Kakuma News Reflector 日本語版

カクマ難民キャンプの難民によるフリープレス
翻訳:難民自立支援ネットワークREN
著作権:REN(無断引用転載禁)

2009年3-4月号 ある視点から見た難民の生活

2009年08月16日 | オピニオン
キャンプ難民の人生観についての論説

カクマ難民キャンプは約50,000人の難民を抱えていて、人道支援に全面的に頼っているが、人道主義団体からの支援は難民に必要なものを満たすには十分でない。

ここでの生活は非常に厳しく、生き残るのは難しい。支援団体からの配給を補足する方法はないかと誰もが探している。

カクマ住民の大多数は人道支援だけでかろうじて生き延びているが、インセンティブ(報奨)労働者として雇用されている者もわずかにいる。その場合でも、インセンティブ労働者の給料は非常に低く、賃金はその労働に見合うものではない。それでもこの乏しい賃金が家族の生存を助けるためにこの上もなく重要なのだ。他のキャンプ住民達は家族の飢えを満たすための方法を探し続けている。キャンプでちょっとした商売やサービスを始める者も出てきている。

国籍や文化の違いだけでなく、教育的背景や生活様式にも、難民達の間ではかなりの違いが見られる。生活様式の違いの中には、キャンプ内で不安や社会的問題に直面する時、自ら対処する姿勢がどのくらいあるか、どのように暮らそうとしているか、等も含まれている。

実際、難民キャンプ住民には貧富の差が大きい。難民の大多数は一日に2回食事を摂ることはほとんど出来ない。国連世界食料計画の配給が乏しいせいだ。15日周期の配給は10日から13日で底をつく。そんな状況では冷たい飲み物を買おうなど考えも及ばない。

しかし、なんとか自分で商売をしたり、自立できる方法を見つけたりした人達は、少なくとも毎日の生活を満たすことができる。海外に住む友人や親戚から送金を受け取れる難民もいる。わずかだが収入を得て、支援システムから独り立ちした難民にとって、食料は生き残りをかけた重要な問題ではなくなる。子供達を私立学校に通わせたり、民間の医療機関で治療を受けたりしている難民もいる。しかしこういう難民はほんのわずかである。

結論として、カクマの人達は人生に対して自分たちの経験に基づいた様々な考えを持ち、判断を下している。

〈人生には価値がない〉

生活状況にとまどっているが、自分の気持ちをどのように表現したらよいか分らずにいる難民に、KANEREはいくつかの宿舎で話をした。

デグ* はエチオピア人で3人の子供の父親だが、難民生活をどのように理解し、何を感じているかを話してくれた。 「人生に何の意味もない。頭の中でなにもかもが混乱している。私はNGOの一つで働いて、月に3,000ケニア・シリング(約50ドル)貰っているから多くの難民よりは暮らし向きが良いと言えるが、わずかな給料なので、家族に必要なものを計画的に買うことは出来ない。でも働く機会さえない難民が非常に多い。彼らの生活がどんなに過酷なものか想像がつくだろう。家族には着る物や、乳糖やその他たくさんの物が必要だけど、人道支援ではまかなえない」

自分の人生を自分で生きていく自信が難民にはあるかどうか質問されると、デグは次のように答えた。「難民にはそんな自信など全くない。特に何かを決める時には。すべてUNHCRまかせだ。 難民には自分のことを自分でやる権利などない。将来に備えて計画を立てるなど不可能だ。自分の仕事を広げていくかどうかも、よそ様がどこかよそで決めているから、自分や家族の腹を満たすことさえできない」

「自分で決定を下すと、他の人々を傷つけることになりかねない」。デグが言っているのは、配偶者がキャンプに残っているのに、もっと良い機会を求めてキャンプを移動したり、本国帰還を決めたりするような一生の大きな決定についてである。その決定のため、残された家族がひどい目に遭うことがある。

