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●箱根関

2014年02月27日 11時45分13秒 | 色んな情報

●箱根関
◆箱根関所(はこねのせきしょ)http://p.tl/o9_E かつて箱根にあった関所である。
箱根関所。2007年3月に復元された。
狭義においては江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国足柄下郡箱根(現箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の箱根関所(はこねせきしょ)を指すが、広義における「箱根関」は江戸時代以前に箱根山山麓に置かれた関所及び江戸幕府が東海道と並行して走る脇往還に設置した関所も含んでいる。
・解説
箱根に関所が設置された始期については定かではないが、律令期には既に箱根峠を経由する箱根路が開設されるとともにその路上に関所が設置されており、足柄峠の足柄路とともに関東防衛の役割を担った。平将門の乱の際に平将門が箱根に兵を派遣してこれを封鎖することを考え、承久の乱の際にも北条義時が御家人から出された箱根路・足柄路に置かれた関を固めて同地で官軍を食い止める策を斥けて兵を上洛させたと伝えられている(『吾妻鏡』承久3年5月19日条・『承久記』など)。室町幕府の鎌倉府も箱根に関所を設置して関銭の徴収を行った事が知られ、康暦2年(1380年)には、箱根の蘆川宿に関を3年間限定で設置して円覚寺の修繕に充てたと伝えられ、その後も応永13年(1406年)に箱根山中の水飲峠に水飲関が置かれたという。その後、戦国時代に後北条氏が箱根山の西側(伊豆国)に山中城を設置した際に関所の機能を吸収したという。

後北条氏滅亡後、江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置したのである。

箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされ、通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。これにより、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。

箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。

箱根関所以外にも箱根裏街道には仙石原関、足柄路の流れを汲む矢倉沢往還には矢倉沢関所、熱海入湯道(熱海道)に根府川関所など5ヶ所の脇往還にも関所が設置された。江戸幕府の公式な箱根関所と5つの脇関所から江戸時代の箱根関が構成され、それ以外の経路を通過することは「関所破り」「関所抜け」として固く禁じられていた。

明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したときに廃止された(ただし、幕末の慶応の改革の段階で簡単な検問機能のみに縮小されていた)。跡地は国の史跡とされ、昭和40年(1965年)になって箱根町立箱根関所資料館が開設された。
 
◆入鉄炮出女 - Wikipedia  http://p.tl/Io4z
 入鉄炮出女(いりてっぽうとでおんな)は、江戸時代における交通政策の1つ。「入り鉄炮出女」とも表記される。
・解説
関所の機能についての端的な表現として用いられた言葉で、江戸に入ってくる鉄砲(「入鉄炮/入鉄砲」)と、大名の家族の女性が江戸より出て行かないように江戸から外に出て行く女(「出女」)、特に注意して取り締まられたという意味でこう呼ばれていた。

江戸と地方を結ぶ関所を通過する際には入鉄炮には老中が発行する鉄炮手形、出女には留守居が発行する女手形の携帯が義務付けられていた。

鉄砲を関所の内側(江戸方面)に入れる際には、鉄炮手形を関所に提出させ、次に関所に備え付けられた「判鑑」にて手形に記された老中の印鑑が真正であるかを確認し、更に鉄砲の所有者・挺数・玉目・出発地と目的地が手形の記載通りであるかを確かめた後に初めて通過を許した。また、鉄砲などを隠す空間を作りやすい長持の検査も厳重に行われた。江戸時代には東海道の新居関がその厳重な監視で知られていた。なお、意外にも江戸からの鉄砲の持ち出しについては簡単な検査ののちに通過を許したとされている。

女性が関所の外側(地方)に出る際には女手形を提出させ、次に関所に備え付けられた「判鑑」にて手形に記された幕府留守居の印鑑が真正であるかを確認した。女手形は別名「御留守居証文」ともいい、関所を通るにあたって旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記されていた。箱根関の場合は特に厳しく、女の身体的特徴を専門に検分する人見女(髪改め女)が常駐し、出女の監視を行っていた。人見女の検査は厳重であり、髪の毛の有無や身体的特徴、ほくろや妊娠の有無などについてまで吟味されたという。更に女による男装の疑いがあれば、男に対しても同様の検査が行われたとされている。これは通行手形の発行手続が男の方が容易であり、女が男の振りをして手形の発行を受ける可能性があったからである。もっとも江戸幕府が伊勢神宮参拝者や温泉湯治などを行う者に対しては「書替手形」と呼ばれる特別な手形を出す例があり、これを受けた者については予め幕府が身元を確認したものと看做してより簡単な手続で済まされる例もあった。

