シリーズでアップしている三池炭鉱。
さらっと触れる三池の歴史の後編です。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/e2/cd24cf0fe786fb1c33d6078aaf17d975.jpg?random=ac77f86e02d84a828be32818995611a1)
明治6年(1873)、三池藩の炭山はすべて官営になり、
政府は洋式技術の投入で能率的生産を計画します。
最初に洋式技術を投入した大浦坑では、
斜坑を造り、蒸気動力による炭車巻上機を設置しました。
画像は『稻荷村大浦炭坑山之図 (筑後地誌略)』
に掲載されている当時の大浦坑の様子。(クリックで拡大)
左に斜坑口、右に蒸気機関による巻上機がみえます。
また、運搬には馬が使われている様子も描かれています。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/3f/5d2700ced7546e4e30626bb4294dde8b.jpg?random=f879b203d44cc26b0173c072b08ef400)
明治22年(1889)、三池炭鉱は三井に払い下げられ、
後に百年以上にわたる三井三池炭鉱時代が幕をあけます。
画像は払い下げられた当時の三井炭鉱社本部 (明治22年)
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/88/421f0a8a409f8aff1a7e8a2eb01ee6eb.jpg?random=e60d5f61e3cca177a6d9f5210755c08a)
團琢磨 石炭産業科学館
三井に払い下げられた三池炭鉱の最高責任者に就いたのが、
当時まだ30歳だった團琢磨です。
團琢磨は優れた炭鉱技術者であると同時に、
先見の明と不屈の精神を持ち合わせた経営人でもありました。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/21/795aaf6a2c04e224ebf9ddf138addde6.jpg?random=eaee70fcd7e2c2ad3dd8284a5e7ad72f)
勝立坑のデイビーポンプ
團琢磨は世界一大きなデイビーポンプを導入し、
三池炭鉱の最大の弱点だった、
大量の坑内湧水の問題を解決するなど、
多くの難題を解決したと言われています。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/b3/dc6afc8107e3d440347990fa46c2357a.jpg?random=ba36a90610f5de8af426f36eae55c9f5)
その後、宮原坑や万田坑など、
大規模な坑道を次々と開削。
團琢磨は可能な限り機械化を導入して、
労働者の負担軽減も考慮した人でした。
画像は創業時の万田坑第一竪坑。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/e9/a333f626d298cc3d98155505224210c3.jpg?random=65ab1b16cfc5073889ccde2d1d416b12)
明治40年代になると、
永年の案件だった三池港の改築も手がけます。
大型の船が停泊出来なかった三池港から積み出される石炭は、
幾度も積み替えを行なって出荷されていましたが、
この三池港の大工事で、大型船舶の停泊が可能になり、
三池港から直接出荷先へ運搬出来る様になります。
画像は完成当時の、港の水位を調整する閘門。
こうして盤石の三井三池体制が作られて行きました。
◆
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/d5/182071ebc10ce58ac4eb2e0437f16317.jpg?random=bd53ca5586c593a95b131a4d267deca2)
戦後の昭和34年(1959)、
エネルギー政策の転換と価格競争のあおりをうけ、
三井が雇用者の大幅なリストラを行なったことに端を発し、
労働組合が猛抗議を開始します。
財界が三井を支援する一方、
日本労働総評議会が労組を支援したことで、
この講義は、総資本対総労働の戦いとも言われました。
歴史にその名を大きく残す三池闘争です。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/f7/1ecc1a3413b977324ab644ce23a29eb1.jpg?random=b8e02eddd49909d0dfda1d2ef54f0d44)
労働争議が一段落した昭和38年(1963)、
当時主力坑だった三川坑で大規模な炭塵爆発が起きました。
死者458名、一酸化炭素中毒者839名を出す、
戦後最大の産業事故でした。
画像は三川坑炭塵爆発の慰霊碑。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/ce/9e987c72552c899846bfe8ad18c5c6ed.jpg?random=920df1bc178e25f0d8490951ca1f75f7)
存命した方々も、多くが一酸化炭素中毒の被害を受け、
いまでも障害が癒えないでいるといいます。
◆
こうしてさらっと三池の沿革を見て来ましたが、
激動の20世紀を走り抜けた三池炭鉱は、
エネルギー政策の転換と輸入炭とのコスと競争により、
平成9年(1997)、その長い歴史に幕を下ろしました。
◆ シリーズ 三池炭鉱 ◆
