赤い靴で 街あるき

横浜の波止場から~♪函館に。
街の散策やキッチンの片隅から。見たり聞いたりの「ひとかけら」を綴ります。

阪神大震災

2006-01-17 | 日々のひとかけら

     

11年前、オットと私は大阪に住んでいた。
当時は成人の日が15日。16日が振り替え休日で17日から仕事開始・・
我家のような人たちが多かったと思う。

大阪に住んだのはその前年の4月からだった。
初めての関西住まいなので、散策・食べ歩きと動き回っていた頃である。

あの朝は早くから目が覚めていた。
キッチンの排水溝が逆流!!そんな変な夢で目が覚めた1・17。
いつもだともう一度眠れるのに、あの朝はなぜか目が冴え眠れずにいたのだ。
突然もの凄い揺れが襲ってきた。
地震には横浜で馴れている私たちも驚くような激しい揺れ!!
飛び起きて、とりあえず玄関ドアを開けにいったのを覚えている。
とにかく激しい揺れだった。
ただ、我家が住んでいたマンションは建っていた向きが良かったらしい。
どこの家も、そんなに大変な状況にはならなかった。
食器棚やタンスも揺れとは逆の向きだったのか、倒れることもなく
食器類も全て無事。
あの日の大阪で、グラス一つ壊れなかった家は相当珍しいと思う。
大阪でも多くの家が、TVが飛んできたりタンスが倒れたりしていたから。

揺れが落ち着くと同時に、横浜・札幌の実家に電話連絡。
携帯が普及する前のこと。電話回線がパンクすると予想したからだ。
「まもなく電話が通じなくなると思うけれど、無事だから心配しないで」
案の定この後すぐに市外からの電話は通じなくなる。
札幌や横浜から、心配した友人たちが何度もかけてくれたらしい。
当時は携帯だけでなく、メールも今のようには普及していなかった。

我家の近くには大阪府の救急救命センターがあった。
あの日から毎日、そこへ向かう救急車のサイレンが響くことになる。
TVが映す悲惨な様子はもちろんだが、サイレンの響きは悲しみや絶望
などの叫びとなって今も耳に残っている。

あの日関西にいた人は、1・17の朝は毎年早くから目が覚める・・・
そう聞いたことがあるが私もその一人で、今朝もやはり目が覚めた。
亡くなった多くのかたたちの中に、知り合いはいない。
でも、せめてこの日だけでもこの朝だけでもご冥福を祈らせてもらいたい。
たまたま関西にいた私たちの、せめてもの気持ちだと思っている。


画像は近くの公園の池で泳ぐカモです
水面に映る空と木々の、平和な静けさをお届けできたらと思います