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「和解」マタイ5:21-26

2006-08-27 19:48:47 | 主日礼拝説教
聖書は私達に「赦し」ということを語ります。今朝開かれました福音書の中にも、そのことが重ねて語られております。この福音書が記されました時にも、主イエスが、そのご生涯においてこの福音書の御言葉を語られました時にも、やはりそこには、今日の私達のおります社会、世界と同じように、様々な事でいがみ合い、敵対し、毒のある言葉や中傷が飛び交う姿があり、主イエスの御言葉を聴こうと集まっている者の中にも、又、マタイがおりました教会の中にも、やはりそのような現実がありました。今日主の前に集う私たちも自らを省みつつ、語られた主イエスの御言葉を聞きたいと思うのです。

共に御言葉を聞きましょう。マタイによる福音書5章21節。5:21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 ここで主イエスは弟子たちも、そこにいるユダヤの人たちも良く知っている旧約の律法を取り上げて語られます。けれども、その後に更に続けてこのように言われます。22節。5:22 しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。主イエスの前に御言葉を聞いている者たちは、自分は主イエスが言われた先の律法の通り、人を殺したりしていない。自分は神様のご意思を果している。と、そのように思っていた事でしょう。けれども、主イエスはその人を殺すという行為だけではなくて、私たちの心の悪にまで突き詰めてお語りになられます。
人間の裁きというものは、私達の心にまで入り込んでくることは出来ません。しかし神は、出来上がった犯罪行為だけではなくて、私共の心の中のどうしようもなく湧き上がってくる怒りや、隠れた思いまでをも問われるのです。
私達も、昔の弟子たちと同じように、どんなに心に怒りが煮えたぎっていたとしても、自分で何とかその怒りを押さえつけて、それで神の前には、自分は誰をも傷つけていないと澄ましている。そのようなことをしておりませんでしょうか。
主イエスは、そのような私達の心の思いまで、神の前に裁かれるのだと、厳しくお語りになりました。
神の愛は、たとえ私たちの心の内に隠れた、奥深くにあるものであっても、その悪いものを受け止めることも、耐えることも出来ないほどに厳しく強いものであります。私達は、あの愛に満ちた慈愛の父が、あのお優しい神様が、どうしてこんなにも厳しく、攻められるのでしょうか?厳しいことをおっしゃるのでしょうか?と、そのように考えたり思ったり致します。 これほどまでに悪をお嫌いになり、それほどまでに真剣に私たちの中にある悪というものを見られ、その悪をはっきりと断罪されるのは、一体どういうことでありますでしょうか?

しかし、このあまりに厳しいと思われる裁きの厳しさこそ、神の愛の迫りであります。神は罪を受け入れることが出来ない聖なる神であります。しかし、罪人を愛される、しかも十字架に御独り子の命を差し出しすほどに、罪人、私たち一人一人を愛される神であります。あなたという存在、また私達一人一人という存在の決して失われることのないようにであります。
神の前に罪は、いかにしても受け難き事柄なのであります。ですから聖なる神はこの私たちの罪と言うことについて非常に厳しく問われるのであります。それと同時に、私たちではどうしようもない事柄であるからこそ、主イエスの命を差し出して神の側から私たちに歩むいのちの道を備えて下さったのであります。

そうは申しましても、人間はそう簡単に人の罪を赦すことも、和解することも困難な者であります。私を含めてのことですのでお許しいただきたいのでずが、皆それぞれに、「赦しなさい」と言われても、なかなか赦すことが出来る者ではありません。けれども主イエスはそれをせよと、赦しなさいと、早く和解しなさいとお語りになるのです。
「主よ私の罪は赦して下さい。でもあの人だけはどうしても赦せません」「主よ、どうしてもこの人だけは、この事だけは赦せません」そのように思ったり祈ったり呻く訳であります。
けれども、今日も主イエスは「まず仲直りをしなさい。」「早く和解しなさい」と、そのように語られるのです。私達はこの御言葉を聞いて、その主の声に促されて、あの人の方を、この人の方を向くわけです。なんとか赦したいと思うのであります。そこにおいて、私達はその「心」を主イエスによって和解へと向けるのです。しかしそれでも私達は赦せない、自分の力でどうすることも出来ないと、思ったり、悩んだり致します。自分で赦すことが出来る事には限界もあります。
ある司祭は、罪を赦すということは、あの人が神の前で元気に生きるようにと願うことだと申しました。あの人も神に造られた者、あの人も、神の前に元気に生きてほしい。それはただ健康にとか、元気になどという話しではなくて、主の前に正しくと生きてほしいと言う意味に受け止める事でしょう。そういう、あの人、この人のまことの命への道を願う、それが罪の赦しを願うことなのだと言うのです。

しかしそれでも私達は、赦せないその時にこそ、赦せないというそのままの姿で、主イエスの十字架の前に出て行くのであります。自分には人を赦す力も何もない。どうにも自分の力で赦すことも和解することもできない。だからこそ、主イエスの十字架が必要なのです。十字架の前にお手上げするほかないのであります。
福音書に語られております主イエスのこれらの厳しい言葉は、言ってみれば私達への死刑判決のようなものです。しかしこれほどまでに厳しくありますのは、その主が、また罪の赦しの主であり、和解の主であるからにほかなりません。

私達はいともたやすく兄弟に、また周りにいる人たちに腹を立てるような者でありますし、聖書に主イエスが言われたように「あいつは馬鹿だ」とか「愚か者だ」とか思ったり言ったりするものでもあります。主イエスはそのような心の内の私たちの罪にまでその責任を問われるのであります。けれども、だからと言って「こうなったらお終いだ」と人を切り捨てるような事はなさいませんでした。それでも神は、わたしたちを愛して下さった。あまりに多くの罪の為に死んでいかなければならなかった私たちの罪を、裁きを身におって、主イエスはその身代わりに、あの十字架の上に死なれたのであります。

私達はどうして罪を知るのでしょうか?それはまさに十字架の上にであります。
私達はどうして赦しを知るのでしょうか?それも十字架の主を仰ぐ時にであります。私達はどうして赦されたのでしょうか? それは、あの見るに耐えない十字架の上に、主イエスが死んで下さったからであります。
私達は自らの姿を見ているだけで、自分の本当の姿に気づくことはできません。自分の本当の姿。自分の汚さに気づくものではありません。私たちは気が付くとその臭い物にふたをして、別の方向をむいて平気で暮らしております。けれどもそのような私達でも、主イエスの前に立ちますとき、自分の本当の姿に気づかされるのです。23節以下の御言葉にお目をお留め下さい。
23節 5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
祭壇の前に立つときに、自分の罪、自分の問題が見えてくる。・・・自分は大丈夫だ。ほどほどにイイ人間だと思っていた自分が、主イエスの前に立ったときに始めて、このままではダメなんだと思い切り知らされるのです。先週のペトロやマタイの話と同様であります。自分は主イエスと出会ったから、このままの自分で大丈夫だ。何とかうまくやっていけると思っていた。しかしそこに問題があったと気づくのです。自分を見つめるだけでは自分の本当の姿に気づくことは出来なかった。キリストと出会い、キリストを見つめるとき、そのときに自分の真の姿が見えてくる。自分の罪深い姿を真摯に受け止めるのです。しかしあまりに厳しいとも思われるそのことも、また同時に神の前に立つ者に与えられる、神の計り知れないほどに豊かなお恵みにほかならないのです。

