南スーダンの首都ジュバでの衝突に端を発した12月の戦争の結果、何千人もが死亡し65万人以上が住むところを追われた。
南スーダンは、20年以上続いた血なまぐさい戦争を経て、2年前にやっとハルツーム政府からの独立を手にしたばかりだ。しかしながら、新しく国際社会に認められたこの若い国は、2011年7月に独立した後も平和を回復できないでいる。
南スーダンのサルバ・キール大統領は、独立した7月に内閣を全面的に改変し、副大統領だったリエック・マチャルを解任した。その年の12月15日、首都ジュバの情勢は一変した。スーダン人民解放運動・軍(SPLM/A)内でライバル同士だった2人のリーダーが、統治政策の違いをめぐって争いを始めたのだ。暴力行為が勃発すると、キール大統領はリエック氏をクーデター計画の首謀者として非難した。しかし、この暴力行為がどのような経緯で始まったのかは、未だに明らかになっていない。
この新しい権力争いが始まってから、推定1万1,000人近くが殺害されると同時にたくさんの人が国連南スーダン派遣団に保護された。そしてこの殺害行為は、南スーダンに住むディンカ族とヌエル族の部族間の衝突へと急展開した。
「何とか死を逃れることができました。ジョングレイ州のボルなどの都市では、人々が儀式のやり方の違いで区別され、殺されました」と、新しくキャンプに到着した南スーダンのヌエル族であるデュオプ・ンヒアルはKANEREに語った。
南スーダンのジュバや他の都市での暴力的な衝突で、65万人が住む場所を失った。破壊行為が蔓延し、何千人もの民間人が法的な根拠なしに殺害されている。国連人道問題調整事務所(UNOCHA)によれば、12万5,000人以上がスーダンやエチオピア、ケニア、ウガンダなどの近隣諸国への亡命を申請中だ。
「私の国の人たちは、お互いに殺し合いをしました。何千人もの人が殺されました。何百人もの人が死んだのに葬儀も埋葬も行わない。そんな場所の話をするために生きていくのは、悲しいことです。」と、ある南スーダンの未亡人は私たちのインタビューにごく短く答えてくれた。
今年1月23日に、政府と反対勢力の間で停戦協定が締結された。それは、争いを止め、市民に対する攻撃を止め、平和へ向けた対話を始める誓約となるべきものだ。しかしながら、停戦が守られるかは明確ではなかった。そして、平和条約が結ばれた後も衝突は長引き、南部の人たちは国外へと逃げ続けている。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)では、カクマのために2つのシナリオを考慮して計画を立てていた。2万5,000人が難民となって入ってきた場合と10万人だった場合についてだ。「1月の終わりまでには約1万4,000人の難民がキャンプに到着しました。2万人以上の難民が到着する場合には、この嘆願は修正されます。」UNHCRカクマの報告書では、そう指摘された。
〈暴力行為がカクマキャンプに及ぼした影響〉
この20年以上、ケニアは南スーダンからの何千人もの難民にとって事実上の故郷となってきた。1991年に家を失ったスーダンの少年少女をケニアが受け入れ始めてから、カクマは最大の難民の収容地で、東アフリカ全土やアフリカの角といわれる近隣の各国からの難民の大部分を受け入れてきた。
2007年と2008年に何千人もの南スーダン人が帰国し、その後三者委員会が成立した。しかしながら、民主的な政府機関がなかったために、和平や和解そして開発の促進は引き続き妨げられてきた。また、法的制度が上手く機能しないので闘争や衝突が頻発し、ケニアに戻ってくる難民が後を絶たない状況だ。
12月に戦争が始まってから、カクマでは、1月から2月にかけて毎日新たに到着した500人以上の人たちを受け入れてきた。新しい人たちは、UNHCRが入国をの手助けをしているナダパルからロキチョギオにかけての国境線を通ってカクマにやってきている。2月中旬までには、キャンプ内にいる南スーダン人の難民申請者の人数は、1万9,000人近くにまで急増した。
