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「わたしのもとに来させなさい」マルコ10:13-16

2007-11-30 21:57:24 | 主日以外の説教
「わたしのもとに来させなさい」マルコ10:13-16

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
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 主イエスが子供達を腕に抱いて祝福しておられる。今朝開かれております福音書の箇所は、まことに美しい情景を描き出しております、またそれゆえに沢山のキリスト教絵画の題材にもなってきました。
 この朝、私たちに与えられた神の御言葉に共に聞きたいと思います。
マルコによる福音書10章13節 新約聖書の81頁です。
10:13 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」

 人々は、自分の子供達を主イエスに祝福していただこうと、主イエスに触れて頂くために、み側に連れてまいりました。主イエスがおられた当時のユダヤでは、子供達を礼拝所に連れて行って、祝福をしてもらうという習慣があったようです。ですから、この日もまた、主イエスに触って頂けば、子供達が祝福されると単純に考えて、人々は子供達を、み側に連れてきたと言えますでしょう。

 ところが福音書の御言葉は、「弟子達はこの人々を叱った」と伝えております。弟子達は、主イエスのみ側に来ようとする幼子達をさえぎろうとします。主イエスのお側に子供が来ては煩わしいと思ったのです。弟子達なりに、主イエスのもとに行くものの姿はこうあるべきだと考えていたのであります。
その時、主イエスは14節。
10:14 これを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と仰せになります。
 主イエスはこれを憤られたと、非常に強い言葉が用いられています。
弟子達は、彼らなりの見方で主イエスのもとに子供達が来ては煩わしいと思ったのでした。ところが、当の弟子達は、彼らが主の前に相応しかったから主イエスに召し出され、主イエスの弟子とされたのでしょうか。ここに集うわたしたちもまた、私たちが主イエスのみ側にいるに相応しかったから主イエスの救いに預かり、私たちが相応しかったから主の召しに与ったのでしょうか。この日、主イエスのもとに集った弟子達もまた、欠けだらけの存在でした。
 主イエスのもとに招かれ、迎えられているというのは、私たちの相応しさの問題ではありません。私たちが相応しくないにもかかわらず、主イエスが私たちのもとに来られ、またこの私たちを神の国へと招いておられるのであります。
主の前に出るものの相応しさを問おうとした弟子達、一方で、主を求めた子供達とその子供達を連れてきた人々。ここには何と大きな差があることでしょうか。

 私たちを求めるキリスト。主イエスは、わたしたちの相応しさゆえに、わたしたちを救おうとしておられるのではありません。私たちの姿、にもかかわらず、救おうとなさるのです。
 その意味で、私たちは、この主イエスの前に、赦されるにまかせ、救われるにまかせるほかないのです。ところが、これこそ、神の前に出るものの姿なのです。イエスは人々からすれば、世間一般からすれば、到底相応しくないと思われる者、そういう者を救わんと世に来られたのであります。

 私たちは、幼子のようになりなさいと言われますと、なるほど、純真で
心が清められなければ神の国に入れない。さあ一生懸命精進して、神の国に相応しい者になろうと思い違いをしやすいのです。幼子のような純真さを持たなければならないと、また律法主義的な発想をしてしまうのです。しかし、今日の福音書の御言葉が語っているのは、そういうことではありません。
 聖書の記された時代にあって、現代のわれわれが考えるように、子供を理想化して見るそのような見方はありませんでした。子供たちは、その資格においても、一人の個人として見られず、当然地位も権力もありません。この当時のユダヤ教の世界では、その人が律法を守っているかどうかが、人を判断する基準でありました。子供は律法を知らず、覚えておらず、守ることも出来ない。そうしますと、子供は神様のみ前で弱い存在、取るに足りない存在として扱われてきたわけです。神様の御前に誇ることが出来るものを何も持っていない存在、それが子供でありました。
つまり、「幼子のようになれ」と主イエスが仰せになるとき、現代の私たちが思うような罪汚れのない、純真で素直な子供の姿を思い描く時代ではありませんでした。先ほど申しましたように、主イエスが「幼子のようにならなければ」と仰せになるとき、それは、自らの力では一人前のことが出来ない、父に依存するしか生きるすべがない、そういう子供たちの姿を語っておられるのです。
 子供たちは何も持たない空手のままで、主イエスのもとに参ります。そして主イエスは、その子供達を喜んで迎えてくださる。そればかりが、子供達は主イエスの御手から良きものを受ける。神の国を受けるのです。上から与えられるものを、与えられるままに素直に受け入れる、そのことが語られているのです。

