい間外国と交通することを禁じていたので、明治以前には余程(よほど)世界の大勢に後れていました。それがため、外国と交際を開いた時には、大そう不利益な条約を結び、その後長らく苦しみました。

 しかし国民はよくこれに耐え、力を合わせて国の繁栄をはかった結果、ついに外国も我が国の実力を認めたので、我が国は条約を改正することが出来て、外国と対等に交際することになりました。[1,p66]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 欧米諸国が武力を背景に、アジア・アフリカ諸国と不平等条約を結ぶのは各地で見られた事であった。それを暴力で覆そうとしたのが中国だった。英米や日本の民間人を襲ったり、商店を略奪したり、商品をボイコットしたりと外交上の義務を果たさなかった[b]。米外交官ジョン・マクマリーは次のように記している。

__________
 人種意識がよみがえった中国人は、故意に(JOG注:対外条約で約束した)自国の法的義務を嘲笑し目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。・・・中国に好意をもつ外交官たちは、中国が外国に対する敵対と裏切りを続けるならば、遅かれ早かれ、一、二の国が我慢しきれなくなって手痛いしっぺ返しをするたろうと説き聞かせていた。[2,p221]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 我が先人たちは、こういう野蛮なやり方をしなかった。歯を食いしばって国内の近代化を進め、我が国の実力を認めさせることで、条約改正にこぎつけ、対等の外交を実現した。しかもそれを修身の教科書で「外国との交際はかくあるべし」と教えているのである。


■3.「小さい軍艦で、よくも太平洋を無事に越えてきたものだ」

 外国に実力を見せつけた事例として、勝安芳(勝海舟)の逸話が出てくる。若いときに西洋の8巻の兵書を買えなくて、それを持つ人の家に毎晩出向き、筆写した逸話をまず紹介する。

 その後、勝は長崎でオランダ人について航海術を学んだ。そして、幕府が国使をアメリカに送るという話を聞く。

__________
 安芳はそれを聞いて、我が航海術の進歩を見せるには、この上もないよい機会だと思ったので、自分の教えた部下を指図して日本人の力だけで航海をしたいと願い出ました。[1,p177]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 幕府は日本人だけでは危ないと容易に許さなかったが、安芳の熱意に負けて、咸臨丸(かんりんまる)という小さな軍艦を派遣することとした。

__________
 航海中は毎日のように雨風が続いて、海が大そう荒れました。嵐が激しい時には、船体がひどく揺れて、ねじ折られそうになったことが幾度もありました。

 しかし、安芳らは少しも恐れず、元気よく航海を続け、日本を出てから三十八日目にサンフランシスコに着きました。アメリカ人は、日本人が航海術を学んでからまだ間がないのに、少しも外国人の助けを受けずに、小さい軍艦で、よくも太平洋を無事に越えてきたものだと、大そう感心しました。[1,p178]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 当時の小学生たちは、こういう逸話を読んで、自分も国の発展のために何事かを成し遂げようという気概を抱いた事だろう。


■4.「欧州諸国に比べて見ると、まだ及ばない所があります」

 しかし、対等の条約を結んだからといって、それでもう世界の大国になった、というような夜郎自大な意識は全くない。

__________
 我が国は、かような発達の結果、欧州大戦の後には世界の大国の中に列することになりました。・・・しかし現在でも、英・米・独・仏等の欧州諸国に比べて見ると、まだ及ばない所があります。将来我が国が更に発達してこれらの国々と肩を並べて共々に、文明の進歩をはかって行くようにするのは、我等の責任です。[1,p68]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これに比べれば、戦後の高度成長で世界第2の経済大国になったと浮かれたり、中国に抜かれたと言っては落ち込んだり、という姿勢は、いかにも子供じみたものに見えてくる。

 世界の中で問うべきは「文明の進歩をはかって行く」上で、国家としてどれだけ貢献しているのか、ということだ。そのためには、国民一人ひとりがよく身を修めて、立派な日本人にならなければならない、というのが、修身教科書の教えである。


