考える猫 チヨちゃん
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
この2行はすごい、と思う。
塾生たちには「すごい」とか「感動した」とかは、やたらに使うな、使うなら、きちんと理由説明してくださいね
と話す。
あるいは、別の言葉で置き換えしてね
という。
というわけで、私の立場では使ってはいけないのであります。
そこで理由説明をします。
「二十億光年の孤独に」
「僕は思わずくしゃみをした」
この2行の間には、20億光年くらいの感覚的距離がある。
表現されたものを読むと、何かおもしろいね、とか、突拍子もないけど明るい、等々の感想を持つことができる。
しかし、表現者の側に立ってみてください。
どうやったら、20億光年の孤独と僕のくしゃみ・・・・が感性の流れ(つながり)として出てきます?
湧いてきます?
出てこない、普通は。
ここまですこーっと飛び立つことはできない。
天啓(神さまが真理を人間に示す)
天啓が降りてきたときにそれを言葉に還元できる能力。
その力を与えられているのが詩人である。
これは小説家のそれとは違う,と思う。
小説家にも「降りてきた」と自分の表現について使う人がいる。
けれどこの場合は、降りてきたものを登場人物に憑依させ(あるいは移譲して),彼らを小説家が「神」として、動かさねばならない。これはけっこう「人臭い」作業だ。更にかなりエネルギーのいる仕事だ。小説家がお年を召すとエッセーに移行するのは、こういったエネルギーと関係していると思っている。
しかし、詩人は降りてきたまま天啓のままに表現せねばならないというか、それが詩人の仕事である。
それに、みごとに成功しているのがこの最後の2行。
芸術の神様のご加護篤い2行の表現。
ということで「すごい」を使いました。
ところで
あくびでも無く、笑みでも無く、なぜくしゃみなのか。
くしゃみと聞くと私がまずは思い出すのは
自由律俳句の俳人、尾崎放哉晩年の句である。
「咳(せき)をしても1人」
咳とくしゃみは違う、という人もいると思うが「咳・くしゃみ」とセットになる症状として考えて下さい。
自由律俳句は、字数や季語に規制されない、一行詩のような俳句の形式である。
当たり前に見える句ですが・・・咳をしている自分を想像しましょう。
咳をしても、どうしたの(今時なら、コロナかも??不安・・様子見ようとか)と声をかけてくれる人はいない。こほこほという咳の音が響くだけ、寂しいなあ・・と。
くしゃん、とくしゃみをしても、それが響くだけ。
日常の孤独。
ただ、この尾崎放哉という人にはあれこれ事情がありまして...その事情が分かると感情移入が更にできまして。(は?!と非難する人もいるだろうけど)
このあたりは、話がかなり外れるので明日のブログに書きますね(予定)
それと「くさめ、くさめ」という魔よけの言葉を古典で習いませんでした?
くさめとは、くしゃみ。
古文の登場人物はくしゃみをしたときに「くさめ、くさめ」を口にする。
魔を払う、早死にリスクを払う魔法の言葉なのだ。
一種の言霊信仰ですね。
徒然草 47段より
或人あるひと、清水きよみづへ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前あまごぜん、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応へもせず、なほ言ひ止やまざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて「やゝ。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君(やしなひきみ)の、比叡山(ひえのやま)に児(ちご)にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。
有り難がたき志なりけんかし。
現代文訳)
ある人が清水寺に、お詣りに出かけた。同行した年寄りの尼が道中「くさめ、くさめ」と言い続けてやめない。「何をそんなに、くさめをのたまわっているのだ」と訊いても返事せず、気がふれたままだ。しつこく尋ねられて老いた尼さんは怒って「うるさい。答えるのも面倒くさい。くしゃみをしたときに、このまじないをしなければ、死んでしまうと言うではないか。自分が世話した我が君は比叡山で勉強している。その君が今くしゃみをしたかも知れないと思うと気が気でないからこうやってまじないをしているのだ」と言った。
めったにない(有り難しの意味)尊い志である。
枕草子にも「くさめ」をのことを書いた文があった思う。
というわけで、くしゃみは魔よけでもあり、長命を願う呪文でもある。
つまりこの最後の「僕は思わずくしゃみをした」の行には、いわゆる日常の孤独に着地した僕、もう一つ呪文として命の長きを願う,といった意味があるのでは?
だから、あくびではダメで、微笑でもダメ。くしゃみ1択となる。
以上。
ただ、これは私の私見(妄想(^_^)要するに感想とはこういう妄想を書くことでもあり)感想ですね。
明日は尾崎放哉のことを書きますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>新潟県からの臨時休校要請を受け、県内全30市町村のうち新潟市や長岡市、上越市など17市町村が、18日以降に公立小中学校を再休校する方針を決めたことが17日、新潟日報社の取材で分かった。
~新潟日報の記事より
花角知事
全国知事会の欠席とか想定外、という言葉とかでがんがんヤフーコメント叩かれていた。
そういうこともありでの要請?とか思っている。
どちらがいいかと言えば、私は休校賛成派(複雑な気持ちですが)
ただ、そういう子達が原信に祖父母と買い物に来ている姿を見るのではらはらする。
いやだろうけど頼むからお家にいて、と思う。
【TVでおなじみ、ダニ博士が語る】新型コロナウイルス発生の裏にある“自然からの警告”
国立環境研究所動画チャンネル
このところ、YouTubeであれこれお勉強しています。
このチャンネル、とてもおもしろいです。
上のリンク先、見てみて下さいね。
ダニ博士、やや早口ですけど、日本語ですから聞き取れます。
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
この2行はすごい、と思う。
塾生たちには「すごい」とか「感動した」とかは、やたらに使うな、使うなら、きちんと理由説明してくださいね
と話す。
あるいは、別の言葉で置き換えしてね
という。
というわけで、私の立場では使ってはいけないのであります。
そこで理由説明をします。
「二十億光年の孤独に」
「僕は思わずくしゃみをした」
この2行の間には、20億光年くらいの感覚的距離がある。
表現されたものを読むと、何かおもしろいね、とか、突拍子もないけど明るい、等々の感想を持つことができる。
しかし、表現者の側に立ってみてください。
どうやったら、20億光年の孤独と僕のくしゃみ・・・・が感性の流れ(つながり)として出てきます?