 この朝開かれています聖書の箇所に続いて、富める青年の話が記されています。この青年は、神の前に出る者の相応しさを問おうとしたわけです。「善い先生。どんな良いことすればよいでしょうか」つまり、自分の相応しさを求め、良い方ご自身を求めてはいなかったのです。ここにも、幼子と青年の大きな違いがあります。

15節にはこのようにあります。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
 自分でしようとするのではない、そうではなくて、神のなされるままに任せる、そういう子供の姿を主イエスは教えておられるのです。われわれ人間が神の国に入るに相応しい条件を作ることも、それに合格することも出来ません。
神の国は、神の側からわれわれに与えられる一方的な恵みの賜物そのものであります。

■新しいアダム
 聖書の一番初めに、創世記という書物があります。ここには、神に創造された最初の人物「アダム」という人が出て参ります。アダムは神に創造され、神の造られた主の恵みに満ちた園に生かされていました。ところが、神に食べるなと禁じられていた木から、その木の実を取って食べたことで眼が開かれ、自分が裸であることに気づくのです。アダムはその罪の結果、自分が裸であること、あらゆるものに不足していることに気がついたのです。そして神から逃げます。アダムは神の前に相応しくない姿であると思ったわけです。

 主イエスは、最後のアダム であると聖書は告げます。主イエスは、子としての生き方をわれわれに示されました。主イエスは、どこまでも天の父に信頼して生きたお方です。主イエスのご生涯は、全き天の御父への信頼によるご生涯であったと言えますでしょう。
 マルコ1章10節以下に主イエスの洗礼の記事があります。主イエスが、公生涯の初めにバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったとき、天からの声がこのように告げます。「あなたは私の愛する子。わたしのこころにかなうものである。」これこそ、主イエスのご生涯をあらわす言葉であります。今日開かれておりますマルコによる福音書は、「神の子」「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と一章一節を書き出しています。
 イエスの本当の姿が示された言葉、神の宣言であります。
 主イエスは、神の愛される子であった。主イエスは、世に遣わされ、この主イエスを通してまた、すべての人が自分も神に愛されている存在であり、神の子とされているのだと知る。天の父は、御子イエス・キリストのゆえに、今朝ここに集う私たちをも、子として招いて下さっているのです。
 この世の声は、「愛する子」と呼びたもうお方の声から、私たちを遠ざけようとします。しかし、わたしたちの存在は、このような私たちにもかかわらず愛し、無条件に愛し求めたもう神の熱愛によって求められ、探されている存在なのであります。

 15節にお目をお留め下さい。15節。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ここにあります「はっきり言っておく」とは、「アーメン。私は言う」そういう荘厳な言葉。宣言であります。子供のようにならなければ、つまり、自分で自分を守ろうとするのではなく、保護者である方に全く信頼して任せる、そういうものでなければ神の国を受けることはできないというのです。しかし、それこそまさに福音そのものなのであります。自らの相応しさに合格したものしか救われない、神の国に招かれないとしたならば、誰がその相応しさに適すると認められるでありましょうか。
 私たちは、自らの相応しさを求めようとすればするほど、自らの貧しさに気づきます。
 しかし、キリストは、そういうわれわれの救いのための一切をなして下さったのです。われわれは、この方に一切を信頼するほかないのです。

 主イエスは、わたしたちがまだ相応しくない時、まだ罪人であったときに十字架を負い、死んで下さり、わたしたちの贖いとなって下さったのです。
私たちが純真でも、心清くもない、そういう罪の中にあった時、神は独り子を世に遣わし、私たちに対する愛を示されたのです。

 子供とは先程申し上げましたように、神様のみ前に誇ることが何もない以上、ただ神様の恵みにすがるしかできない存在です。この恵みにすがるしかできない生き方のことを『子供のように神の国を受け入れる』とイエス様はおっしゃっているのです。
 神の国は、神の御前に何も誇ることが出来ない存在、他人から取るに足りない存在と思われている人たちのものなのです。自分の力で何かをなすことが出来ないことを知り、神様にすがって生きていくものが神の国にはいることが出来る。そう言った人たちこそ、一方的な神様の賜物である救いを与えられると御言葉は語るのです。
 ここに集う私たちもまた、主イエスのみ前に連れてこられた、主イエスのもとに集いきた者の一人であります。御子イエス・キリストを世に賜い、その死と復活とによって私たちを神の子としたもう天の父は、御許に集う幼子にすぎない私たちを、腕に抱き、ねんごろに祝福を下さる。神の国の豊かな恵みを下さるのです。
主イエスは今日もまた、神の国へと人々を招いておられるのです。

