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ヨルダン・ペトラ旅行記 - 4日目 その1 ペトラ遺跡は曇り空

2012.2.7 ペトラ遺跡:~シーク入り口

初日は成田を夜発、ヨルダンに朝着でそのまま一日観光。二日目はペトラ・バイ・ナイトで夜遅くまで動き回り、朝起きてまだ二泊しかしていないことに気が付く。長~い二日間が終わったばかりで、三日目はもっと疲れ果てるとはこの時は思いもよらず…。

7日はモーニングコール6時、レストランのオープンが6時30分、ロビー集合8時。

ホテルから再びペトラ遺跡に向かう。ワディ・ムーサの街の道は細く、おまけに道の脇に駐車している車も多いので大型バスが通るのは大変だ。
新しいビジターセンターを入り口近くに建設中。あと数ヶ月経つと、立派な門をくぐって遺跡へ行くことになりそうだ。

ペトラ遺跡

インフォメーションセンター。

ペトラ遺跡

昨日の猫?がお出迎え。

ペトラ遺跡

主な遺跡の地図はこちら。
(Wikipediaからお借りした地図に手を加えています)

ペトラ遺跡

門を入ると、左側に観光客用の馬やロバの基地がある。

ペトラ遺跡

シークまでは緩やかな下り坂。砂利や砂に足が取られ歩きにくい。真ん中に中央分離帯があり、人は右側を歩くようになっている。行くときは何のために分かれているのかわからなかったが、左の方は馬車とか馬が走るようになっていたようだ。確かに同じ道を走ってこられると危ないことが後でわかった。

ペトラ遺跡

最初に見えてくる四角い岩はジン・ブロックスと呼ばれ、ここにある3つは後ろの岩壁から切り出されたもの。この岩が何であるかは諸説(貯水槽とか)あったらしいが、最終的には墓ということで落ち着いている。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡

こちらの墓の上部には、階段状の彫刻がある。この階段状の装飾は、ナバテア人の死生観を表現していて、この階段を登り天国へ行くとされている。ペトラの多くの墓にはこの装飾が付いている。

ペトラ遺跡

ジン・ブロックスの向かいに、4つのオベリスクを頂いた「オベリスクの墓」とその下に「トリクリニウムの墓」がある。一見、一つの墓のように見えるが、二つの墓にまったく関連はなく、向いている方向も違う。

ペトラ遺跡

オベリスクの墓の内部には、入り口の両脇に2つずつ、奥の壁に1つの合計5つの墓がある。中央の壁がん(壁龕:壁面に設けた窪み)に表されている人物が、奥の墓に埋葬されていたそうだ。
また、この墓の向かいに「この場所にアブドマンクなる人物が彼とその一族のために墓を建てた」という碑文がナバテア語とギリシャ語で刻まれている。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡

トリクリニウムの墓は1世紀後半に建てられたもので、墓の内側は広いスペースになっている。その中に岩で造られた長椅子が3脚あり、そのことからトリクリニウム(低いテーブルの三方を3つの長椅子で囲んでいる古代ローマの建物内の正式なダイニングルーム)と名付けられた。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡

ヘルメットみたいな…ザクみたいな…骸骨みたいな。

ペトラ遺跡

やっとシークの入り口にたどり着いた。手前では兵隊さんの行進を再現している。再現というより想像…創造。ちょっと、ぐたぐた感出まくりだった。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡

エル・ムスリム・トンネル。洪水になったときに水をここから流すようだ。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡

シークの入り口にはツーリストポリスの詰め所と土産物屋がある。ツーリストポリスには猫が群がり、ポリス達と遊んであげているようだ。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡

ここまで約1.5キロ、20分ほどかかった。
シークの細い入り口に向けて、急な下りになっている。雨が降ると、鉄砲水となってシークへ集中していくのもわかる。

ペトラ遺跡

シークの入り口で通せんぼしているわけではない…一緒に写真を撮って寄付を募っている。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡

両側の岩壁には、かつてアーチ状の門があったことを示す石組みの跡があった。案内板のイラストにはアーチが描かれている。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡

ここまでの拡大図。

ペトラ遺跡



ペトラの歴史

ペトラに人が住み始めたのは紀元前7000年の新石器時代。その後、モーゼ率いるヘブライ人の通過を拒んだと言われるエドム人が、紀元前1000年くらいに住み着いた。紀元前7世紀頃の住居跡や井戸が多く発見されている。
アラビア半島南部から移動してきた(という説が有力な)ナバテア人(Nabataeans:ナバタイ人、ナバティア人)が住み始めたのは紀元前4世紀頃。
紀元前312年にアンティゴノス(アレキサンダー大王のシリアにおける後継者)がペトラ征服に軍を派遣したが完全な敗北に終わっている。

ナバテアの王についての記述が登場するのは、紀元前3世紀のアレタス王が最初となる。
紀元前100年以降は歴史的な資料が多くなり、アレタス3世(B.C.84-B.C.54)、アレタス4世(B.C.9-A.D.40)、マリコス2世(40-71)、ラベル(71-106)などの王の名が出てくる。

砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地として繁栄したペトラは、紀元前63年頃、ローマの将軍ポンペイウスによりローマの属国となる。
かろうじてナバテア王国の権力は保たれたが、ローマ風の建築物がこの頃から建てられはじめた。
106年のラベル2世の死に伴い、ローマ皇帝トラヤヌスの命でシリア皇帝コルネリウスにより、ナバテア王国をボスラを首都とするローマ帝国のアラビア属州として完全に組込まれた。これによりペトラは首都の機能を失うことになる。

130年にハドリアヌス帝が訪れたのを記念して、ペトラ・ハドリアヌスと改名される。
358年には、ペトラに首都大司教座が置かれている。

363年のビザンチン帝国時代に大地震がペトラを襲い、ほとんどの建物が崩壊。海路の発達も手伝い、7世紀以降は歴史の表舞台から完全に姿を消す事になる。

12世紀に十字軍が短期間征服したが、かつての王国があったことには気が付いていない。
1812年、スイス人の探検家ルートヴィヒ・ブルクハルトが発見、ヨーロッパへ紹介した。




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