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「弟子の覚悟」ルカ8:57-62

2010-03-17 15:01:59 | 主日以外の説教
【聖書】ルカによる福音書8章57-62節

 イエス・キリストを信じて生きていく、洗礼を受けてキリスト者として生きていくというのは、それは言い換えるならば、キリストの弟子として生きていくということです。
 キリストの弟子というのは、何も牧師や聖職者のことだけを言っているわけではありません。イエス・キリストを信じて生きていくキリスト者は、それはキリストの弟子であり、神様がキリストのみ足跡に従うようにと召し出しておられる一人ひとりであることを、わたしたちは覚えたいと思います。神が召しだしておられ、キリストの弟子として呼び集めてくださっている。そこには、キリストの弟子として生き方というのも同時に問われているということではないでしょうか。

 今日わたしたちの聞いた福音書の箇所には、ルカによる福音書の9章57節以下ですけれども、主イエスに従っていこうとするもの、従うようにと呼びかけられている者が三人登場します。

 まず一人目の人は57節に出て参ります。
「9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」
 「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」と、そのように言うのです。何とも勇ましい言葉です。それを聞いて主イエスは「9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」そのように仰せになるわけです。

 二人目の人は59節に出て参ります。「9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われた」ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。」そこで主イエスは「9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれる。

 三人目の人は「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。

 この三人はいずれもが、勇ましい決意をもって従おうとしている者、他のことが解決したら従おうという者、従い方こそ違いますけれど、誰もが主イエスに従っていこうとしているわけです。
 わたしたちの中にも、こうした色々な主イエスに従っていこうとする者の姿というのがあると思います。
 洗礼を志願してこられる方の中にも、これから一生懸命立派な信仰者となれるように頑張ります!励みます!という方もおられますし、ずっと礼拝にいらしている方に、こちらから洗礼をお受けになりませんかと訪ねますと、いろいろと事情を仰る方もおられます。
この三通りのあり方を通して主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。

 一番最初に出て参りました人は、「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」といいます。そこで主イエスは「「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」と仰せになる。自分の決意や熱心さで従っていこうとする者に、神に従うというのは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」つまり、その生涯をまったく神様のご配慮に委ねて生きていくものなんだということを教えておられるのです。信仰というのは、自分の力や信仰心でやっていくことができるものではない。
 主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と仰せになるわけですけれども、マタイ福音書の6章で主イエスはこのように仰せなりました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
 今日の福音書の箇所で主イエスは、「キリストに従って行くというのは、生半可な決意ではいけない。枕するところがなくても辛抱できるくらい立派な決心がなければならないんだ」と、そういうことを言っておられるのではないのです。
 キリストに従っていくというのは、たとえ枕するところがなくても、空の鳥、野の花を美しく装い養って下さる神様、天の父なる神様に全く信頼して生きていく、そういうことなんだということを教えて下さっているのです。そのとき初めて、わたしたちはキリストに従う者として生きていくことが可能となるのではないでしようか。

 さて、二番目の人ですけれども、この二人目の人は59節に出て参ります。この人は最初に出てきた人とは違って、主イエスから「9:59 「わたしに従いなさい」と言われた」人物です。主イエスが従うようにと呼びかけ、招いておられるのです。
ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」」と、そのように言います。大切な父親が亡くなったのでしょうか。そこで主イエスは60節を見ますと、「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれるわけです。わたしたちは、こういう主イエスのお言葉を聞きますと、主イエスは、人の気持ちに同情してくださらないのか、何か冷たいのではないかと、そのように感じるかもしれません。しかし主イエスはそこで、そのような事を言おうとしておられるのではないでしょう。
 この人には、主イエスに従うよりも、何か理由をつけてでも今の自分の生活に留まっていたいという思いがあったのかもしれません。または、このこととあのことさえ片付けば、自分の抱えている大切な問題が片付けば、そうしたら主イエスに従って行けると思っていたのかもしれません。いずれにしても、自分の条件が整ったときに従っていくか行かないか自分が判断しようとする。そこで主イエスは「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」と仰せになる。心配しないで、キリストに従って行きなさいと招いておられるのです。

