「光の子として歩みなさい。」神の御言葉はわたしたちに今日、そのように呼びかけています。「光の子として歩みなさい。」
しかし、わたしたちは自分自身の姿を正直に見つめるとき、この自分のどこに光の子らしさがあるのかと思わされるのではないでしょうか。しばしば神に背を向けて歩み、人を傷つけたり、不誠実であったりするわけです。しかし御言葉は「光の子として歩みなさい」とそう告げているのです。光の子として立派に生きていく決断を求められているのでしょうか。更には光の子となるように何か努力精進することが求められているのでしょうか。けれども、わたしたちは光の子としてやっていこうと決意し、努力してもそれは長くは続かない者であることを思い知らされると思うのです。光の子として生きていきたいと願っても、なかなかそう上手くいかない。そこで、何とかして光の子になりたいと思うのではないでしょうか。
しかし今日、神の御言葉は、あなたに「光の子になりなさい」と言っているのではないのです。光の子として歩みなさいと神の御言葉は告げているのです。別の聖書では「光の子らしく歩みなさい。」と、そう訳されています。光の子として歩め、光の子らしく歩め。それは、あなたはすでに光の子とされているんだという、神の救いの約束に裏打ちされている御言葉です。光の子らくし歩め。なぜなら、あなたは光の子とされているのだからということが語られているのです。
では、どうしてわたしたちは既に光の子とされているのだと聖書は告げるのでしょうか。
わたしたちは知らず知らずのうちに信仰生活をやっていく中で光の子とされていたんだということでしょうか。それとも、これから教会でキリストを信じて歩んでいく中で、いつかわたしもキリストの光の子とされるということでしょうか。どちらも違います。罪人が自らの力で光となることができるというのでしょうか。
わたしたちはどんなに努力してもどんなに熱心になっても、自分の力で自分の救いを手に入れることはできません。暗闇の中に住むわたしたちは、光の中に入りたいとどんなに励んだとしても自分の力ではそれが適わないのです。暗闇と光との間には大きな断絶があって、それを容易に飛び越えていくことが出来ないのです。つまり、罪人である人間は自分の力で、自分の決意で、この闇から光へと入っていくことができない。光の子となることができないのです。
けれども、それでも神の御言葉は、あなたは「光の子」であると告げています。光の子として歩め。光の子らしく歩めと告げるのです。
今日パウロは手紙の中でこのように言っています。5章8節です。「5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
ここに、あなたがたは以前は闇でしたが、今は主に結ばれて光となっている。そう語られていました。以前は闇であったけれど、今は主に結ばれて光となっている。ここでは主に結ばれるという一回的な出来事、洗礼のことが意識されています。あなたは、主に結ばれて、つまりイエス・キリストの十字架の死と復活に結ばれる洗礼によって、以前は闇であったけれど、いまは光となっていると言うのです。光の子となるというのは、何かわたしたちの努力で得るものではないということがこの御言葉からも分かってきます。神の恵みとして与えられている十字架の救いに与る、それは洗礼によってということですけれど、与えられている神の恵みに自分自身をまったく委ねるその洗礼によって、暗闇の属する者が丸ごと光の中に移される。以前は闇であったけれど、光とされる。それが主に結ばれるということ、洗礼の恵みに与るということです。ですから、キリストに結ばれた者に、パウロは「光の子として歩みなさい」「光の子らしく歩みなさい」と、そう新しい生き方を薦めているのです。わたしたちが、光の子とされるのは、ただキリストの十字架に結ばれると言うこの一つのことにおいてのみ可能となります。キリストの十字架により頼む以外に、わたしたちはいかにしても光の子となることはできません。
ですから、あなたが光の子とされるというのは、あなたの何か良い行いや信心深さによって手に入れるものではなくて、神の恵みによって洗礼の水が注がれたあの時に既に与えられている決して消えることのない恵みの事実なのです。神が、イエス・キリストの十字架でわたしたちの罪を担ってくださり、死んで下さった、その罪の赦しの御業によってのみ人間は光の子とされることができたのです。キリストの十字架のみが私たちを暗闇の力から解き放って、自由にし、光の子、神の子としたのです。それ以外に、あなたを光の子とするいかなる手段も方法もありません。つまり、先ほどから申し上げているように、神の恵みだけがあなたを光の子とし、神の子としてくださったのです。
使徒ペトロは手紙の中にこのように言っています。ペトロの手紙二2章9節です。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(2ペト2:9)」あなたがたを暗闇の中から、驚くべき光の中へと招き入れてくださった方がおられるということです。だから、あなたは、神のものとなった。神の民となった。神に選ばれ、祭司、聖なる国民とされていると、そう語っているのです。
光の子として歩みなさい。それは、ご自身のいのちを十字架に差し出して、罪人の罪をすべてその身に負い、罪人の死ではなく罪人の救いを望んで下さった神に愛によって裏打ちされた御言葉なのです。驚くべき光の中に招きいれてくださる方がおられる。神の救いが差し出され、あなたは神の救いの中に入れられている。さぁ、光の子として歩みなさいと、そう御言葉は告げているのです。
この暗闇に閉ざされたと思える現代にあって、輝く光の子として勇気を出して歩みなさい、わたしがあなたを光の子とした。あなたを照らす。だから、さぁ恐れる事なく光の子として、光の子らしく歩んでいきなさい。そう御言葉は語っているのです。
