そして時の最果てへ・・・

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北条家の外交方針

2010-02-21 22:02:39 | 歴史
「小田原の役」シリーズ第2回。前回の続きです。

九州征伐が終わる天正十五(1587)年までの豊臣秀吉は、関東への直接的軍事介入が不可能な状態であり、そのために北条家への態度はひどく低姿勢でした。豊臣政権に臣従していた佐竹や宇都宮への支援は口先だけのものに過ぎず、上杉を通して支援を約束していた真田については、徳川家が正式に豊臣家に臣従が決まってから手のひらを返し、北条・徳川の真田攻めを容認したりもしました。

「沼田問題」は最終的に真田が豊臣へ降伏することによって解決をみましたが、領土問題の裁定を第三者の秀吉が行ったため、具体的な事務処理段階で齟齬を生じ、北条が沼田の北1/3を放棄させられる結果となったことは前回説明しました。

そんな不満を抱きつつも、北条家は当主・氏直を上洛させ、豊臣家に臣従する条件交渉を進めていました。

しかし、対秀吉強硬派が暴発。沼田引渡しが行われた直後に、北条が放棄させられた沼田北部にある名胡桃城を攻略してしまったのです。

それでも恭順派はなんとかそれ以上の戦闘の拡大を抑え付け、氏直の岳父・家康に取り成しを依頼します。家康もそのつもりで、北条に対して「臣従しないのなら娘を送り返すこと」と通達します。一見恫喝にも見えますが、これは逆に「娘を送り返してこない限り、豊臣への臣従の意思があるものとして取り成す」という意味でもあります。それほど家康は北条家に好意を示していました。

その一方で、氏直の父で強硬派の氏政と、氏政の次弟・氏照、三弟・氏邦は、その対抗姿勢を崩そうとしませんでした。伊達との同盟を推し進め、なおかつ氏直へ兵力の動員するよう圧力をかけます。

その圧力に屈した氏直は、動員令を発令しました。その目的は、秀吉に対する外交的恫喝と、強硬派に対しては秀吉に対して弱腰ではないことを示し、批判をかわすこと。

かような目的で動員された兵力は総勢10万を超えました。この数字は九州全土を支配していた島津家のそれを凌駕する驚異的な数字です。また、動員が行われた時期は名胡桃上事件から半月足らず。

恭順派の打算には、兵力動員が対外的にどれほどマイナスになるかが、完全に抜け落ちていました。北条の防衛体制の強化という恫喝に対し、さらに高圧的な恫喝、つまり宣戦布告をもって応ずることぐらいは予想されて当然といえるでしょう。

かくして、家康が献身的に仲裁に奔走したにもかかわらず、北条家は内部の矛盾を解消することを優先させた結果、開戦への道を突き進むことになってしまいました。