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昇天日説教「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」

2009-05-21 11:52:41 | 主日礼拝説教
テトスの手紙2章11~15節
2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。2:15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。


 今日は主のご復活から丁度40日目にあたり、教会では主の昇天日として憶えています。使徒言行録の1章には、十字架に死んで、墓に葬られ、復活された主キリストは、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れてくださり、神の国について話されたと記されています。そして40日の後に、オリブ山で弟子たちが見ている中を天にあげられたわけです。
 
 使徒言行録の1章6節からにこのようにあります。
「1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」
 主の復活ですとか、降誕というのは、わたしたちは大変盛大にお祝いをいたしますけれど、主の昇天はあまり聞きなれない方が多いのではないかと思います。主キリストがお生まれになった、十字架に死なれた、復活させられたといいますと、何か、わたしのために主が生まれ、十字架にかかられ、復活されたんだということがわかりますけれど、主の昇天、主キリストが天に挙げられたといいますと、わたしの救いと何か関係があるんだろうかと思うわけです。イエス様がわたしの救いのためのすべてをなし終えられたので、点に帰られただけではなかったのかと思ったりするわけです。ところが、わたしたちが礼拝の度に告白している使徒信条には主の昇天がしっかりと入っていまして、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」とあるわけです。天に昇り全能の父なる神の右に座してくださった。キリスト者というのは、洗礼によって主の死と復活に結ばれたわけです。それは死んで復活するということに終着点があるのではありません。主キリストが、天に昇り父なる神の右に座されたように、わたしたちも罪が赦され、永遠のいのちを与えられ、天の父なる神の御前に立つ、そういうものとされるんだという大切な信仰の事柄、それが主の昇天です。主イエスは、先ほども申し上げましたけれど、罪人の救いのためのすべての業が完了したので、ただ天に帰られたというのではないのです。はじめに讃美した讃美歌の159番の4節に、「地にて朽つべき人をも天に、昇らせたまいし救いの主よ」と歌いました。地にあって朽ちていく、そのようなものでしかなかったわたしたちを、復活のキリストは天に昇られ、わたしたちもまた、主が天に挙げられたように、終わりの日、天に挙げられ、父なる神の御前に立つ、そういう恵みが示されているわけです。

 主キリストが天に挙げられ、弟子たちが立ち尽くしていると、二人の天使が現れてでしたちに語ります。「1:11 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」天に挙げられた主イエスは、あなたがたが見ていたのと同じ有様で、またおいでになると言うのです。何のために主イエスはまたおいでになるのでしょうか。それはあなたを天に迎えるため、父なる神様の前に立つものとしてくださるために他なりません。キリスト者の信仰、キリスト教の信仰というのは、この地上を生きるということにおいてもそうですけれど、神の国、この地上のいのちの向こう側にも、更に大きな希望が語られている。そういう信仰です。

 今日朗読されたテトスの手紙では、2章11節からですけれど、このようにありました。「2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」
ここにすべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたとありました。主イエス・キリストがこの地上に生まれ、十字架におかかりになり、死んで復活させられ、天に挙げられた、この主イエス・キリストを指差して、パウロは神の恵みが現れたと言うのです。
 「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」それは、わたしたちが「お恵みがありますように」とか、「恵まれた」というような意味で使っている「恵み」とは異なって、まさにこれこそ恵みの本質だという、他の何を持ってきても代わりがきかない、そういう恵みとしてのイエス・キリストが語られているわけです。主イエス・キリストがパウロの語る恵みの実体であられるわけです。
 この、まさに神の恵みそのものであるイエス・キリストの出現によって、受肉によって、2章12節「わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、」とあるように、わたしたちは地上の生涯を救われたものとして生きていくことができるわけです。更には続く13節「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」とあるように、将来に、わたしたちの行く手に、栄光の内に現れてくださる、わたしたちの救い主であるイエス・キリストと出会う、そういう希望を頂いているのです。

 さて、わたしたちは救いとか、信仰生活というのは死んだ後のこととか、天国に行くことと結びつけて、意外とこの現在のわたしの事柄として捉えることが少ないような気が致します。しかし今日の聖書の箇所でパウロは「2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」と言っているように、救われた者の生き方というのがあるんだと勧めているのです。信仰というのは、神を信頼し、神を愛するということです。この神への愛というのは、自分を過去に留まらせることは決してありません。キリストに似たものとされたい、そういう願いが与えられるでしょうし、救われたものとしての生き方を生きるようにと、そう願うようになるのだと思います。
 福音宣教とか、伝道とかいうのは、聖書の言葉を人々に知らせればそれで良いのかと言いますと決してそんなことはありません。キリスト者とされた一人ひとりの生き様を通して、十字架のキリストが浮き上がらせられていく。指し示されていく、そのようなものではないでしょうか。

 そしてこの神に愛され、神を愛するキリスト者の歩みは、地上の歩みだけで終わるのではありません。「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト」が、再びわたしたちを、みそばに迎えるためにわたしたちのもとに来て下さるのです。わたしたちの生涯には、先立って、主の十字架と復活、昇天という救いの出来事があり、わたしたちの行く手には主キリストの再臨という、神の前に立つその恵みの約束があるのです。わたしたちの地上の歩みは、前と後ろから、神の恵みにしっかりと支えられ、守られているのです。ですから、わたしたちは安心して歩んでいくことができるのです。

■祈りましょう
父なる神よ。
あなたはわたしたち罪人の救いのために、御子イエス・キリストを世にお与えになり、十字架と復活、また昇天によって、わたしたちの救いの御業を成し遂げて下さいました。主の昇天日にあたり、わたしたちはあなたが、ここにあるわたしたちをもあの日の主と同じように、天に挙げ、あなたの御前に立たせてくださることを深く感謝いたします。どうかあなたに愛されたわたしたちが、あなたを愛し、愛されたものとしての生涯を、歩むことができますように。わたしたちの救い主、イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン


最上のわざ

2009-05-14 14:22:07 | 今日の祈り
楽しい心で年をとり

働きたくても休み しゃべりたくても黙り

失望しそうな時に希望し

従順に 平静に おのれの十字架を担う


若者が 元気いっぱい神の道を歩むのを見ても妬まず

人のために働くよりも 素直に人の世話になり

弱って もはや人の為に役立たずとも

親切で柔和でありたい

そして何もできなくなれば それを謙虚に受け入れよう


老いの重荷は神の賜物

古びた心に これで最後のみがきをかける 

まことのふるさとへ行くために


おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは 

真にえらい仕事


神は最後にいちばん良い仕事を残してくださる それは祈りだ

手は何もできないけれど 合掌はできる

愛するすべての人に、神の恵みを求めるために


そして すべてをなし終えたなら 臨終の床に神の声を聞くだろう

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と



詩:フォイベルス