■5.「国と国とが親しく交わり互いに助け合っていく」

 修身教科書では、国交の大切さをこう説く。

__________
 隣近所どうし互いに親しくして助け合うことが、共同の幸福を増す上に必要なことは、いうまでもありません。それと同様に、国と国とが親しく交わり互いに助け合っていくことは、世界の平和、人類の幸福をはかるのに必要なことです。[1,p72]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その具体的な内容として、明治天皇が明治41(1908)年に賜った詔書で「ますます国交を修めて列国と共に文明の幸福を楽しもう」と言われていること、大正天皇の詔書にも「万国の公是(世間一般が正しいと認める事柄)によって平和の実を挙げ我が国力を養って時世の進歩に伴うように努めよ」と諭された事を紹介している。

 さらに昭和天皇については、次の逸話を紹介する。

__________
 今上天皇陛下は皇太子であらせられた時、欧州諸国を御巡歴になりました。半年の間、陛下は至る処の国々で御交際におつとめになり、いつも非常に好い感じをお与えになりました。これがため各国との和親がどれほど増したか計り知られません。

 我らも国交の大切なことを忘れず、つとめて外国の事情を知り、外国人と交際するに当たっては、常に彼我の和親を増すように心掛けましょう。[1,p73]
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 昭和天皇の皇太子時代の欧州御巡歴とは、第一次大戦終結のわずか3年後、多くの人々が治安を心配する中で決行されたものだが、同盟国である英国からは大歓迎を受け、また大陸の激戦地を視察されて青年皇太子は戦争の悲惨さを実感された。[c]

 このように明治維新以降、皇室は国際友好の大切さを身を以て示されてきた。天皇方の御言動を説けば、それはそのまま国際友好の理想を小学生に教える教材になる、という処に我が国の有り難い国柄がある。


■6.「知っている人も知らない人も博(ひろ)く愛するのが人間の道」

 国と国との交わりと言っても、その実体は人と人との交わりである。首脳同士、外交官同士の交わりもあれば、民間人の交わりもある。日本国民一人ひとりが、外国人に対しても友情を持って交わることが出発点である。修身教科書は、このために次のような逸話を紹介している。

 紀伊の水夫虎吉らはミカンを積んで江戸に行き、その帰り道に暴風に遭って吹き流され、2か月も漂流した。そこをアメリカの捕鯨船に救われ、親切に介抱された。

 捕鯨船は北洋で半年ばかり捕鯨をした後に、虎吉らを便船に頼んで香港に送り届けてくれた。そこで仕立て屋をしている日本人が世話をやいて上海まで送り届けてくれ、そこから支那の役人の保護を受けて、ようやく帰国できた。3年も経って郷里ではてっきり虎吉らは死んだと思っていた所、無事に帰ってきたので夢かとばかり喜んだ。

 この逸話を紹介した後、修身教科書は次のように説く。

__________
 知っている人も知らない人も博(ひろ)く愛するのが人間の道であります。いろいろ災難にあって困っている者を救うのはもちろん、たとえ敵でも、負傷したり、病気になっていたりして苦しんでいる者を助けるのは、博愛の道です。

明治三十七、八年戦役(JOG注:日露戦争)に上村艦隊が敵の軍艦リューリク号を打ち沈めた時、敵のおぼれ死のうとする者を六百余人も救い上げたのは、名高い美談であります。[1,p105]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 教育勅語に「博愛衆に及ぼし(博く世間の人に慈愛を及ぼし)」とあるが、修身教科書のこの一章はまさしくこの「博愛」を具体的な逸話を通して語ったものである。


■7.博愛の心で、外国人を救った日本人たち

 戦前の我が国には、こうした博愛の心で外国人を救った事例に事欠かない。弊誌で紹介した事例をいくつか挙げると:

・明治23(1890)年、トルコ軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本町沖で岩礁に激突、沈没したが、村民総出で救助にあたり、69名を救出。[d]