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さらっと触れる三池の歴史の後編です。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/e2/cd24cf0fe786fb1c33d6078aaf17d975.jpg?random=ac77f86e02d84a828be32818995611a1)
明治6年(1873)、三池藩の炭山はすべて官営になり、
政府は洋式技術の投入で能率的生産を計画します。
最初に洋式技術を投入した大浦坑では、
斜坑を造り、蒸気動力による炭車巻上機を設置しました。
画像は『稻荷村大浦炭坑山之図 (筑後地誌略)』
に掲載されている当時の大浦坑の様子。(クリックで拡大)
左に斜坑口、右に蒸気機関による巻上機がみえます。
また、運搬には馬が使われている様子も描かれています。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/3f/5d2700ced7546e4e30626bb4294dde8b.jpg?random=f879b203d44cc26b0173c072b08ef400)
明治22年(1889)、三池炭鉱は三井に払い下げられ、
後に百年以上にわたる三井三池炭鉱時代が幕をあけます。
画像は払い下げられた当時の三井炭鉱社本部 (明治22年)
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/88/421f0a8a409f8aff1a7e8a2eb01ee6eb.jpg?random=e60d5f61e3cca177a6d9f5210755c08a)
團琢磨 石炭産業科学館
三井に払い下げられた三池炭鉱の最高責任者に就いたのが、
当時まだ30歳だった團琢磨です。
團琢磨は優れた炭鉱技術者であると同時に、
先見の明と不屈の精神を持ち合わせた経営人でもありました。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/21/795aaf6a2c04e224ebf9ddf138addde6.jpg?random=eaee70fcd7e2c2ad3dd8284a5e7ad72f)
勝立坑のデイビーポンプ
團琢磨は世界一大きなデイビーポンプを導入し、
三池炭鉱の最大の弱点だった、
大量の坑内湧水の問題を解決するなど、
多くの難題を解決したと言われています。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/b3/dc6afc8107e3d440347990fa46c2357a.jpg?random=ba36a90610f5de8af426f36eae55c9f5)
その後、宮原坑や万田坑など、
大規模な坑道を次々と開削。
團琢磨は可能な限り機械化を導入して、
労働者の負担軽減も考慮した人でした。
画像は創業時の万田坑第一竪坑。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/e9/a333f626d298cc3d98155505224210c3.jpg?random=65ab1b16cfc5073889ccde2d1d416b12)
明治40年代になると、
永年の案件だった三池港の改築も手がけます。
大型の船が停泊出来なかった三池港から積み出される石炭は、
幾度も積み替えを行なって出荷されていましたが、
この三池港の大工事で、大型船舶の停泊が可能になり、
三池港から直接出荷先へ運搬出来る様になります。
画像は完成当時の、港の水位を調整する閘門。
こうして盤石の三井三池体制が作られて行きました。
◆
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/d5/182071ebc10ce58ac4eb2e0437f16317.jpg?random=bd53ca5586c593a95b131a4d267deca2)
戦後の昭和34年(1959)、
エネルギー政策の転換と価格競争のあおりをうけ、
三井が雇用者の大幅なリストラを行なったことに端を発し、
労働組合が猛抗議を開始します。
財界が三井を支援する一方、
日本労働総評議会が労組を支援したことで、
この講義は、総資本対総労働の戦いとも言われました。
歴史にその名を大きく残す三池闘争です。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/f7/1ecc1a3413b977324ab644ce23a29eb1.jpg?random=b8e02eddd49909d0dfda1d2ef54f0d44)
労働争議が一段落した昭和38年(1963)、
当時主力坑だった三川坑で大規模な炭塵爆発が起きました。
死者458名、一酸化炭素中毒者839名を出す、
戦後最大の産業事故でした。
画像は三川坑炭塵爆発の慰霊碑。
![三池炭鉱](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/ce/9e987c72552c899846bfe8ad18c5c6ed.jpg?random=920df1bc178e25f0d8490951ca1f75f7)
存命した方々も、多くが一酸化炭素中毒の被害を受け、
いまでも障害が癒えないでいるといいます。
◆
こうしてさらっと三池の沿革を見て来ましたが、
激動の20世紀を走り抜けた三池炭鉱は、
エネルギー政策の転換と輸入炭とのコスと競争により、
平成9年(1997)、その長い歴史に幕を下ろしました。
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