自分の罪があらわにされることが、どうして恵みだと言えるのでしょうか。私達は、主イエスの前に自分の罪に気づくとき、同時にわたしたちの為に、わたしの為に血を流された主イエスを見るのです。主は私達を罪の中に捨て置くことを決してなさいませんでした。わたしたちはあの聖い神の前に立てるものではなかったのに、神からはなれ、自分勝手に罪を犯し、好き放題生きて、人を傷つけ、自分を傷つけ、死んでいくしかなかったそういう存在でありましたのに、主イエスはそれを代わって負われ、十字架に身代わりとなられたのであります。その愛のゆえに、私達は悔い改めて生きる事ができるようになったのです。悔い改めて生きるというお恵みが与えられたのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
キリストのあまりに厳しい裁き、小さな罪の一つも見過ごしにはなさらない神、しかしそれは、そんなことであなたが失われてはならない。あなたは神の子なんだ。わたしの目に高価で尊い、主が命をかけて愛しておられる存在なんだ、あなたのためなら、独り子イエスを十字架にかけても惜しくはない、それほどまでにあなたを、私達一人一人を愛される神の愛の大きな迫りにほかならないのです。

わたしたちの人生は聖書の言う通り「あなたを訴えるものと一緒に道を行く」そういう道行きです。私達の歩みは、教会にあって、またこの世界にあって、神の子達と共に天を目指す、そういう旅であります。ひとつの神の国へと歩む者であり、そのように招かれている者であります。
そういう人生を、わたしたちはどう生きるのか、キリストはその地上での生涯を通して、私達にお示しになりました。人をののしり、いがみあいつつ生きるのか、それとも主の愛を仰ぎつつ、赦された証として赦しを祈りつつ、求めつつ生きていくのか、平和を考えさせられる月、八月の歩みの最後の聖日にあって、わたしたちはいま一度主の御言葉を聴き、わたしたちが赦されたあの主イエスの十字架へと、愛の神へと目を上げることと致しましょう。

日本基督教団聖徒教会・2006年8月27日・主日礼拝説教

「隠された宝」マタイ13:44-

2006-08-26 21:21:24 | 主日礼拝説教
今日開かれております福音書の御言葉は、主イエスがその弟子たちに「天の国」についてお話になった、そういう所です。この御言葉は、昔し主イエスが弟子たちに語られたのと同じ様に、いま主イエスと共に歩もうとする、私達一人一人にも、同じく語りかけておられる「天の国」の話です。

共に主の御言葉を聞きましょう。マタイによる福音書13章44節・新約聖書26ページです。
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
主イエスは、天の国は畑の中に隠してある宝のようなものだといわれます。畑、言ってみれば人目につかないような所、泥に埋もれたような所にある、「宝」のようなものだといわれます。所が、その土に埋もれた宝を見つけた人がいると言うのです。宝を見つけた彼は、喜んで帰って行って、持ち物をすべて売り払ってその畑を買います。そこに見つけた宝は、この人が持っていたすべての財産、すべての所有よりも価値がある、自分の持っているすべてに代えてもいい、そう気づいた時、その大きな喜びが彼を動かしたのです。

主イエスに出会ったとき、弟子たちも同様でした。イザヤの言っておりますように、人目にはこの一人の男のどこにも偉大な王の風貌も、見るべき美しさもない。けれどもそういう主イエスの中に本当にすべてをかけてもいいという程の大きな喜びを見出したのです。自分のすべてを差し出してもいいという程の出会いをしたのです。

畑の中に宝を見つけた人は、銀行からお金を借りたのでも、持ち物の一部を必要なだけ売ったのでもありません。すべてを売り払ったと聖書は記しております。主イエスに出会った弟子たちは、そのすべてを置いて従って参りました。主イエスの前に、天の国の輝きの前に、その他のどんなものも色褪せてしまった。いま心に溢れ、漲っている喜びの大きさには比べることが出来ない。そういう大きな喜びに押し出されて、彼らは自分の持っていたすべてを天の国の前に差し出したのです。

主イエスは続けてもう一つのことを語られました。45節からの御言葉にお目をお留め下さい。45節。13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
主イエスは、天の国を高価な真珠だと申されます。畑の中に隠された宝とは違って、今度は隠されてはいない。皆が見ているのです。そこに売られている真珠はあまりに美しく、皆がその美しさにこころ奪われるような最高の真珠です。けれどもそんなにすばらしい真珠、美しい真珠ではありますけれども、皆がそれを買ったのではありません。「何て綺麗なんだろう」「すばらしい真珠だ」「自分もほしいなぁ」そのように思ったことでしょうが、そう思いはしても、そこまでの代金を支払って手に入れるまでのことはしないのです。
所が、この商人はなんとそれを致します。あえてすべてを投げ売って、その真珠を買い求めます。この商人は今まで集めてきた宝石、自分を飾ってきた宝、自分が心のよりどころにしてきた財産の一つ一つ、それらすべてを差し出して比べてみましても、その輝きすべてにも勝る価値を、その一粒の真珠、天の国に見出したのです。

畑の中に宝を見つけたものも、これ以上ない高価な真珠を見つけた者も、「持ち物をすっかり売り払って」それを得ます。おそらく私達も、本当に美しいもの、こころ惹かれるもの、どうしてもほしいものを見出したなら、少しずつでもお金をためて、それを得ようとすると思います。けれどもこの福音書に出てくる二人の人は、お金をためたのでも、財産の一部を売ってお金を作ったのでもない。みことばの通り「出て行って、彼が持っていた持ち物をすっかり売り払い」それを買ったのです。

彼らは悲哀にくれてそうしたのでも、我慢して、また渋々それをしたのでもありません。「私は見つけた!!」「こんなに凄いものを!!」「こんなに素晴らしいものを!!」「これ以上ない宝に出会ったんだ!!」そういう喜びに動かされてそれをしたのです。

主イエスの弟子たちもそうです。主イエスに出会った、これ以上にない大きな宝を見つけたのです。その喜び、感動に突き動かされて主イエスに従ったのです。自分のすべて、自分自身を主イエスの前に差し出したのです。天の国とはそれほどまでに素晴らしい、これ以上に例えられないほどに、これ以上に語りつくせないほどに素晴らしい。そんなにまで豊かだと、価値のあるものだと、今日、聖書は私達に語りかけております。

