ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
・・・クリスマス説教はカテゴリからどうぞ・・・

クリスマスイブ礼拝説教

2009-12-24 13:44:48 | クリスマス説教
説教「栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人に」 
ルカによる福音書2章8~14節


 クリスマスイブの今日、わたしたちは御子イエス・キリストのご降誕を覚えて、ここに集まりました。
 クリスマスは、街中が美しく飾られて、暖かさやぬくもりといったものを感じさせるような季節です。けれども、過ぎ去ったこの一年を思い返すときに、明るいニュースもありましたけれど、新型インフルエンザの不安や、何より経済の問題はより深刻さを増し、また耳をふさぎたくなるような残虐な事件も少なからずありました。こうしたニュース、わたしたちの耳に入ってくるニュースは、とかくわたしたちを不安にさせる、また恐れを感じさせる、そういうものであることが多いのではないでしょうか。ニュースを見ていて、心がスッと晴れやかになるという人はあまりいないわけです。そればかりではなくて、わたしたちの毎日の日常の生活を見渡しても、喜びと共に痛みがあったり、不安があったり、また時に涙を流すことがありました。どこにいいことがあるんだ、そんなふうに思いそうになることがあるわけです。
 その一方で、一年が終わろうとするこの時期、クリスマスのきらびやかな飾りつけやオーナメント、デパートやチラシの広告を見ていますと、ぬくもりとか夢、暖かさや美しい愛を語りかけています。クリスマスは一夜限りの夢の世界を見せてくれているかのようにも感じます。クリスマスドリームとか、クリスマスラブという言葉が使われています。今の不安な影を落とした「現実」から少し離れて、暖かな気持ちになろう、楽しい気持ちになろう、それがクリスマスであるかのように思わせられるわけです。
 しかし今日わたしたちは、一晩限りのクリスマスドリームを喜び、楽しもうとしているわけではありません。

 今日わたしたちは、福音書の御言葉を通して、2000年前の世界で最初のクリスマスの出来事を聞きました。羊飼いたちは野宿をしながら羊の群の番をしていた。すると、天使が現れて告げるのです。「わたしは民全体に与えられる喜びを告げる」天使の告げる大きな喜び、この喜びがクリスマスの喜びです。
 この天使の告げるクリスマスの喜びとは一体どのような喜びなのでしょうか。それは民全体に与えられる喜びだといいます。民全体に与えられる、それは、楽しく暮らしている人だけの喜びではありません。満ち足りた生活をしているものだけの喜びでもないのです。楽しく満足いく生活をしている者のためだけの喜びではない、苦しんでいる者に与えられる、涙を流している者に与えられる喜び、不安に脅えている者、生きることに絶望した者にも、喜びなどどこにも見出せない、そういう深い痛みの中にある者にも与えられる喜び、そこに喜びがもたらされてこそ初めて、それが「民全体に与えられる喜び」だと、そのように言うことができるようになるのです。
 もし、そうでなければ、天使の告げる喜びは、聖書の語る喜びは民全体に与えられる喜びではなくなってしまうのです。この世の与えるある一部の人々の、あるいわゆる幸いな境遇にある人だけの喜びということになってしまうわけです。

 クリスマスの喜びは民全体に与えられる喜びだというのです。それは、この世が与える喜びのような「限界」を知りません。限界を超越した喜び、それが民全体、それはすべての者、ほかならない、ここにいるあなたに与えられる喜びなんだと天使は告げているのです。また、この喜びというのは、現在のどんな境遇にいる人々にとってもという広がりと共に、このわたしの生涯のいかなる日にもという拡がりを持っています。つまり、幸せに満ち足りた日にも、そうではない涙を流す日にも、先が見えない日にも、救いを見つけられないそんな日にも、生涯のすべての日、すべての時に、あなたを支える喜びだというのです。
 あなたに与えられる喜び、民全体を根底から支える喜び、その喜びとは一体どういう喜びでしょうか。

 それは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」という喜びです。これが天使の告げる喜びです。救い主の誕生、それがクリスマスの喜びなんだというのです。  
 どうして救い主の誕生がわたしたちの喜びなのでしょうか。なぜ、救い主がお生まれになったことが、わたしたちの喜びなのでしょうか。

 わたしたち人間は、救いを見出すことができなければ生きていくことは出来ません。救いがなければ、わたしたちは生きる力を喪失します。だから、わたしたちはどこかに救いを見出そうと、頑張るのです。しかしこの世の中のどこかに救いを見出そうと見回しても、見渡せば見渡すほどに、見つめれば見つめるほどに、わたしたちの周りには救いとはほど遠い、乾いた世界が広がっていることに気付かされるのではないでしょうか。それで、人間は自分自身の内側にその救いを見つけようとします。自分の内側に、何か価値のあること、取り柄にできることそれを見出し、それを救いとして生きていこうとします。
 しかし、わたしたちは本当に自分自身の内側に、わたしたちの救いを見出すことができるのでしょうか。自らを、自らの救い主として生きていくことができるでしょうか。自分という救い主は、あなたを救うことができるでしょうか。聖書は、それは出来ないんだというのです。救い主は来られる。救い主はお生まれになる。このわたしのもとに、不安を抱えたり、思い悩んだりしながら、時には涙を流したりして生きている、そんなわたしたちのために救い主がお生まれになる。それが、天使の告げるクリスマスの大きな喜びなのです。

 このクリスマスの喜びは、いわゆる楽しく幸いな歩みをしている人々が持っている喜びというよりも、喜びとはまったく程遠い痛みの中に、悲しみの中にあるものにとってこそ、更に大きな、真実な喜びである事に気付かされるのではないでしょうか。
 今年わたしは、わたしが神学生のときから、ずっとわたしのために祈り続けてきてくださった一人の高齢のご夫人を天に送りました。待降節を迎える前の週、終末主日の朝方のことでした。ご家族や身内の方がどなたもおられない姉妹の最後は、ひとりきりの病院のベッドでの生活でした。その方のご葬儀でこの姉妹の属しておられた教会の牧師がこのような説教をなさいました。
「この姉妹の生涯は、病との闘いの生涯でした。苦しいこと、涙を流すこと、人々からすれば不幸だとしか思えないような苦しみが、ずっとありました。
普通人間は、他の人が、苦しみの中でも勇気を持って生きようとしている、励んでいる、そういう姿を見て、さぁ自分も頑張ろうと思うのですけれど、この姉妹はそうではなかった。自分よりも苦しんでいる人を周りに見つけることが出来なかったというのです。 
 自分よりもつらい経験をしているであろう人をたやすく見つけることは出来なかった。だから、あの人も苦労して頑張っているんだから、わたしも頑張ろうというふうには思えなかったというのです。
 しかし、この姉妹は一人のお方に出会った。それは救い主イエス・キリストであったというのです。この救い主イエス・キリストが自分のために苦しんで下さっている。イエス・キリストが自分の苦しみを担ってくださっている、そのことを知ったときに、この姉妹は生きることができたんだというのです。この姉妹の生涯は決して豊かな幸せな生涯ではなかったかもしれないけれど、この姉妹にとって、イエス・キリストは本当に救い主だった。イエス・キリストは救い主であるということを誰よりも多く体験し、だれよりもその恵みを深く味わって生きてきた。」わずかな参列者を前にしての説教でした。
 苦しみのどん底で、救い主は本当にわたしの救い主なんだと実感した、体験した。イエス・キリストは救い主なんだ、そう、苦しみの中で気付かされ、そしてその救いをまさしく体験して生きてきたんだというのです。
 わたしは、本当にそうだと思いました。普通苦しみのどん底にあるときに、人間は救いとか、喜びとか、そういうものを見出せないものです。
 しかし、聖書の語る、天使の告げるクリスマスの喜びというのは、苦しみのどん底でこそ、なお一層に輝きを増して輝いている、そういう喜びです。御子キリストが、救い主が、十字架をも担ってくださった救い主であることを知るときに、わたしたちは深い慰めを頂くことができます。わたしたちの十字架の経験、それは出来ることなら避けたい、できることならないほうがいい、そういう経験です。そこに意味とか、価値とか、そういうものを見出すことはあまりに難しいのです。しかし、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった救い主イエス・キリストが、十字架を担ってくださった救い主であるという事実を知るときに、わたしたちの十字架の経験は虚しさから解放されます。わたしたちは、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったキリストに出会うとき、本当の喜び、慰めに満ちた喜びを知ることができます。