湧いてきます?
出てこない、普通は。
ここまですこーっと飛び立つことはできない。
天啓(神さまが真理を人間に示す)
天啓が降りてきたときにそれを言葉に還元できる能力。
その力を与えられているのが詩人である。
これは小説家のそれとは違う,と思う。
小説家にも「降りてきた」と自分の表現について使う人がいる。
けれどこの場合は、降りてきたものを登場人物に憑依させ(あるいは移譲して),彼らを小説家が「神」として、動かさねばならない。これはけっこう「人臭い」作業だ。更にかなりエネルギーのいる仕事だ。小説家がお年を召すとエッセーに移行するのは、こういったエネルギーと関係していると思っている。
しかし、詩人は降りてきたまま天啓のままに表現せねばならないというか、それが詩人の仕事である。
それに、みごとに成功しているのがこの最後の2行。
芸術の神様のご加護篤い2行の表現。
ということで「すごい」を使いました。
ところで
あくびでも無く、笑みでも無く、なぜくしゃみなのか。
くしゃみと聞くと私がまずは思い出すのは
自由律俳句の俳人、尾崎放哉晩年の句である。
「咳(せき)をしても1人」
咳とくしゃみは違う、という人もいると思うが「咳・くしゃみ」とセットになる症状として考えて下さい。
自由律俳句は、字数や季語に規制されない、一行詩のような俳句の形式である。
当たり前に見える句ですが・・・咳をしている自分を想像しましょう。
咳をしても、どうしたの(今時なら、コロナかも??不安・・様子見ようとか)と声をかけてくれる人はいない。こほこほという咳の音が響くだけ、寂しいなあ・・と。
くしゃん、とくしゃみをしても、それが響くだけ。
日常の孤独。
ただ、この尾崎放哉という人にはあれこれ事情がありまして...その事情が分かると感情移入が更にできまして。(は?!と非難する人もいるだろうけど)
このあたりは、話がかなり外れるので明日のブログに書きますね(予定)
それと「くさめ、くさめ」という魔よけの言葉を古典で習いませんでした?
くさめとは、くしゃみ。
古文の登場人物はくしゃみをしたときに「くさめ、くさめ」を口にする。
魔を払う、早死にリスクを払う魔法の言葉なのだ。
一種の言霊信仰ですね。
徒然草 47段より
或人あるひと、清水きよみづへ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前あまごぜん、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応へもせず、なほ言ひ止やまざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて「やゝ。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君(やしなひきみ)の、比叡山(ひえのやま)に児(ちご)にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。
有り難がたき志なりけんかし。
現代文訳)
ある人が清水寺に、お詣りに出かけた。同行した年寄りの尼が道中「くさめ、くさめ」と言い続けてやめない。「何をそんなに、くさめをのたまわっているのだ」と訊いても返事せず、気がふれたままだ。しつこく尋ねられて老いた尼さんは怒って「うるさい。答えるのも面倒くさい。くしゃみをしたときに、このまじないをしなければ、死んでしまうと言うではないか。自分が世話した我が君は比叡山で勉強している。その君が今くしゃみをしたかも知れないと思うと気が気でないからこうやってまじないをしているのだ」と言った。
めったにない(有り難しの意味)尊い志である。
枕草子にも「くさめ」をのことを書いた文があった思う。
というわけで、くしゃみは魔よけでもあり、長命を願う呪文でもある。
つまりこの最後の「僕は思わずくしゃみをした」の行には、いわゆる日常の孤独に着地した僕、もう一つ呪文として命の長きを願う,といった意味があるのでは?
だから、あくびではダメで、微笑でもダメ。くしゃみ1択となる。
以上。
ただ、これは私の私見(妄想(^_^)要するに感想とはこういう妄想を書くことでもあり)感想ですね。
明日は尾崎放哉のことを書きますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>新潟県からの臨時休校要請を受け、県内全30市町村のうち新潟市や長岡市、上越市など17市町村が、18日以降に公立小中学校を再休校する方針を決めたことが17日、新潟日報社の取材で分かった。
~新潟日報の記事より
花角知事
全国知事会の欠席とか想定外、という言葉とかでがんがんヤフーコメント叩かれていた。
そういうこともありでの要請?とか思っている。
どちらがいいかと言えば、私は休校賛成派(複雑な気持ちですが)
ただ、そういう子達が原信に祖父母と買い物に来ている姿を見るのではらはらする。
いやだろうけど頼むからお家にいて、と思う。
【TVでおなじみ、ダニ博士が語る】新型コロナウイルス発生の裏にある“自然からの警告”
国立環境研究所動画チャンネル
このところ、YouTubeであれこれお勉強しています。
このチャンネル、とてもおもしろいです。
上のリンク先、見てみて下さいね。
ダニ博士、やや早口ですけど、日本語ですから聞き取れます。