ろごするーむ

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クリスマスイブ礼拝説教

2009-12-24 13:44:48 | クリスマス説教
説教「栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人に」 
ルカによる福音書2章8~14節


 クリスマスイブの今日、わたしたちは御子イエス・キリストのご降誕を覚えて、ここに集まりました。
 クリスマスは、街中が美しく飾られて、暖かさやぬくもりといったものを感じさせるような季節です。けれども、過ぎ去ったこの一年を思い返すときに、明るいニュースもありましたけれど、新型インフルエンザの不安や、何より経済の問題はより深刻さを増し、また耳をふさぎたくなるような残虐な事件も少なからずありました。こうしたニュース、わたしたちの耳に入ってくるニュースは、とかくわたしたちを不安にさせる、また恐れを感じさせる、そういうものであることが多いのではないでしょうか。ニュースを見ていて、心がスッと晴れやかになるという人はあまりいないわけです。そればかりではなくて、わたしたちの毎日の日常の生活を見渡しても、喜びと共に痛みがあったり、不安があったり、また時に涙を流すことがありました。どこにいいことがあるんだ、そんなふうに思いそうになることがあるわけです。
 その一方で、一年が終わろうとするこの時期、クリスマスのきらびやかな飾りつけやオーナメント、デパートやチラシの広告を見ていますと、ぬくもりとか夢、暖かさや美しい愛を語りかけています。クリスマスは一夜限りの夢の世界を見せてくれているかのようにも感じます。クリスマスドリームとか、クリスマスラブという言葉が使われています。今の不安な影を落とした「現実」から少し離れて、暖かな気持ちになろう、楽しい気持ちになろう、それがクリスマスであるかのように思わせられるわけです。
 しかし今日わたしたちは、一晩限りのクリスマスドリームを喜び、楽しもうとしているわけではありません。

 今日わたしたちは、福音書の御言葉を通して、2000年前の世界で最初のクリスマスの出来事を聞きました。羊飼いたちは野宿をしながら羊の群の番をしていた。すると、天使が現れて告げるのです。「わたしは民全体に与えられる喜びを告げる」天使の告げる大きな喜び、この喜びがクリスマスの喜びです。
 この天使の告げるクリスマスの喜びとは一体どのような喜びなのでしょうか。それは民全体に与えられる喜びだといいます。民全体に与えられる、それは、楽しく暮らしている人だけの喜びではありません。満ち足りた生活をしているものだけの喜びでもないのです。楽しく満足いく生活をしている者のためだけの喜びではない、苦しんでいる者に与えられる、涙を流している者に与えられる喜び、不安に脅えている者、生きることに絶望した者にも、喜びなどどこにも見出せない、そういう深い痛みの中にある者にも与えられる喜び、そこに喜びがもたらされてこそ初めて、それが「民全体に与えられる喜び」だと、そのように言うことができるようになるのです。
 もし、そうでなければ、天使の告げる喜びは、聖書の語る喜びは民全体に与えられる喜びではなくなってしまうのです。この世の与えるある一部の人々の、あるいわゆる幸いな境遇にある人だけの喜びということになってしまうわけです。

 クリスマスの喜びは民全体に与えられる喜びだというのです。それは、この世が与える喜びのような「限界」を知りません。限界を超越した喜び、それが民全体、それはすべての者、ほかならない、ここにいるあなたに与えられる喜びなんだと天使は告げているのです。また、この喜びというのは、現在のどんな境遇にいる人々にとってもという広がりと共に、このわたしの生涯のいかなる日にもという拡がりを持っています。つまり、幸せに満ち足りた日にも、そうではない涙を流す日にも、先が見えない日にも、救いを見つけられないそんな日にも、生涯のすべての日、すべての時に、あなたを支える喜びだというのです。
 あなたに与えられる喜び、民全体を根底から支える喜び、その喜びとは一体どういう喜びでしょうか。

 それは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」という喜びです。これが天使の告げる喜びです。救い主の誕生、それがクリスマスの喜びなんだというのです。  
 どうして救い主の誕生がわたしたちの喜びなのでしょうか。なぜ、救い主がお生まれになったことが、わたしたちの喜びなのでしょうか。

