ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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詩編説教「来るべき世代に語り伝えさせてください」詩71:18-19

2007-08-11 14:15:06 | 詩篇小説教
詩編71:18-19
71:18 わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。71:19 神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。
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「私が年老いて白髪になっても―― 御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。」(詩71:18)何と力強い御言葉でしょうか。別の訳では「私は宣べ伝えよう。次の世代のすべての人に」とあります。どちらも信仰の熱気が伝わってくるような御言葉です。

神は、私たち一人一人を創造し、いのちの息を吹き入れて生かして下さいます。その生涯のすべての日々は、順境であれ逆境であれ、ひと時も神のご配慮から漏れることはないのです。こんな詩があります。

「ある夜 私は夢をみた。主と二人、私は砂浜を歩いていた。いつも砂の上に二組の足跡が残されていた。一つは私、もう一つは主の足跡。これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生でいちばん辛く悲しい時だった。私は主に尋ねた。『主よ。あなたはいつも、私と共に歩んでくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛い時、一つの足跡しかなかったのです。一番あなたを必要とした時、なぜ私を捨てられたのですか。』主はささやかれた。『私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てない。あなたの苦しみや試みの日、足跡が一つだった時、私はあなたを背負って歩いていた。』」(M・F・パワーズ)

信仰生活を長く歩んだ者には、その者にしか語れない神への感謝、信仰の証があります。ペトロは、聖霊降臨日の説教でこう語りました。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」(使2:17) 神は老若男女すべての者を用いて、教会を建て上げてくださいます。教会は信仰を継承し、恵みを語りついできたのです。年老いてなお信仰者には夢がありました。次の世代、子供たちが御言葉を語り、孫たちが主に仕えている姿を信じたのです。そして「神の恵みの生涯を『来るべき世代』に証しさせて下さい」と祈ったのです。なにも語るだけが証しなのではありません。信仰者の生きざま、祈りの生活、それは尊い生きた証しそのものなのです。キリスト者の生涯というのは、御国に行くまで希望に溢れ、信仰に生かされます。主が共にいてくださるからです。

主日礼拝説教「主の祈り」マタイ6:9-13

2007-08-05 16:30:24 | 主日礼拝説教
■主日礼拝説教「主の祈り」マタイ6:9-13 列上8:54-61 讃562/67/536/310/514 交6

6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
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 祈りとは何でしょうか。今朝開かれている福音書の御言葉は、主イエスが「主の祈り」を教えて下さった、そういう箇所です。教会はこの祈りをとても大切にしてきました。ある人は、この主の祈りこそ福音の要約である。ここにこそ、キリスト教の福音の根本があると言いました。

私たちの度々聞いてきた御言葉、長い間祈り続けてきた主の祈り。しかし御言葉は汲んで尽きるような貧しいものではありません。いま改めて、主が教えて下さった祈りに、主の声に、耳を傾けたいと思うのです。

キリスト者の歩みは祈りと切り離すことができません。この朝開かれている「主の祈り」は、主イエスが、弟子達に教えて下さった祈りです。この祈りを深く心に思いますと、キリスト教の祈りというものが、どういうものであるかということが見えてきます。私たちは祈りが大切だとよく判っております。しかし振り返って自らをみると、以外と要求ばかりで神様に願いを聞いてもらおうと、そのことばかりに一生懸命になっていたりするのです。一生懸命祈って、神様の心を動かして自分の願いを叶えてもらおうとしたりします。
ある日、キリストはこのような譬え話をされました。

ある女性が自分のために正しい裁判をしてほしいと、ひっきりなしにやってきて裁判官に申し立てるわけです。すると裁判官はうるさくてかなわないから裁判をしてやることにした。という譬え話です。

こういうのを聞くと私たちは、この女性が一生懸命願ったから、悪い裁判官も願いを聞き届けた。私たちも一生懸命祈り続ければ、神様はいつかお祈りを聞いてくださるということを言っているのだろうと思います。
しかしキリストがこの後に言われた事が大切なのです。「まして天の父は・・・放っておかれるだろうか。」神様は悪い裁判官ではありません。私たちが煩わしいから祈りを聞いて下さるのではありません。願う前から私たちの必要をご存知で、私たちのことを一時も忘れず心にかけて下さる神様です。主イエスは、今日の御言葉の少し前で、異邦人のようにくどくどと祈るなと言われました。祈らなくてよいと言われたのではありません。神に信頼して祈りなさいと言われたのです。なぜなら、神は、悪い裁判官ではなく、また地上の父とも違う、いつくしみ深い天の父であるからだというのです。

