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「弟子の覚悟」ルカ8:57-62

2010-03-17 15:01:59 | 主日以外の説教
【聖書】ルカによる福音書8章57-62節

 イエス・キリストを信じて生きていく、洗礼を受けてキリスト者として生きていくというのは、それは言い換えるならば、キリストの弟子として生きていくということです。
 キリストの弟子というのは、何も牧師や聖職者のことだけを言っているわけではありません。イエス・キリストを信じて生きていくキリスト者は、それはキリストの弟子であり、神様がキリストのみ足跡に従うようにと召し出しておられる一人ひとりであることを、わたしたちは覚えたいと思います。神が召しだしておられ、キリストの弟子として呼び集めてくださっている。そこには、キリストの弟子として生き方というのも同時に問われているということではないでしょうか。

 今日わたしたちの聞いた福音書の箇所には、ルカによる福音書の9章57節以下ですけれども、主イエスに従っていこうとするもの、従うようにと呼びかけられている者が三人登場します。

 まず一人目の人は57節に出て参ります。
「9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」
 「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」と、そのように言うのです。何とも勇ましい言葉です。それを聞いて主イエスは「9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」そのように仰せになるわけです。

 二人目の人は59節に出て参ります。「9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われた」ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。」そこで主イエスは「9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれる。

 三人目の人は「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。

 この三人はいずれもが、勇ましい決意をもって従おうとしている者、他のことが解決したら従おうという者、従い方こそ違いますけれど、誰もが主イエスに従っていこうとしているわけです。
 わたしたちの中にも、こうした色々な主イエスに従っていこうとする者の姿というのがあると思います。
 洗礼を志願してこられる方の中にも、これから一生懸命立派な信仰者となれるように頑張ります!励みます!という方もおられますし、ずっと礼拝にいらしている方に、こちらから洗礼をお受けになりませんかと訪ねますと、いろいろと事情を仰る方もおられます。
この三通りのあり方を通して主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。

 一番最初に出て参りました人は、「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」といいます。そこで主イエスは「「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」と仰せになる。自分の決意や熱心さで従っていこうとする者に、神に従うというのは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」つまり、その生涯をまったく神様のご配慮に委ねて生きていくものなんだということを教えておられるのです。信仰というのは、自分の力や信仰心でやっていくことができるものではない。
 主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と仰せになるわけですけれども、マタイ福音書の6章で主イエスはこのように仰せなりました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
 今日の福音書の箇所で主イエスは、「キリストに従って行くというのは、生半可な決意ではいけない。枕するところがなくても辛抱できるくらい立派な決心がなければならないんだ」と、そういうことを言っておられるのではないのです。
 キリストに従っていくというのは、たとえ枕するところがなくても、空の鳥、野の花を美しく装い養って下さる神様、天の父なる神様に全く信頼して生きていく、そういうことなんだということを教えて下さっているのです。そのとき初めて、わたしたちはキリストに従う者として生きていくことが可能となるのではないでしようか。

 さて、二番目の人ですけれども、この二人目の人は59節に出て参ります。この人は最初に出てきた人とは違って、主イエスから「9:59 「わたしに従いなさい」と言われた」人物です。主イエスが従うようにと呼びかけ、招いておられるのです。
ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」」と、そのように言います。大切な父親が亡くなったのでしょうか。そこで主イエスは60節を見ますと、「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれるわけです。わたしたちは、こういう主イエスのお言葉を聞きますと、主イエスは、人の気持ちに同情してくださらないのか、何か冷たいのではないかと、そのように感じるかもしれません。しかし主イエスはそこで、そのような事を言おうとしておられるのではないでしょう。
 この人には、主イエスに従うよりも、何か理由をつけてでも今の自分の生活に留まっていたいという思いがあったのかもしれません。または、このこととあのことさえ片付けば、自分の抱えている大切な問題が片付けば、そうしたら主イエスに従って行けると思っていたのかもしれません。いずれにしても、自分の条件が整ったときに従っていくか行かないか自分が判断しようとする。そこで主イエスは「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」と仰せになる。心配しないで、キリストに従って行きなさいと招いておられるのです。

 最後に三人目の人ですけれども、61節で「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。この人も二番目の人と少し似ています。家族に別れを言いに行かせてくださいというのです。

 その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。
 主イエスに従っていく信仰者は、家族を愛してはいけないとか、大事にしてはいけないということが言われているのではありません。主イエスに従っていくというのは、それほど大切なことも神様のいつくしみ深い御手に委ねて生きていくことができるんだということを福音書の御言葉は語っているのです。

 今日の箇所には、福音書の見出しに「弟子の覚悟」とありますので、余程の決意、決心がなければ従っていくことはできない、そういうことなんだと思うわけですけれども、しかしキリストの福音というのは、そういう自分の熱心さや情熱で従っていくようなものではないのではないでしょうか。やはり、キリストに、家族も、仕事も、枕するところつまり日ごとの生活も、何もかも全く委ねるということなくしては歩み得ないんだということではないでしょうか。言い換えれば、わたしたちは、その生涯を支え、豊かに与えてくださるキリストにすべてを任せて、従っていくことができるんだということなのです。
 
 主イエスに従っていこうとするわたしたちは、やはりキリストのご生涯に眼を注ぐ必要があるのではないでしょうか。主イエスがそのご生涯においてどのように歩まれたのか、それはすべてを天の父のいつくしみに委ねて祈りつつ歩んでいかれた、それはあのゲッセマネと十字架の出来事によって鮮明に描き出されています。ゲッセマネ、そして主の十字架、それは、「父よわたしの霊を御手に委ねます」との祈りに集約されるように、苦しみの極みにあっても、いのちの極限にあっても、ご自身をまったく天の父に委ねておられる。その主が、わたしたちに従ってくるようにと招いておられるのです。
 献身の生涯、そしてキリストに従っていくキリスト者の生涯というのは、他ならないキリストご自身が責任をもっていてくださる。必要を満たし、日ごとの糧を与えてくださる。このキリストの恵みに支えられることによってのみ、わたしたちはキリストに従うことができるのです。いや従って行かせていただける、そのことを深く感謝したいと思うのです。




詩編84編「あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう」

2010-03-04 16:30:23 | 主日以外の説教
「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。」(詩編八四編二節)

 詩編八四編全体は「あなたのいますところ」への憧れ、それを慕う思いに貫かれています。讃美歌の一九六番は、詩篇八四編を基にして一七一九年にアイザック・ウォッツが作った讃美歌です。一節に「うるわしきは神のみとの」とあり、その一節の結びの詩は「御神を慕いて燃え立つ」とあります。神の宮を慕う思いは「御神を慕いて燃え立つ」ことと緊密に結びついています。つまり神の宮を慕う信仰は、神ご自身を慕い求める信仰と一つのこととして受け止められています。

 これは、詩篇八四編でも同様のことが言われます。八四編二節「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。」との神の宮を慕う言葉によって始められた詩編は、一三節で「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう。」と結ばれているのです。
 
 わたしたちは、信仰というものをとかく個人主義的に捉えやすい傾向があると思います。信仰というのは、自分が心の中で神様を信じていることが大切なのであって、自分と神様との関係のことであるというふうに考えやすいのです。勿論それも大切なことではありますが、キリスト教会の信仰というのは、わたしと神様と言う一対一の関係だけで完結するわけではありません。わたしという個人が、神様を礼拝する信仰の共同体である、神の民(教会)の一員となる。そして生涯、信仰共同体である教会に結ばれて礼拝の生活を送っていく、そこからわたしたちの信仰というのは養われ、そこで守られているということを覚える必要があると思います。
 
 もし信仰が、本当に自分と神様だけで成り立つとしたら、洗礼も教会も意味がなくなります。洗礼によって、信仰共同体、キリストのからだである教会に結ばれた一人とされることの意味がなくなってしまうわけです。洗礼は単なるお印でも、まじないのような効果をもたらす儀式でもありません。洗礼を受けるというのは、キリストのからだである教会に迎えられ、その一員とされ、礼拝共同体の中で、生涯神様を礼拝しながら生きていくということです。ですからキリスト教の信仰というのは、こうした神様を礼拝する信仰の共同体の中で生きる信仰であると言えます。
 
 詩編の信仰者は二節の「あなたのいますところ」を一一節では「わたしの神の家」と言い換えています。ただあなたのものとしての神の家、神の宮ということではなくて、それは、「わたしの神」のそれなんだということ。慕わしい神の家が、このわたしに関わることとして受け止められている、そのことは非常に大切なことです。
 
 主イエスはマルコによる福音書の一一章一七節で「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」そう仰せになりました。主イエスは、「わたしの家」とは、すべての国の人の家だと仰せになるのです。「すべての国の人」の家であるとは、そこには当然あなた自身の居場所が備えられているということです。そこにあなたの居るべき場所があるという事を主は言っておられるのです。
 
 この詩編八四編は、「宮詣の詩編」であるといわれます。そこでは神の宮に向かう人々の心が歌われています。
 詩編は神殿を見て深い喜びに満ちて語ります。三節では「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」と言います。この当時の礼拝の状況というのを考えてみますと、巡礼者また礼拝者であるいわゆる信徒は、神殿の前庭までしか入ることができませんでした。けれども、この詩編の御言葉を聞くときに、わたしたちはこの詩篇の信仰者が、まるで神殿のもっとも奥深くに、神様ご自身とのリアルな出会いを体験しているかのように、その礼拝の経験を捉えているということに驚かされます。この詩篇の信仰者にとってどれほど神の宮、そして神殿での礼拝が自分自身にとっての、喜びに満ちた、また慰めに満ちた経験であったかを思わせるのではないでしょうか。
 
 五節にはこのようにあります。「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら。」神の家に結ばれた信仰者のあり方を、詩編は「いかに幸いなことでしょう」と言います。別の訳の聖書では「幸いです。あなたの家に住み、とこしえにあなたをほめたたえるものは」と訳されています。更には、この神の家を慕う信仰者の生き方というのは、五節後半に「まして、あなたを賛美することができるなら。」とあるように、神様を讃美して生きていくこと、そこに幸いを見出しているということが言えます。
 
 六節から八節にこのように記されています。「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」 
 この六節の「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は」という箇所は、原文のヒブル語をそのまま訳すと「あなたを力とし、その心が宮詣へと向かう者は」というふうになります。主なる神様を力とし、心に広い道を見る、それは神様の宮を慕い求めつつ、神様の前に立つことを喜びとした者の生き方です。現代に生きるわたしたちにとっても、主の日の礼拝というのは、こうした信仰のリアリティーが見出されるものではないでしょうか。
 主を力とし、神様の宮、主の御国を目指して旅を続けていく、それがわたしたち信仰者の旅路であり、その歩みであると思います。そしてその神の宮を慕う思いは、天のふるさと、帰るべき主の家を慕い求めつつ生きる信仰の歩みでもあります。例えば詩編二三編においてもそうですけれども、わたしたちはこの地上の生涯を神様の恵みに支えられて、礼拝を捧げつつ、生き、そして主の家に帰る。そうした信仰の姿が語られます。
 
 主の家を慕う思い、それは地上にある神殿、また教会を愛し慕う生き方であると同時に、その信仰は天上の神殿を愛し慕いつつ、神様ご自身の御前に立つという恵みの出来事に望みをおく生き方でもあります。
 
 詩編の信仰者は、年老いて神殿に詣でることができなくなったとしても、神の宮を愛し慕う想いと、神の民の一員であるという恵みの事実は不変の事柄であったでしょうし、その喜びの深さ、恵みの大きさに一層気付かされていったことでしょう。洗礼によって神の家族の一員とされたわたしたちも、主の教会を愛しつつ神の国を目指し共に歩みましょう。

説教「光の子として歩みなさい」

2009-03-02 16:55:26 | 主日以外の説教
「光の子として歩みなさい。」神の御言葉はわたしたちに今日、そのように呼びかけています。「光の子として歩みなさい。」
しかし、わたしたちは自分自身の姿を正直に見つめるとき、この自分のどこに光の子らしさがあるのかと思わされるのではないでしょうか。しばしば神に背を向けて歩み、人を傷つけたり、不誠実であったりするわけです。しかし御言葉は「光の子として歩みなさい」とそう告げているのです。光の子として立派に生きていく決断を求められているのでしょうか。更には光の子となるように何か努力精進することが求められているのでしょうか。けれども、わたしたちは光の子としてやっていこうと決意し、努力してもそれは長くは続かない者であることを思い知らされると思うのです。光の子として生きていきたいと願っても、なかなかそう上手くいかない。そこで、何とかして光の子になりたいと思うのではないでしょうか。
しかし今日、神の御言葉は、あなたに「光の子になりなさい」と言っているのではないのです。光の子として歩みなさいと神の御言葉は告げているのです。別の聖書では「光の子らしく歩みなさい。」と、そう訳されています。光の子として歩め、光の子らしく歩め。それは、あなたはすでに光の子とされているんだという、神の救いの約束に裏打ちされている御言葉です。光の子らくし歩め。なぜなら、あなたは光の子とされているのだからということが語られているのです。
では、どうしてわたしたちは既に光の子とされているのだと聖書は告げるのでしょうか。
わたしたちは知らず知らずのうちに信仰生活をやっていく中で光の子とされていたんだということでしょうか。それとも、これから教会でキリストを信じて歩んでいく中で、いつかわたしもキリストの光の子とされるということでしょうか。どちらも違います。罪人が自らの力で光となることができるというのでしょうか。

わたしたちはどんなに努力してもどんなに熱心になっても、自分の力で自分の救いを手に入れることはできません。暗闇の中に住むわたしたちは、光の中に入りたいとどんなに励んだとしても自分の力ではそれが適わないのです。暗闇と光との間には大きな断絶があって、それを容易に飛び越えていくことが出来ないのです。つまり、罪人である人間は自分の力で、自分の決意で、この闇から光へと入っていくことができない。光の子となることができないのです。
けれども、それでも神の御言葉は、あなたは「光の子」であると告げています。光の子として歩め。光の子らしく歩めと告げるのです。

今日パウロは手紙の中でこのように言っています。5章8節です。「5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
ここに、あなたがたは以前は闇でしたが、今は主に結ばれて光となっている。そう語られていました。以前は闇であったけれど、今は主に結ばれて光となっている。ここでは主に結ばれるという一回的な出来事、洗礼のことが意識されています。あなたは、主に結ばれて、つまりイエス・キリストの十字架の死と復活に結ばれる洗礼によって、以前は闇であったけれど、いまは光となっていると言うのです。光の子となるというのは、何かわたしたちの努力で得るものではないということがこの御言葉からも分かってきます。神の恵みとして与えられている十字架の救いに与る、それは洗礼によってということですけれど、与えられている神の恵みに自分自身をまったく委ねるその洗礼によって、暗闇の属する者が丸ごと光の中に移される。以前は闇であったけれど、光とされる。それが主に結ばれるということ、洗礼の恵みに与るということです。ですから、キリストに結ばれた者に、パウロは「光の子として歩みなさい」「光の子らしく歩みなさい」と、そう新しい生き方を薦めているのです。わたしたちが、光の子とされるのは、ただキリストの十字架に結ばれると言うこの一つのことにおいてのみ可能となります。キリストの十字架により頼む以外に、わたしたちはいかにしても光の子となることはできません。

 ですから、あなたが光の子とされるというのは、あなたの何か良い行いや信心深さによって手に入れるものではなくて、神の恵みによって洗礼の水が注がれたあの時に既に与えられている決して消えることのない恵みの事実なのです。神が、イエス・キリストの十字架でわたしたちの罪を担ってくださり、死んで下さった、その罪の赦しの御業によってのみ人間は光の子とされることができたのです。キリストの十字架のみが私たちを暗闇の力から解き放って、自由にし、光の子、神の子としたのです。それ以外に、あなたを光の子とするいかなる手段も方法もありません。つまり、先ほどから申し上げているように、神の恵みだけがあなたを光の子とし、神の子としてくださったのです。

使徒ペトロは手紙の中にこのように言っています。ペトロの手紙二2章9節です。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(2ペト2:9)」あなたがたを暗闇の中から、驚くべき光の中へと招き入れてくださった方がおられるということです。だから、あなたは、神のものとなった。神の民となった。神に選ばれ、祭司、聖なる国民とされていると、そう語っているのです。
 光の子として歩みなさい。それは、ご自身のいのちを十字架に差し出して、罪人の罪をすべてその身に負い、罪人の死ではなく罪人の救いを望んで下さった神に愛によって裏打ちされた御言葉なのです。驚くべき光の中に招きいれてくださる方がおられる。神の救いが差し出され、あなたは神の救いの中に入れられている。さぁ、光の子として歩みなさいと、そう御言葉は告げているのです。
 この暗闇に閉ざされたと思える現代にあって、輝く光の子として勇気を出して歩みなさい、わたしがあなたを光の子とした。あなたを照らす。だから、さぁ恐れる事なく光の子として、光の子らしく歩んでいきなさい。そう御言葉は語っているのです。

さて、今日開かれている5章6節から20節までの箇所には、闇と光が対応されているように、それ以外にもそのような形で語られているものがあります。
15節には、愚かな者ではなく、賢い者として歩めと薦められています。
16節には悪い時代とあって、その後半同じ16節に良い時代ではなくて、主の御心ということが言われていますけれど、それには良い時代が対比するのではなくて、悪い時代にあって神の御心が対比している。これも非常に慰めに満ちた神のみ言葉であると思います。悪い時代にあって、それに神の御心が対している。悪い時代にあって、それに対するのは良い時代ではなく、神の御心と言うこと、神の御心がなされるということが対しているということが語られているわけです。
前後しますが、6節の冒頭には、「むなしい言葉」という表現がありますけれど、これに対応するのが何かと言いますと、少し間を空けまして、18節から19節ですけれど、「霊に満たされ、5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」この御言葉が対応しているわけです。虚しい言葉が、光の子としてくださる神の恵みが語られることによって、最後には、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって歌う者とされていくのです。
わたしたちの言葉が変えられていくのです。虚しい言葉。それは、その言葉の通り、人生を虚しくさせるような言葉でしょう。自分の人生に意味なんてない。どうせいいことなんてない。そういう非創造的な言葉がわたしたちの周囲には溢れています。パウロはそれを「実を結ばない暗闇の業」「口にするのも恥ずかしいこと」と言っています。
しかし、そういう現代にあって、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって歌う者とされていく、そういう神の恵みが与えられているのです。これは、神の光の中に移された者の新しい生き方でもあります。
 闇が光に変えられていく。愚かな者が賢い者に変えられていく。虚しい言葉が神への讃美、いのちの喜びを歌う歌へと変えられていく。そういう神の恵みが与えられているのです。この闇から光へと移された者の神への讃美の歌が、又、いのちの喜びを語る言葉が、わたしたちだけでなく、この暗い世界に光をもたらす、闇に光を照らすものとして用いられていくのです。

■祈りましょう
神よ。
光の子として歩め。光の子らしく歩め。そうわたしたちに語りかけてくださり、わたしたちを暗闇から光へと、ご自身の御子のいのちによって移してくださったその恵みを深く感謝いたします。どうか、この暗い現代にあって、キリストの光の子とされた明るさ、喜びのうちに歩むことを得させてください。
イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン



「受難節の歩み」

2008-02-07 23:58:17 | 主日以外の説教
「受難節の歩み ~十字架から復活の朝へ~」 

6日の水曜日は、「灰の水曜日」でした。この日から「受難節」(四旬節)がはじまりました。「受難節」とは、主イエス・キリストが十字架にかけられた聖金曜日、そして復活の主日(イースター)に向けての40日間の歩みです。
 古くから教会は復活祭の朝に洗礼式を行ってきました。この受難節は、いよいよ復活祭に洗礼を受ける者たちにとって最後の準備期間でした。受洗者が、キリストの復活にふさわしく与るための準備期間とも言えます。その意味では、既に洗礼を受けたすべてのキリスト者にとっても受難節は意味深い歩みなのです。自らの罪を悔い改め、罪の自分を十字架につけると共に、キリストの復活に共に与らせて頂くのです。
 騒がしい日常にあって私たちは、気がついたら受難週を迎え、イースターを迎えていたという事もしばしばです。しかしそういう日常にあるからこそ、一日にひとときでも十字架にすべてを差し出して、私たちを探し求めておられる主イエスの前に心を静めて祈る。主イエスの方へと丸ごと自分を向けてみる。そうして受難節の歩みを歩んでいきたいのです。
 受難節の開始にあたって朗読される福音書はマタイ4章1節以下です。主イエスが荒野で試みられた出来事が記されています。荒野とは人間の生きることの限界を示す場所です。そこでパンにすがるのか、パンを与えて下さる神にすがるのか、そのことが問われているのです。主イエスは「わたしはいのちのパンである」(ヨハネ6章)と仰せになりました。私たちは聖餐の度に、十字架に裂かれた主イエスのからだに与ります。小さなパンですが、これこそ私たちのいのちの糧なのです。私たちを真に生かし、天への旅路を導くのはこのいのちのパン、主イエスご自身なのです。私たちは、見えるパンがあるからではなく、このいのちのパンであるお方にすがるからこそ、平安のうちに地上の旅路を歩むことができるのです。




説教「忍耐される神」Ⅱペト3:8-18

2008-01-19 16:46:10 | 主日以外の説教
ペトロの手紙Ⅱ.3章8節~18節 讃美歌 242. 170.

先ほど讃美いたしました、讃美歌242番にはこのようにありました。
「悩む者よ、我に来よと、恵みの主は招きたもう。光の主、救いの主は招きたもう。主のみもとに来たり憩え。」
私たちを招いて下さる主がおられるという讃美を歌ったのです。
今日開かれています神のみ言葉は、9節に、主は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」とありました。一人も滅びることなく、救いに与ることができるようにと、忍耐し待ちたもう神がおられるというのです。

しかし、わたしたちを忍耐し、待ちたもう神がおられるということは、残念なことではありますけれど、神とかけ離れたところに、わたしたちがいるということでもあります。聖書は、それが人間の罪の姿であるといいます。

聖書が語る人間の姿。聖書が語る人間の罪とは一体なんでしょうか。
それは、いなくなった一匹の羊のように、飼い主のもとを離れ、好き勝手な方向へと出てゆき、もはや帰る路すらわからなくなってさ迷っている、そういう迷える羊のような存在。また、神の前に罪を犯した人間は、失われた一枚の銀貨のように、持ち主のもとから失われ、自分で自分の持ち主を見出す力などとうていない、助けの声すらあげることができない、そういう存在であると聖書は語ります。
それに続く放蕩息子の譬も、父に背をむけて父のもとを去り、放蕩三昧する弟息子の姿を語ります。人間というのは、飼い主、持ち主、父である神のもとを離れて、好き勝手な方向へと向かっている。聖書が言う人間の罪の姿とは、神に背を向け、好き勝手な方向へと歩む、そしてもはや自分ではどうすることもできない絶望の中に叩き落されたかのようになっている。望みを見出すことができなくなっている。そういう存在であるといいます。ここに共通しているのは、神のもとを離れた存在であるということです。
そのような、神の前から失われてしまった所で、もはや先に進むことも、立ち上がることすらも出来ない私たちを、神はお見捨てにならなかったのです。
わたしたちを救うために独り子イエス・キリストを、この世にお遣わしになりました。そして、失われたものを必死で探し出して下さったのです。

神がわたしたちを招いておられるというのは、神が長く忍耐し、私たちの悔い改めを待っておられるというのは、あなたを誰にも変えられない尊い一人として、何をもってしても穴埋めすることのできない尊い一人として、あなたのいのちを肯定しておられるからに違いありません。あなたのいのちが失われてはならない。いのちがけであなたのいのちを肯定しておられる神の招き、それが語られているのであります。

神がわたしたちを長く忍耐し、悔い改めを待っておられるとは、言い換えますならば、確かにあなたの罪を赦し、あなたを救う方がおられるということでもあります。
そういう罪を赦す方、救い主である方が、わたしたちを待っておられるのです。ですから、わたしたちは絶望するのではなく、真心から悔い改めることができるのであり、罪を背負ってなお、苦しみ、痛みを背負ってなお、ゆるしと憐れみに豊かな父である神の前に出て行くことができるのです。
神の招きに応えて、いとながく待っておられる神のみ前に進んで行きたいのです。

救い主である神は、私たちの救いを完成するため、再び来られる。キリストの再臨を、今日のみ言葉は語っています。教会は、2000年前に十字架にかかり救いのみ業をなして下さった主イエスが、約束の通り、再びわたしたちを迎えに来て下さることを信じ告白して歩んできました。
しかし、主の再臨は今日も主の民に待ち望まれているのです。今日の聖書のみ言葉が記された時代にも、主はいつ来られるのか、いつまで私たちは待つのかといった、再臨がなかなか来ないということについての思いが教会の中にあったのです。
しかし、ペトロは、いやそうではないんだ。再臨がいまだないということは、一人も滅びることのないように、神が人間の悔い改めを待ってくださっている。そういう恵みの時なのだというのです。だから、真心から悔い改めて、神に帰ろうと語るのです。

この神は、ただ時が過ぎるのを黙って待っておられるのではありません。人間の罪はあまりに重く、わたしたちの負う重荷もまた、あまりに重くあります。もはや自分でそれを到底負い切れない、生きることの限界すら覚える人間を救うために、時至って独り子イエス・キリストを世に遣わし、十字架に私たちの贖いとし、いまなお聖霊によって救いのみ業をわたしたちの内に確かになしたもうお方なのです。

神は、わたしたちの救いのための一切をなして下さいました。そのようにして、神はわたしたちを待っておられるのです。悔い改めるとは、背中を向けていた神の方へと、丸ごと自分を向けること。いのちの源である神のほうへと、丸ごと方向転換することであります。
その時はじめて、わたしたちは本当にいのちの喜びに溢れて生きる事ができるのです。そのように神が招いておられるのです。

その主は、やがてわたしたちを迎えに再び来られると聖書は語ります。神は、なんと言う慰めに満ちた御言葉を私たちに語っておられるのでしょうか。

私たちは荒涼とした世界に生きています。命が失われ、生きる気力が奪われたかのような現代にあって、皆それぞれに、必死で生きているのが現実ではないでしょうか。
しかし、そういう現実にあって、命を与えようと待っておられる神がおられる。一人も滅びることのなく、生きるようにと招いておられる神がおられる。教会は、その福音。神の救いを語っているのです。私たちの悔い改めを忍耐し、私たちの帰りを待っておられる、主のみもとへと、共に進んで参りましょう。

■祈りましょう。
 いのちの源である神よ。
 あなたは造られたものの、一人も滅びないで、皆が悔い改めるようにと、長く忍耐しておられると聞きました。どうか、わたしたちが、招きたもう主に応えて、あなたのみ前に出てゆくことができますように。
 慈しみ深い神よ、わたしたちの愛する人々、ことに、生きる事に困難を覚える者、病の床にあってこころ沈める者、愛するものを失った悲しみの中にある者に、側近く居てください。また、様々な痛みや悲しみの中で、希望を失おうとしている人々に目をとめて下さい。
 どうか慈愛のみ手を伸べて、この世の現実の中から、主を仰ぎ見る力を与え、
その悩み、苦しみ、すべてが相働いて益となるように導いて下さい。
どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせて下さるように。
私たちの主、イエス・キリストによってお捧げ致します。 アーメン

説教「永遠の福音」黙14:6-7

2008-01-15 18:20:31 | 主日以外の説教
「永遠の福音」

ヨハネの黙示録14章6節には、天使は地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、『永遠の福音』を携えて来たとあります。そして大声で告げるのです。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。」神からの声は黙していないのです。神の使いの声『永遠の福音』は、くまなく全世界に響き渡るのです。
その福音の内容とは何でしょうか。御言葉は「神の裁きの時が来たからである」と言います。福音は一方で裁きのメッセージでもあります。何が裁かれるのでしょうか。
当時の教会は激しい迫害の中にありました。神の民は苦しんでいるのです。ローマ皇帝は、皇帝をこそ礼拝しろと強要するのです。皇帝こそ礼拝されるべきであるというのです。そしてこの皇帝礼拝を拒んだキリスト者たちを激しく迫害したのです。神の裁きとは、心から神を礼拝するキリスト者たち、苦しんでいるキリスト者たちをただしく裁いて下さる裁きなのです。神の裁きとは、非常に恐ろしく思われるかもしれません。しかし、この裁き主は、私たちのために命をも差し出して下さった救い主でもあるのです。
 キリストの裁きとは、私たちをビクビク脅えさせて、神に従わせようとするものではありません。神は義しい裁きを行って、私たちを脅かす闇の力、悪の力から、私たちを全く解き放って下さるのです。ですから裁きは私たちの福音となるのです。それと同時に、私たちの生き方が問われているのです。
 天使のみ告げは、更にこのように続きます。「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」皇帝ではない、つまりこの世のものではなく、創造主であり、真の神である方をこそ礼拝するようにと招いているのです。すべての造られたものが、神への礼拝へと招かれているのです。

説教「涙の拭われるとき」Ⅱテサ1:1-12

2007-12-15 16:45:50 | 主日以外の説教
■聖書:Ⅱテサロニケ1:1-12■讃:171/290
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。1:3 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。1:4 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。1:5 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。1:6 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、1:7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。1:8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。1:9 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。1:10 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
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今年初めてのクリスマスカードが届きました。誰も、大切な方から手紙を頂くと嬉しいものです。
今日開かれていますテサロニケの信徒への手紙は、イエス・キリストに結ばれたテサロニケの教会へと宛てられた手紙です。しかし、この手紙はまた、いまここにある私たちの教会にあてられた手紙でもあるわけです。わたしたちは聖書に記された手紙を、2000年近く前の古文書のようにして読んでいるのではありません。今日、ここに生きているわたし達に宛てられた手紙、主のみ言葉として、今ここに開いているのです。

さて、テサロニケの教会はどのような教会だったのでしょうか?3節にこのようにあります。「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」
ところが、そういう神の恵みの中にある教会が、4節。
「あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。」というのです。神の恵みの中に生かされているはずの教会が、ありとあらゆる迫害と苦難の中にいるというのです。手紙を受け取った教会は、キリスト者は、苦しんでいるというのです。

■私たちの苦しみ
信仰が成長し、愛が豊かにされていた。そういう恵みの中に入れられたはずの教会が、キリスト者たちが、迫害され、苦しんでいるのです。いまわたし達の生活のすぐ側には、このテサロニケの教会が迫害されたような、信仰のために命をも脅かされる、そういった苦しみはないかもしれません。しかし、人それぞれに、とても簡単には言い切れない悲しみや痛みがあります。涙を流し、助けを求めて叫んでいる人々がいる。ほかならない神の民がそういう痛みの中にいるというのです。

今年6月、一年の闘病生活の末に親しい人を天に送りました。その前夜式、聖歌隊の歌った故人愛唱歌は讃美歌106番。「荒野の果てに」でした。前夜式では異例のことですが、どうしてもとの希望でこのクリスマスの讃美歌が歌われました。
「荒野の果てに、夕日は落ちて、たえなるしらべ、あめより響く。」この方は、奥様と高校生の子供2人を残して御許に召されました。遺された者にしてみれば、まさに荒野の果てに夕日が落ちた。自分たちの大切な暖かい団欒が崩れ落ちた、そういう痛みであります。荒野の果てに夕日が落ちるような経験をするわけです。ところが、讃美の歌はそれで終わらないのです。そこで、天から響く声を聞いた。「グローリア!!」「神に栄光あれ!!」わたしたちは、あまりに辛い出来事のゆえに、もう自分の光はどこにもないのではないか、まさに荒野の果てに夕日が落ちてしまったかのような気持ちに沈むとき、そこに暗闇を突き破って響く天からの声がある。「神に栄光あれ!!」そして、神の憐れみをうけた地の民に、ほかならないあなたに平安があるように。
愛するものを失うことだけではありません。とても人には理解してもらえないと思うような、痛みや苦しみの只中で、私たちは自分たちのすがっていたものが見事に崩れていくことを知ります。しかしそこではじめて見えるものがあるのです。それは主イエスのみ姿です。苦しみの中で、わたしたちはこのお方にすがるしかない。この方に信頼するしか立ち上がることができない、そういうお方に出会うのです。
 わたしたちの人生の光が落ちたと思える所で、天から響くなぐさめの声があるのです。

テサロニケの手紙は、様々な苦しみの中にある者に、慰めの御言葉を語っています。安息を与え、報いを与えるために主イエスが来られるというのです。再び来られる主イエスがお与えになる安息、慰めとは何でしょうか。

■神は裁いて下さる。
ところが、その先を読んでいきますと、厳しい裁きの言葉が続けて記されています。
1:8 主イエスは来られ、神を認めない者や、福音に聞き従わない者を罰し、彼らは、主の前から退けられ、切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受ける。
主イエスが来られるとは、私たちの「救いの時」であると同時に「裁きの時」でもあります。神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます。きょうの聖書の箇所では、この「裁き」が語られています。しかし、本当の慰め、本当の休息は、この裁きなくしてはありえないのです。神は、わたしたちに全き慰めを与えるために、裁きを行われるのです。テサロニケの教会は、そしてここに集うキリスト者たちは、ほかならない私たちは、御子イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、救われた者であります。神が、神を認めない者や、福音に聞き従わない者をまったく滅ぼされるというのは、わたしたちを苦しめている一切のものから、私たちを完全に解き放って下さるということであります。
けれども、このような裁きのみ言葉を聞きますと私たちは怖くなるのではないでしょうか。やはりわたしたちの内には罪があります、神の前に相応しくない者であったわけです。ですから、自分の姿を見ますと怖くなるのです。しかし手紙は、11節。「 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとして」くださるように。神があなたを相応しいものとして下さるように祈っていると言うのです。
手紙は、わたしたちを脅そうとしているのではなくて、痛み傷ついた教会を、わたしたちを癒そうと、励まそうとしているのです。元気付けようとしているのです。

主イエスを待つとは、恐れ不安に脅えて待つのではありません。この裁き主、主イエスは、自ら私たちの裁きを身に負って、わたしたちを贖って下さった救い主でもあるのです。罪と絶望の中にあった私たちを愛して、ベツレヘムの馬小屋に生まれ、わたしたちの罪、裁かれるべきわたしたちの裁きを身に負って十字架に死なれ、ただ滅びに向かうしかなかった者に、ほかならない私たちに、永遠の命の希望を与えて下さった。この主イエスが、再び来られ救いを完成して下さるのです。ですから、神の愛と救いの喜びに包まれた待望の時として、わたしたちは主イエスがふたたび来られるのを、まことの裁きをなし、救いを完成して下さることを待ち望んでいるのです。ここにわたしたちの慰めがあるからです。と同時に、わたしたちは神の裁きの前に生き方を問われているのです。

聖書は主イエスが来られるといいます。わたしたちは御言葉を信じて待つのです。そういう恵みへと主が私たちを招いて下さっているのです。
ベツレヘムに私たちの主がお生まれになったように、また主イエスは再び私たちのもとに来て下さる。そして全き平安と休息を下さるのです。苦しむテサロニケの教会の涙、地上を生きる私たちの涙を、主がぬぐって下さるのです。

そのとき、12節。
1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
という御言葉が、わたしたちの上に現実のものとなるのです。
神は独り子を賜うほどに、私たちを愛し、死から命へ、絶望から希望へ、十字架から復活へと導きのぼって下さる。わたしたちは、この愛の御手にすべてをゆだねて、再び来たりたもう主イエスを心待ちに歩んでいくのです。

「わたしのもとに来させなさい」マルコ10:13-16

2007-11-30 21:57:24 | 主日以外の説教
「わたしのもとに来させなさい」マルコ10:13-16

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
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 主イエスが子供達を腕に抱いて祝福しておられる。今朝開かれております福音書の箇所は、まことに美しい情景を描き出しております、またそれゆえに沢山のキリスト教絵画の題材にもなってきました。
 この朝、私たちに与えられた神の御言葉に共に聞きたいと思います。
マルコによる福音書10章13節 新約聖書の81頁です。
10:13 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」

 人々は、自分の子供達を主イエスに祝福していただこうと、主イエスに触れて頂くために、み側に連れてまいりました。主イエスがおられた当時のユダヤでは、子供達を礼拝所に連れて行って、祝福をしてもらうという習慣があったようです。ですから、この日もまた、主イエスに触って頂けば、子供達が祝福されると単純に考えて、人々は子供達を、み側に連れてきたと言えますでしょう。

 ところが福音書の御言葉は、「弟子達はこの人々を叱った」と伝えております。弟子達は、主イエスのみ側に来ようとする幼子達をさえぎろうとします。主イエスのお側に子供が来ては煩わしいと思ったのです。弟子達なりに、主イエスのもとに行くものの姿はこうあるべきだと考えていたのであります。
その時、主イエスは14節。
10:14 これを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と仰せになります。
 主イエスはこれを憤られたと、非常に強い言葉が用いられています。
弟子達は、彼らなりの見方で主イエスのもとに子供達が来ては煩わしいと思ったのでした。ところが、当の弟子達は、彼らが主の前に相応しかったから主イエスに召し出され、主イエスの弟子とされたのでしょうか。ここに集うわたしたちもまた、私たちが主イエスのみ側にいるに相応しかったから主イエスの救いに預かり、私たちが相応しかったから主の召しに与ったのでしょうか。この日、主イエスのもとに集った弟子達もまた、欠けだらけの存在でした。
 主イエスのもとに招かれ、迎えられているというのは、私たちの相応しさの問題ではありません。私たちが相応しくないにもかかわらず、主イエスが私たちのもとに来られ、またこの私たちを神の国へと招いておられるのであります。
主の前に出るものの相応しさを問おうとした弟子達、一方で、主を求めた子供達とその子供達を連れてきた人々。ここには何と大きな差があることでしょうか。