聖書は、持ち物のすべてを捧げないと救われないとか、この世の財産は悪だなどと言っているのでは全くありません。すべてを投げ出しても、自分のもっているすべてをかけてもいい程に価値があるもの、この世で美しいといわれるもの、価値あるといわれているもの、それらすべてを捨てたとしても、それ以上に素晴らしいものだと言っているのです。

このここまでに素晴らしい「天の国」、彼らがすべてをかけてもいいと思った「天の国」とはどのようなものでしょうか?主イエスは続けてこのように語られます。47節をご覧下さい。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
主イエスは、天の国を網と魚との譬えで語られました。地引網のようなものをお考え頂けるとよろしいのですが、その大きな網が湖に投げ下ろされて、様々な魚がその網の中に集められるのです。その有様が神の国のようであると言われます。

聖書は神の国ということを申します。ではその逆に、この世の国とは何でしょうか? 私達が生きております国、世界、それらは何かと考えますと、それはこの世の支配者、政治家が治める国であります。その支配はどんなに強大に見えても、堅固に見えてもいつかは必ず消えていく国であります。
ところが神の国、神の支配とは、まことの世界の造り主、支配者であり、すべてを治められる神が治められる国であります。その主なる神の支配に入ることが神の国、天の国に生きるということであります。

アダムとエバが罪を犯して以来、世界はこの世の君、まことの神ではない神のもとに縛られておりました。自分で畑を耕さなければ暮らせない、このよの宝で身を飾っても満足できない、そういうむなしい者でしかありませんでした。
しかし神は、そういう人間を、そういう私達をそのままお見捨てにはなりませんでした。そういう私達を神の国、天の国から遠くに退けたままにはなさいませんでした。神はその独り子を世に遣わし、まさに隠された宝となられた。わたしたちに神の国を差し出して下さったのであります。この世の力は、この世の支配は、主イエスの十字架のもとに力を失い、そしてそこに神の支配、神の国が、私達の所へ、この世界へと、力強く入り込んできたのであります。

今この世界は決して良い魚ばかりではありません。悪い魚もいます。「神様どうしてですか!!」と思うようなことも、悪の力がいまだ勢力を強くしていると思われることも度々であります。しかし、わたしたちがおります世界、この網は、サタンの網でありましょうか!! この網は、主イエスによって投げられた網であります。神の網。神の支配の中に私達はいるのであります。

最後に49節以下にお目をお留め下さい。
13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

神はやがて終わりの日に裁きを行われると告げております。しかしいま静かに、私達の本当の姿を見ますと、弱くあまりに乏しいではありませんでしょうか。度々罪を犯し、主のみ前を離れていくのです。とてもあの聖なる、聖なる神の前に立つことが出来るようなものではありませんでしょう。自らをしてあの聖い神の裁きの前に立ちえる存在など、どこにもいないのであります。
けれども主イエスはあの十字架の上で、私達の罪、裁かれるべき裁きを、代わりに負われ、なんとあの十字架の上にあなたの為に、私のために死なれたのであります。だからこそ私達は、キリストの血に購われて、キリストのそのあまりに大きな愛に赦されて、神の前に立つことが出来るのです。

この世はやがてキリストの裁きの前に立ちます。この世はやがて終わるときがくると聖書は申します。しかし、それはこの世に氾濫した終末思想や戦争、災害などによって終わりを迎えるのではありません。主イエスが来られる! そのことによってであります。キリスト教えの終末は、裁きや不安で人を縛ることを致しません。そうではなくて人を望みに溢れさせる、希望に生かすのです。どうしてでしょうか!?

私達のために十字架にかかり、復活して天に昇られた主イエスが、神の子、救い主としての栄光の中に再び来られる。その主イエスの恵みの支配、愛の支配が完成する日であります。この世の終わり、裁きの日は、神の子イエスにある、救いの完成であり、そのご支配の完成のときであります。であるからこそ、私達はその主の前に立つ日に向かって歩み、自らを整える。自らを備えるのです。そういう者こそ、主イエスが言われたように52節。もはや奴隷ではない。家の主人の様に、まことに自由にされたものなのであります。もはや古いものに縛られるのでもない。また新しいものの不安におびえるのでもない。主イエスにあって新しい生き方の中に導きいれられる。主イエスにあって目指すべき所を目指して歩んでいる。そういう望みの中に私達は生きるのであります。

日本基督教団・下谷教会 主日礼拝説教

罪人を招くキリスト(マタイ9:9-13)

2006-08-20 18:00:35 | 主日礼拝説教
私達にはそれぞれ、かけがえのない出会いがあります。この地上に生を与えられ最初に出会った家族、そして友や教師、人生の伴侶との出会い。多くの出会いが私達の歩みを貫いております。
今朝、福音記者マタイは、自らの「主イエス」との出会いを振り返り、その日の出来事を記します。徴税人マタイ。主イエスと出会うその日まで、町の収税所に座り、人々から税を取り立てて暮らしておりました。当時のユダヤはローマ帝国の属国になっておりまして、ユダヤの人々にとって、ローマに税を納めるということは、自分達の神以外の神々にお金を貢ぐ事と理解しておりましたので、この徴税人という仕事は、私たちが理解するような現代の税金関係の仕事とは全く違って、聖書にもある通り「罪人や徴税人たち」とひとくくりに呼ばれるほどに阻害され、嫌われ、罪人扱いされていたマタイの姿があるわけです。ところがそのマタイは、ある日、ある方との出会いで一変したと記しているのです。

9v イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
マタイはいつものように、いつもの場所で、その日をいつもと変わりなく、一人の徴税人として生きておりました。それは私達の日常と同じようであったでしょう。皆、それぞれの生活を繰り返して生きていきます。そんな日常の中で、マタイのもとを、主イエスが訪れられたのです。マタイは道端で、向うから歩いてこられる主イエスに出会ったのです。

ミラノの大司教であった、マルティーニという方の本に「宣教者を育てるイエス」というものがあります。この本には、主イエスと、ペテロの出会いが描かれております。ペテロと弟子たちは、夜、漁に行ったのですが、ついに一匹の魚も獲れずに港に戻って参ります。そこで主イエスはもう一度沖に行って網をおろしてみなさいと仰せになりました。ペテロはまさかこんな昼間に、それも一晩中漁をして何も取れなかったのに、何が今更獲れるだろうかと思ったに違いありません。それでも主イエスが「行け」とおっしゃるので、行ってみようと決めたのです。すると、主イエスのお言葉の通り、大漁の収獲を得て帰って参りました。
ところが、ペトロはイエスのともに戻ってくるや「わたしは罪人です」と叫びます。彼は、沢山の魚を前にして、感謝を申し上げたのでも、また「イエス様なんということでしょぅ」と驚いたのでもない、その大漁を前にして「わたしは罪人です」と叫んだのです。どうしてペトロは大漁の収獲を頂いて、「私は罪人です」と言ったのでしょうか?
マルティーニは非常に興味深い説明をしておりました。つまり、ペトロはイエスと出会ったと言うのです。イエスと出会うまで、イエスとは誰か真に知るまで、自分は罪人だと感じていなかった。気付いていなかったというのです。ペトロはそれなりに真面目に生活し、ほどほどに善人だし、人に指を指されるようなこともしていない、そう感じていたのでしょう。そのペトロが主イエスの前に「私は罪人でした」と言うのです。ほどほどに善人だと思っていた自分が、主イエスに出会ったとき、実はそうではなかった。自分は罪人なのだと気づく。主イエスに出会ってはじめて、あぁ自分は罪人だったんだと気付いたと言うのです。

さて、マタイは主イエスに出会います。彼はいままで、周囲の人々を見てきたことでしょう。社会を見てきたことでしょう。そして何よりも、自分自身の姿をイヤというほど見てきた、いや、見せ付けられてきたことでしょう。それでも何も変わらなかった。いつものようにいつもの場所に座って自分の今日の仕事をしていた。
しかし、マタイがイエスに出会った時、イエスへと目を向けたとき、彼は自分を見つめていただけでは判らなかった自分の真の姿に気付きます。そして、自分に必要なものが何か、思い切り知らされたのです。

「自分を見つめる。」それだけで本当の自分の姿を見出せるでしょうか。残念ながらどんなに自分に向き合ってみても、どんなに自分を探求しても、それだけでは自分の本当の姿を知る事はできません。自分を見つめるという中で、キリストと出会い、キリストを見つめる事、その時に始めて自分の真の姿が見えてくる。キリストを見るとき、本当の自分の罪の姿に気付くのです。そしてこのキリストとの真実な出会いによってこそ、「わたしは罪人です」と気づく。

「回心」とか「悔い改め」とか言いますと、それは自分の内側を見つめて、反省することだと思われることが多いようです。しかし実はそうではない。
まず自分から「外」へと意識を向ける。聖書は「悔い改めよ。神の国は近づいた」と語ります。これは主イエスの最初のメッセージです。「神の国が近づいている。だから、そっちの方向へと心を向けなおしなさい」というのです。まず主イエスの方へと目を向ける。すると、自分が神から離れてしまっている存在であるということに気付く。自分のありのままの姿を真実に見ることとなる。そのとき回心、悔い改めによって新しい生き方を歩み始めるのです。ところが、自分はイエスと出会った。真面目に仕事もし、人に指を指されるようなこともせず、教会にも行き、お祈りもし、それなりに真面目に生きている。だから今のままの自分で何とか上手くやっていけると思う。実はそこに問題があるというのです。「自分はイエスに出会ったと」まるで首だけ後ろを振り返って、体はまったく今まで通り。自分の行きたい道、自分の歩きたい道を向いて揺るがない。しかし、ペテロもマタイも違っていました。彼らは立ち上がってイエスに従っていったのです。それが、キリストに出会った者の信仰告白的生き方と申しましょうか、新しい生き方なのです。それが今日語られているキリストとの出会いなのです。
人は、自分は丈夫でありたいと思っている。大丈夫だと思っている。しかし、主イエスの前、主イエスの十字架の前に自分の本当の姿を知らされたとき、ホドホドにイイと思っていた自分が、実は罪人だったのだと気付くのです。マタイは主イエスと出会って、自らの罪に気付く。このままの自分ではだめなんだと思い切り知らされ、今日の福音書の「彼は立ち上がってイエスに従った」との御言葉の通り、マタイは今まで自分が安住していた所を立ち上がって、新たに歩み始めたのです。
しかし、10節。 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 
主イエスは、主イエスに出会い、今までいた所から立ち上がったマタイと、食卓を共にされました。そこで、ファリサイ派の律法学者たちは、イエスのふるまいに驚くわけです。彼らにとって、徴税人を弟子にするとか、徴税人や罪人と一緒に食事をするとかいうことは、自分もその仲間になることでして、律法の上では赦されないことでありました。彼らの社会通念をひっくり返すような出来事が行なわれているわけです。イスラエルで人を招いて食卓を共にするということは、その人との親しい交わりを結ぶという意味がございましたし、食事を共にするということは、その人と共に喜ぶこと、その人が苦しんでいたとすれば、その人と共に苦しみを分かち合うこと、何か足りないならば、自分の身を削っても、その不足を補い合うこと、そのような意味を持っておりました。主イエスはそういう食卓を共にして下さっていたのです。
ところが、主イエスが、マタイや徴税人、罪びとたちと食事をする様子を見ていたファリサイ派の人たちは、そのイエスの姿をみて、「徴税人や罪人達と食事をする、なんと罪深いヤツだ!」と思ったのです。主イエスに出会った時、自分が罪人だと思ったマタイ、それとは対照的に、イエスを見て、あいつは罪人だと思った人々、そこにはあまりに大きな差があります。

主イエスは、自分たちは平気だ、大丈夫だ、自分たちはほどほどに、いや立派に信仰を守っている、律法に忠実に仕えていると思っていたファリサイ派の人たちに言われました。12節。
 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

彼らは、自分たちは大丈夫だ、律法を守っていると思っている。けれど、人間はそんなに丈夫なものでも、立派なものでもない。しかし、それでもイエスは、あなたを探しているんだと、あなたを求めているんだと、マタイに声をかけられた。同様にこの朝、ここに集う私達一人ひとりにも、お声をかけておられるのです。
主イエスは言われました。「律法ではない、憐れみである。」 主イエスが求めているのは、あなたがどれだけ律法を立派に守ったかとか、どんなに忠実に犠牲を捧げたかということではなくて、それよりももっと大事なあなたの存在、あなた、わたしという、かけがえのない存在を求めておられる。
「わたしに従ってきなさい」とのイエスの呼びかけは、何か絶対に裏切らないで従って来いとか、私の言う事を厳守するんだとか、そういうようなものではありません。
マタイの現実、私達の現実の姿、にもかかわらず召して下さる、招いて下さる。
あなたが必要なんだ、あなたが失われてはならないんだ、そういうキリストの命をかけた命への招きなのです。

今日この後に讃美します讃美歌「十字架の血にきよめぬれば」この曲はアメリカの教会で非常に好んで用いられ、歌われてきた賛美の一つです。
自らの現実は主の前に立ち得ない、いのちの道から外れて、死の影の谷を迷う存在、そこに主イエスは十字架に自らの命をかけ、血を流された。「十字架の血にきよめぬれば、来よとの御声を我はきけり。」わたしたちがどんなに律法を守ろうと思っても、犠牲を捧げようとしても、とうていなしえない。しかし神は、イエス・キリストという独り子を十字架につけて、永遠のいのちへと、私たちを導き入れて下さったのです。
そのいのちと赦しが、いま差し出されているのです。
キリストと出会う時、わたしたちは罪を示され、私たちの本当の姿に気づかされる。だから私たちは神の方へと向きを変えて歩き出すのです。それがキリストに出会って新たにされた者のいのちへの歩みなのです。