さて、今日開かれている5章6節から20節までの箇所には、闇と光が対応されているように、それ以外にもそのような形で語られているものがあります。
15節には、愚かな者ではなく、賢い者として歩めと薦められています。
16節には悪い時代とあって、その後半同じ16節に良い時代ではなくて、主の御心ということが言われていますけれど、それには良い時代が対比するのではなくて、悪い時代にあって神の御心が対比している。これも非常に慰めに満ちた神のみ言葉であると思います。悪い時代にあって、それに神の御心が対している。悪い時代にあって、それに対するのは良い時代ではなく、神の御心と言うこと、神の御心がなされるということが対しているということが語られているわけです。
前後しますが、6節の冒頭には、「むなしい言葉」という表現がありますけれど、これに対応するのが何かと言いますと、少し間を空けまして、18節から19節ですけれど、「霊に満たされ、5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」この御言葉が対応しているわけです。虚しい言葉が、光の子としてくださる神の恵みが語られることによって、最後には、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって歌う者とされていくのです。
わたしたちの言葉が変えられていくのです。虚しい言葉。それは、その言葉の通り、人生を虚しくさせるような言葉でしょう。自分の人生に意味なんてない。どうせいいことなんてない。そういう非創造的な言葉がわたしたちの周囲には溢れています。パウロはそれを「実を結ばない暗闇の業」「口にするのも恥ずかしいこと」と言っています。
しかし、そういう現代にあって、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって歌う者とされていく、そういう神の恵みが与えられているのです。これは、神の光の中に移された者の新しい生き方でもあります。
闇が光に変えられていく。愚かな者が賢い者に変えられていく。虚しい言葉が神への讃美、いのちの喜びを歌う歌へと変えられていく。そういう神の恵みが与えられているのです。この闇から光へと移された者の神への讃美の歌が、又、いのちの喜びを語る言葉が、わたしたちだけでなく、この暗い世界に光をもたらす、闇に光を照らすものとして用いられていくのです。
■祈りましょう
神よ。
光の子として歩め。光の子らしく歩め。そうわたしたちに語りかけてくださり、わたしたちを暗闇から光へと、ご自身の御子のいのちによって移してくださったその恵みを深く感謝いたします。どうか、この暗い現代にあって、キリストの光の子とされた明るさ、喜びのうちに歩むことを得させてください。
イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン
しかし、わたしたちは自分自身の姿を正直に見つめるとき、この自分のどこに光の子らしさがあるのかと思わされるのではないでしょうか。しばしば神に背を向けて歩み、人を傷つけたり、不誠実であったりするわけです。しかし御言葉は「光の子として歩みなさい」とそう告げているのです。光の子として立派に生きていく決断を求められているのでしょうか。更には光の子となるように何か努力精進することが求められているのでしょうか。けれども、わたしたちは光の子としてやっていこうと決意し、努力してもそれは長くは続かない者であることを思い知らされると思うのです。光の子として生きていきたいと願っても、なかなかそう上手くいかない。そこで、何とかして光の子になりたいと思うのではないでしょうか。
しかし今日、神の御言葉は、あなたに「光の子になりなさい」と言っているのではないのです。光の子として歩みなさいと神の御言葉は告げているのです。別の聖書では「光の子らしく歩みなさい。」と、そう訳されています。光の子として歩め、光の子らしく歩め。それは、あなたはすでに光の子とされているんだという、神の救いの約束に裏打ちされている御言葉です。光の子らくし歩め。なぜなら、あなたは光の子とされているのだからということが語られているのです。
では、どうしてわたしたちは既に光の子とされているのだと聖書は告げるのでしょうか。
わたしたちは知らず知らずのうちに信仰生活をやっていく中で光の子とされていたんだということでしょうか。それとも、これから教会でキリストを信じて歩んでいく中で、いつかわたしもキリストの光の子とされるということでしょうか。どちらも違います。罪人が自らの力で光となることができるというのでしょうか。
わたしたちはどんなに努力してもどんなに熱心になっても、自分の力で自分の救いを手に入れることはできません。暗闇の中に住むわたしたちは、光の中に入りたいとどんなに励んだとしても自分の力ではそれが適わないのです。暗闇と光との間には大きな断絶があって、それを容易に飛び越えていくことが出来ないのです。つまり、罪人である人間は自分の力で、自分の決意で、この闇から光へと入っていくことができない。光の子となることができないのです。
けれども、それでも神の御言葉は、あなたは「光の子」であると告げています。光の子として歩め。光の子らしく歩めと告げるのです。
今日パウロは手紙の中でこのように言っています。5章8節です。「5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
