Kakuma News Reflector 日本語版

カクマ難民キャンプの難民によるフリープレス
翻訳:難民自立支援ネットワークREN
著作権:REN(無断引用転載禁)

2009年3-4月号 まずはカード、番号、そして私は二の次

2009年08月16日 | オピニオン
ここに書かれているのは、難民につけられた「カード番号」についての、ある個人の非難、抗議である。「カード番号」は至る所で使われ、キャンプ生活での思い出やアイデンティティー、生存に大きな影響を与えている。

誰か私を知っているか。誰か私の名前を知っているか。 名前を持ち、名前で呼ばれることの大切さは何なのか。私がはっきり言えることは、コミュニティーの隣人達は皆私の名前を知っているし、私を名前で呼ぶことだ。小学校の生徒達は私の名前を知っているし、尊敬をこめて私の名前を誇らしげに呼んでくれる。しかも「先生」と敬称をつける。学校の書類や出生証明書にも、はっきりと私の名前が書かれている。

私だけに名前があるのではない。難民全員に名前がある。生まれたときにつけられた名前が。

17年以上も前に祖国を離れ、このキャンプに来た人たちには名前があった。長い間、どこに行っても名前を使っていた。でも配給センターでは、番号だけが通用する。

皆に共通していることが一つある。つまり個人を表わすのに番号がつけられていることだ。名前が個人を表わすはずなのに、ここでは名前は重要でない。

私達皆、同じ感情、恐れ、欲求不満を持っている。15日間で6キロのトウモロコシ粉の食料しかない飢えの他に。

難民がキャンプに入ると、名前は重要でなくなる。キャンプ生活に加わるには、カード番号を覚えていなければならない。

私達が受給資格、保護、再定住などでUNHCRに呼び出される時、番号で呼ばれる。ばかばかしい。配給カード番号で、実際自分が呼ばれる時には特に腹が立つ。私の名前は分っているのに。なぜ名前を使わないのかと考えてみることがあるが、そうすると人間らしい気持ちになる。誰にも何の損もかけずに、人間らしくなれる。

いつか私は自分の名前を失い、番号が貼り付けられるのかもしれない。

第二次世界大戦について読んだ本を思い出す。ユダヤ人は財産をとりあげられ、番号を与えられた。名前を含めてすべてが奪われ、番号に置き換えられた。それからあのおぞましいことが起こった。家族や財産を奪われ、ガス室に送られた。

私は頭数で数えられるのが嫌いだ。自分の一部である名前をなくす気がするからだ。何度も数で数えられてきた。何度もカードの番号が変わった。 いつもその番号を記録し、頭に詰め込んで暗記する。名前で呼ばれないから、番号を覚えていなければならない。番号を失ったら、もうそれっきり。代わりを貰うのは容易ではない。

キャンプで暮らすには番号が頼りだ。名前や以前の社会的地位など何の役にも立たない。だから記憶力は番号を覚えておくことだけに使うべきなのだろう。

記憶力がどんどん衰えていくが、カード番号を覚えようとする気が起きない。恐れているのは、カード番号を忘れたら、UNHCRの事務所に頼みに行かなければならないことだ。自分の番号を持っていなければならないから。 私の番号を。

最近、物忘れをするようになったと、友人達に相談した。それはよくあることだと言ってくれて、こんな話をしてくれた。何年もキャンプにいた難民が物忘れをするようになった。ある日、病院に行き医者に診て貰い、物忘れがひどいと自分の症状を説明した。ドアを閉めるのや、ろうそくの火を消すのを忘れるし、カード番号を忘れる、等と話した。医者はいつからその症状が始まったかと、話の途中で聞いた。彼の答えは、「何の症状?覚えていない。」だった。最後に医者は彼のカード番号を尋ねた。彼は即座に番号を言った。番号が彼の存在を表わすものだと分っていたからだ。

これはよくあることで、私達の間ではみな同じように感じている。難民は人間だ。私達皆、同じ感情、恐れ、欲求不満を持っている。15日間で6キロのトウモロコシ粉の食料しかない飢えに加えて。


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