マタイはこのイエスとの出会いをどうしても書き記さずにはおれませんでした。自分は「汚れた仕事」と人に指を指されるような人生を歩んできた、誰も相手にしてくれない寂しさの中、頼るものなど何も無いと思っていた、まして、自分と共に歩んで下さる方などいるはずないと思っていた。ところが、主イエスと出会った!!
知ってほしい! 聞いてほしい! 私にも主イエスはお声をかけて下さったんです。主イエスは私にも喜びを下さったんです。このマタイの溢れる思いが、この記事を記させて今もなお語り続けているのです。
もうマタイは今までの自分の姿に生きてはおりません。主イエスに頂いたいのちの中に、新しい希望の中に生き始めているのです。そして今日も主イエスは、町の片隅の収税所に寂しく座る私たちのもとに来て言われるのです。「私に従いなさい」と。それは、キリストのいのちをかけた、いのちへの招きなのです。
【2006.8.20.sun.日本基督教団聖徒教会・主日礼拝説教】

あなたは私に従いなさい(ヨハ21:20-25)

2006-08-19 08:17:15 | 主日以外の説教
【ヨハネによる福音書21章20-25】

21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
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明日、聖霊降臨の主日を前に、今日まで続いて参りました復活節の歩みの終わりに、ヨハネによる福音書21章20節以下が開かれております。

少し前を見ますと、ペトロは、主イエスの三度私を愛するかとの問いに応えて、主イエスに、「私の羊を飼いなさい。」「私に従いなさい。」と言われ、そして、そればかりか、栄光ある自分の殉教の死を示された直後のことであります。
主イエスからまるで、自分が特別扱いされているかのごとくに、重大な使命を、栄光ある殉教を告げられた直後、v20「ペトロは振り向くと」そこに、また同じように主イエスの方へとついてきている弟子がいたと聖書は記しています。「イエスの愛しておられた弟子」です。

この時ペトロは、振り返って思うのです。21節「主よこの人はどうなるのでしょうか。」

ここにあったペトロの思い。カルヴァンはこの箇所の注解の中で、それは、相手を思う思いやりとか、兄弟への心遣いとか、そういうものというよりも、あいつはどうなるんだろうか。あいつは何をするんだ。そういう好奇心のようなものであっただろうと言っています。つまり同じ主の働きに召された者として、あいつは何をまかされているんだろうか。どういう最後を遂げるんだろうか。このような人間的な興味が「主よ。この人はどうなるのでしょうか」という言葉の影にちらついていたと言うのです。
「主よ子の人はどうなるのでしょうか」
しかし別の考えもあります。ペトロはこのすぐ直前、自らの殉教の死を告知されております。自分は殉教の栄誉に預かった。けれども、そう言えば、今日まで一緒に歩んできた親しかったあの弟子。彼はどうなるのだろうか。
共に歩んできた愛された弟子と、共に御言葉を聞いた仲間。共に主の晩餐の食卓を用意したあの愛された弟子。復活の日曜の朝、一緒に主イエスの墓へと走ったあの弟子と、自分も生死を共にしたいという思い。つまり「一緒に歩んできたあの友はどうなるのだろうか」という同情のような、関心とも言うような思いがあったのかもしれません。
しかし、そのいずれであったにしても、主イエスは、ペトロ。お前と「何の関係があるのか」と仰せになります。「私の来るときまで彼が生きていることを私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。」v22.

主は、二人にそれぞれ異なる使命をお与えになりました。別の仕方で神の栄光を現そうとされている。ペトロには羊を飼うことが、殉教の死を遂げることが。愛された弟子には永らえて主を証しすることが、そしてこの書物を記すことが委ねられた。
自分が神から命じられた勤め。各個人にそれぞれの召命があり、それぞれに証しの人生がある。神はあなたを、周囲の人と全く同様の働きのために、同じことをするために、何かベルトコンベアーで大量生産された既製品のようにされたのではありませんでした。あなたに委ねられたあなたの働きがある。
ペトロにはペトロの召命があり、そしてそこにペトロの生き様、また働きがあった。また愛された弟子には愛された弟子の召命があり、生き様があり、そしてそこに愛された弟子の働きがあった。同じように、私達一人一人には私達一人一人に召命があり、そしてそこに私達一人一人の生き様、主から委ねられた働きがあるのです。

イエスはお答えになります。「私の来るときまで彼が生きていることを私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。」v22. それがあなたの問題にすべきことなのか。
主イエスに従う者は、ただイエスがお命じになるままに生きることが求められております。他人の運命を思案し配慮するのは、私ではない。ほかならぬ主イエスご自身であると聖書は告げております。あなたの召命を最後まで導くのが、あなたが主のみ栄を現すべく用いられるのは、あなたの生涯を配慮して下さるのは、主ご自身であると同じように、あの愛された弟子も、あの兄弟も主が最後まで導いておられる。主が備えられた道があるんだというのです。 
この人はどうなるのでしょうか。誰もが自然に思うことでしょう。しかし、それでもあなたは何の関係があるのか?「あなたは私に従いなさい。」そう主は仰せになるのです。

ペトロに主イエスが最後の最後。お語りになったのは、「あなたは私に従いなさい」との御言葉でした。
ヨハネによる福音書が記した、最後の主イエスの言葉も「あなたは私に従いなさい」との御言葉であります。

「あなたは私に従いなさい」とのこのメッセージは、ただペトロに向けられただけではありません。ペトロに語りかけた主イエスは、また愛する弟子を召された主イエスは、いまここにある私達をも同じく召し、神の栄光を現すようにとそれぞれにそれぞれの働きを委ねられました。
最後まで仲良く一緒に行こうと、最後まで共に伝道しようと思っていても、ペトロはヨハネとは別の道を備えられ、ヨハネもまたペトロとは別の道を備えられました。
けれども、それぞれの肢体は一つなる主のために組み合わされ、連ねられ、主の教会を建てあげてきたのです。
あなたにしか出来ない主の働きが委ねられている。それぞれに委ねられた働きがあるのです。 

あの日、ペトロを召された主イエスが、愛された弟子を召された主イエスが、それぞれの弱さにもかかわらず「わたしに従ってきなさい」と仰せになられたごとく、今日もここに主の用に召された私達にも、同じく「あなたは私に従いなさい」と語られております。ここに集う献身者、それぞれにそれぞれの御栄を現す生涯が備えられている。主のご計画があると言うのです。あなたにしか歩めない献身の道があるのです。あなたは私に従いなさいとの御声に静かに聞く朝といたしましょう。

