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「ラザロ」ヨハネ11章

2008-10-06 12:59:29 | 主日礼拝説教
■主イエスが愛されたラザロ
ある病人がいたと今日の福音書の御言葉は書き出しています。ある病人がいた。マリアとマルタは、その病人であるラザロを助けて頂きたいと、主イエスを呼びに、使いを送るわけです。
そして、3節でマリアとマルタは、主イエスのもとへ使いを送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言います。マリアとマルタは兄弟ラザロが病んでいるということを主イエスに告げるわけです。

ラザロがどういう人物なのか、このヨハネ福音書の11章は、はっきりと記していません。しかし3節で、福音書の御言葉は、ラザロとは「あなたの愛しておられる者」つまり主イエスの愛しておられる存在なんだということを告げています。それは続く5節においては、よりハッキリと、「11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と、主イエスがラザロを愛しておられた。ラザロだけでなく、マリア、マルタを愛しておられたとハッキリと示されているのです。マリアとマルタは、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言います。
しかし、私たちが思っている以上に、主イエスはラザロのことを愛しておられた。私たちが思っている以上に、主の愛はわたしたちに向けられていた。それは、いま病の床で、主イエスに助けを求めることも出来ない、また、やがて墓の中に葬られて、もう自分の力では主よと呼ぶことさえできない、そういうラザロ、主キリストの前にもはや何事もなすことができない、そういう者にさえ、主の愛は向けられていたのです。そういう愛が、このラザロの物語にしめされている神の愛なのです。
ラザロとはどういう人物であったのか、聖書は詳しく記していません。しかし聖書がはっきりと示していることがあります。ラザロとは誰か? それは主に愛されたものであるということです。ラザロとは、主イエスに愛された者である。聖書があえてそれ以上に述べていないのにはわけがあります。それは、あなたも主に愛されたものであるということを伝えたいからなのです。今日開かれているヨハネによる福音書の11章には、昔生きたある一人の人物ラザロの出来事ということにとどまりませんで、今、確かに主に愛されているあなたと主イエスとの出来事としてのラザロの復活の出来事がしるされているということを覚えておきたいのです。


■主イエスの愛とは
今日、わたしたちはラザロの死とよみがえりの出来事を、聖書の御言葉から聞いています。そこで御言葉は、先ほどから申し上げていますように、ラザロとは主イエスが愛しておられた、そういう存在だということを伝えていました。主イエスがラザロを愛された愛、ヨハネによる福音書が語る主イエスの愛、更には神の愛とは一体どのような愛なのでしようか。
ヨハネは、神の愛ということを非常に特別な意味を込めて語っています。ヨハネによる福音書3章16節には、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びないで永遠のいのちを得るためである」と語られています。
ヨハネが語る神の愛とは何か、それは、罪人の死を望まれない、罪人の滅びる事を望まれず、ご自分の独り子を、つまり主イエスを十字架の上に死へと引き渡される。罪人の私たちが、自ら侵した罪と過ちの結果、その厳しい裁きを負って滅びるしかない、そういう中にあったときに、私たち一人ひとりの滅びることを神はお望みにならず、私たちの滅びることではなく、わたしたちの救われることをお望みになって、私たちの負うべき十字架を身代わりにご自身の御子イエス・キリストに負わせられたのです。ご自分の愛する御子を十字架に差し出してまでも、あなたを救いたいと願われ、あなたのいのちが滅びては、失われてはならないと、善人ではない、罪人のわたしたちを愛して下さった。そういう愛です。
 このヨハネ福音書の語る愛と言うのは、罪人に向けられた愛です。受ける相応しさが何も無い、そういう者に向けられた、神様からの一方的な恵みによる愛です。
 ヨハネの語る神の愛というのは、キリストの十字架に示された愛です。この十字架に示された愛というのは、罪の赦し、更には復活とも緊密に結び付けられた神の愛です。神の愛というのは、わたしたちをいのちへと結びつける愛、十字架の上に示された主イエスの愛は、わたしたちを永遠のいのちへと呼び出す、そういう愛であるということができるわけです。