 すべての民にあたえられる喜び、それは、苦しみや不安を抱えた暗闇の中にある者にも与えられた喜びということです。涙を流したり、痛みを抱えて、それでも必死に生きている、そういう者に大きな慰めを与える喜び、それがクリスマスの喜びです。

 天使がこの救い主誕生の知らせを告げると、クリスマスの冷え切った夜空に天使たちの讃美の歌声が響きました。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」救い主がお生まれになった。それで、神に栄光があるようにと讃美をしているのです。

 「神に栄光あれ」と、天使はそう告げます。旧約聖書をみていきますと、意外に感じられるかもしれませんけれど、あの長い旧約聖書の中には、一度も「神に栄光あれ」という言い方は出てきません。主に栄光を帰せよとか、そういうのはありますけれど、神に栄光あれという言い方はしないわけです。
 クリスマス、イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋にお生まれになる、救い主が、あなたの救い主がお生まれになる、そのことによって初めて、わたしたちは「神に栄光あれ!」そのように真心から神様を讃美する者とされていくのです。教会の礼拝には、頌栄というのがありますけれど、あれは、神に栄光あれという天使たちの讃美を、わたしたちも声を合わせて歌っているわけです。神に栄光あれ、そのように神様を讃美しながら生きていくことができるのです。
 その時、この天使の讃美の後半の意味がさやかに示されていくのです。「地には平和、御心に適う人にあれ」この平和というのは、安らぎとか、穏やか、そういう深い慰めに満ちた言葉です。地の上には、そこに住む人々に平安があるように、安きがあるようにというのです。この平和というのは、救い主がお生まれになることによって与えられる平和です。ただ戦いがない平和な社会ということに尽きる話しではありません。
 「いと高きところに神に栄光があるように」、わたしたちが、天使たちとともに神様を讃美するとき、神様に礼拝を捧げるときに与えられる「平和」です。
一生懸命頑張って、自分の生き甲斐、自分の生きている意味、自分の存在価値や救いを見出そうとする人間がいるわけですけれど、そういう人間が、救い主に出会うことによって与えられる救い、平安があるんだというふうに天使は告げているのです。

 天使の告げる救い主、イエス・キリストに出会うときに、わたしたちはこの救い主イエス・キリストご自身の中にわたしの救いを与えられるのです。もう必死でわたしの救いを見つけようとしなくてよいのです。
 あなたの存在というのは、あなたのことをみつめ、愛し、いつくしんでくださる救い主であるイエス・キリストのゆえに、尊いものとされ、価値が、尊さが、見出されていることを知ることが出来るのです。だから、わたしたちは救い主を礼拝することによって、平安をいただくことができるのです。

 今日、全世界の教会が、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった主イエス・キリストのご降誕を祝って礼拝を捧げます。クリスマスの喜びとは何か、わたしたちを生かす本当の喜びとは何か、それを、教会は礼拝を通して世に証ししているのです。つまり、救い主を礼拝しながら生きていく、そこにわたしたちの喜びがあるんだ、と、全世界の教会は神様を礼拝することによって、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったキリストを礼拝することによって、世に証をしているのです。

 クリスマスの喜び、それは救い主イエス・キリストの前に自らの膝をかがめることによって与えられる喜びです。ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった幼子キリスト、この救い主を、わたしの救い主として生きていくとき、クリスマスは本当の喜びに満ちた日として、慰めに満ちた日として、わたしたちの心深くにいつまでも変わることのない喜びとなるのです。

◇祈りましょう
聖なる天の父よ
愛する独り子をわたしたちの救いのためにお与えになり、信じるすべての者に、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。あないの深い愛を感謝いたします。
どうか、御子のご降誕が、わたしたちだけでなく、わたしたちの周囲にあるすべての人々にも、本当の喜びまた慰めとなることができますように。
わたしたちの主、イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン





クリスマス説教「クリスマスの王様」マタイ2:1-12

2007-12-13 23:11:22 | クリスマス説教
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
イザヤ書9章に記された、救い主の誕生の預言はこのように語ります。
ユダヤの民も、東の博士達も、暗闇の中に暮らしていました。夜の闇のように暗い、不安や恐れという闇の中に生きていたのです。今を生きるわたしたちも同じかもしれません。しかし時代を経た今、なお一層、暗闇は深くなっているのかもしれません。
クリスマス。街中が美しいイルミネーションで輝いています。ショーウィンドーは美しく飾られて、寒い暗い冬の夜を暖かく見せています。私たちは光がほしいのです。寒く冷え切った身体を温めてくれる光だけではなくて、私たちの冷え切った心を暖めてくれる光がほしいのです。先の見えない道を照らす光がほしいのです。

私たちの求めている光、私たちを照らす光とは何でしょうか。
その光とは、安定した生活が送れることでしょうか。決して病気をしない健康な身体でしょうか。自分の地位が脅かされない安心感でしょうか。願い事が何でも叶う達成感でしょうか。そういったものが、わたしたちの本当の光となることができるのでしょうか。
人間の願望、人間の欲望は尽きることがありません。欲しいものが、叶って欲しい願い事が、いくらでもあるのです。

今日の福音書を見ますと、ヘロデと言うユダヤを支配していた王が出てきます。
ヘロデには立派な王宮も、美しい飾りも、美味しい食事も、家来も、言うなれば金も富もすべてがあった訳です。ところが、ヘロデは不安なのです。立派な王宮の窓から見渡せば、見渡す限り自分の領土。あらゆるものを持ってみたけれど、それでもヘロデは恐れるのです。怖いのです。

ヘロデは自分が王でありつづけることに必死なのです。ヘロデは自分の力で、必死で今の地位を築いてきた人です。自分こそ人生の主だと思っているのです。そして自分こそ人生の王であり続けたいと思っているのです。一方の民衆もそうです。人間は誰しも、自分の人生は自分のものだ。自分の人生の主は自分だと思っているのです。
ですから、博士達からきいた救い主、新しい王の誕生に脅えます。新しい王が生まれる?! そう簡単に私の人生など渡すものかと必死なのです。
ヘロデは新しい王の誕生の知らせを聞いて不快になったのです。自分を脅かすものならば、二歳以下の幼子さえ皆殺しにする。ヘロデも、エルサレムの人々も、いまのままで十分、好き勝手できるいまが一番と思っていた。新しい王などこのわたしの人生に必要などないと思っているのです。

先ほど歌いました讃美歌に、三人の博士が出て参りました。東の国の博士達は、救い主の誕生の知らせを聞いて旅立つのです。一つの星に導かれて、歩き出します。彼らは全てを置いて旅立ったのです。
一つの星に導かれた博士達は、長い旅の果てに、大きな光を目の当たりにします。博士達が見た大きな光。それは、飼い葉おけに眠る無力な幼子イエスでした。そして、この主イエスの前にひざまずくこと。主イエスを礼拝すること、ここに大きな光を見つけたのです。聖書は、博士達は喜びに溢れたというのです。
博士達は、主イエスのまえにひざまずくことによって、主イエスを自らの王として礼拝することによって、つまり、自分自身を主イエスの前にまるごと差し出したことによって、本当の喜び、消えることのない光を頂いたのです。
博士も、言ってみるなれば、この世において祝福された人生を歩んでいた人たちです。学識があり、立派な家があり、家来達がいて、不自由なく暮らしていたわけです。伝説ではこの3人の博士は東の国の三人の王様だったと言う話があります。いずれにしても、家族に、富に、持ち物に恵まれた人々です。しかし、博士達はそれを置いて旅立った。そして、それで良かった。それにもかえられないと思うほどの方に出会ったのです。博士は、聖書が「喜びに溢れた」と言うほどの主イエスとの出会いをしたのです。それがクリスマスの喜びです。

博士達は恵まれた日常を一度すべておいて、主イエスの前に出た。そして礼拝をするのです。その時、本当の光に出会った。本当の喜びを知ったのです。神様なんていなくても今日の幸せがあれば満足だと思って、必死で富をかき集め、地位ある王位に上り詰め、そして必死で権力の座を死守するヘロデ。あらゆるものを持っていましたがなお、不安と恐れで一杯なのです。博士とヘロデの間になんと大きな隔たりがあるでしょうか。

蝋燭は自らでは輝くことができません。誰かに光を灯されてはじめて輝くことが出来るのです。わたしたちの喜び、平安、そして人生の旅路の光は、主イエスに灯されて、主イエスから光を頂いてこそ輝くことが出来るものなのです。三人の博士達はその光が、まさにこの飼い葉桶に眠っておられる幼子主イエスであることを知ったのです。そして、そこから再び日常へと出て行ったのです。自分の王であるお方の前に、すべてをおいて礼拝するのです。
そこにわたしたちを照らす本当の光があるからです。そしてもはや来た道とは違う、別の道を通って帰っていく。いままでとは違う、主が示された道を旅するのです。今までとは別の道を備えられて、旅を続けるのです。地上の日常に戻っていくのです。この主イエスに出会って初めて、幼子イエス様を礼拝して初めて、博士達は本当の光を知ったのです。本当の平安を知ったのです。

クリスマスのこの時、わたしたちは自らの姿を静かにかえりみてみたいのです。ヘロデのように、この世のいろいろなもので着飾っている自分の飾りを、一つ一つ取り除いてみたいのです。そうしますと、そこに見えてくるのは傷だらけの自分の姿かもしれません。罪深い自分の姿かもしれません。しかし恐れないでよいのです。なぜなら、その汚く貧しいベツレヘムの馬小屋のような所にこそ、主イエスはお生まれ下さったのです。博士の3つめの贈り物は「没薬」です。先ほどの讃美歌にこうありました。「わが持ち来たれる、没薬ささげて、み苦しみの日に備えまつらん」生まれたばかりの幼子、主イエスは、私たちの罪のため、十字架の上に死なれるために、私たちの罪の身代わりとなるために、私たちの傷を癒すために、お生まれになったのです。神は、わたしたちを愛して下さいました。私たちはこの方にすべてを委ねて良いのです。自分の罪も、負いきれない重荷も、あなたのためにお生まれになった、十字架へと向かわれた幼子イエスに、すべて委ねてよいのです。主イエスは、私たちの罪を身代わりに死に、わたしたちの絶望を希望に変えて下さいました。暗闇に光を下さったのです。クリスマスの光は、私たちをキラキラと飾るアクセサリーのような光ではありません。私たちの奥底から、私たちの存在を根底から照らしあげるような、力強い決して消えることのない神からの光が輝くのです。
わたしたちの人生の光は、この飼い葉おけ、ベツレヘムの貧しい馬小屋の幼子、主イエスにこそ輝いているのです。聖書は、この方こそ王の王、主の主であると告げているのです。いま私たちも、博士達とともに幼子イエスの前にひざをかがめて、「あなたこそキリスト。わたしの救い主です。」と礼拝を捧げたいのです。

祈りましょう。
主イエス様。あなたは私たちの救いのためにベツレヘムの馬小屋にお生まれになりました。そして、暗闇に閉ざされた世界に大きく輝く光を下さいました。どうか主よ、あなたの光を御前にひざまずく私たちの心に輝かせて下さい。そして、恐れることなくあなたの光に照らされてこの地上の旅路を歩んでいくことが出来ますように。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

待降節説教「マリアの召命」

2007-12-05 11:32:20 | クリスマス説教
■讃94/95
■聖書 ルカによる福音書1章26~38節
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。1:37 神にできないことは何一つない。」1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 待降節を迎えました。何となく慌しい季節、気がつくとクリスマスを迎え、年末を迎えていたというような12月ではありますけれど、忙しさ、慌しさの中にあっても、「待つ」ということを忘れずにいたいのです。イルミネーションやオーナメントで飾るだけのクリスマスではなくて、私たちの心を飾っているものを一つ一つ取り除いてみる。私たちを着飾っているものを一つ一つ取り除いてみる。そうして、主の前に、自分自身の姿を省みてみたいのです。そのとき、そこに見えるのは誰にも見せたことのない、ベツレヘムの馬小屋のような汚く貧しい自分の姿かもしれません。しかしそのとき、本当にこの私のために、主のご降誕が必要なんだと思い知らされるのです。
 慌しさの中に生きているからこそ、また、クリスマスの行事やプログラムが盛りだくさんだからこそ、心静かに主の前で心を備える、そういう時を大切にしたいと思うのです。イスラエルの民が主の降誕を長い間待ち望んだように、私たちも祈りのうちに待降節の歩みを歩んでいきたいと思うのです。

