【聖書箇所 ■旧約聖書イザヤ書8:23-9:6 ■新約聖書ルカによる福音書2:1-20】
「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」今日の御言葉はそのように主の降誕の記事を始めています。ローマの皇帝アウグストは、100年にもわたる争いを終わらせます。人々は彼によってもたらされた平和を喜び、その業を称えて、皇帝こそが「全世界の救い主」だとあがめます。しかし、そういう皇帝アウグストこそ主であると思っていた人々に、アウグストの与えた平和こそ、まことの平和だと思っていた人々に、いや違うと叫ぶかのように、天使は告げます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」「この方こそ」、キリストこそ主である。
皇帝アウグストの力とは何でしょうか。それは、わたしたちの理解できる価値観、わたしたちの納得できる現実味のある平安です。私たちは、自分で何とか出来ると思っている。人々がローマ皇帝の力を喜んだように、もし自分では無理だとしても、この世の手段や方法によっていくらでも何とかなると思う。しかしそういう人間に、そうではないんだと聖書は言います。
夜の闇は、人間がどんなに明るいライトをもってきて照らしたとしても、必ずやってくるように、人間がどうにかしようと思っても、何ともすることが出来なかった闇、それが私たちの内側深くにある闇の姿です。
私たちはアウグストの平和、この世の力や権力、何より手近な自分の力や努力がすべてだと思っていた。ところが、私たちがそれらすべてを用いてみても、どうしても追い払うことの出来なかった闇、どうしても抜け出すことの出来なかった死の影の地があった。しかしその只中にある私たちの為に救いの御手がのばされた。
闇の中を歩む民、死の影の地に住む者の上に光が輝いた。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」この、小さく、弱く、何の力もないと思われる飼い葉桶の御子が私たちへの「しるし」とされました。自分ではどうすることもできない闇がある。しかし飼い葉桶の主イエスを見るとき、すべてを差し出して眠る御子イエスは、すべてを委ねることを私たちに示しておられます。御父に信頼するしか方法がない。無力さの中でなお神に信頼する。そこにこそ本当の平安があるんだということを示しているのです。
私たちはこの世界に生きている。それは変わらない事実です。ベツレヘムの飼い葉桶は私たちの置かれている状況そのものかもしれません。しかし、このクリスマスの御言葉のどこにも、一言すらそれを嘆き悲しむ言葉は語られません。それどころか、貧しいベツレヘムの馬小屋には天からの平安と主の栄光が輝いているのです。
私たちはクリスマスのこの時、自らを省みます。その時に見えてくるものは、今日読まれた預言者イザヤの書のように、逃れるすべのない私たちの現実かもしれません。または、皇帝アウグストの力、この世の力にすがりきった自分の姿かもしれません。
しかし「闇の中を歩む民は大いなる光を見た。死の影の地に住む者の上に光が輝いた。」主がそういう私たちをお見捨てにならなかった。私たちを見捨てないばかりか、ご自身の独り子イエス・キリストを見捨て、十字架にわたしたちの罪の贖いとするために、クリスマス、ベツレヘムの飼い葉桶に主イエスは眠っておられる。
クリスマス。それは私たちを美しく飾りつけて迎えるのではありません。私たちを装っているものを一つ一つ取り去っていく。本当の自分の姿を省みるのです。
そのとき、この主、このひとりのみどりごにしか望みが無いことを思い切り知らされるのです。御使いの告げる平和こそまことの平和であることを知るのです。そして、万軍の主の熱意が、万軍の主の熱心がこれを私たちのために成し遂げて下さる。御父のみこころにすべてを委ねるのです。ひとりのみどりごが、あなたのために生まれた。救い主が、あなたのために生まれた。わたしたちの心に、いま、このクリスマスの時、御子イエスをこそ、私たちの主、まことの平和の君と、迎えたいのです。