どうしてラザロの復活の出来事を語るときに、福音書記者のヨハネは「主の愛しておられた者」とあえて語ったのか、それは、主の愛こそがわたしたちをいのちへと結びつける。主の愛こそがわたしたちを復活へと結びつけるものであるということを伝えたいからに違いありません。
神の愛というのは、わたしたち罪人のために、独り子を与え、御子イエス・キリストを十字架につけ、そこから復活へとわたしたちを結び付けていくのです。ラザロの出来事を通して御言葉がわたしたちに語りかけている神の愛と言うのは、死んだ者を生かそうとする神の愛です。死んだ者をいのちへと呼び出す愛、それが主イエス・キリストにおいて示された神の愛なのです。

■主イエスがラザロを愛された愛が、十字架と復活に結び付けられる

さて7節からの御言葉をご覧ください。
「11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」」すこし飛ばしまして、11節から。「11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」」
 
 ここで、主イエスは、ラザロを起こすためにユダヤに行こうと仰せになります。このラザロを起こしにユダヤに行くというのは、ある意味を含んでいます。8節で弟子たちが、「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言っていますように、主イエスがユダヤに行かれるということは、そこで石打ちにされるかもしれない。殺されるかもしれない。ラザロを生かすために、自らのいのちを犠牲にしなければならない。そういった意味を含んでいるわけです。主イエスはラザロを愛された。そしてユダヤへと来られるのです。それはラザロを起こすため、死んだ者をいのちに呼び出すために、ユダヤへと来られるのです。しかし、死んだ者をいのちへと呼び出すためには、そこに主イエスの犠牲が、十字架があるということでもあったわけです。

主イエスは、愛するものをよみがえらせるために、自らいのちを危険にさらすことも良しとされたのです。7節の「もう一度ユダヤに行こう」というのは、この先に起こる主イエスの受難、十字架ということを、はっきりと指し示しています。主イエスは、ご自分のいのちを差し出して、死んだ者をいのちへと呼び出してくださる。それが、愛する者のために命がけでなしてくださった、主イエスの業なのです。


■来る方
17節をご覧ください。「11:17 さてイエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」ここに「さてイエスが行って御覧になると」とありますけれど、これは「さてイエスが来てご覧になると」と言うほうが本来の意味に近いようです。主イエスが来られるということがここで語られているわけです。
「さて、イエスが来てご覧になると」というそういう書き出しであるわけです。主イエスは、わたしたちが苦しむとき、わたしたちのもとに来て下さる方であるということを御言葉は語っているのです。主イエスはどこまでも来られる方であって、わたしたちのもとを過ぎ去って、どこかに行ってしまう方ではないのです。主イエスは、苦しみ、涙を流す者の側を、通り過ぎる方ではないのです。そういう者のもとに来てくださるお方なのです。来て、わたしたちのもとに留まってくださるお方なのです。
 
一方19節を見ますと、多くのユダヤ人たちも来たということが記されています。11章19節です。「11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」とあります。
多くのユダヤ人たちが、死んでしまったラザロのことでマリアやマルタを慰めようと、訪ねて来てくれていたわけです。しかし、どんなに沢山の人が来てくれても、本当の慰め、死の悲しみの涙を拭うことは、そう簡単なことではないのです。人間は、愛するものを失ったときに、傍らにある人々がいてくれることでどんなに励まされ、勇気付けられるかわかりません。しかし、多くのユダヤ人たちがマリアやマルタのもとを訪れましたけれど、そこにマリアとマルタの本当の慰め、死の力からの解放というのは見出すことができなかったのです。