今日、キリストは、「天の父よ」と祈るように教えて下さいました。
聖書は、人間は神に創造されたものだといいます。しかしその人間が罪を犯して父なる神のもとを離れていく。私たちはとうてい天の父よなどと祈ることが出来ない罪人なのです。しかしキリストは世に来て、十字架の上に死なれ、もはや神を父と呼べない罪人に、ひとたび父のもとへと帰る道を下さったのです。このキリストによって私たちは「アバ、父よ」と呼ぶ恵みに招かれているのです。私たちが神を天の父と決めたのではありません。神が、私たちを天の父の子として下さったのです。

私たちは、聖書を読んでいますと、キリストの祈っておられる姿に出会います。 多くの人は、願い事を神様にお願いすることが祈りであると思ったりします。しかし、キリストの祈りの姿をたどっていきますと、私たちの考えているお祈りとは違う、別の祈りの姿が見えるのです。それは、神様の方へとグルッと自分の全存在を向けていく、そういうキリストの姿です。
願い事をすることも確かに祈りの一つの側面ではあります。けれど、それがすべてではありません。祈りは、自分の願い事が叶うことに心を向けることではなくて、自分の全存在を丸ごと神様の前に置いてみる、自分の捕われていたすべてのことから、神様の方へと向きなおしてみる。そういうことです。

私たちが神様の方に向いて生きているかどうかということが重要なのです。そうでないと、人間は自分で生きているのだと思い違いをしてしまうのです。そればかりか、この忙しさの極みのような社会にあって、どれだけ沢山の人が生きる目的を失っているかわかりません。何に向かって歩めばいいか分からなくなっているのです。そういう時に、神様の前に自らをグルッと丸ごと向ける。そして、この神様に向かって生きていく、そういう姿を、キリストの祈りの姿に見るのです。

そうする時に、ただ私たちの要求、ほしいもの、叶えてほしいことを並べるだけの願い事ではなくて、もっと大きな恵みがあることに気づくのです。私たちの事をなにより心にかけて下さる、父なる神様の存在に気づく、この自分は、神様の恵みに生かされている子供なんだと気づくのです。この天の父に信頼する祈りこそ、主の祈りです。「天にまします我らの父よ」そう祈ることで、私たちの想像するよりもはるかに、どこまでもいつくしみ深く、わたしたちを限りなく愛して下さる天の父に、全幅の信頼をする。
そのとき初めて、わたしたちのいのちに力が溢れてきます。

もし願い事がキリスト教の祈りであったなら、こんなに祈っているのに、自分の祈りは叶わないから神様などいるものかとなるわけです。しかし、願い事に心を注ぐのではなくて、わたしたちの事を一時も忘れず配慮し、養い、育ててくださる父なる神様に心を向けるとき、この神様に信頼するとき、わたしたちは願い事が叶う以上に大きな平安、父なる神様の子供とさせて頂いた計り知れない恵みに気づくのです。この父の愛に生かされていることに気づくのです。
そのとき、わたしたちは目の前の黒雲がわかれて、青空が広がっていくような、晴れ晴れとした気持ちで歩むことができます。
イエス・キリストの地上での歩みは、決して楽しく陽気な日々ではありませんでした。私たちも、キリストが歩まれた同じ地上を、天に向かって歩んでいるのです。その天へと向かう地上の旅路で、皆それぞれに、人には分からない痛みや悲しみ、そういうものを抱えて歩んでいます。キリストの弟子になったらすぐに何の苦労もなくなったというのではありません。
キリストの生涯と十字架の向こう側にしか復活はなかったように、わたしたちに与えられた生涯を生きるようにと神が招いておられるのです。主イエスは、キリストに従って生きようとする弟子達に、主の祈りを教えられました。この主の祈りを祈りつつ歩む、そういう生涯こそ、キリスト者の生涯なのです。

