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エジプト関係書籍-5 - ナショナル ジオグラフィック 2009年4月号

エジプト関連書籍

NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2009年4月号 - 男装の女王

ハトシェプスト女王葬祭殿の旅行記を書くにあたり、先に読んでおけば良かった。買ったまま、順番待ちで読んでなかったのだが、旅行記がハトシェプスト女王葬祭まで来たので、慌てて目を通した次第。
ハトシェプストについて、いくつか目新しい話が載っていた。
まず、初の女性ファラオではなかったようだ。ハトシェプストの他に、数名の女王が存在する。
ます、第1中間期、第7王朝、第8王朝の頃のニトケルティ(紀元前2175年頃)。エジプトが無秩序な状態だった混乱の時代。マネトー(紀元前3世紀頃の神官:プトレマイオス1~2世の頃、エジプト歴代の王を30王朝に分けた人)によると第7王朝には「70日間王位に就いた70人の王がいた」らしい。70という言い方は「たくさんの」ということである。
第12王朝のセベクネフェル女王(在位:紀元前1785年~1782年)。こちらもほとんど記録無し。
第19王朝のタウセルト女王(在位:紀元前1187年~1185年)。セティ2世(在位:紀元前1199年~1193年)の第2夫人。セティ2世の子、シプタハ(在位:紀元前1193年~1187年)が幼少だったため、実権はこの当時から握っていたようであるが、シプタハが早死にしたために次のファラオとなる。タウセルト女王で血筋が途絶えてしまったため、ここでラムセス2世により栄華を誇った第19王朝は終焉してしまう。
アクエンアテンの跡を継いだスメンクカーラーがネフェルティティであれば、もう一人女性のファラオが実在したことになる。ハトシェプスト女王を除くと、いずれも短命なファラオであった。

ハトシェプストの死後、トトメス3世が王位に就いたとき、虐げられた長年の恨みからハトシェプストのカルトゥーシュや彫刻を、ハトシェプスト女王葬祭殿、カルナック神殿などから削り取ったという説について、この本では新説を披露している。トトメス3世がこのような所業を始めたのは、ハトシェプストの死後20年ほど経ってからという事実が判明した。では、なぜ?ということだが、息子のアメンヘテプ2世(在位:紀元前1453年~1419年)が跡目争いで有利になるように、王位継承の正当性を強調するためという説である。これにより、ハトシェプストの汚名(意地悪な継母)も返上される方向にある。

この本に載っている空撮写真で「ハトシェプスト女王葬祭殿」、「メンチュヘテプ2世葬祭殿」などの位置関係がよくわかる。
NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2009年4月号 - 男装の女王

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