歌にみる桜のレクイエム
今年もまた桜の季節になった。
年々歳々花やぎ似たりで、いつの年も四月になると、桜の花は満開になり、
春の初めの華になる。ただ立ち枯れているとしか見えず、寒空の中で己を
厳しく尖らせている桜の樹は、寒気の和らぎに応えてぼつぼつと固い蕾を
付ける。それは日増しに柔らかさを加えて、頃合を見計らうように次から
次へと花ひらき、ついには一本の樹すべてが花になる。
当然といえば当然すぎる花の生理であり、自然の摂理なのだが、蕾が現れて
から日を経ずして満開になるまでのプロセスは神秘的としか言えないものだ。
それは、まごうことなく生命体の荘厳な営みの持つ神秘性であり、そこに
すべての生命体が普遍に持つ尊厳がある。ことに桜は、今を盛りと咲き乱れるその
態様が待望の春を象徴しており、それだけで秀麗な一編の風物詩である。
しかも散り始めると一斉に散華する悲哀、間を置かずに萌え出づる若々しい新緑・・・
この一連の桜花の営みを人々は古来より愛でてきて、さまざまな歌を遺している。
花見という言葉が生まれ、「花」といえば桜か梅の花を指すようになったのは
いつの頃からなのだろう。
桜は梅や桃と違って日本で自生していた植物であるが、最も古い和歌集である
万葉集には、他の花々にもまして桜の花が多く詠まれているわけではない。
現在のように桜の種類が多くはなく、しかも鑑賞用の花として定着していなかった
のである。
そういう理由があるにしても、花それ自体に比重のある歌は万葉集にはない。
このことは他のどの歌集についてもいえることだが、ことに万葉集は人生の機微を
自由にそして奔放に詠うための効果的な比喩として、花が用いられている場合が多い。
次の二つの歌にも、それは如実にみてとれる。
たゆら木の 山の尾のへの さくら花
咲かむ春べは 君をしのばむ (播磨娘子)
この花の 一弁のうちに 百くさの
言ぞこもれる おほろかにすな (藤原弘嗣)
いずれにしても、作者の抑えがたい心情の発露を表明するための歌であって、
花自体は作品主体ではない。
このように、万葉成立時代は桜という固有の花も後の世の歌に見るほどの意味を
持たない。
梅の花と並んで、桜が春に咲く花として広く親しまれるようになったのは
平安時代になってからである。藤原氏の私邸や神泉苑では観桜の宴が続き、歌人は
好んで桜の歌を詠んだ。
しかし嵯峨帝が漢詩文をよくしたこともあって、和歌は表面的には衰亡期をたどる。
最初の勅撰和歌集である古今和歌集の撰進は九百五年になる。実に万葉集の編纂から
百年以上も後の時代のことであり、その発想、表現において万葉集とは大きな
隔たりを見せている。
古今では満開の桜の花のあでやかさ、瞬時に散り敷くわびしさを日本民族の
一般的な心象として詠み、そこに堪えなき美意識を表徴している。
久方の 光のぞけき 春の日に
静心なく 花の散るらむ (紀 友則)
春霞 たなびく山の 桜花
うつろはむとや 色かはりゆく (よみ人しらず)
後鳥羽院が中心になって編纂した新古今和歌集は、古今よりほぼ三百年を経ての
ものである。この新古今において、万葉以来の和歌の伝統は一挙に頂点に達した
感がある。それほど芸術的美意識の抽象においても、言語表現における様式においても、
登りつめた豪華さを備えている。以来、新古今を超える和歌集はない。
新古今には、漂泊の叙情詩人西行の歌が最も多く収録されている。その天賦の才質に
おいて万葉の大伴家持や柿本人麻呂にも匹敵するこの叙情の巨星は、漂泊の境涯の
なかでことに桜の歌を好んで詠んでいる。
あくがるる こころはさても 山桜
散りなむのちや 身にかへるべき
吉野山 桜の枝に 雪散りて
花おそげなる 年にもあるかな
新古今よりずっと時代が下がって、封建制の強い形態の社会に移行するにつれて、
伝統的な和歌文芸は事実上、消滅する。歌集としては良寛の「蓮の露」、木下
長嘯子の「挙白集」、加藤千陰の「うけらが花」などがあるが、新古今にみる
和歌文芸運動の充実はすでに望むべきもない。