地方政府は、緊急時対応策をとるとともに、ケニア難民省とUNHCRを通じて、一番遠いカクマ4地区の小さな一角で新しい難民たちを受け入れた。
〈新たな難民が提示する課題〉

【写真】 新たに到着した南スーダン人
カクマでは、新しくやってきた難民の大多数が保護者のいない未成年で、そのうち30%が5歳以下の子どもだ。こうした子どもたちは身の安全を求め逃走している最中に家族と離れ離れになってしまった。
UNHCRが記しているように、資金不足や地理的な問題があるために、新しくやってきた難民は、十分な衛生環境も整わない込み合った施設に3ヶ月以上も入れられている。おそらく誰もが、そんな生活は2―3週間だと思っていただろう。カクマ3地区では難民たちの新しい受け入れ場所として少なくとも2つの古い学校が使われている。
毎日十分な水が得られないので、新しくやってきた難民の生活状況は困窮しているが、実は、現在流入してくる人たちを賄って有り余るほどの財源が保証されているはずなのだ。人道支援のNGOが、必要不可欠な基本的サービスを提供しているカクマのレセプション・センターを支援してくれたおかげで、新たにやってきた人々は水や食料、一般的な衛生環境を得ている。

【写真】 水をもらうための行列
難民キャンプの統計では、2013年の12月末までに人口は12万8,000人になった。現在は、もう少しで14万3,000人という数字だ。難民はさらに毎日到着しているから、2月末までの収容人数は、最大許容範囲である15万人に達するとみられている。それでもなお、カクマにはまだ難民たちが押し寄せ続けている。
何千人もの南スーダン人が、戦争で家族を殺されるという苦い体険を味わった。「逃げているときに、地面に転がっている人間を何人も踏みつけました。何人かは、まさに死んでいくところでした。私は彼らがどうなってしまうのか分かりませんでした」と、新しくキャンプに到着した南部のディンカ族のチュオル・アジャクはKANEREに語った。
南スーダンは、20年以上続いた血なまぐさい戦争を経て、2年前にやっとハルツーム政府からの独立を手にしたばかりだ。しかしながら、新しく国際社会に認められたこの若い国は、2011年7月に独立した後も平和を回復できないでいる。
南スーダンのサルバ・キール大統領は、独立した7月に内閣を全面的に改変し、副大統領だったリエック・マチャルを解任した。その年の12月15日、首都ジュバの情勢は一変した。スーダン人民解放運動・軍(SPLM/A)内でライバル同士だった2人のリーダーが、統治政策の違いをめぐって争いを始めたのだ。暴力行為が勃発すると、キール大統領はリエック氏をクーデター計画の首謀者として非難した。しかし、この暴力行為がどのような経緯で始まったのかは、未だに明らかになっていない。
この新しい権力争いが始まってから、推定1万1,000人近くが殺害されると同時にたくさんの人が国連南スーダン派遣団に保護された。そしてこの殺害行為は、南スーダンに住むディンカ族とヌエル族の部族間の衝突へと急展開した。
「何とか死を逃れることができました。ジョングレイ州のボルなどの都市では、人々が儀式のやり方の違いで区別され、殺されました」と、新しくキャンプに到着した南スーダンのヌエル族であるデュオプ・ンヒアルはKANEREに語った。
南スーダンのジュバや他の都市での暴力的な衝突で、65万人が住む場所を失った。破壊行為が蔓延し、何千人もの民間人が法的な根拠なしに殺害されている。国連人道問題調整事務所(UNOCHA)によれば、12万5,000人以上がスーダンやエチオピア、ケニア、ウガンダなどの近隣諸国への亡命を申請中だ。
「私の国の人たちは、お互いに殺し合いをしました。何千人もの人が殺されました。何百人もの人が死んだのに葬儀も埋葬も行わない。そんな場所の話をするために生きていくのは、悲しいことです。」と、ある南スーダンの未亡人は私たちのインタビューにごく短く答えてくれた。