 わたしたち人間は、救いを見出すことができなければ生きていくことは出来ません。救いがなければ、わたしたちは生きる力を喪失します。だから、わたしたちはどこかに救いを見出そうと、頑張るのです。しかしこの世の中のどこかに救いを見出そうと見回しても、見渡せば見渡すほどに、見つめれば見つめるほどに、わたしたちの周りには救いとはほど遠い、乾いた世界が広がっていることに気付かされるのではないでしょうか。それで、人間は自分自身の内側にその救いを見つけようとします。自分の内側に、何か価値のあること、取り柄にできることそれを見出し、それを救いとして生きていこうとします。
 しかし、わたしたちは本当に自分自身の内側に、わたしたちの救いを見出すことができるのでしょうか。自らを、自らの救い主として生きていくことができるでしょうか。自分という救い主は、あなたを救うことができるでしょうか。聖書は、それは出来ないんだというのです。救い主は来られる。救い主はお生まれになる。このわたしのもとに、不安を抱えたり、思い悩んだりしながら、時には涙を流したりして生きている、そんなわたしたちのために救い主がお生まれになる。それが、天使の告げるクリスマスの大きな喜びなのです。

 このクリスマスの喜びは、いわゆる楽しく幸いな歩みをしている人々が持っている喜びというよりも、喜びとはまったく程遠い痛みの中に、悲しみの中にあるものにとってこそ、更に大きな、真実な喜びである事に気付かされるのではないでしょうか。
 今年わたしは、わたしが神学生のときから、ずっとわたしのために祈り続けてきてくださった一人の高齢のご夫人を天に送りました。待降節を迎える前の週、終末主日の朝方のことでした。ご家族や身内の方がどなたもおられない姉妹の最後は、ひとりきりの病院のベッドでの生活でした。その方のご葬儀でこの姉妹の属しておられた教会の牧師がこのような説教をなさいました。
「この姉妹の生涯は、病との闘いの生涯でした。苦しいこと、涙を流すこと、人々からすれば不幸だとしか思えないような苦しみが、ずっとありました。
普通人間は、他の人が、苦しみの中でも勇気を持って生きようとしている、励んでいる、そういう姿を見て、さぁ自分も頑張ろうと思うのですけれど、この姉妹はそうではなかった。自分よりも苦しんでいる人を周りに見つけることが出来なかったというのです。 
 自分よりもつらい経験をしているであろう人をたやすく見つけることは出来なかった。だから、あの人も苦労して頑張っているんだから、わたしも頑張ろうというふうには思えなかったというのです。
 しかし、この姉妹は一人のお方に出会った。それは救い主イエス・キリストであったというのです。この救い主イエス・キリストが自分のために苦しんで下さっている。イエス・キリストが自分の苦しみを担ってくださっている、そのことを知ったときに、この姉妹は生きることができたんだというのです。この姉妹の生涯は決して豊かな幸せな生涯ではなかったかもしれないけれど、この姉妹にとって、イエス・キリストは本当に救い主だった。イエス・キリストは救い主であるということを誰よりも多く体験し、だれよりもその恵みを深く味わって生きてきた。」わずかな参列者を前にしての説教でした。
 苦しみのどん底で、救い主は本当にわたしの救い主なんだと実感した、体験した。イエス・キリストは救い主なんだ、そう、苦しみの中で気付かされ、そしてその救いをまさしく体験して生きてきたんだというのです。
 わたしは、本当にそうだと思いました。普通苦しみのどん底にあるときに、人間は救いとか、喜びとか、そういうものを見出せないものです。
 しかし、聖書の語る、天使の告げるクリスマスの喜びというのは、苦しみのどん底でこそ、なお一層に輝きを増して輝いている、そういう喜びです。御子キリストが、救い主が、十字架をも担ってくださった救い主であることを知るときに、わたしたちは深い慰めを頂くことができます。わたしたちの十字架の経験、それは出来ることなら避けたい、できることならないほうがいい、そういう経験です。そこに意味とか、価値とか、そういうものを見出すことはあまりに難しいのです。しかし、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった救い主イエス・キリストが、十字架を担ってくださった救い主であるという事実を知るときに、わたしたちの十字架の経験は虚しさから解放されます。わたしたちは、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったキリストに出会うとき、本当の喜び、慰めに満ちた喜びを知ることができます。