 今朝開かれています福音書のみ言葉は、受胎告知の箇所です。
マリアは天使のみ告げを聞きます。「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられる。」「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。」マリアは言います。「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに。」
 ナザレの貧しい処女マリア。そのマリアが、ある日、思いもかけない声を聞いたのです。「あなたは身ごもって男の子を産む」。 「どうしてそのようなことがありえましょう」とはマリアの心情そのままの言葉であります。マリアは納得がいかないのです。おじまどう訳です。

 この聖書の箇所は受胎告知と言われていますけれども、言い換えますならば、「マリアの召命」と言うこともできます。マリアが召された。ナザレの貧しい処女、マリアが、突如として主に召しだされたということであります。しかも、神の子を身ごもると言うのです。

 今朝私たちは、マリアがどのようにこの主の召しに応えたかということに心を向けたいのです。マリアは確かにおじまどいます。納得がいかないのです。そうです。起きているのは納得がいくような出来事ではないのです。まさに、納得などいくはずのないことがここに起きているのです。それが召し出しということです。召し出されるとりえなど全くない罪人の私たちが、神の召しを聞いた。ですから、ありえないことが起こっているのです。
 マリアにしてみれば、言うなれば絶望的な事態がおこったわけです。まだ未婚のマリアが神の子をみごもるというのです。ところが、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉の通り、この身になりますように」と言います。「お言葉通りこの身になりますように」どうしてマリアは、この召しを受け取ることができたのでしょうか。マリアの決心がついたからでしょうか。それとも、どうにでもなれと諦めたからでしょうか。どちらとも違います。

「お言葉の通りなりますように。」マリアはそのお言葉。神のみ言葉に信頼したのです。マリアは思いがけない召しの言葉に、恐れ、おじまどいます。マリアはあまりに重い召しを受けたわけです。ルカ5章を見ますと、ペトロの召命の記事が記されています。ペトロは主の召し出しの前に「私は罪人です」と叫びます。主の前に立つときに気づいたのは、ほかならないこの私が、罪人だったということであります。
 私たちも同じです。主が私たちを召されたというのは、あまりにおそれ多い、重い出来事であります。あまりに自分が無力で、私の内には到底この召しに応える力などないことを思い知らされるのです。しかし、あまりに相応しくないからこそ、もはや私たちは神にすがるほかないのです。

 恐れ、不安に満ちた私たちの心、思い乱れた心に、主のみ声が響きます。
「主があなたと共におられる」「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む」「神には出来ないことは何一つない」マリアは自分の力。自分の足元を見て納得がいったから主の召しを受け入れたのではないのです。納得など到底いかない出来事。まさにマリアが全身全霊で御子イエスを身ごもる。そういう事態の中で、それでも「主があなたと共におられる」「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む」「神には出来ないことは何一つない」そう言われる、神のみ言葉に信頼したのです。

 マリアは、主の召し出しの前にあって、もはや自分の貧しさ、みすぼらしさ、足りなさを思い煩うのではなく、神のみ言葉に信頼したのです。わたしたちもまた、この神のみ言葉に信頼して主の召しだしに応えていくのです。それが、マリアの召命の出来事です。

 しかし、そこにこそ恵みがあらわになるのです。ここで明らかになるのは、マリアの立派さ、つまり召された者がほめられることではなくて、神がそういう何の相応しさもない罪びとの我々を選び、憐れんで用いたもう神の恵みそのものであります。
 み使いは告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この「おめでとう」とは「喜びなさい、マリア」そういう言葉であります。おめでとう。喜びなさい。主があなたを召して下さった。恐れなくていい。あなたは神から恵みを頂いた。私たちの貧しさ、にもかかわらず、神があなたを召しておられる。ただほめたたえられるのは、この神のみなのです。
 私の生きているのは、私が召されたのは、ただ神の恵みによる。わたしは神をたたえるほかない。数に足らぬ私をも、主はお見捨てにならなかった。そのことであります。
 待降節の歩みにあって、わたしたちもまた、「お言葉通りこの身になりますように」、そのような心を整えたいと思うのです。

■祈り
 主なる神よ、自らの姿を見れば、小さく、貧しいものであり、悩みと迷いとのうちにある、弱い私たちを助け支えてください。どうか主の全き愛、神のみ言葉にすべてをゆだね、あなたの召しに応える者とならせて下さい。私たちの主。イエス・キリストによってお祈り致します。アーメン


東京神学大学・礼拝説教2007/12/05.Wed.


