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中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

学童疎開(5)

2009-09-07 08:52:17 | 身辺雑記
 久しぶりに学童疎開の記録『泣くもんか』を開き、改めてあの頃を思い出したので、つい長々と書いてきてしまった。『泣くもんか』は800ページ余で、10ポイントくらいの活字を使っているからかなりの量の記録だ。疎開、それも鳴子温泉での生活のような体験がなければ、あまり興味を惹くことはないだろうが、それでも丹念に読めば、当時の小学生達が親元から離れてどのような生活をしていたのか、先生方のご苦労がどのようなものであったのか、地元の人達がどのように誠実に世話をしてくれたのかが分かり、体験者の私は読むたびに何度も胸が熱くなる思いがした。

 鳴子での生活はもちろん苦しいことばかりでなく、都会の子どもにとっては珍しいこともあった。ワラビやキノコ採り、スキーやそり遊び、「のみしらみ 馬の尿する枕元」の芭蕉の「尿前の関」への遠足などは今も思い出す。時折催される演芸会も子ども達や先生が出演して楽しかった。しかし、それでも親から離れて過ごす寂しさは言葉には尽くせないものだった。何よりも空腹だった。空腹のあまり本部室に忍び込んで食べ物を盗む者もあった。

 島田先生は私が鳴子を離れた後で東京に戻られて召集令状を受け取られた。出征前に一度、と鳴子を再訪された。

 「宿舎のたたずまいや緑の山河の景色は変わらなかったが。私は学童を見たとき、本当に息がつまる思いがしたのである。いまでもまざまざと学童達の姿が眼に浮かぶ。ユウレイが、足のあるユウレイが出迎えに出た!とこんな思いなのである。やせて、顔だけが青白くむくんで、元気がなくて―。
 私が東京にもどらずに、ずっと学童たちと接していたら、案外気がつかない状態だったかもしれない。二か月ほど離れて、久しぶりに訪問したときの学童たちの印象は、まさしくユウレイの姿であったのである」

 おそらくは栄養失調かその直前の状態だったのだろう。後もう少し戦争が続いたらどうなっていただろう。死ぬ者も出たかも知れない。あれから60年余、このような話が信じてもらえないように思うほど日本は豊かになった。飽食の時代で、栄養失調どころか栄養過剰で子どもでも成人病が心配される時代である。

 集団疎開が必要になるようなことは2度とあってはならない。いや、今度戦争が起これば、疎開をする暇もなく悲惨な状態になるだろう。戦争を体験した者はしだいに老齢化し、それを伝える人達も少なくなった。そして戦後生まれの世代の中には軍備を持つことを当然とする者もあり、中には原爆被災地の広島で、核兵器を持つべきだと講演するような輩さえもいることに私は強い怒りを覚える。 (終)