 私たちを求めるキリスト。主イエスは、わたしたちの相応しさゆえに、わたしたちを救おうとしておられるのではありません。私たちの姿、にもかかわらず、救おうとなさるのです。
 その意味で、私たちは、この主イエスの前に、赦されるにまかせ、救われるにまかせるほかないのです。ところが、これこそ、神の前に出るものの姿なのです。イエスは人々からすれば、世間一般からすれば、到底相応しくないと思われる者、そういう者を救わんと世に来られたのであります。

 私たちは、幼子のようになりなさいと言われますと、なるほど、純真で
心が清められなければ神の国に入れない。さあ一生懸命精進して、神の国に相応しい者になろうと思い違いをしやすいのです。幼子のような純真さを持たなければならないと、また律法主義的な発想をしてしまうのです。しかし、今日の福音書の御言葉が語っているのは、そういうことではありません。
 聖書の記された時代にあって、現代のわれわれが考えるように、子供を理想化して見るそのような見方はありませんでした。子供たちは、その資格においても、一人の個人として見られず、当然地位も権力もありません。この当時のユダヤ教の世界では、その人が律法を守っているかどうかが、人を判断する基準でありました。子供は律法を知らず、覚えておらず、守ることも出来ない。そうしますと、子供は神様のみ前で弱い存在、取るに足りない存在として扱われてきたわけです。神様の御前に誇ることが出来るものを何も持っていない存在、それが子供でありました。
つまり、「幼子のようになれ」と主イエスが仰せになるとき、現代の私たちが思うような罪汚れのない、純真で素直な子供の姿を思い描く時代ではありませんでした。先ほど申しましたように、主イエスが「幼子のようにならなければ」と仰せになるとき、それは、自らの力では一人前のことが出来ない、父に依存するしか生きるすべがない、そういう子供たちの姿を語っておられるのです。
 子供たちは何も持たない空手のままで、主イエスのもとに参ります。そして主イエスは、その子供達を喜んで迎えてくださる。そればかりが、子供達は主イエスの御手から良きものを受ける。神の国を受けるのです。上から与えられるものを、与えられるままに素直に受け入れる、そのことが語られているのです。

 この朝開かれています聖書の箇所に続いて、富める青年の話が記されています。この青年は、神の前に出る者の相応しさを問おうとしたわけです。「善い先生。どんな良いことすればよいでしょうか」つまり、自分の相応しさを求め、良い方ご自身を求めてはいなかったのです。ここにも、幼子と青年の大きな違いがあります。

15節にはこのようにあります。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
 自分でしようとするのではない、そうではなくて、神のなされるままに任せる、そういう子供の姿を主イエスは教えておられるのです。われわれ人間が神の国に入るに相応しい条件を作ることも、それに合格することも出来ません。
神の国は、神の側からわれわれに与えられる一方的な恵みの賜物そのものであります。

■新しいアダム
 聖書の一番初めに、創世記という書物があります。ここには、神に創造された最初の人物「アダム」という人が出て参ります。アダムは神に創造され、神の造られた主の恵みに満ちた園に生かされていました。ところが、神に食べるなと禁じられていた木から、その木の実を取って食べたことで眼が開かれ、自分が裸であることに気づくのです。アダムはその罪の結果、自分が裸であること、あらゆるものに不足していることに気がついたのです。そして神から逃げます。アダムは神の前に相応しくない姿であると思ったわけです。

 主イエスは、最後のアダム であると聖書は告げます。主イエスは、子としての生き方をわれわれに示されました。主イエスは、どこまでも天の父に信頼して生きたお方です。主イエスのご生涯は、全き天の御父への信頼によるご生涯であったと言えますでしょう。
 マルコ1章10節以下に主イエスの洗礼の記事があります。主イエスが、公生涯の初めにバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったとき、天からの声がこのように告げます。「あなたは私の愛する子。わたしのこころにかなうものである。」これこそ、主イエスのご生涯をあらわす言葉であります。今日開かれておりますマルコによる福音書は、「神の子」「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と一章一節を書き出しています。
 イエスの本当の姿が示された言葉、神の宣言であります。
 主イエスは、神の愛される子であった。主イエスは、世に遣わされ、この主イエスを通してまた、すべての人が自分も神に愛されている存在であり、神の子とされているのだと知る。天の父は、御子イエス・キリストのゆえに、今朝ここに集う私たちをも、子として招いて下さっているのです。
 この世の声は、「愛する子」と呼びたもうお方の声から、私たちを遠ざけようとします。しかし、わたしたちの存在は、このような私たちにもかかわらず愛し、無条件に愛し求めたもう神の熱愛によって求められ、探されている存在なのであります。

 15節にお目をお留め下さい。15節。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ここにあります「はっきり言っておく」とは、「アーメン。私は言う」そういう荘厳な言葉。宣言であります。子供のようにならなければ、つまり、自分で自分を守ろうとするのではなく、保護者である方に全く信頼して任せる、そういうものでなければ神の国を受けることはできないというのです。しかし、それこそまさに福音そのものなのであります。自らの相応しさに合格したものしか救われない、神の国に招かれないとしたならば、誰がその相応しさに適すると認められるでありましょうか。
 私たちは、自らの相応しさを求めようとすればするほど、自らの貧しさに気づきます。
 しかし、キリストは、そういうわれわれの救いのための一切をなして下さったのです。われわれは、この方に一切を信頼するほかないのです。

 主イエスは、わたしたちがまだ相応しくない時、まだ罪人であったときに十字架を負い、死んで下さり、わたしたちの贖いとなって下さったのです。
私たちが純真でも、心清くもない、そういう罪の中にあった時、神は独り子を世に遣わし、私たちに対する愛を示されたのです。

 子供とは先程申し上げましたように、神様のみ前に誇ることが何もない以上、ただ神様の恵みにすがるしかできない存在です。この恵みにすがるしかできない生き方のことを『子供のように神の国を受け入れる』とイエス様はおっしゃっているのです。
 神の国は、神の御前に何も誇ることが出来ない存在、他人から取るに足りない存在と思われている人たちのものなのです。自分の力で何かをなすことが出来ないことを知り、神様にすがって生きていくものが神の国にはいることが出来る。そう言った人たちこそ、一方的な神様の賜物である救いを与えられると御言葉は語るのです。
 ここに集う私たちもまた、主イエスのみ前に連れてこられた、主イエスのもとに集いきた者の一人であります。御子イエス・キリストを世に賜い、その死と復活とによって私たちを神の子としたもう天の父は、御許に集う幼子にすぎない私たちを、腕に抱き、ねんごろに祝福を下さる。神の国の豊かな恵みを下さるのです。
主イエスは今日もまた、神の国へと人々を招いておられるのです。

