そして時の最果てへ・・・

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沼田問題

2010-02-10 22:58:50 | 歴史
いよいよ始まります「小田原の役」シリーズ。

時は天正十(1582)年、織田信長が本能寺の変にて倒れます。

武田征伐により織田領になっていた信濃(長野県)、甲斐(山梨県)、上野(群馬県)にはそれぞれ織田配下の森長可、毛利秀頼、河尻秀隆、穴山信君、滝川一益が治めていました。

しかし本能寺の変の混乱で河尻秀隆と穴山信君が討ち死に、森長可、毛利秀頼、滝川一益が撤退。旧武田領はあっという間に空白地となってしまいました。

そうなれば当然、領地争いが発生します。北からは上杉、南からは徳川、東からは北条が侵攻。特に徳川と北条の戦いを「天正壬午の乱」と呼びます。

北条は上野から碓氷峠を通って東信濃に入りましたが、その途上にあったのが利根、吾妻の2郡、つまり沼田です。当時沼田を治めていたのが真田昌幸でした。

真田昌幸は当初北条方に味方しますが、途中で徳川方に寝返ります。信濃での作戦にあたり、後方連絡線を遮断された北条は停戦に追い込まれます。北条家当主・北条氏直が徳川家康の娘・督姫を妻に迎え、信濃は徳川領、上野は北条領とする講和条約が結ばれました。

北条方は信濃の都留、佐久から速やかに撤退したのに対し、徳川家臣となっている真田昌幸は、上野の沼田に居座ったまま動こうとしません。自力で勝ち取った沼田を家康の一存で放棄させられるのに納得できなかったためです。

真田は独立を保つため上杉と同盟。天正十三(1585)年、ついに徳川と真田の戦争「上田合戦」が勃発します。

家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7000を派遣しますが、真田昌幸は地の利を生かした戦術で徳川勢を神川に追い落として撃退。家康は上田城攻略を諦めざるをえなくなります。

最終的には豊臣秀吉が仲裁に入り、天正十七(1589)年に沼田の南2/3を北条領、北1/3を真田領とする裁定が下りました。

こうして沼田の1/3を放棄させられた北条は、豊臣政権に対して不満を抱くようになり、後に「名胡桃城事件」へと発展していくこととなります。

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