マリアやマルタの慰めというのは、どこにあるのでしょうか。だれが来て、愛する家族との別れに、苦しみ、止まることのない涙を、拭ってくれるというのでしょうか。どこに死の力をも超えさせる慰めがあるのでしょうか。それは、主キリストが来られるという事に他なりませんでした。主キリストが来られる。主キリストが来て、死んだラザロ、墓に葬られたラザロをいのちに呼び出してくださる。主キリストがこられる、悲しんでいるもの、涙を流すものの傍らに主キリストが来られる。ここに慰めがあるのです。
主キリストが来て、死んだラザロを、主が愛される者をいきかえらせてくださる。新しいいのちに呼び出してくださるのです。

ユダヤ人の多くの人々が、来ていました。しかし誰一人、本当の慰めを与えることはできませんでした。主キリストが来られる。ここに私たちは一つの確かで誰も決して私たちの手から奪うことの出来ない希望を与えられているのです。キリストが来られる。死んだ者のもとに、もう自分の力では主よと助けを呼び求めることも、なにも手立てが無い、そういう者のもとに主が来られるのです。わたしたちのもとに来られるキリストは、マリアとマルタを愛し、ラザロを愛してくださる主なのです。私たちはこの主の愛によって、氏からいのちに招かれ、死んだ者がいのちへと呼び出されていくのです。わたしたちのいのちは、神の愛によって、しかも独り子のいのちをも差し出すという神の愛によってしっかりと、神の国に結び付けられていくのです。

■命を与える主イエス
さて、先ほどの続きですけれど、25節以下にこのようにありました。
「11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」」
ラザロの出来事の中でもおそらく最も有名な御言葉です。主イエスは、わたしが復活であり、いのちであると言われるのです。イエス・キリストが復活であり、命であるということが、イエス・キリストが主であるということの実体なのです。つまり、イエス・キリストとはどなたか? イエス・キリストとはいのちを与える方であるということなのです。イエス・キリストとは死んだ者を復活させる方であるということなのです。主イエスのおられるところに、復活といのちがある。なぜなら、主イエスがまさに復活でありいのちそのものであるからなのです。

■結
主イエスは、来られるのです。何のために来られるのでしょうか。それは、死んだ者を生かすため、わたしたちを永遠のいのちに生かすために来てくださるのです。誰のもとに来られるのでしょうか。主が愛しておられる者のもとに、主があいしておられる、あの人、この人、ほかならないあなたのもとに、復活でありいのちである、主イエスが来てくださるのです。
今日の聖書の箇所を読んで、もうお気づきでしょうか。ここにはラザロの言葉は出てこないのです。ラザロは何も語らないのです。それどころか、ラザロは墓の中に眠り、もう4日もたっている。それがラザロなのです。4日もたっているというのは、ユダヤでは、もう復活の希望がまったくないということ、生き返る望みがまったくないということ、完全に死んだということを現すわけです。ラザロは何も語らない。ラザロは完全に死んだ。もはや何事もなすことができない。ただ主イエスの愛に委ねるほかない者の姿を聖書は語っているのです。それでも、主イエスは、そういうラザロをお見捨てにはならなかったのです。ラザロを愛する主イエスは、墓に葬られてもう4日も経っている、そういうラザロのもとに来てくださり、ラザロを墓からいのちへと呼び出してくださるのです。
復活というのは、神の愛の業なのです。復活というのは、こちら側からの行為ではなくて、向こう側から、つまり神様の側からなされる神様の愛の業なのです。しかし、そこには、確かにしっかりと、復活の主キリストの手が差し出され、確かに私たちを死からいのちへと呼び出してくださる主が立っておられるのです。

■祈りましょう
すべてのいのちの源である神よ。
あなたは、ラザロを愛し、その愛によってはかに眠るラザロを、いのちへと呼び出してくださいました。どうか神よ、わたしたちの傍らに来て、わたしたちを死から命へと呼び出だしくださるあなたに信頼することを得させてください。
わたしたちの救い主、イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン


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