・大正9(1920)年、シベリアに流刑になっていたポーランド独立運動家たちの子供765名を、ロシア革命の混乱から救い出し、日本で健康を回復させた後で、母国に送り届けた。[e]

・昭和12(1937)年、ロシアを脱出しようとする約2万人のユダヤ人が吹雪の中で立ち往生しているのを、ハルピン特務機関長・樋口少将の指揮で満洲国関東軍が救出。[f,g]

・昭和14(1939)年、日本海軍は上海の租界地に各国から逃げてきたユダヤ人難民1万8千人を収容し、その安全を図った。[h]

・昭和15(1940)年、ナチス・ドイツとソ連に分割占領されたリトアニアのユダヤ人約6千人に杉原千畝領事がビザを発行し、日本経由でイスラエルやアメリカに脱出させた。[i]

・昭和17(1942)年、工藤俊作艦長率いる駆逐艦「雷(いかづち)」は撃沈した英軍艦の漂流者422名を救助した。[j]

・昭和18(1943)年、中国河南地区でイナゴの大群に襲われて餓死寸前の多くの農民を日本軍が糧食を放出して救った。[k]

 これらの義挙を成し遂げた人々は、小学生時代にこの修身教科書で「博愛」を学んだのであろう。


■8.博愛と義勇を兼ね備えた国際派日本人

 国際友好や博愛を説くと同時に、修身教科書は防衛努力の大切さを説くのも忘れない。

__________
 今日文明諸国は、皆共同して、戦争を避け平和を保つために、出来る限りの力を尽くしています。しかし、世界にたくさんある国と国との間には、いろいろの原因からいつ戦争が始まらないとも限りません。それで、もし我が国にも禍(わざわい)が及んで、国の安危に関するようなことが起こったら一大事です。それ故に、我らが一致して我が国の防衛に心を用い、その安全を図るのは最も必要なことです。[1,p118]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ここには戦後の日本国憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というような空想的世界観はない。こういう空想に囚われると、現代のチベット民族やウイグル民族の苦難も見えなくなってしまう。

 博愛を及ぼし、平和を守り、文明の進展を図るためには、時には戦わなければならない時がある。教育勅語で「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」の「義勇」とは、「正義心と勇気を持つ」事であろう。そして博愛と義勇とは表裏一体である。義勇がなければ、博愛も実行に移せない時がある。

 前節で挙げた数々の義挙を行った人々は、この博愛と義勇を兼ね備えた人々であろう。これらの人々の行為は今日の国際社会でも十二分に尊敬されうる。こういう国際派日本人を育てたのが戦前の修身教科書であった。

【神武天皇】

2013年07月26日 20時07分47秒 | 色んな情報
【神武天皇】

          大日本皇國

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 神武天皇は、古事記・日本書紀によれば、高天原から日本に降臨した皇孫ニニギノミコトの曽孫に当たります。神武天皇は、当時、我が国が、氏族が割拠し、対立抗争していたのを見て、皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)の理想とする国を作ろうと考え、九州の日向(ひゅうが)から東征を行いました。その過程で、神武天皇は「つわものの威をからずして、いながらにして天下を平(む)けむ」と言います。すなわち、大業が成った後は、武力を頼まず、徳の働きによって天下を平和に治めていこう、という意味です。そして神武天皇は、様々な困難を乗り越えて、大和に入り、奈良の橿原(かしはら)の地で、初代天皇に即位したとされます。『日本書紀』は、この年を紀元前660年としています。

 この時、神武天皇は、日本建国の理念を高らかに謳い上げたと伝えられます。その理念は、「橿原建都の詔」に示されています。「六合(りくごう)をかねて以て都を開き、八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)むこと、また可(よ)からずや」。これは、「国中を一つにして都を開き、さらに天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにすることは、なんと、良いことではないか」という意味です。

