ろごするーむ

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「父ごころ」ルカ15:11-32放蕩息子

2007-03-16 13:45:23 | 主日以外の説教
「父心」ルカ15:1-3.11-32. (讃247.Ⅱ184.)

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
・・・15:11・・・「ある人に息子が二人いた。15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


神の愛がわたしたちの行為によってかすめられてはなりません。ここに示されているのは、弟が悔い改めたから神が心を動かされ、弟が帰ってきたから神が心を変えて迎えて下さったという話しではありません。

この15章で主イエスがなさった3つの例え話は同じことを指しています。いなくなった一匹の羊。失われた銀貨。それを見つけたのは羊飼い、持ち主、父であって、迷子の羊が羊飼いを見つけたのでも、銀貨が持ち主を見つけたのでもありません。帰ってくる放蕩息子を見つけたのは父であって、弟が父を見つけたのではありません。父がはるか彼方に息子の姿を見出し、走りよって迎えて下さる。弟が帰ってきたから父は両手を広げて迎えられたのでしょうか。息子が悔い改めたから父は救おうと思われたのでしょうか。まだ遠く離れているのに、父は息子を見つけます。たまたまその日、外を歩いていたら帰ってくる息子を見つけたというのではありません。息子がいなくなった日から、父の思いは絶えずこの父の大切な息子に向けられていたのです。

私たちは焦点の当て間違えをしてはいけません。ここに示されているのは、弟の改心、弟が父の家に向かって歩いた、それゆえに父である神が心を動かされたという話しではないのです。この弟。つまり、私たちの行いや私たちの思いが、父を感動させ、ついには私たちを救うのではないのです。いなくなった者を、命がけで求め続け、待ち続け、それでも愛したもう神の憐れみのゆえに、私たちは悔い改める恵み、「父よ」と呼ぶ恵みに与っている。御言葉が伝えているのは、弟の信仰の行為ではありません。父のいつくしみに目を注ぐということです。この例え話の中心人物は父であって放蕩息子ではないのです。ですから、ある聖書には「放蕩息子」ではなく「父の憐れみ」という題が付いているのです。

この弟の帰還の話に続いて兄が登場します。彼は弟の帰りを喜ばず、父のあまりに豊かな憐れみに思いを乱します。兄は弟とは違って「父」とは呼びません。また「弟」とも呼ばず、次々に弟の罪を並べ立てるのです。
主イエスは、この例え話で父の憐れみを示されたと同時に、それとは正反対の人間の罪を指摘されました。この、一見父のもとにいたと思える兄が、弟を見ている姿と同じように、人間は、自分は忠実に仕えていると思い込み、人の罪を指摘することに熱心になるのです。
この15章のはじめの部分には、「15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。」とあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスの話を聞こうとして集ってきた徴税人や罪人たちを、明らかに紛れもない罪人とみなして、関係することすらないようにと細心の注意を払ったのです。人間はこのファリサイ派や律法学者と同じように、また兄のように、人の罪を見ることに熱心で、父の憐れみに焦点が定まらない。罪人が改心しても、それを喜べない。世間から冷たい眼で見られ、社会の片隅に追いやられたような者、救いを求めてイエスのもとにやってきたその時に、人々は神ではなく人間を見る。それがここでイエスがこれらの例えを語られた直接の動機でありました。

自分は立派な行いをしていると思っていた人々。自分たちは罪を悔い改め、犠牲を捧げ、忠実に律法を守っていると自負してやまない彼らに、そうではないんだ、お前達は人間のことばかり見ているのではないかと言われる。私たちが神に対してなした行為が神をどうにかするのではないのです。いなくなったものを尋ね、失われた者のために命をも差し出して、痛むほどに愛したもう神の、ただこの憐れみのゆえにのみ私たちは救われるのです。一枚の銀貨は持ち主に探されない限りは、どのようにしても持ち主を見出すことが出来ない事を、よく示しています。
私たちはただ焦点を神に向ける、それさえも、帰っていく弟が先に父に見出されて迎えられたように、私たちが神を見つけるのではなく、神の憐れみによって私たちが見出され、迎えられ、悔い改めと新しいいのちに生きる恵みが与えられているのです。だからこそ、真実なる悔い改めをもって「父よ」と呼ぶことが出来るのです。


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