 最後に三人目の人ですけれども、61節で「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。この人も二番目の人と少し似ています。家族に別れを言いに行かせてくださいというのです。

 その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。
 主イエスに従っていく信仰者は、家族を愛してはいけないとか、大事にしてはいけないということが言われているのではありません。主イエスに従っていくというのは、それほど大切なことも神様のいつくしみ深い御手に委ねて生きていくことができるんだということを福音書の御言葉は語っているのです。

 今日の箇所には、福音書の見出しに「弟子の覚悟」とありますので、余程の決意、決心がなければ従っていくことはできない、そういうことなんだと思うわけですけれども、しかしキリストの福音というのは、そういう自分の熱心さや情熱で従っていくようなものではないのではないでしょうか。やはり、キリストに、家族も、仕事も、枕するところつまり日ごとの生活も、何もかも全く委ねるということなくしては歩み得ないんだということではないでしょうか。言い換えれば、わたしたちは、その生涯を支え、豊かに与えてくださるキリストにすべてを任せて、従っていくことができるんだということなのです。
 
 主イエスに従っていこうとするわたしたちは、やはりキリストのご生涯に眼を注ぐ必要があるのではないでしょうか。主イエスがそのご生涯においてどのように歩まれたのか、それはすべてを天の父のいつくしみに委ねて祈りつつ歩んでいかれた、それはあのゲッセマネと十字架の出来事によって鮮明に描き出されています。ゲッセマネ、そして主の十字架、それは、「父よわたしの霊を御手に委ねます」との祈りに集約されるように、苦しみの極みにあっても、いのちの極限にあっても、ご自身をまったく天の父に委ねておられる。その主が、わたしたちに従ってくるようにと招いておられるのです。
 献身の生涯、そしてキリストに従っていくキリスト者の生涯というのは、他ならないキリストご自身が責任をもっていてくださる。必要を満たし、日ごとの糧を与えてくださる。このキリストの恵みに支えられることによってのみ、わたしたちはキリストに従うことができるのです。いや従って行かせていただける、そのことを深く感謝したいと思うのです。




詩編84編「あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう」

2010-03-04 16:30:23 | 主日以外の説教
「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。」(詩編八四編二節)

 詩編八四編全体は「あなたのいますところ」への憧れ、それを慕う思いに貫かれています。讃美歌の一九六番は、詩篇八四編を基にして一七一九年にアイザック・ウォッツが作った讃美歌です。一節に「うるわしきは神のみとの」とあり、その一節の結びの詩は「御神を慕いて燃え立つ」とあります。神の宮を慕う思いは「御神を慕いて燃え立つ」ことと緊密に結びついています。つまり神の宮を慕う信仰は、神ご自身を慕い求める信仰と一つのこととして受け止められています。

 これは、詩篇八四編でも同様のことが言われます。八四編二節「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。」との神の宮を慕う言葉によって始められた詩編は、一三節で「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう。」と結ばれているのです。
 
 わたしたちは、信仰というものをとかく個人主義的に捉えやすい傾向があると思います。信仰というのは、自分が心の中で神様を信じていることが大切なのであって、自分と神様との関係のことであるというふうに考えやすいのです。勿論それも大切なことではありますが、キリスト教会の信仰というのは、わたしと神様と言う一対一の関係だけで完結するわけではありません。わたしという個人が、神様を礼拝する信仰の共同体である、神の民(教会)の一員となる。そして生涯、信仰共同体である教会に結ばれて礼拝の生活を送っていく、そこからわたしたちの信仰というのは養われ、そこで守られているということを覚える必要があると思います。
 