福音書にもう一度目をとめましょう。主の祈りは、御国が来ますように。御心が行なわれますようにと祈りを導きます。わたしたちはこのように祈っていますと、早く御国が来て何の痛みも苦難もない平安の中に移されたらどんない素晴らしいだろうと思います。この世で色々と思い煩って生きるよりも、神様の所に行ったほうがいい。早く天国に行きたい。死んだら楽になると思ったりします。ところが、聖書は、神の国はもうあなたがたの只中に来ているのだといいます。驚きます。神の国はもう私たちの只中に来ている。どういうことだろうか?と思います。それならどうして、こうも不安があり、痛みがあり、悩みも、心配事も、山のようにあるのだろうか。
ところが、神の国が来たというのは、わたしたちのそういう問題が全く取り去られることではないようです。
神の国に生きるということは、主イエスの地上での歩みがそうであったように、悩みや痛みの中でも、神が共にいて、そういう自分を支えていて下さることを信じて生きる事なのです。天国に行くこと。それは素晴らしいお恵みです。しかしそれだけでなくて、この世の苦しみから抜け出すことによって平安が与えられるのではなくて、この世の只中で、神の大きな恵みに支えられて歩む。そういうことを聖書は語っているのです。そしてその地上の歩みの先に、主イエスのご再臨によってもたらされる、天地の新たなる日、神の国の完成を待ち望んでいるのです。
天にまします我らの父よ。そう祈るとき、私たちは父に向かって祈り、天を目指して旅を続けているものであることに気づきます。行くべき、帰るべき天があることを信じているのです。

「御国を来たらせたまえ」と祈るのは、終わりの日のことはもちろんのこと、今ここに生きるこの私が、神の国の恵みに生きる事ができるように、主の御心を信じて生きる事ができるようにという祈りなのです。

私たちは、この父に向き合うことによってはじめて、地上に与えられたいのちを神に委ね、精一杯生かしていく事ができるのです。

天の父よと祈る私たちはもはや一人ではありません。キリストによってアバ父よと呼ばせてくださる聖霊が共におられ、誰よりも私たちを心にかけて下さる天の父と、向き合っているのです。
そればかりではありません。「われらの父よ」と祈ったように、この地上の旅路は、「わたし」だけでなく「われら」の旅です。主の教会の交わり、兄弟姉妹の祈りの中に支えられて歩むことが出来るのです。

主イエスは、天の父に向かって祈ることを弟子達に教えて下さいました。そしてそれだけでなく、父よと呼ぶことが出来るように、聖霊を注いでくださったのです。自分でしようとする歩みから、父に委ねて歩む歩みへと、わたしたちの方向を向けるとき、私たちは自分に与えられた生を、精一杯生かすことができるのです。
自分のいのちは、神から来ていることを知るとき、それをどう生かすべきかわかってくるのです。神に向かって、どう生きたら良いのかを知るのです。

主の祈りは、どこの教会においても最も大切にされている祈りです。こうして今日、福音書の御言葉から、主の祈りを聞いています。しかし、その深さ、恵みの大きさは、とても汲みつくすことができません。それでも私たちは父よと呼ぶ、そうさせてくださる聖霊に促されて、キリストによって、天の父に向かって祈るのです。この祈りを通して、私たちはキリストと出会い、天の父と出会うのです。

祈りとは、父に向かって生きるように招かれたキリストの愛に応えて、天の父にこの自分を丸ごと向けていくことだと申し上げました。しかし最後に、私たちは決して忘れてはいけません。私たちが天を向く、天の父に向かって歩みだすずっと前に、天の父がこの私のほうに向かって手を伸ばして下さった。独り子を世に遣わして、何の値打ちもない罪人の、この私のほうに、丸ごと向いて下さった。御子イエス・キリストのいのちをかけてまで、わたしたちの方を向いてくださった神がおられるということです。
何と大きな父なる神の愛でしょうか。

私たちは、この計り知れない愛の神、天の父に全く信頼して祈ります。
「天にまします我らの父よ」
そう祈りつつ、天の御国、父なる神へと向かって歩む歩み、そういう祈りの歩みを続けていきたいのです。

祈りましょう。

天におられる、わたしたちの父よ
御名があがめられますように。
御国がきますように。
あなたは、御子キリストを世に遣わし、罪人にすぎないこの私たちを救い、計り知れない恵みによって、あなたを父と呼ぶことをゆるして下さいました。
聖霊の助けによって、神の子とされた喜びのうちに、あなたの御国へと向かうこの地上での旅路を導いて下さい。
私たちの救い主、御子イエス・キリストによってお祈り致します。
アーメン