「降誕」ルカ2:1-20(クリスマス説教)

2006-12-16 05:33:56 | クリスマス説教
【聖書箇所 ■旧約聖書イザヤ書8:23-9:6 ■新約聖書ルカによる福音書2:1-20】

「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」今日の御言葉はそのように主の降誕の記事を始めています。ローマの皇帝アウグストは、100年にもわたる争いを終わらせます。人々は彼によってもたらされた平和を喜び、その業を称えて、皇帝こそが「全世界の救い主」だとあがめます。しかし、そういう皇帝アウグストこそ主であると思っていた人々に、アウグストの与えた平和こそ、まことの平和だと思っていた人々に、いや違うと叫ぶかのように、天使は告げます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」「この方こそ」、キリストこそ主である。

皇帝アウグストの力とは何でしょうか。それは、わたしたちの理解できる価値観、わたしたちの納得できる現実味のある平安です。私たちは、自分で何とか出来ると思っている。人々がローマ皇帝の力を喜んだように、もし自分では無理だとしても、この世の手段や方法によっていくらでも何とかなると思う。しかしそういう人間に、そうではないんだと聖書は言います。
夜の闇は、人間がどんなに明るいライトをもってきて照らしたとしても、必ずやってくるように、人間がどうにかしようと思っても、何ともすることが出来なかった闇、それが私たちの内側深くにある闇の姿です。
私たちはアウグストの平和、この世の力や権力、何より手近な自分の力や努力がすべてだと思っていた。ところが、私たちがそれらすべてを用いてみても、どうしても追い払うことの出来なかった闇、どうしても抜け出すことの出来なかった死の影の地があった。しかしその只中にある私たちの為に救いの御手がのばされた。
闇の中を歩む民、死の影の地に住む者の上に光が輝いた。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」この、小さく、弱く、何の力もないと思われる飼い葉桶の御子が私たちへの「しるし」とされました。自分ではどうすることもできない闇がある。しかし飼い葉桶の主イエスを見るとき、すべてを差し出して眠る御子イエスは、すべてを委ねることを私たちに示しておられます。御父に信頼するしか方法がない。無力さの中でなお神に信頼する。そこにこそ本当の平安があるんだということを示しているのです。
私たちはこの世界に生きている。それは変わらない事実です。ベツレヘムの飼い葉桶は私たちの置かれている状況そのものかもしれません。しかし、このクリスマスの御言葉のどこにも、一言すらそれを嘆き悲しむ言葉は語られません。それどころか、貧しいベツレヘムの馬小屋には天からの平安と主の栄光が輝いているのです。

私たちはクリスマスのこの時、自らを省みます。その時に見えてくるものは、今日読まれた預言者イザヤの書のように、逃れるすべのない私たちの現実かもしれません。または、皇帝アウグストの力、この世の力にすがりきった自分の姿かもしれません。
しかし「闇の中を歩む民は大いなる光を見た。死の影の地に住む者の上に光が輝いた。」主がそういう私たちをお見捨てにならなかった。私たちを見捨てないばかりか、ご自身の独り子イエス・キリストを見捨て、十字架にわたしたちの罪の贖いとするために、クリスマス、ベツレヘムの飼い葉桶に主イエスは眠っておられる。
クリスマス。それは私たちを美しく飾りつけて迎えるのではありません。私たちを装っているものを一つ一つ取り去っていく。本当の自分の姿を省みるのです。
そのとき、この主、このひとりのみどりごにしか望みが無いことを思い切り知らされるのです。御使いの告げる平和こそまことの平和であることを知るのです。そして、万軍の主の熱意が、万軍の主の熱心がこれを私たちのために成し遂げて下さる。御父のみこころにすべてを委ねるのです。ひとりのみどりごが、あなたのために生まれた。救い主が、あなたのために生まれた。わたしたちの心に、いま、このクリスマスの時、御子イエスをこそ、私たちの主、まことの平和の君と、迎えたいのです。