黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

三池炭鉱 #03:沿革~後編

2014-01-06 02:38:45 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
さらっと触れる三池の歴史の後編です。

三池炭鉱

明治6年(1873)、三池藩の炭山はすべて官営になり、
政府は洋式技術の投入で能率的生産を計画します。
最初に洋式技術を投入した大浦坑では、
斜坑を造り、蒸気動力による炭車巻上機を設置しました。
画像は『稻荷村大浦炭坑山之図 (筑後地誌略)』
に掲載されている当時の大浦坑の様子。(クリックで拡大)
左に斜坑口、右に蒸気機関による巻上機がみえます。
また、運搬には馬が使われている様子も描かれています。





三池炭鉱

明治22年(1889)、三池炭鉱は三井に払い下げられ、
後に百年以上にわたる三井三池炭鉱時代が幕をあけます。
画像は払い下げられた当時の三井炭鉱社本部 (明治22年)





三池炭鉱
團琢磨 石炭産業科学館

三井に払い下げられた三池炭鉱の最高責任者に就いたのが、
当時まだ30歳だった團琢磨です。
團琢磨は優れた炭鉱技術者であると同時に、
先見の明と不屈の精神を持ち合わせた経営人でもありました。





三池炭鉱
勝立坑のデイビーポンプ

團琢磨は世界一大きなデイビーポンプを導入し、
三池炭鉱の最大の弱点だった、
大量の坑内湧水の問題を解決するなど、
多くの難題を解決したと言われています。





三池炭鉱

その後、宮原坑や万田坑など、
大規模な坑道を次々と開削。
團琢磨は可能な限り機械化を導入して、
労働者の負担軽減も考慮した人でした。
画像は創業時の万田坑第一竪坑。




三池炭鉱

明治40年代になると、
永年の案件だった三池港の改築も手がけます。
大型の船が停泊出来なかった三池港から積み出される石炭は、
幾度も積み替えを行なって出荷されていましたが、
この三池港の大工事で、大型船舶の停泊が可能になり、
三池港から直接出荷先へ運搬出来る様になります。
画像は完成当時の、港の水位を調整する閘門。
こうして盤石の三井三池体制が作られて行きました。







三池炭鉱

戦後の昭和34年(1959)、
エネルギー政策の転換と価格競争のあおりをうけ、
三井が雇用者の大幅なリストラを行なったことに端を発し、
労働組合が猛抗議を開始します。
財界が三井を支援する一方、
日本労働総評議会が労組を支援したことで、
この講義は、総資本対総労働の戦いとも言われました。
歴史にその名を大きく残す三池闘争です。





三池炭鉱

労働争議が一段落した昭和38年(1963)、
当時主力坑だった三川坑で大規模な炭塵爆発が起きました。
死者458名、一酸化炭素中毒者839名を出す、
戦後最大の産業事故でした。
画像は三川坑炭塵爆発の慰霊碑。





三池炭鉱

存命した方々も、多くが一酸化炭素中毒の被害を受け、
いまでも障害が癒えないでいるといいます。



こうしてさらっと三池の沿革を見て来ましたが、
激動の20世紀を走り抜けた三池炭鉱は、
エネルギー政策の転換と輸入炭とのコスと競争により、
平成9年(1997)、その長い歴史に幕を下ろしました。

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