 この理念のキーワードが、「八紘一宇(はっこういちう)」です。この言葉は、大東亜戦争において乱用されたため、侵略思想を表す言葉と思っている人が多いかもしれません。しかし、この言葉は、日本人の「道徳上の目標」を表す言葉であって、侵略主義とは無縁のものであることが、東京裁判においても認められています。

 また、神武天皇の「建都の詔」には、「苟(いやし)くも民に利あらば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」という言葉があります。「民」は「おおみたから」と読みます。そこには、天皇は国民を宝のように大切に考えるという姿勢が表れています。そして、国民の福利をめざす政策を行おうという方針が示されています。

 以来、わが国では、覇権ではなく徳をもって国を治めるという理想が、受け継がれてきました。これは、今日まで皇室が続いてきた理由の一つと言えましょう。

 このように、記紀は、日本国は高い理想のもとに建国された国であることを伝えています。そのことが歴史的事実であるかどうかは別として、日本人は少なくとも千年以上もの間、そのように信じてきました。そして、その理想が保たれていたことによって、明治維新も成し遂げられたのです。

 幕末の日本は、西欧列強の植民地にされるおそれがありました。その危機感の中で、日本人は、新しい国民結集の政治体制をつくろうとしました。そしてその方向性を決定づけたのが、慶応3年12月に出された「王政復古の大号令」です。その中には「諸事神武創業のはじめにもとづき……」という文言があり、神武天皇の建国をモデルにすることが謳われました。そして、明治6年には、2月11日が紀元節と定められ、新国家建設が進められました。明治憲法も、明治22年の2月11日という日を選んで発布されたのです。

 このような日本国の歴史を振り返るとき、自国の神話と建国の理念を知らなければ、日本の歴史と文化を真に理解することはできないことが分かるのです。




「言い争いで口ごもると死刑になる国だった」

2013年07月25日 22時09分05秒 | 色んな情報
「言い争いで口ごもると死刑になる国だった」

          京免 史朗



 半島で独自に発達した朝鮮儒教は、嘘、ホラ、出鱈目、何でもござれで、言い勝ちさえすれば正義という
世界でも稀な特殊な価値観を形成した。ソント(※声闘)はその流れの一つだろう。

声闘(ソント)とは朝鮮人の古くからの風習で声の大きさで相手の言論を封じること。
人と議論をするとき、議論の内容は関係なく、ただ大声で早口で居丈高に話し、相手が何も言い返せなくなれば勝ち、というしきたり。

古来朝鮮において、法律と言う物は意味が薄かった。兎に角裁判になった場合は、大きな声で相手が何も言えないまでにひたすら発言をしまくる。内容がオウム返しであろうと、罵倒や嘘八百だろうと、レッテル貼りや人格攻撃、関係のない親類縁者への悪口、嘘泣きなども総動員し、相手が何も言えなくなれば、こちらの勝利である。
負けたらすぐ死刑になるので、もし後で相手が正しかったと明るみになっても関係無い。
客観的な真実などという証明に時間の掛かるものには、何の価値もない。

彼らが執り行う論争や裁判では真相はまったく明らかにならないばかりか、論理のすり替えが多発し、論議が一歩も進まないのがその特徴である。その場で勝ちさえすればよい。
証拠や論理はもはや意味を持たない。
感情を露にし、自分は被害者であると相手より大きな声で主張し、その場を言いくるめた側の勝ち。

こんな出鱈目な裁判が、朝鮮の裁判である。だから現代の韓国人も大声でひたすら自分の主張を繰り返し、相手が何も言えないまでにマシンガンのように喋りつづけ、そして勝手に勝利宣言をして去っていく。
かつて敗北は即死刑であったので、負ける訳には絶対にいかない。現代でも負けは一族の迫害を意味する。
だから韓国人は絶対に自分の非を認めない。
この態度は、声闘(ソント)からきている