変わって一時的には連歌がはやり、そして一茶、芭蕉、蕪村などによる俳諧という、
和歌とは似て非なる歌がはやる。
しきしまの 大和心を 人問わば
朝日ににおう 山桜花 (本居宣長)
この歌は江戸期の国学の大家である本居宣長の歌である。山桜花を大和心を
象徴するために利用しょうという強い作為性によって詠まれている。自身の国家思想を
代弁させようという意図による歌である。この歌が端的に示すように、時代により、
あるいは人により、新古今までの和歌の伝統は無視される。そして宗教思想やある
特定の観念を代弁するための引き合いとしても詠まれるようにもなる。美しいもの、
はかないものが常に持つ宿命といえなくもないが、そういう形で詠まれると歌も
桜もとたんに生気を失ったものになる。
たとえば「花は桜木、人は武士」ということばは、桜花のすばらしさ、あるいは
いさぎよさに武士を相対化させたものであり、その基本理念として、「葉隠」のいう
(武士道というは死ぬことと見つけたり)に通底していると解釈できるのだが、
しかし桜が宣長の歌のように観念的な精神主義を託されて詠まれると、むしろ
いやらしいばかりである。
そこには観念化された桜しかなく、桜という固有の生命体の持つ根源的な意味あいや
自然の営みの神秘さ、それらに触れての詠み手の心の動きが少しも浮かび上がって
こないのである。時空を超えて読者に衝迫する、作者のみずみずしい感性が感受
できないのである。
すべての芸術は時代の波にさらされる。時代の特質による洗礼を受けないものは
ない。芸術は時代性によって陶冶され、その方法や内実の変容を余儀なくされる。
それはこれまでみてきたように和歌にしたところで例外ではない。しかし時代が
芸術におけるどのような変革を要請したとしても、桜花が本来的に持つ華やぎは
年々歳々同質のものである。
桜は変わることなく四月になれば花を付け、そして人々が桜花の見せる「華」の下で、
一春を憩うのもまた同じことである。
さくら さくら 春の華
絢爛と咲き誇る春の精・・・。 (九十・六)
今年もまた桜の季節になった。
年々歳々花やぎ似たりで、いつの年も四月になると、桜の花は満開になり、
春の初めの華になる。ただ立ち枯れているとしか見えず、寒空の中で己を
厳しく尖らせている桜の樹は、寒気の和らぎに応えてぼつぼつと固い蕾を
付ける。それは日増しに柔らかさを加えて、頃合を見計らうように次から
次へと花ひらき、ついには一本の樹すべてが花になる。
当然といえば当然すぎる花の生理であり、自然の摂理なのだが、蕾が現れて
から日を経ずして満開になるまでのプロセスは神秘的としか言えないものだ。
それは、まごうことなく生命体の荘厳な営みの持つ神秘性であり、そこに
すべての生命体が普遍に持つ尊厳がある。ことに桜は、今を盛りと咲き乱れるその
態様が待望の春を象徴しており、それだけで秀麗な一編の風物詩である。
しかも散り始めると一斉に散華する悲哀、間を置かずに萌え出づる若々しい新緑・・・
この一連の桜花の営みを人々は古来より愛でてきて、さまざまな歌を遺している。
花見という言葉が生まれ、「花」といえば桜か梅の花を指すようになったのは
いつの頃からなのだろう。
桜は梅や桃と違って日本で自生していた植物であるが、最も古い和歌集である
万葉集には、他の花々にもまして桜の花が多く詠まれているわけではない。
現在のように桜の種類が多くはなく、しかも鑑賞用の花として定着していなかった
のである。
そういう理由があるにしても、花それ自体に比重のある歌は万葉集にはない。
このことは他のどの歌集についてもいえることだが、ことに万葉集は人生の機微を
自由にそして奔放に詠うための効果的な比喩として、花が用いられている場合が多い。
次の二つの歌にも、それは如実にみてとれる。
たゆら木の 山の尾のへの さくら花
咲かむ春べは 君をしのばむ (播磨娘子)
この花の 一弁のうちに 百くさの
言ぞこもれる おほろかにすな (藤原弘嗣)
いずれにしても、作者の抑えがたい心情の発露を表明するための歌であって、
