昨夜、熊本で震度7の大きな地震があり、その後も頻繁に余震があります。
死者、怪我をした人が大勢おられると報じられています。(7時半現在)
観世元雅作(室町時代)、能「隅田川」の基になった“梅若伝説”の主人公 梅若丸のお話です。
一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵野国の隅田川まで流浪し 愛児の死を知った
母親の悲嘆を描いた物語です。
今日4月15日は「梅若忌」です。東京都墨田区(向島)の木母寺(もくぼじ)では毎年法要が行われている
そうです。
梅若伝説について、ネットからつまみ食いの形で以下にご紹介したいと思います。
今から1000年以上も昔、平安時代の中ごろ、京都北白川の吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、
花御膳の間には梅若丸という男の子がありました。 若くして吉田少将がこの世を去ったため、梅若丸は
5歳で比叡山月林寺で修行に励むようになります。しかし、同輩とのいさかいがもとで居づらくなったので、
ひそかに寺をぬけ出た梅若丸は道をまちがえて琵琶湖のほとり、大津の浜で人買いの信夫藤太と出あいます。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、奥州(現・福島県)へと旅を始めます。長い旅を続けて二人が
武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸 関屋の里までやって来た時です。 梅若丸は幼い身での長旅の
疲れから重い病気にかかり、動くことができなくなってしまいました。信夫藤太はそんな梅若丸を置き去り
にしたのです。
関屋の里人たちに見まもられ、いまわの際に
『尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと』
という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日(新暦四月十五日)、梅若丸はわずか12歳の生涯を閉じて
しまうのです。
隅田川能楽絵図
(ウイキペディアより)
一方、梅若丸の失踪を知った花御膳は狂女と化し、我が子を探しさまよい歩きました。信夫藤太と
梅若丸から遅れること一年、隅田川の西岸までたどり着いた花御膳は、川をわたる舟の中から、東岸の
柳の下に築かれた塚の前で大勢の里人が念仏を唱えている光景を目にします。舟から上がった花御膳に
問われるままに里人は、当時12歳の梅若丸という幼子が病気になり、此の地で亡くなったのが、ちょうど
一年前の今日であり、塚を築き、柳一株を植えて供養しているところだと告げます。
『其は我子なり 梅若丸は此処にて果てたるか』
探し求めた我が子がすでに他界していたことを知った花御膳は 深く嘆き悲しみながらも、里人たちと
ともに菩提を弔います。しかし、悲しみに耐えきれなくなった花御膳は、鏡ケ池の水面に身を投げ、
自ら命を断ってしまいました。
花御膳は妙亀大明神として祀られ、梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。
墨田区の「梅柳山・木母寺」は、梅若丸を供養するために建てられた庵が起源とされています。
元は 隅田院梅若寺 と呼ばれていましたが、天正18年(1590年)、徳川家康によって、梅若丸と
塚に植えられた柳に因み、「梅柳山」 の山号が与えられたそうです。
その後、 梅の字の 偏と旁 を分け 「木母寺」 となったそうです。
(木母寺HPより)
ざっと、このような物語で、いわゆる狂女ものでもこの物語はハッピーエンドではなく母親の悲嘆が
描かれています。
ブログ「今日のことあれこれ」に、謡曲についての記事がありましたので、以下に抜粋させていただき
ました。
謡曲「隅田川」では、『隅田川の川岸で大念仏が行われるので、渡し守が乗船の客人を待っていると、
ひとりの狂女が来て乗船を頼む。渡し守は女に対して、「狂って見せたら、乗せてやろう」と言うのに対し、
狂女は、最初はたしなめていたが、ついに発作的に狂ってしまう。渡し守はそれに憐れを感じて乗船させて
やる。対岸へと漕ぎ出し、その途中で、渡し守から今日の大念仏の仔細を聞き、回向を受けるその子供が
我が子であることを知り船中に泣き伏す狂女に、渡守は船を岸に着けた後、この母を墓所に伴って回向を
勧める。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると
諭される。母も気を取り直して大念仏を唱えていると、そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を
唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方(梅若丸の亡霊)が一瞬姿を見せる。だが夜が明けるとともに
消え失せ、母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。・・』
さらに、『謡曲「隅田川」で、母親は千里の道のりを歩み、ようやく隅田川のほとりに着く。
「ここぞ名に負う隅田川、渡りに早く着きにけり、渡に早く着きにけり」・・
中世の時代、隅田川というのは「東の果て」と同義語であった。この時代、能をつくり、見た人は主に
都(京都)の人である。 彼らから見れば箱根八里を超えればなにがあるかわからない異郷の地である。
その更に東の果てに隅田川があり、都より東の国にいたる終着地。つまり、隅田川は、異界との「境界」を
形成する場所としての悲劇性が哀愁を高揚させる。 又、船上での渡し守と狂女の問答のカケ合いの中から、
尋ねる我が子が今はこの世に亡く、東の果ての道のほとりのこの塚の下に永遠に眠っていると知った
母の悲しみは、クライマックスに達し、絶望の淵へと誘う「現世と来世の境界」の中に身をかされることと
なる。そして、尋ねる子は既に土の下となり「南無阿弥陀仏」の声の中を、塚と対面する。 そして、
塚の上に我が子の声を聞き、面影を見るのである。しかし、それも束の間、闇から光りへの「境界」に
よって、面影は消え去り、狂女は茫然自失の中に肩をおとし、佇むしかなかった。 隅田川のテーマーは
悲しみと哀傷 そして命である、元雅はこのテーマーに沿って、観るものに深く感銘を与え、人々の
不安や悲しみの浄化を目指す力として「空間的な境界」「現世と来世の境界」「夜と朝の境界」の3つの
境界を導入しているといわれる。』
『隅田川は、江戸時代より前は、利根川の下流の名前だったが、家康の江戸入府から六十年以上かけて、
いわゆる「利根川東遷」の大工事を行い、四代将軍家綱の時代になってようやく現在のような利根川・
荒川・隅田川の形が完成した。 隅田川には、江戸時代には二十ヶ所近い渡し船があったと言われる。
そのうち、橋場の渡しが 謡曲「隅田川」の舞台となったところという。橋場の渡しは、現在の白鬚橋の
南側にあたる。
大正初年に地元の人が「白鬚橋株式会社」を設立して木橋を架け、橋場の渡しは消滅したそうだ。』
越前琵琶