【日本とトルコの友好の歴史】
1890年9月17日、トルコの軍艦エルトゥールル号が、
樫野崎沖で岩礁にぶつかり、沈没しました。...
乗船者は650名。生存者63名のうち58名が負傷。
つまり587名が死亡するという大惨事でした。
村民達は遭難したトルコ人を献身的に介抱しました。
この年は漁獲量も少なく、米価の暴騰などで食糧事情は最悪でした。
自分達でさえ飢えを凌ぐのに精一杯という状況の中、村民達は貴重な米を炊き出し、蓄えていたサツマイモをふかして出しました。
鶏は、村民達の最後の非常食でしたが、これも遭難者達に振る舞いました。
村民達は乗客員達に対し、献身的に看護にあたったのです。
エルトゥールル号の遭難を憂慮した天皇・皇后両陛下の意向を受け、
生存者を東京に移送する軍艦八重山が大島港に到着しました。
エルトゥールル号の生存者は、手厚く看護してくれた大島の村民達に見送られ、正午に大島港を出発する事となりました。
1985年3月17日、イラクのサダム・フセインは、
「今から48時間後、イランの上空を航行するすべての飛行機を、イラク空軍の攻撃対象とする」と唐突な爆弾発言をしました。
各国政府は自国民をイラクから脱出させようと奔走、そんな中、日本政府の対応は遅れました。
その時点でテヘランに取り残された日本人は200人以上、政府の対応が遅れた事により、日航機による救出は、事実上不可能になってしまったのです。
伊藤忠商事の森永尭氏はトルコのオザル首相に日本人の救出を頼りました。
オザル首相は「オーケーだ。すべてアレンジする」
「我々は日本人に恩返ししなければいけないからね」
と言い日本人の救出を引き受けました。
すぐにオザル首相の指示を受けたトルコ航空が救助機のパイロットを募ると、なんとその場にいた全員が手を挙げたのです。
トルコ人スタッフが命がけのフライトをしたおかげで、215名の日本人の命は救われたのです。
日本の学校でこの事実が教えられる事はありません。
しかし、トルコではエルトゥールル号の事件は教科書にも載っています。
トルコが親日的な理由は、近代史上初めて、有色人種が白人国家に勝利した日露戦争、そしてこのエルトゥールル号事件によるものなのです。
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