 すべての民にあたえられる喜び、それは、苦しみや不安を抱えた暗闇の中にある者にも与えられた喜びということです。涙を流したり、痛みを抱えて、それでも必死に生きている、そういう者に大きな慰めを与える喜び、それがクリスマスの喜びです。

 天使がこの救い主誕生の知らせを告げると、クリスマスの冷え切った夜空に天使たちの讃美の歌声が響きました。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」救い主がお生まれになった。それで、神に栄光があるようにと讃美をしているのです。

 「神に栄光あれ」と、天使はそう告げます。旧約聖書をみていきますと、意外に感じられるかもしれませんけれど、あの長い旧約聖書の中には、一度も「神に栄光あれ」という言い方は出てきません。主に栄光を帰せよとか、そういうのはありますけれど、神に栄光あれという言い方はしないわけです。
 クリスマス、イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋にお生まれになる、救い主が、あなたの救い主がお生まれになる、そのことによって初めて、わたしたちは「神に栄光あれ!」そのように真心から神様を讃美する者とされていくのです。教会の礼拝には、頌栄というのがありますけれど、あれは、神に栄光あれという天使たちの讃美を、わたしたちも声を合わせて歌っているわけです。神に栄光あれ、そのように神様を讃美しながら生きていくことができるのです。
 その時、この天使の讃美の後半の意味がさやかに示されていくのです。「地には平和、御心に適う人にあれ」この平和というのは、安らぎとか、穏やか、そういう深い慰めに満ちた言葉です。地の上には、そこに住む人々に平安があるように、安きがあるようにというのです。この平和というのは、救い主がお生まれになることによって与えられる平和です。ただ戦いがない平和な社会ということに尽きる話しではありません。
 「いと高きところに神に栄光があるように」、わたしたちが、天使たちとともに神様を讃美するとき、神様に礼拝を捧げるときに与えられる「平和」です。
一生懸命頑張って、自分の生き甲斐、自分の生きている意味、自分の存在価値や救いを見出そうとする人間がいるわけですけれど、そういう人間が、救い主に出会うことによって与えられる救い、平安があるんだというふうに天使は告げているのです。

 天使の告げる救い主、イエス・キリストに出会うときに、わたしたちはこの救い主イエス・キリストご自身の中にわたしの救いを与えられるのです。もう必死でわたしの救いを見つけようとしなくてよいのです。
 あなたの存在というのは、あなたのことをみつめ、愛し、いつくしんでくださる救い主であるイエス・キリストのゆえに、尊いものとされ、価値が、尊さが、見出されていることを知ることが出来るのです。だから、わたしたちは救い主を礼拝することによって、平安をいただくことができるのです。

 今日、全世界の教会が、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった主イエス・キリストのご降誕を祝って礼拝を捧げます。クリスマスの喜びとは何か、わたしたちを生かす本当の喜びとは何か、それを、教会は礼拝を通して世に証ししているのです。つまり、救い主を礼拝しながら生きていく、そこにわたしたちの喜びがあるんだ、と、全世界の教会は神様を礼拝することによって、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったキリストを礼拝することによって、世に証をしているのです。

 クリスマスの喜び、それは救い主イエス・キリストの前に自らの膝をかがめることによって与えられる喜びです。ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった幼子キリスト、この救い主を、わたしの救い主として生きていくとき、クリスマスは本当の喜びに満ちた日として、慰めに満ちた日として、わたしたちの心深くにいつまでも変わることのない喜びとなるのです。

◇祈りましょう
聖なる天の父よ
愛する独り子をわたしたちの救いのためにお与えになり、信じるすべての者に、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。あないの深い愛を感謝いたします。
どうか、御子のご降誕が、わたしたちだけでなく、わたしたちの周囲にあるすべての人々にも、本当の喜びまた慰めとなることができますように。
わたしたちの主、イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン





説教「クリスマスの馬小屋」教会学校クリスマス礼拝

2009-12-20 00:58:30 | 子供の説教
2009/12/20待降節第四主日・教会学校クリスマス礼拝・説教
「クリスマスの馬小屋」ルカによる福音書2章1-8節