今年1月23日に、政府と反対勢力の間で停戦協定が締結された。それは、争いを止め、市民に対する攻撃を止め、平和へ向けた対話を始める誓約となるべきものだ。しかしながら、停戦が守られるかは明確ではなかった。そして、平和条約が結ばれた後も衝突は長引き、南部の人たちは国外へと逃げ続けている。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)では、カクマのために2つのシナリオを考慮して計画を立てていた。2万5,000人が難民となって入ってきた場合と10万人だった場合についてだ。「1月の終わりまでには約1万4,000人の難民がキャンプに到着しました。2万人以上の難民が到着する場合には、この嘆願は修正されます。」UNHCRカクマの報告書では、そう指摘された。
〈暴力行為がカクマキャンプに及ぼした影響〉
この20年以上、ケニアは南スーダンからの何千人もの難民にとって事実上の故郷となってきた。1991年に家を失ったスーダンの少年少女をケニアが受け入れ始めてから、カクマは最大の難民の収容地で、東アフリカ全土やアフリカの角といわれる近隣の各国からの難民の大部分を受け入れてきた。
2007年と2008年に何千人もの南スーダン人が帰国し、その後三者委員会が成立した。しかしながら、民主的な政府機関がなかったために、和平や和解そして開発の促進は引き続き妨げられてきた。また、法的制度が上手く機能しないので闘争や衝突が頻発し、ケニアに戻ってくる難民が後を絶たない状況だ。
12月に戦争が始まってから、カクマでは、1月から2月にかけて毎日新たに到着した500人以上の人たちを受け入れてきた。新しい人たちは、UNHCRが入国をの手助けをしているナダパルからロキチョギオにかけての国境線を通ってカクマにやってきている。2月中旬までには、キャンプ内にいる南スーダン人の難民申請者の人数は、1万9,000人近くにまで急増した。
地方政府は、緊急時対応策をとるとともに、ケニア難民省とUNHCRを通じて、一番遠いカクマ4地区の小さな一角で新しい難民たちを受け入れた。
〈新たな難民が提示する課題〉

【写真】 新たに到着した南スーダン人
カクマでは、新しくやってきた難民の大多数が保護者のいない未成年で、そのうち30%が5歳以下の子どもだ。こうした子どもたちは身の安全を求め逃走している最中に家族と離れ離れになってしまった。
UNHCRが記しているように、資金不足や地理的な問題があるために、新しくやってきた難民は、十分な衛生環境も整わない込み合った施設に3ヶ月以上も入れられている。おそらく誰もが、そんな生活は2―3週間だと思っていただろう。カクマ3地区では難民たちの新しい受け入れ場所として少なくとも2つの古い学校が使われている。
毎日十分な水が得られないので、新しくやってきた難民の生活状況は困窮しているが、実は、現在流入してくる人たちを賄って有り余るほどの財源が保証されているはずなのだ。人道支援のNGOが、必要不可欠な基本的サービスを提供しているカクマのレセプション・センターを支援してくれたおかげで、新たにやってきた人々は水や食料、一般的な衛生環境を得ている。

【写真】 水をもらうための行列
難民キャンプの統計では、2013年の12月末までに人口は12万8,000人になった。現在は、もう少しで14万3,000人という数字だ。難民はさらに毎日到着しているから、2月末までの収容人数は、最大許容範囲である15万人に達するとみられている。それでもなお、カクマにはまだ難民たちが押し寄せ続けている。
何千人もの南スーダン人が、戦争で家族を殺されるという苦い体険を味わった。「逃げているときに、地面に転がっている人間を何人も踏みつけました。何人かは、まさに死んでいくところでした。私は彼らがどうなってしまうのか分かりませんでした」と、新しくキャンプに到着した南部のディンカ族のチュオル・アジャクはKANEREに語った。
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