 もし信仰が、本当に自分と神様だけで成り立つとしたら、洗礼も教会も意味がなくなります。洗礼によって、信仰共同体、キリストのからだである教会に結ばれた一人とされることの意味がなくなってしまうわけです。洗礼は単なるお印でも、まじないのような効果をもたらす儀式でもありません。洗礼を受けるというのは、キリストのからだである教会に迎えられ、その一員とされ、礼拝共同体の中で、生涯神様を礼拝しながら生きていくということです。ですからキリスト教の信仰というのは、こうした神様を礼拝する信仰の共同体の中で生きる信仰であると言えます。
 
 詩編の信仰者は二節の「あなたのいますところ」を一一節では「わたしの神の家」と言い換えています。ただあなたのものとしての神の家、神の宮ということではなくて、それは、「わたしの神」のそれなんだということ。慕わしい神の家が、このわたしに関わることとして受け止められている、そのことは非常に大切なことです。
 
 主イエスはマルコによる福音書の一一章一七節で「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」そう仰せになりました。主イエスは、「わたしの家」とは、すべての国の人の家だと仰せになるのです。「すべての国の人」の家であるとは、そこには当然あなた自身の居場所が備えられているということです。そこにあなたの居るべき場所があるという事を主は言っておられるのです。
 
 この詩編八四編は、「宮詣の詩編」であるといわれます。そこでは神の宮に向かう人々の心が歌われています。
 詩編は神殿を見て深い喜びに満ちて語ります。三節では「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」と言います。この当時の礼拝の状況というのを考えてみますと、巡礼者また礼拝者であるいわゆる信徒は、神殿の前庭までしか入ることができませんでした。けれども、この詩編の御言葉を聞くときに、わたしたちはこの詩篇の信仰者が、まるで神殿のもっとも奥深くに、神様ご自身とのリアルな出会いを体験しているかのように、その礼拝の経験を捉えているということに驚かされます。この詩篇の信仰者にとってどれほど神の宮、そして神殿での礼拝が自分自身にとっての、喜びに満ちた、また慰めに満ちた経験であったかを思わせるのではないでしょうか。
 
 五節にはこのようにあります。「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら。」神の家に結ばれた信仰者のあり方を、詩編は「いかに幸いなことでしょう」と言います。別の訳の聖書では「幸いです。あなたの家に住み、とこしえにあなたをほめたたえるものは」と訳されています。更には、この神の家を慕う信仰者の生き方というのは、五節後半に「まして、あなたを賛美することができるなら。」とあるように、神様を讃美して生きていくこと、そこに幸いを見出しているということが言えます。
 
 六節から八節にこのように記されています。「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」 
 この六節の「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は」という箇所は、原文のヒブル語をそのまま訳すと「あなたを力とし、その心が宮詣へと向かう者は」というふうになります。主なる神様を力とし、心に広い道を見る、それは神様の宮を慕い求めつつ、神様の前に立つことを喜びとした者の生き方です。現代に生きるわたしたちにとっても、主の日の礼拝というのは、こうした信仰のリアリティーが見出されるものではないでしょうか。
 主を力とし、神様の宮、主の御国を目指して旅を続けていく、それがわたしたち信仰者の旅路であり、その歩みであると思います。そしてその神の宮を慕う思いは、天のふるさと、帰るべき主の家を慕い求めつつ生きる信仰の歩みでもあります。例えば詩編二三編においてもそうですけれども、わたしたちはこの地上の生涯を神様の恵みに支えられて、礼拝を捧げつつ、生き、そして主の家に帰る。そうした信仰の姿が語られます。
 
 主の家を慕う思い、それは地上にある神殿、また教会を愛し慕う生き方であると同時に、その信仰は天上の神殿を愛し慕いつつ、神様ご自身の御前に立つという恵みの出来事に望みをおく生き方でもあります。
 
 詩編の信仰者は、年老いて神殿に詣でることができなくなったとしても、神の宮を愛し慕う想いと、神の民の一員であるという恵みの事実は不変の事柄であったでしょうし、その喜びの深さ、恵みの大きさに一層気付かされていったことでしょう。洗礼によって神の家族の一員とされたわたしたちも、主の教会を愛しつつ神の国を目指し共に歩みましょう。