 もうすぐクリスマスを迎えます。教会の前の道には、夜になると沢山のイルミネーションが飾られていて、とても綺麗です。街を歩いていると、大きなクリスマスツリーや、クリスマスの飾りが沢山あって、どれも綺麗だなぁと思います。きっと、みんなもお家にクリスマスの飾りをしたり、ツリーを飾ったりしていると思います。イエス様のお誕生を喜んで、綺麗に飾り付けてお祝いをしたいと思います。
 
 ところで、みなさんは教会に来ると、この礼拝堂に上がる階段の下に、馬小屋を飾ってあるのを見ましたでしょうか。綺麗な金や銀の飾りも、華やかなリボンもありませんけれど、モミの枝が敷かれただけの地味な馬小屋です。
 わたしたちは、このクリスマスの馬小屋を見つめるときに、その時初めて、クリスマスの本当の意味が分かってくると思います。クリスマスの馬小屋、そこには、マリアとヨセフがいます。羊飼いやヒツジがいます。牛やロバもいます。わたしたちが知っているような、クリスマスの華やかで綺麗な飾りつけとは全く違う、決して綺麗ではない馬小屋です。
 冷たい風が吹いてくるかもしれません。赤ちゃんを産むことのできるような場所ではありません。生まれてきた赤ちゃんを洗ってあげる暖かいお湯はあったでしょうか。赤ちゃんの寝る暖かなベッドがあったでしょうか。馬小屋にはそんなものはありません。
 クリスマスの馬小屋には、決して綺麗な飾りも、それを見た人達が何か幸せを感じることができるような美しさもありません。馬小屋は綺麗な飾り物ではありません。よくよくそれを見つめたら、そこに美しい夢の世界を思い描いたりすることはできません。

 どうしてかと言うと、お腹の大きなマリア様を、誰一人わたしのお家に泊まってと言わなかった。赤ちゃんイエス様がお生まれになるのに、誰一人暖かなお家へどうぞとは言いませんでした。長い旅を続けてきたマリアとヨセフ、そしてイエス様を暖かく迎えてくれる人はどこにもいませんでした。これを人間の罪といいます。
 自分は暖かいお家で、美味しいものを食べて、ゆっくりとフワフワのベッドで寝れたら、それでいい。「どこの誰か判らないあの若いお腹の大きな二人連れのことなんて知らないよ」そんなふうに思ってしまう人間の冷たい心、それがベツレヘムの馬小屋には見えてきます。クリスマスの馬小屋を見つめるときに、わたしたちが気付くことというのは、決して人間の暖かな心とか、美しい光景ではありません。自分のことばかり考える人間の罪、イエス様をお迎えすることをしない人間の罪の姿が、見えてきます。
 そして、あんな寒い、赤ちゃんを産むのはとても危険な馬小屋にいるマリアとヨセフを、そしてイエス様を、何とも思わない人間の罪、そのような冷たい人間の罪が見えてきます。

 でも、そこにイエス様はお生まれになりました。そういう人間の罪、冷たさ、人のことを何とも思わない自分中心的な心、まして神様の御子イエス様をお迎えする気持ちなんてどこにもない、そういう人間の罪の只中に、イエス様はお生まれになったのです。そこにこそ、救い主のお誕生が必要だったからです。

 決して綺麗ではない馬小屋ですけれど、でも、そこにイエス様が生まれてくださることによって、馬小屋はパッと明るくなります。喜びが溢れてきます。
それは、馬小屋が立派だからでも、綺麗だからでもありません。そこにイエス様がいてくださるから、馬小屋は明るく照らされるのです。

 わたしたちの心は、それはこの馬小屋のようなものです。それは決して立派な、暖かい、綺麗な馬小屋ではありません。気がつくといつのまにか隣にいるあの人この人のことよりも自分のことばかり考えている。気がつくと、神様にお従いすることよりも、自分の願いのままに神様を振り回そうとしたりする、そんな心の馬小屋です。でも、そこにイエス様は生まれたいと望んでくださったのです。そして、わたしたちの心の馬小屋にイエス様は生まれてくださるのです。わたしたちはみんな、イエス様のお誕生が必要です。わたしたちの暗く、冷たい、そして汚い馬小屋が明るくなるためには、イエス様が生まれてくださらなければいけません。

 人間は自分で自分の心を照らすことは出来ません。人間は自分で自分を救うことはできません。イエス様をわたしたちみんなが、心の中にお迎えして、クリスマスをこころからお祝いしたいと思います。