「主の祈り」マタイ6:9-13

2007-07-28 19:54:55 | 主日以外の説教
6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
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 クリスチャンの歩みは祈りと切り離すことができません。主イエスは、弟子達に祈りを教えられました。それが今日の福音書の箇所にある『主の祈り』です。カトリック教会も、プロテスタント教会も、東方教会も、すべての教会が祈り続けてきた祈りです。一度祈ったらおしまいというような祈りではありません。繰り返し繰り返し、教会は祈り続けてきたのです。そして、皆さんは祈り続けてこられました。『主の祈り』を祈りつつ歩む歩み、それがまさにキリスト者の歩みなのです。
主の祈りは弟子達が考え出した祈りではありません。主イエスご自身が、このように祈ったらいいんだと教えて下さったのです。

 この主の祈りの中に、わたしたちの主の姿が見えてきます。わたしたちの父となり、御国を備え、日ごとの糧を与えて下さり、試みから守り、悪から救い出してくださる神がおられるのです。それと同時に、わたしたちの本当の必要が何であるか見えてくるのです。主の祈りを味わってみてください。これほどまで、私たちのこころ、私たちの必要をあらわした祈りがあるでしょうか。

 この祈りは決して空しく地に落ちることはありません。なぜなら、こう祈りなさいと言われた主イエスがおられる。そして、この祈りにあるとおり、天の父がおられるからなのです。
 私たちは、この主が下さった祈りを祈ることで、神様にどこまでも信頼するのです。わたしたちの天の父は、私たち一人一人を深く配慮し心にかけて下さるのです。同じマタイ6章にこのような御言葉があります。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」

『子よ』と、あなたのことを呼んで下さる天の父への信頼、それがキリスト者の祈りの根底にあるのです。キリストが父なる神にどこまでも信頼されたようにです。

祈りましょう。

天にまします 我らの父よ、
ねがわくは み名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは 限りなくなんじのものなればなり。アーメン。



「父ごころ」ルカ15:11-32放蕩息子

2007-03-16 13:45:23 | 主日以外の説教
「父心」ルカ15:1-3.11-32. (讃247.Ⅱ184.)

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
・・・15:11・・・「ある人に息子が二人いた。15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


神の愛がわたしたちの行為によってかすめられてはなりません。ここに示されているのは、弟が悔い改めたから神が心を動かされ、弟が帰ってきたから神が心を変えて迎えて下さったという話しではありません。

この15章で主イエスがなさった3つの例え話は同じことを指しています。いなくなった一匹の羊。失われた銀貨。それを見つけたのは羊飼い、持ち主、父であって、迷子の羊が羊飼いを見つけたのでも、銀貨が持ち主を見つけたのでもありません。帰ってくる放蕩息子を見つけたのは父であって、弟が父を見つけたのではありません。父がはるか彼方に息子の姿を見出し、走りよって迎えて下さる。弟が帰ってきたから父は両手を広げて迎えられたのでしょうか。息子が悔い改めたから父は救おうと思われたのでしょうか。まだ遠く離れているのに、父は息子を見つけます。たまたまその日、外を歩いていたら帰ってくる息子を見つけたというのではありません。息子がいなくなった日から、父の思いは絶えずこの父の大切な息子に向けられていたのです。

私たちは焦点の当て間違えをしてはいけません。ここに示されているのは、弟の改心、弟が父の家に向かって歩いた、それゆえに父である神が心を動かされたという話しではないのです。この弟。つまり、私たちの行いや私たちの思いが、父を感動させ、ついには私たちを救うのではないのです。いなくなった者を、命がけで求め続け、待ち続け、それでも愛したもう神の憐れみのゆえに、私たちは悔い改める恵み、「父よ」と呼ぶ恵みに与っている。御言葉が伝えているのは、弟の信仰の行為ではありません。父のいつくしみに目を注ぐということです。この例え話の中心人物は父であって放蕩息子ではないのです。ですから、ある聖書には「放蕩息子」ではなく「父の憐れみ」という題が付いているのです。

この弟の帰還の話に続いて兄が登場します。彼は弟の帰りを喜ばず、父のあまりに豊かな憐れみに思いを乱します。兄は弟とは違って「父」とは呼びません。また「弟」とも呼ばず、次々に弟の罪を並べ立てるのです。
主イエスは、この例え話で父の憐れみを示されたと同時に、それとは正反対の人間の罪を指摘されました。この、一見父のもとにいたと思える兄が、弟を見ている姿と同じように、人間は、自分は忠実に仕えていると思い込み、人の罪を指摘することに熱心になるのです。
この15章のはじめの部分には、「15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。」とあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスの話を聞こうとして集ってきた徴税人や罪人たちを、明らかに紛れもない罪人とみなして、関係することすらないようにと細心の注意を払ったのです。人間はこのファリサイ派や律法学者と同じように、また兄のように、人の罪を見ることに熱心で、父の憐れみに焦点が定まらない。罪人が改心しても、それを喜べない。世間から冷たい眼で見られ、社会の片隅に追いやられたような者、救いを求めてイエスのもとにやってきたその時に、人々は神ではなく人間を見る。それがここでイエスがこれらの例えを語られた直接の動機でありました。

自分は立派な行いをしていると思っていた人々。自分たちは罪を悔い改め、犠牲を捧げ、忠実に律法を守っていると自負してやまない彼らに、そうではないんだ、お前達は人間のことばかり見ているのではないかと言われる。私たちが神に対してなした行為が神をどうにかするのではないのです。いなくなったものを尋ね、失われた者のために命をも差し出して、痛むほどに愛したもう神の、ただこの憐れみのゆえにのみ私たちは救われるのです。一枚の銀貨は持ち主に探されない限りは、どのようにしても持ち主を見出すことが出来ない事を、よく示しています。
私たちはただ焦点を神に向ける、それさえも、帰っていく弟が先に父に見出されて迎えられたように、私たちが神を見つけるのではなく、神の憐れみによって私たちが見出され、迎えられ、悔い改めと新しいいのちに生きる恵みが与えられているのです。だからこそ、真実なる悔い改めをもって「父よ」と呼ぶことが出来るのです。