花自体は作品主体ではない。
このように、万葉成立時代は桜という固有の花も後の世の歌に見るほどの意味を
持たない。
梅の花と並んで、桜が春に咲く花として広く親しまれるようになったのは
平安時代になってからである。藤原氏の私邸や神泉苑では観桜の宴が続き、歌人は
好んで桜の歌を詠んだ。
しかし嵯峨帝が漢詩文をよくしたこともあって、和歌は表面的には衰亡期をたどる。
最初の勅撰和歌集である古今和歌集の撰進は九百五年になる。実に万葉集の編纂から
百年以上も後の時代のことであり、その発想、表現において万葉集とは大きな
隔たりを見せている。
古今では満開の桜の花のあでやかさ、瞬時に散り敷くわびしさを日本民族の
一般的な心象として詠み、そこに堪えなき美意識を表徴している。
久方の 光のぞけき 春の日に
静心なく 花の散るらむ (紀 友則)
春霞 たなびく山の 桜花
うつろはむとや 色かはりゆく (よみ人しらず)
後鳥羽院が中心になって編纂した新古今和歌集は、古今よりほぼ三百年を経ての
ものである。この新古今において、万葉以来の和歌の伝統は一挙に頂点に達した
感がある。それほど芸術的美意識の抽象においても、言語表現における様式においても、
登りつめた豪華さを備えている。以来、新古今を超える和歌集はない。
新古今には、漂泊の叙情詩人西行の歌が最も多く収録されている。その天賦の才質に
おいて万葉の大伴家持や柿本人麻呂にも匹敵するこの叙情の巨星は、漂泊の境涯の
なかでことに桜の歌を好んで詠んでいる。
あくがるる こころはさても 山桜
散りなむのちや 身にかへるべき
吉野山 桜の枝に 雪散りて
花おそげなる 年にもあるかな
新古今よりずっと時代が下がって、封建制の強い形態の社会に移行するにつれて、
伝統的な和歌文芸は事実上、消滅する。歌集としては良寛の「蓮の露」、木下
長嘯子の「挙白集」、加藤千陰の「うけらが花」などがあるが、新古今にみる
和歌文芸運動の充実はすでに望むべきもない。
変わって一時的には連歌がはやり、そして一茶、芭蕉、蕪村などによる俳諧という、
和歌とは似て非なる歌がはやる。
しきしまの 大和心を 人問わば
朝日ににおう 山桜花 (本居宣長)
この歌は江戸期の国学の大家である本居宣長の歌である。山桜花を大和心を
象徴するために利用しょうという強い作為性によって詠まれている。自身の国家思想を
代弁させようという意図による歌である。この歌が端的に示すように、時代により、
あるいは人により、新古今までの和歌の伝統は無視される。そして宗教思想やある
特定の観念を代弁するための引き合いとしても詠まれるようにもなる。美しいもの、
はかないものが常に持つ宿命といえなくもないが、そういう形で詠まれると歌も
桜もとたんに生気を失ったものになる。
たとえば「花は桜木、人は武士」ということばは、桜花のすばらしさ、あるいは
いさぎよさに武士を相対化させたものであり、その基本理念として、「葉隠」のいう
(武士道というは死ぬことと見つけたり)に通底していると解釈できるのだが、
しかし桜が宣長の歌のように観念的な精神主義を託されて詠まれると、むしろ
いやらしいばかりである。
そこには観念化された桜しかなく、桜という固有の生命体の持つ根源的な意味あいや
自然の営みの神秘さ、それらに触れての詠み手の心の動きが少しも浮かび上がって
こないのである。時空を超えて読者に衝迫する、作者のみずみずしい感性が感受
できないのである。
すべての芸術は時代の波にさらされる。時代の特質による洗礼を受けないものは
ない。芸術は時代性によって陶冶され、その方法や内実の変容を余儀なくされる。
それはこれまでみてきたように和歌にしたところで例外ではない。しかし時代が
芸術におけるどのような変革を要請したとしても、桜花が本来的に持つ華やぎは
年々歳々同質のものである。
桜は変わることなく四月になれば花を付け、そして人々が桜花の見せる「華」の下で、
一春を憩うのもまた同じことである。
さくら さくら 春の華
絢爛と咲き誇る春の精・・・。 (九十・六)