●立礼は基本“気をつけ 礼”です。

2013年07月25日 20時19分42秒 | 色んな情報
●立礼は基本“気をつけ 礼”です。

          京免 史朗
今朝 銀行に行きました。
帰る時にコンシェルジェが
「有難う御座いました。又お越し下さいませ」
と言ってくれたのですが、手がお腹に前に!
で、私はおせっかいにも
「その礼は日本の“礼法”では非礼・失礼になるんですよ。」
「ええっ 本当ですか?知りませんでした。」
「立礼は基本“気をつけ 礼”です。手を体の前や後ろで組むのは“休め”の姿勢です。休めの姿勢で礼をしても“礼”にならないでしょう。」
「成程そうですね!気づきませんでした。」
「気をつけ礼は硬い礼ですが、手を自然と伸ばしたまま前で軽く触れる程度に合わせて礼をすれば柔らかくなります。で、手を前にすると自然と肩がすぼまります。“肩身が狭い”状態でしょ。これで、“かしこまって”とか“つつしんで”という形になります。」
 やってみて「なるほど」
「例えば、雨の日に傘を差してて、人と行き違う時、互いに邪魔にならない様に傘を斜めにするでしょう。これを“傘かしげ”と言います。それとか、スクランブル交差点で無秩序に見えても見事に渡って行きますよね。これは、相手を思いやる心を日本人は誰に言われる事もなく身につけている訳です。」
「はぁ そうですね!」
「で、手をお腹の前で重ねると肩・肘が張るでしょう。“肩肘を張る”と言って虚勢を張ったり、自分の領分を主張する意味に取れます。これは、朝鮮式の礼法です。 ね、日本の礼にはそぐわないでしょう! 慎み深い日本人でいたいと思います。 宜しくお願いします。」
 と言って帰りました。

韓国有力メディア、『九州を韓国に返還せよ』

2013年07月24日 20時36分43秒 | 色んな情報
韓国有力メディア、『九州を韓国に返還せよ』
     
京免 史朗
                   大槻義彦

中国は尖閣諸島を自国領と主張しているだけではない。
中国の代表的メディアが沖縄も中国領土、との主張を始
めた。
 そのような主張に『感激』したのか、韓国のメディア
も『九州を韓国領土に』と主張し始めた。読者の皆様は
韓国メディアが、まさか とお考えだろう。しかしそれ
は事実だ。日本のメディアが騒がないのは何故か?
 韓国の有力紙CHOSUN ONLINE日本語版に
7月7日、コラムがのっている。それにはドイツが第2
次世界大戦の敗戦で、ライン川の西側、アルザスロレー
ヌ地方をフランスに割譲したように、日本も九州を韓国
に割譲して謝罪の意図を示せ、と述べている。
 この記事の執筆者はアルザスロレーヌの歴史を知らな
い。17世紀にはフランス王国がアルザスの中心地スト
ラスブールを支配下に置いた。ところが1871年にな
ると、ドイツ帝国の前身、プロイセン王国がアルザスロ
レーヌ地方を直轄統治下においた。ところが1919年、
ドイツが第1次世界大戦で敗れると再びフランス領となっ
た。第2次世界大戦ではナチスドイツがこの地方を奪い
返した。しかし、その大戦に敗れたドイツはこの地方を
フランスに返し、現在、フランス領となっている。
 私はストラスブール大学の客員准教授として勤めた関
係もあり、ストラスブールの市民感情を良く知っている。
つまり、市民はフランス領であることに満足しているの
だ。
 韓国有力メディア、CHOSUN ONLINEよ、
一体いつ九州がたびたび韓国領になったことがあるのか。
また、九州の市民の意識が韓国領になることを満足する
のか?
 私は韓国のCHOSUN ONLINEが好きで毎日
読む。日本のメディアだけでは分からない『独創的な発
想』があるからである。しかし、ここでとりあげたコラ
ムはあまりに独創的である。独創的でありすぎればそれ
は荒唐無稽になるのだ。韓国一の有力紙のコラムにして
は余りに荒唐無稽ではないか。
 是非とも韓国人、あるはその関係者の投稿をお待ちす
る。

http://ohtsuki-yoshihiko.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-f0d2.html