東京神学大学・毎朝の全学礼拝での説教

復活 ヨハネ20:1-10

2006-08-18 11:31:40 | 主日以外の説教
ヨハネによる福音書 20章1節~10節
◆復活する
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。
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今日開かれております福音書は、主イエスのご復活の朝の出来事を私達に伝えております。
「週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに」主イエスの墓へと出かけていったマグダラのマリア。金曜日、十字架に死なれた主イエスは、アリマタヤのヨセフの墓へと葬られます。19章の38節以下に目を留めますと、没薬と沈香を混ぜた100リトラ、王の葬りに十分なほどの香油が主イエスに注がれ、亜麻布に包まれた主イエスのお身体は墓へと葬られます。ところが、日曜日の朝、マグダラのマリアは夜も明けぬまだ暗いうちに墓へと行ったと福音書は記しております。
何をしに墓へと行ったのか、福音書には記されておりません。しかし、マリヤの胸にあった、三日の後に復活されるとの主イエスの言葉がマリアを墓へと向かわせたのかもしれません。
ところが、墓へ着くや主イエスを葬り、大きな石をもって固く閉ざされていたはずの墓が開いている。「石が取り除けてあるのを見た」のであります。マリアは走ります。シモン・ペトロの所へ、愛された弟子の所へとであります。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか私達にはわかりません。」ペトロともう一人の弟子とは急いで墓へと走ります。3節。「20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。」墓に着くや愛された弟子は開いた墓の中に、主イエスのお身体を包んでいた亜麻布が置いてあるのを見つけます。6節。「20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」もう一人の弟子に追いついたペトロは、開いた墓へと入っていきます。またペトロも、そこで主イエスを包んでいた亜麻布だけを見たのです。
この二人の弟子は、主イエスが確かに葬られていたあの新しい墓の中に、主イエスのご遺体ではない、主のお身体を包んでいた亜麻布だけを見るのです。盗賊が主のお身体を盗み出したなら、あの亜麻布をわざわざ解いて持ち出すことはありませんでしょう。しかしそうではない。何か包帯が解けるようにして留めてあったはずのものがほどけて落ちたのでもない。確かに死なれた主イエスのお身体を包んでいた亜麻布がたたんで置かれていた。墓の中にのこされた亜麻布が示すものは、もはや主イエスがそれに巻かれる必要がなくなったという事実でありました。
この二人の弟子は、それを見て信じたというのです。実際には復活された主イエスをまだ見ていないのに信じたというのです。

主の復活は、人間の言葉によって伝えきれない、あらわしきれない豊かさを持っていると申し上げてよろしいでしょう。多くの人が、主の復活の記事があまりに理解できない。躓くような不自然さにしか読めない。当時の人々にも、現代に生きる私達にも、死者の復活ということは、とても信じがたい出来事。それはあまりに私達には理解できない事に満ちております。
しかし、聖書は、主イエスの復活の記事を記すときに、いつ、何がどうして、どのようにして、主がご復活されたかというようなプロセスを伝えることに注目しておりません。
ただ、神がなされた主イエスの復活の出来事を、何とかして伝えようとしている。神がなされた主イエスの復活の現実を何とかして記そうとしている。

ヨハネによる福音書において、他の福音書もそうでありますけれども、主イエスのご復活は、すでに起こった出来事として描かれております。復活がどのようにしておこったとか、どうやって主イエスが墓から出ていらしたとか、その朝主イエスはどこにおられたか、そのようなことに聖書は全く気をやっておりません。
キリストの復活の事実。それは、それがどうやって起こったかを問うのではなく、事実、それが起こったということを受け止めるようにと私達を促しているのです。
主の復活が起こったとき、何が起きたのか、よく考えてみよう。何が起きたのか、よく吟味してみよう。納得できれば信じようというようなものではないのです。

9節にお目をお留め下さい。「20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」二人の弟子は、何が起こったのか、何がどうしたのか、まだ十分に理解していなかったと聖書は申しております。
何故ですか?主はどこですか? そう問うことは私達のごく自然な姿でありますでしょう。しかし、マリアが気づくと、二人の弟子が気づくと、私達が気づくと、もう墓は開いていた。主のお姿はなかったのであります。私達が気づくと、あるのは空の墓。もう既に主イエスが復活されたのだという事実であります。

どの福音書も、主イエスの復活の記事をしるしていますが、その記事の最初、まだ夜明けの墓には、主イエスのお姿は描かれておりません。あったのは空の墓か、復活を告げる天使だけであります。墓に行くと、復活された栄光に包まれた光輝くお姿で、主イエスが出てこられたとか、そこで主イエスが、「私は復活であり、いのちである」とか言われれば、それは多くの者が信じただろうと思います。しかし、復活の信仰というのはそういうものではないんだといいます。見えるものを信じる、自分で納得いったから信じるというようなものではありません。行ってみると墓には何もない。イエスのお身体を包んでいた亜麻布だけがある。主イエスのご復活の出来事が暗示されているだけかのような出来事であります。
同じ20章で、ご復活された主イエスは、トマスの前に現れておられます。トマスは、私は「私はあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」と申しております。主イエスは、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい。」と仰せになります。トマスはすぐに「私の主、わたしの神よ。」と申しますが、主イエスは言われます。「私を見たから信じたのか。」「見ないで信じる人は、幸いである。」
見ないで信じる者は幸いである。福音書は主の復活の信仰とはそういうものなのだと申します。
どの福音書も、主イエスの復活は既に起こったこととして描かれているのです。しかも、主イエスのご復活のお姿を記す前に、空の墓をもって復活を描くのです。主イエスが姿を現されたから、それを見て信じるのではありません。何か、良い適当と思われる説明を受けたから信じたのでもありません。突然主イエスのお声がしたのでも、幻を見たのでもありません。よくわからなかった。聖書はそう言っております。しかし信じます。そういう姿を聖書は描いているのです。

今日私達は、空になった墓の知らせを、あの日マグダラのマリアから伝え聞いた二人の弟子達のように、そして、あの二人の弟子が帰っていって、墓での出来事を伝え聞いた人々のように、墓、そこに主イエスはもはやおられない。その知らせを聞いたのです。福音書は、あなたも主の復活の証人へと招かれているのです。



神はその独り子を賜うほど(ヨハネ3:16)

2006-08-17 10:20:35 | 主日礼拝説教
今朝開かれておりますヨハネによる福音書3章16節は「聖書の中の聖書」とも「小聖書」とも申されます。教会がいかにこの福音書の御言葉を大切にしてきたかが伺える表現であります。しかしそれだけに、この一節の御言葉には、あまりに深い、あまりに豊かなキリストの福音が秘められているとも言えますでしょう。この朝、ここに集う私達一人一人に、語りかけられているキリストの福音に、共に聞きたいと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
親にとってその子供を失うということは、どんなに辛いことでしょうか。しかし、その最愛の子供、しかも独り子を、私達の為に死に渡された方がいる。それが、ここに記されている、主イエス・キリストの父なる神であります。どうして神は、私達の為に独り子を賜ったのでしょうか。聖書は、「御子イエスを信じるものが、一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であると言います。