ここに、あなたがたは以前は闇でしたが、今は主に結ばれて光となっている。そう語られていました。以前は闇であったけれど、今は主に結ばれて光となっている。ここでは主に結ばれるという一回的な出来事、洗礼のことが意識されています。あなたは、主に結ばれて、つまりイエス・キリストの十字架の死と復活に結ばれる洗礼によって、以前は闇であったけれど、いまは光となっていると言うのです。光の子となるというのは、何かわたしたちの努力で得るものではないということがこの御言葉からも分かってきます。神の恵みとして与えられている十字架の救いに与る、それは洗礼によってということですけれど、与えられている神の恵みに自分自身をまったく委ねるその洗礼によって、暗闇の属する者が丸ごと光の中に移される。以前は闇であったけれど、光とされる。それが主に結ばれるということ、洗礼の恵みに与るということです。ですから、キリストに結ばれた者に、パウロは「光の子として歩みなさい」「光の子らしく歩みなさい」と、そう新しい生き方を薦めているのです。わたしたちが、光の子とされるのは、ただキリストの十字架に結ばれると言うこの一つのことにおいてのみ可能となります。キリストの十字架により頼む以外に、わたしたちはいかにしても光の子となることはできません。
ですから、あなたが光の子とされるというのは、あなたの何か良い行いや信心深さによって手に入れるものではなくて、神の恵みによって洗礼の水が注がれたあの時に既に与えられている決して消えることのない恵みの事実なのです。神が、イエス・キリストの十字架でわたしたちの罪を担ってくださり、死んで下さった、その罪の赦しの御業によってのみ人間は光の子とされることができたのです。キリストの十字架のみが私たちを暗闇の力から解き放って、自由にし、光の子、神の子としたのです。それ以外に、あなたを光の子とするいかなる手段も方法もありません。つまり、先ほどから申し上げているように、神の恵みだけがあなたを光の子とし、神の子としてくださったのです。
使徒ペトロは手紙の中にこのように言っています。ペトロの手紙二2章9節です。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(2ペト2:9)」あなたがたを暗闇の中から、驚くべき光の中へと招き入れてくださった方がおられるということです。だから、あなたは、神のものとなった。神の民となった。神に選ばれ、祭司、聖なる国民とされていると、そう語っているのです。
光の子として歩みなさい。それは、ご自身のいのちを十字架に差し出して、罪人の罪をすべてその身に負い、罪人の死ではなく罪人の救いを望んで下さった神に愛によって裏打ちされた御言葉なのです。驚くべき光の中に招きいれてくださる方がおられる。神の救いが差し出され、あなたは神の救いの中に入れられている。さぁ、光の子として歩みなさいと、そう御言葉は告げているのです。
この暗闇に閉ざされたと思える現代にあって、輝く光の子として勇気を出して歩みなさい、わたしがあなたを光の子とした。あなたを照らす。だから、さぁ恐れる事なく光の子として、光の子らしく歩んでいきなさい。そう御言葉は語っているのです。
さて、今日開かれている5章6節から20節までの箇所には、闇と光が対応されているように、それ以外にもそのような形で語られているものがあります。
15節には、愚かな者ではなく、賢い者として歩めと薦められています。
16節には悪い時代とあって、その後半同じ16節に良い時代ではなくて、主の御心ということが言われていますけれど、それには良い時代が対比するのではなくて、悪い時代にあって神の御心が対比している。これも非常に慰めに満ちた神のみ言葉であると思います。悪い時代にあって、それに神の御心が対している。悪い時代にあって、それに対するのは良い時代ではなく、神の御心と言うこと、神の御心がなされるということが対しているということが語られているわけです。
前後しますが、6節の冒頭には、「むなしい言葉」という表現がありますけれど、これに対応するのが何かと言いますと、少し間を空けまして、18節から19節ですけれど、「霊に満たされ、5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」この御言葉が対応しているわけです。虚しい言葉が、光の子としてくださる神の恵みが語られることによって、最後には、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって歌う者とされていくのです。
わたしたちの言葉が変えられていくのです。虚しい言葉。それは、その言葉の通り、人生を虚しくさせるような言葉でしょう。自分の人生に意味なんてない。どうせいいことなんてない。そういう非創造的な言葉がわたしたちの周囲には溢れています。パウロはそれを「実を結ばない暗闇の業」「口にするのも恥ずかしいこと」と言っています。
しかし、そういう現代にあって、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって歌う者とされていく、そういう神の恵みが与えられているのです。これは、神の光の中に移された者の新しい生き方でもあります。
闇が光に変えられていく。愚かな者が賢い者に変えられていく。虚しい言葉が神への讃美、いのちの喜びを歌う歌へと変えられていく。そういう神の恵みが与えられているのです。この闇から光へと移された者の神への讃美の歌が、又、いのちの喜びを語る言葉が、わたしたちだけでなく、この暗い世界に光をもたらす、闇に光を照らすものとして用いられていくのです。
■祈りましょう
神よ。
光の子として歩め。光の子らしく歩め。そうわたしたちに語りかけてくださり、わたしたちを暗闇から光へと、ご自身の御子のいのちによって移してくださったその恵みを深く感謝いたします。どうか、この暗い現代にあって、キリストの光の子とされた明るさ、喜びのうちに歩むことを得させてください。
イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン