あの富嶽三十六景や北斎漫画でよくご存じの葛飾北斎です。
旧暦の今日4月18日が命日とありました。この人、武蔵国葛飾郡本所(現:墨田区)
の生まれなんですね。江戸時代後期の浮世絵師で、1849年に89歳で亡くなっています
から当時としてはかなり長命だったのです。
富嶽三十六景から 赤富士
(ウイキペディアより)
子供の頃から、この人の名前は知っていたし、波間富士など独特の波がしらをした
有名な絵もしばしば拝見するところでしたが、あまり興味が引かれることはなかっ
たような気がしています。
ところが、その内いろんな機会にこの北斎という人を垣間見るにつけ、次第に目
が向くようになり、今は他界された友人と上野の国立西洋美術館で開催された「北
斎とジャポ二スム」展(2017年11月)を観て、それまでの認識がぐっと深まった印象
がありました。 当時の感想を、当ブログ記事から引用しました。
当時のパンフレットより(ブログから)
『「HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」との副題が示しますように、幕末~明治初
(19世紀後半)来日した外交官たちが持ち帰った資料や工芸品、パリ万博などがき
っかけとなり「北斎漫画」に代表される浮世絵などが、当時の西洋の画家、特にモネ
やドガなどの印象派に大きな影響を与え、「ジャポニスム」という現象が生まれた
とありました。
とりわけ注目されるのが、天才浮世絵師、葛飾北斎(1760-1849)で、人物から
風景、動物、植物、建築、戯画まであらゆる画題を描いた 絵の教科書とよばれる
絵手本『北斎漫画』(全15編)は、当時遠近法を中心とした、どちらかといえば
静止した、納まりの良い構図などの画風に大きなインパクトを与えたのです。
浮世絵に代表される遠近法ではない平面画法?の中に、動きのある画風、つまり
人物の動作、微妙な仕草などの表現、さらに、海、波、山などの風景を捉えた奇抜
な構図、動物、植物などの構図は、当時の印象派画家だけでなく、広く影響を与え
ていたことが良くわかりました。
ルーブルやオルセーなどで見る大作に圧倒され、感動しますが、今回、この展示
を観て、浮世絵に見る“何気ない”(と思える)線が動作・仕草を醸していて、植
物等においても、花や葉、木として見るのではなく、土に根を生やし、イキイキと
生きる姿が描かれる・・といった、そんな感動を改めて覚えるのでした。』
翌年(2018年夏)山のグループで、高瀬渓谷方面から野沢温泉に廻る旅行の時には、
安曇野の『ちひろ館』を観た後、小布施の『北斎館』を訪れました。この辺りには、
何度か来ていましたが、北斎館に入るのはこの時が初めてでした。企画展は年に
5回ほど開かれていまして、訪問した時は、企画展『面白過ぎる!! 北斎漫画の
世界』の時で、もちろん生涯のそれぞれの転機を画した特徴を解説するコーナーに
分かれた、流れるような展示内容にも感銘しましたが、北斎漫画の数々に堪能し、
改めて北斎の凄さを感じた次第でした。
信州北斎館 怒涛図(北斎館にて)
(共にネット画像より)
このような北斎は、ネットで調べますと、かなりの「変人?」でもあったようです。
長生きしている割には、非衛生的な生活ぶりと思えるような日常、衣服に無頓着、
こたつに入りっぱなし、食事は自分では造らず、お茶も入れたことがない、常に貧困
だったそうです。金銭に無頓着で、高額の画工料が入っても、袋を解かずそのまま、
集金人に渡すなどして、ほとんど貯金するなどの考えはなかったそうだとありました。
生涯に使用した「号」は、「北斎」のほか「画狂人」「勝川春朗」「群馬亭」など
30回も改号したとあり、転居に至っては93回に及んだそうです。1日に3回も引っ越
したことがあり、75歳までにすでに56回に達していたという。外国人、武士、歌舞
伎役者などとのトラブルもあったという並外れた人だったようですね。
自画像(82歳ころ)
(ウイキペディアより)
ウイキペディアに面白いエピソードがありました。 『11代将軍徳川家斉は北斎
の画力を聞きつけ、鷹狩の帰りに北斎他を呼び画を描かせた。1人目谷文晁はまとも
な絵を書き、2人目に北斎が御前に進み出て恐れる気色なく、まず普通に山水花鳥を
描いた。次に長くつないだ紙を横にして刷毛で藍色を引いた。そして持参した籠から
だした鶏の足に朱を塗って紙の上に放ち、鶏がつけた赤い足跡を紅葉に見立て、
「竜田川でございます」と言って拝礼して退出した。一同はこの斬新な趣向に驚嘆
した。』とありました。
自由奔放な性格だったのかもしれませんね。
そよ風の誘惑/オリビア・ニュートン・ジョン(歌詞付)
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