ここに「滅びる」と訳されている言葉が、聖書の中でどのように使われているかを見ていきますと、一つのことに気づきます。
今日、聖歌隊の皆さんによって捧げられた「失われた一匹の羊を探し出す羊飼いの話」や、千枚の銀貨の中の一枚が無くなってしまい、その一枚の銀貨を探し出して大喜びする話、又まだ父親が生きているというのに、自分に相当する遺産を早々に受け取り、家を飛び出して放蕩三昧する息子、その息子が回心して帰ってくるという話。それらに共通して失われたものが見出されたということが、同様な言葉を持って語られております。
聖書はその失われた人間の姿を、それらの譬えをもって記しています。本当は、羊飼いに飼われる羊であったのに、持ち主の銀貨、父の大切な子供だったのに、いつの間にかさ迷い出て、なくなってしまい、持ち主、飼い主、また父、である主イエスのもとからいなくなってしまった。それが滅びの中で死へと一直線に向かっていく人間の姿であるというのです。そのいなくなった存在を、神は必死で捜し求め、滅びの中から救い出して下さるのです。
これらの例え話の中に共通しているのは、失われた存在になっているということであります。この世的に考えるなら、「滅び」とは全く消えてなくなることであるかのように思われてしまいますが、実は聖書はそうは言っておりません。神のもとを離れていなくなってしまった存在、神のもとを離れて自分勝手に好きな方向へと歩んでいる人間、それが「滅び」の姿なのだと言うのです。

聖書は「はじめに神は天と地とを創造された」との御言葉をもって始まります。神は、天と地、そこにあるすべてを創造し、そして最初の人間、アダムとエバを創造されました。しかもそれは、とこしえに主と共に神が下さったいのちの中に生きるものとして創造されたのであります。けれども、アダムとエバが、神に食べるなと禁じられていた木から、その木の実を取って食べたことによって、アダムとエバは死に定められ、エデンの園から追放されてしまいます。禁じられた木の実を食べた。それは、自らの決定の下に神を持ってきたということであります。神を自分の決定下におき、自分が主となる。それは、まさにいなくなった羊、父の家を飛び出して放蕩三昧する息子と同じように、神をはなれて自分の生きたいように生きる。そういうことを現しております。神に罪を犯して以来、人間は罪の中にあるもの、神の聖さの前に、神との関係が絶たれ、ただ死へと向かっていく存在になってしまったのであります。聖書は、滅びということはそういうことなのだと言うのであります。

神に造られた存在、神のもとにあった存在である我々が、失われてしまっている。滅びるということは、持ち主から失われてしまった、関係を見失ってしまったということであります。そういう滅びを語る言葉が今日の福音書の中では用いられております。

神は、その滅びの中にある世を、世の人を愛されたのです。今一度福音書の御言葉に目をお留め下さい。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」神は独り子を与えるほどに世を愛されたと言います。 ここに語られる神の愛、アガペーという言葉をもって語られる神の愛は、価値あるものに与えられる愛でも、神が恵みをもって価値あると認めて下さる者に与えられる愛でもありません。それは罪人に与えられる愛であります。好きな人を愛するとか、良くしてくれたから愛するというものでも、何か条件によって図られるものでもありません。
それは、檻の中にいる、良い忠実な羊だけに向けられる愛ではなくて、檻からいなくなった一匹の羊を愛する、そういう愛であります。滅びに定められている、罪人の世界に対して示された愛なのであります。

ヨハネは手紙の中でこのように言っています。「神はその独り子を世に遣わし、彼によって私達を生きるようにしてくださった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(Ⅰヨハ4:9)神の愛は、まさに滅びの中にあった私たちに向けられた愛です。神の前に立ち得ないそういう存在、神に背いた人間にさえ向けられた愛なのです。神の愛は、人類が罪と裁きの結果死んでいかなければならない、そこから救うために、自分の独り子を与え、わたしたちの罪の身代わりとされた。 神の愛は、独り子イエス・キリストを十字架に引き渡すという行為に示された愛であります。ですから、神の愛は、独り子をわたしたちの身代わりとして十字架につけるということによって極まるのです。
ヨハネがその手紙の中に記している通り、「主はわたしたちのために命を捨ててくださった。それによって私たちは愛ということを知った」のであります。
ゴルゴダの十字架の上に示された神の愛は、わたしたちがしばしば思っているような、美しく情緒的で甘く優しいそれとは違います。神が世を愛されたというのは、決して赦されない罪を負って、死んでいかなければならなかった、その人間の、どうすることもできない罪と死、滅びのすべてを負って死んでいくという、そういう愛であります。命を差し出すほどに愛する愛でありました。

私達のありのままの姿、それは、まさにあの主イエスの十字架に示されております。あの十字架に至らせるのが、私達の罪です。私達の滅びは、あの十字架に映し出されております。「父よ、なにゆえ私を見捨てられたのですか!!」その主イエスの十字架上での叫びは、まさに他ならない私自身の叫びであります。
しかし、世が失われてはならない。あなたが失われてはならない。神は、十字架に死ぬ、それほどまでに世を愛された。神はその独り子を、惜しまず与えられたほどに世を愛された。まさしく、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この御言葉は、キリストの身代わりの死によって、わたしたちに新しい永遠の命の到来を告げております。 もはや自分たちの罪と滅びの中に死んでいくだけではなくなった。イエス・キリストが十字架にかかって私達を死から命へと移して下さった。だから今、私達はキリストとともに新しい命に生きることが出来るものとされたのです。神の愛は信じるものに赦しを与え、そして永遠のいのちへと導くのであります。

もう4年前の夏、7月26日。以前おりました教会で、小学校3年生の男の子がある日、教会学校を休みました。どうして休んだのだろうと思っていましたら、ご家族から連絡があって、原因不明の病気で入院したのだけど、当分退院できそうにないとのことでした。その半年後、彼は召されていきました。
最後に教会学校に来たとき、紙粘土で十字架を作るという工作をいたしました。粘土で十字架を作ってビーズや貝殻で飾りまして、あとは色を塗って仕上げるというものでしたが、それを造っているときに、一人の男の子が人間の形を作って十字架につけていました。すると別の男の子が「お前なんで人間なんか付けてんだよ。誰なんだよそれ!」とからかいます。十字架に人間の像を付けたその子はふざけて、「オレだよ!」と言いました。ふと、みんなイエス様信じてるでしょ!といいますと、ウンといいます。「じゃあね。イエス様を信じたものはキリストと共に一緒に十字架に付けられたんだよって聖書に書いてあるんだよ。」といいましたら、みんなビックリして、「だってオレたちここにいるじゃん!」といいます。「でも聖書に書いてあるもん。」と言いましたら、一人の子が「じゃあ俺たち死んだって事じゃん!」と言います。そうしましたら、この慎吾君は「じゃあ、僕たちよみがえったってことじゃん!」と言ったのです。それを最後に教会学校には来れなくなりました。しかしその病床にあって、自分はキリストに赦されたんだ、新しい命に生きる者とされたんだ、そのことを信じて彼は洗礼を受け、確かに復活の希望をその手に握り締めて、2月26日、天に召されていきました。