「一般的に、難民の生き残りをかけた争いの人生は、学校も行かず授業も受けずに試験に臨むようなものだ」と、デグは最後に述べている。

人道支援団体と難民の関わり方や難民の自由をデグは次のように説明している。「難民がいないUNHCRは、目がないと鏡を見ることができないのと同じで、不可能だ。UNHCRがなくとも自由さえ与えられれば難民はやっていける。難民にだって潜在能力はあるのに、それを試そうともしない。 電池も入れずに懐中電灯をつけようとしても、電池がなかったら電球を試すこともできない。難民に機会や自由を与えてくれれば、自分たちの能力も人生の価値も分かってくる」

スーダン人コミュニティーからの難民でNGのインセンティブ・スタッフとして働いている人が次のように言っている。「幸せが人生のすべてだ。誰もが人生の目標に幸せを掲げる。でも困難な状況が人生の目標を拭い去ってしまう。宗教心のある人は神に仕える時に幸せになれるし、商売をしている人は儲けた時、親は子供達を道徳的に正しく育てた時に幸せを感じる。難民もこの世界の一部だから、そうありたい。 自分の経歴を伸ばしたい。私は独身で、結婚したこともなく、学校もウガンダで終わったままだ」

彼は勉強を続けられなかったことや、道ばたで菓子を売るささやかな商売に何の発展性も見いだせないことから、人生に対する自分の情けない気持ちを思い起こしているのだ。「有意義な人生とは達成感を味わうことだ。人間は皆成長する可能性を持っているのに、難民は成長を経験することがない」と、最後に言っている。

〈人生には価値がある〉

カクマ難民の中には、自分の経験から人生には価値がないと思っている者もいるが、人間は本質的に価値があると主張する者もいる。そう主張する難民達は、生活を維持したり改善したりするのは、その人が目標の達成に向かって、どれだけ身を捧げるかで決まると考えている。

ウガンダからの難民で5人の子供の父親、ダニエル*は次のように言っている。「どうやってうまく乗り切れるかは、やり方次第だ。人生は周りの状況で悪くもなるし良くもなるが、悪いことは改善できる。忍耐が大切だ。変化はほんのわずかだが、次第に良くなる」

人生の苦労はカクマだけでなくどこにでもある、と彼は考える。 「問題はここだけにあると思う人がいるが、それは間違いで、どこにでもある。大切なことは解決するために一生懸命やることだ」

「人生は生き残りをかけて必死になることだ。生きていくために目的や希望を持つことだ。どこにいようとも、目標や願望をしっかり持っていれば、人生で成功しないなんてありえない」

彼の忠告によると、「重要なことは自分を見失わないことだ。気分がふさぐのも成功しないのも自分が分らずに、自分のやり方を受け入れないからだ。難民キャンプにいても、人生の価値を見出し、頑張ることだ」

最後に人生には価値があると強調して締めくくり、人間の存在に関する興味深い哲学を通してその信念を解説している。「人生には価値があるから、その価値に敬意を払い、守っていくのは当たり前のことだ。人生は円運動にたとえられ、人生の軸に個人がくっついて回転している。そこには幸せ、悲しみ、愛、平和、争い、多くの好運、不運が付随している。 ある人は一日の人生で死を迎え、ある人の人生は多くの年月を費やしても、それぞれが完璧な円を描いている。違いは円の大きさだけだ。通常、人生を長く生きれば、それだけ人生の円は大きくなる」

エチオピア・オロモ・コミュニティーの長老アセファ*は5人の子供の父親だが、難民生活にも価値があると考えている。彼は18年間キャンプ生活をしており、ケニアに来る前はソマリアで難民生活をしていた。「難民生活では少なくとも何か一つは身につける必要がある。例えば知識を身につければ、お金を稼げる。それが出来なければ子供達をつくればいい」。 自分の場合について、次のように言っている。「私は学校に行かなかったし、お金も稼げなかったが、子供達を授かり、幸せだ。 キャンプの中でも外でも、人々はいろいろと成功できる。でも、そのためには信念を持って頑張らなければならない」

〈結論〉

結論として、カクマの難民は強い信念と優れた洞察力を持っている。自分たちで活動する自由と機会があれば、難民は人生の可能性を実現するだろう。難民キャンプでどんなに困難な状況にあっても、現在や過去の経験から人生に否定的な態度をとる難民はほとんどいない。それでも難民が前向きな考え方で、もっと前向きな人生を送れるように、さらに支援し、助言する必要はある。

* 印は本名ではない。


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