黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

三池炭鉱 #18:勝立坑

2014-02-11 18:52:15 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
文化財等には指定されていないものの、
三池炭鉱の足跡を後世に残す意味で重要な残存施設。
今回は勝立坑です。

三池炭鉱

前回までは官営時代に開削された竪坑をアップして来ましたが、
今回からは三井時代に開発された竪坑です。
写真は明治31年(1898)の勝立坑。
勝立坑は元来官営時代に着手されていましたが、
三池炭鉱の最大の大敵である大量の地下水に阻まれ、
結局操業することは無かった竪坑でした。

それを三井の時代になって、
團琢磨が当時国内最大であるデビーポンプを導入することで、
湧き水問題を克服し、操業に至った竪坑でした。





三池炭鉱

デビーポンプ原動部分の据付けと題された写真。
デビーポンプに関しては既に沿革~後編や宮原坑の記事でお伝えしましたが、
写真に写る竪坑櫓の手前側のものがデビーポンプだと想います。

また、写真に写る竪坑櫓は、
現存する万田第二竪坑や宮原第二竪坑の櫓のように、
細かな鉄骨の組み合わせではなく、
シンプルな鉄骨構造の櫓だったことが分かりますが、
現存しない宮原の第一竪坑もまた同様の構造の櫓ででした。





三池炭鉱

沿革~後編の記事でもアップしましたが、
改めて当時国内最大だった勝立坑のデビーポンプ。





三池炭鉱

写真は昭和14年(1939)の勝立二坑跡俯瞰と題された写真。
勝立坑は第一竪坑が明治28年(1895)、
その第二竪坑が翌年に始動し、
昭和3年(1928)まで操業した竪坑でしたが、
実は第二竪坑は、
昭和23(1948)年に一度再開坑され、
再び昭和25(1950)年に再閉坑されています。
その理由はわかりませんが、
勝立坑は操業が終わったあとも閉坑せずにいたので、
戦後の一時期、再開坑出来たのだと想います。

一般的に明治時代の竪坑は四角く造ることが多いですが、
この竪坑の跡は円形をしています。





三池炭鉱

写真は昭和14年(1939)の勝立坑跡竪坑櫓台座と題された写真。
1つ上の写真を見ると、第二竪坑の周囲には、
壁状の構造物が隣接していますが、
この写真の周囲には、壁状のものが隣接していないので、
この竪坑は第一竪坑の跡ではないかと想います。

写真を見る限りこの竪坑も閉塞していないように見えます。
またこちらの竪坑は四角い穴のように見えます。





三池炭鉱

現在の勝立坑第二竪坑跡。
(大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ様所有)
現在では第二竪坑の基礎部分の一部が残るのみです。
コンクリートの塊の下部を見ると、
煉瓦造りのアーチ状の構造が見えますが、
これがおそらく2つ手前の写真の、
右寄りに写る部分だと想います。



【勝立坑】

福岡県大牟田市新勝立町
ここも今回の見学では訪れていないので詳細はわかりませんが、
竪坑の基礎までは近づける様です。
google map の航空写真を見ると、
四角い構造物がはっきりと分かります。

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