私達はいつか死を迎えます。しかし私達は、独り子を賜うほどに愛された神の愛によって、死からいのちへ移されている。信じるものが一人も滅びることのないように神は、十字架で私達の為に全ての罪を負われたのであります。
聖書は、私達は「キリストと共に十字架につけられ、キリストとともに生きるものとされた」と力強く宣言するのであります。「キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に生きるようになるだろう。」などとは言っておりません。キリストと共に十字架に付けられた。キリストと共に生きる。と、そう聖書は言っているのです。
永遠の命。それは死ぬ時にようやく与えられるようなものではなくて、今ここに、御子を信じる者に差し出されたいのちなのです。 キリストにあって私達が自らに死ぬとき、キリストにおいて与えられたいのちの中に生き始める。永遠のいのち、それは、自分に死んで「キリストにあって与えられた新しい命に生きる」生き始める、そのことであります。
主イエスは仰せになりました。「わたしはよみがえりでありいのちである。私を信じる者はたとえ死んでも生きる。生きていて私を信じる者は、誰も決して死ぬことがない。あなたはこれを信じるか。」別の箇所でまた主イエスは「死んだ者が神の子の声を聞くときがくる。今既に来ている。その声を聞いた者は生きる。」
永遠のいのちというのは、いまここに、キリストを信じる者に既に与えられている、キリストを信じる者が既に歩み出しているいのちなのであります。

主イエスは、失われた一匹の羊の滅びるのを見捨てることは出来ないとばかり、この地上にまで降り、しかも私達の罪とその裁きの結果である死を身代わりに十字架に死なれました。私達は見出され、生きる者とされたのです。先ほどの子供讃美歌「ちいさいひつじ」は、最後「とうとう優しい羊飼いは、迷子の羊を見つけました。抱かれて帰るこの羊は、喜ばしさに踊りました」と終わります。父の家よりも華やかな街のほうに魅力を感じた一人の息子、羊飼いの牧場よりも、広い野原に楽しさを見た一匹の羊。しかし羊飼いなるキリストの御腕に抱かれたとき、本当の喜びを失っていたことに気づくのです。本当の喜びに踊る、それが救いの喜びなのだといいます。しかしそれ以上に、失われていた者が見出された父の喜び、いなくなっていたものが帰ってきた父の喜び、死んでいたものが生き返った父の喜び、それは私達の想像を超えるのです。

神は独り子を給うほどに愛された。独り子のいのちに変えてもあなたという存在、この世が失われてはならなかった。それほどまでに神は、愛されたのであります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
    

高い所から低い所へ(詩113)

2006-08-15 07:34:44 | 詩篇小説教
ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。今よりとこしえに主の御名がたたえられるように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美されますように。主はすべての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝く。わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置きなお、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる。子のない女を家に返し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。
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詩篇113篇は「ほめたたえの詩篇」とも呼ばれます。この詩篇は、個人の神への讃美というよりは、共同体が礼拝において神をほめたたえる、そのような詩篇です。何をもって神をほめたたえるというのでしょうか。それは後半の部分をご覧頂ければと思います。
「主は御座を高く置き、なお低く下って天と地とをご覧になる。」(6節)高き御座にいます方が、深みに目を留められる。
神が高き御座におられるとは、神を崇めるための可能な限りの表現であり、また人間の言葉をもって表せる何とかの要約でもあります。この神の崇高さは、何にも比べられない、唯一無比、誰もこの神に比べられない。そのようなことを言っております。理解し尽くせない、神を表す相応しい表現も見つからない、想像さえできない、神に比べうる人も、物も存在しない。これが神の栄光のお姿なのだと聖書は理解しております。
ところが、これ以上ない高き御座にいますその神が、「低く下って天と地とをご覧になる。」深みに目をお留めになると今日の詩篇は申します。高き所から低く下って、被造物に目をお注ぎになる。それは低いところにある者、神に叫び求める者を助け出すためです。
私達の方からはどうしても神を知りえない。どうしても上を仰ぎえない。地上の様々な束縛、現実の中で歩むしかない人間の姿。しかし、私達が神を仰ぎえなくとも、神が私達の方へと目を注いで下さっている、それだからこそ、私達は神に呼ぶことも、助けを求めることも出来る。神に向き合うようにと招かれているのです。
 この神は、ただ高き御座から私達を見下ろしておられるだけではありませんでした。御子イエス・キリスト、最も高き所にいました神が、最も低き所に下られた。弱い者、乏しい者、そのような私達を引き上げ、喜びを与えて下さったのです。ただ一人、希みを失って歩む民に、主は救いとなられたのです。それゆえに民はこう叫ぶのです。
 「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。」(1節)

日本基督教団・聖徒教会 週報掲載小説教

主が共におられる(詩篇23)

2006-08-14 12:42:37 | 詩篇小説教
詩篇23【賛歌ダビデの詩】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。
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「詩篇の真珠」とも言われるこの23篇は、多くの人に愛され、多くの人を力づけてきました。しかし、それはただ綺麗な田園の牧歌的雰囲気とも思える、詩の美しさがそれをしてきたのではありません。死の影の谷を経験し、義しい道がわからなくなるような中で、災いが降りかかり、敵を前にするような現実の生活の中で、「あぁそうだ。主こそ私の牧者なんだ。主こそが、わたしと共にいて下さる私の羊飼いなのだ。」と気づく。そのような日々の歩みの中からこそ生まれてきたのです。この神への信頼こそが、この詩篇23編の中心を貫いているのです。
この神への信頼は、この世を歩む間だけの慰めではありません。神への信頼、そして主がわたしたちの羊飼いであるという事実は、帰るべき主の家、天のみ国にまで私達を力強く導いて行くのです。詩篇23篇は地上を歩む私達に、天の故郷を指し示しています。
この詩篇を貫く神への信頼は、私達の側から始まるのではありません。私達が主を信頼する前から、私達が主こそ羊飼いであると気づく前から、もうすでに主が私達の羊飼いでいらっしゃる。主が私達を守り、導いて下さるお方なのだというのです。帰るべき家を私達が作るのではありません。私達には備えられている天の故郷がある。私達は、創造主なる神にあって生かされ、やがて帰るべき天の家へと帰る。私達の歩みは、主が共におられるという事実によって、恐れることなく、神への信頼の中で導かれていくのです。
この詩篇の御言葉は、ただ楽天的に恵まれた生活をしている豊かさの中で生まれたのではありません。ダビデの様々な痛み、困難の中にあってなされた神への信頼の告白なのです。自らに受けた傷を包み込むかのように、あの美しい真珠が造られていくように、まさに痛みの中に、乏しい生活の現実の中にあって生まれた御言葉であるからこそ、同じく地上の旅路をゆく主の民の一人一人を、今日も慰め、力づけ続けているのです。

日本基督教団・聖徒教会 週報掲載小説教