関所破りは重大な犯罪とされ、これを行おうとした者、あるいはそれを手引きしたものは磔などの厳罰が課された。もっとも、裏金や賄賂などで内々に関所を通過する者が後を絶えず、加えて文久の改革の参勤交代緩和によって、関所での手続自体が大幅に緩和されて「女手形」も簡素化された。そして慶応3年(1867年)8月には慶応の改革に伴って、手形が無くても関所の通行が許可されるようになり、事実上関所改めは廃止されることとなった。
 
◆関所 「女改め」厳しい検問 : 広重をたどって 中山道編 http://p.tl/mBKR
 贄川(にえかわ)宿(長野県塩尻市)の話を続ける。地名の由来は昔、温泉が出たことにちなみ「熱川(にえかわ)」と書かれ、後に贄川と転じたとか、諏訪大社の神事にコイやマスを「贄(にえ)(お供え)」として奉納したからだという。いずれにしても、奈良井川の谷筋が狭く、深くなり、道を確保するのがやっとという地形を生かして贄川関所はあった。

 
◆女 改 め  http://p.tl/IdqU
 幕府は大名の妻子が江戸から国元へ逃げ出すことを厳重に警戒し、女性が関所を通過する場合には上り下りとも女手形が必要であった。

女手形には通行人数、乗物の有無とその数、出発地と目的地等のほか、禅尼・尼・比丘尼・髪切・小女の区別を明記することが義務づけられていた

禅尼とは身分の高い人の後室とかその姉妹で髪を剃った人をいい、尼は普通の女性の髪を剃った人、比丘尼はいわゆる女僧のことをいう。髪切とは髪の長短ではなく惣髪の先を切り揃えている女性をいい、小女とは零歳児から振り袖を着用している女児をいう。
 
◆出女  http://p.tl/0ctP
  「御留守居証文」を携えた出女が関所に差し掛かると、まずは江戸口千人溜りで待機します。やがて関所役人から「こちらへ」と声がかかり、関所構内へと入り、居並ぶ関所役人の前へ進みます。ここで、関所役人に箱根関所あての「証文」を差し出すのです。役人は「証文」の文面を確認した後、女性を検査する専門官に改めを指示します。この人は、「人見女」と言われる役人ですが、たいていお婆さんで、「改め婆」などと呼ばれ、女性の旅人から恐れられていました。「改め婆」は、出女の髪を解き、「証文」に記載されている髪形や特徴を調べるのです。「改め婆」は検査の結果を役人に告げ、異常がないことが確認されれば、関所を通る許可が下ります。もし「証文」記載と一致しなければ、関所を通ることはできず、「証文」の取り直しが命ぜられます。
 なお、女改めが行われている時は、他の旅人は関所構内に入ることはできず、江戸口・京口の両千人溜りで待たされることになります。
 

 
◆関所(せきしょ)http://p.tl/lj7p
交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。単に関(せき)とも。
陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。
陸路では、峠や河岸に設置されることが多い。
 

 
◆荷留(にどめ)http://p.tl/ol2S
生活物資(主にコメ)を地域外へ移動させることを禁ずる命令、もしくは行動。港にて船の荷揚げ荷下ろしを制限することは津留(つどめ)と呼ばれた。戦国時代から明治時代初頭にかけて行われた。

多くは各藩や直轄奉行所などが発する公的な命令であったが、飢饉の拡大を恐れた農民や住民が私的な関所を設けて行う例も見られた。

戦国時代には、敵地への経済封鎖の一環として、米穀や塩の輸送を禁じることが行われた。「敵に塩を送る」という故事のきっかけは、今川氏真によって甲州側への荷留(塩止め)が行われたことがきっかけである。

江戸時代の場合は、食糧確保のための自衛措置や一部の者が不当な収益をあげることを目的に行われるようになった。江戸時代は、藩単位で見ると農業政策はまちまちであり、冷害などで米の収穫量が減少すると、地域ごとに米の保有量や米価に大きな不均衡が生じた。平常時に不均衡が生じると、物資の移動により均衡状態に向かうこととなるが、さまざまな思惑、例えば、

飢餓輸出的な物資の流出防止
敵対する隣接藩への報復措置
米価つり上げを狙う商家や官吏の結託
などの理由により、しばしば荷留が行われるようになった。具体的な方法としては、関所における物資流通の制限、沖仲仕の活動停止など多岐にわたる。


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