説教「あなたのために祈った」旧・ホセア6:1-3/新・ルカ22:31-34

2007-11-18 18:53:22 | 主日礼拝説教
説教「あなたのために祈った」旧・ホセア6:1-3/新・ルカ22:31-34/讃312

22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

■わたしの試みの日
今朝、少し早く起きまして、西公園の殉教碑というのを見て参りました。1624年の広瀬河畔の殉教については、少し存じていたのですが、今回改めて知ることができました。
殉教者たちは、キリストを否めば助かるわけですが、寒い冬の日に、川の中に連れて行かれ、水責めによって殉教していったと記されていました。今日の福音書の御言葉で言いますと、厳しい試みにふるわれてもなお、神への信頼に生きたわけです。

今朝私たちに与えられた福音書の御言葉を見てまいりますと、サタンが神にペトロを試みることを願い出て、許しを得た。 そしてペトロは試みられ、ついにペトロは、三度キリストを知らないと告げたわけです。
今日に生きる私たちは、殉教や、最後の晩餐の夜のペトロのような試練に直面することはないかもしれませんが、やはり私たちにも、皆それぞれに人には言えないような試みや、苦しみ、痛みがあって、麦がふるいの上でふるわれるように、自らの力ではもうどうすることも出来ないような無力さの中でふるわれる。そのような事が時として起こるわけです。
そういたしますと、ここにありますペトロの出来事は、ほかならない私自身の、身につまされる出来事となって参ります。

この朝、私たちに与えられた主の御言葉に共に聞きたいと思います。
ルカによる福音書22章の31節。新約聖書154頁です。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。」

御言葉は、サタンがペトロを試みることを神に願い、それが聞き入れられたというのです。そこで私たちは疑問を抱くわけです。
聖書の神は、愛の神である。わたしたちを愛して、いつも共に居てくださる神であるはずなのに、どうして試みからお守り下さらなかったのか?! 助けて下さらなかったのかと思ったりするわけです。ここにいる私たち自身の試みの日に、苦しみ、悩みの日に、神はどうして私を、このような試みに、あわせられるのだろうかと問うのです。なぜこのような苦しみを背負って生きていかなければならないのかと問うわけです。けれども、今日の聖書の箇所にもその答えは書いてありません。よくわからないのです。

■ヨブの試み
旧約聖書を読んで参りますと、詩編の一つ前に「ヨブ記」という書物があります。そこにヨブという人物が出て参ります。ペトロとよく似た体験をするわけです。ヨブは正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてきた。沢山のものに恵まれ、国一番の富豪であったと記されています。ところが、サタンはこのヨブを試みることを神に願い出るのです。神はサタンにヨブを試みることを、お許しになりました。

ヨブ記を見ますと1章8節に、神はヨブを「私のしもべヨブ」と呼んでおられるのです。神が「わたしのしもべヨブ」と呼んで下さる存在でありました。同じように、ここにいる私たちも、洗礼によって確かに、天の父の「子」とされた存在であります。

ところが、そういうヨブ、ペトロ、ほかならない私たち一人一人が試みにあう。神様を信じて生きているのに、どうしてこうも試みがあるだろうか、神はどこに行ってしまわれたのだろうかと思うのです。
私たちは、試みの中で、また長い間その試みが続くほどに、もがき苦しみます。けれども、ヨブはやはり「神のしもべ」に変わりない。ペトロはキリストの弟子であることに変わりなく、私たちもまた、それでも神の子であることに変わりありません。
試みの中にあってもただ一つ確かなこと。それは、神がサタンの手に、ペトロやヨブ、またここにいる私たちを、決して渡されたのではないということです。神は、試みをお許しになられたのではありますが、その愛する者を、決してその手から離されたのでも、見捨てられたのでもないということです。試みの只中にあっても、わたしたちの存在は神の手の中にある。神の許しの中にある。
ですから、たとえ試みの中にあったとしても、むなしく痛めつけられるのではない。ヨブはその試みを通して、神に守られ、なお神への信頼を篤くしました。ヨブにとっては、すべてから打ち捨てられたかのような日々でありましたけれども、それによって、ヨブが神の僕であることが再確認されたのであります。
ペトロも同じです。キリストを裏切り、外に出て激しく泣きます。しかし、自らの罪の姿に気づき、キリストの愛の眼差しに触れて悔い改め、またペトロも神の僕、まことの宣教者として立ち上がって行くのです。

今朝は、この福音書に記されていますペトロについて、特に取り上げてみたいと思うのです。

■救われるべきは自分だった
ミラノの司教をされていましたマルティーニという方の本に、「宣教者を育てるキリスト」というものがあります。その中で今日の福音書の箇所に出てきますペトロの姿についてこのように言われています。
マルティーニは、ここに出てくるペトロの問題というのは、「兄弟たちを力づけてやりなさい」という自分の役割にばかり注目して、「あなたのために祈った」というキリストの言葉を聞こうとしなかったことだと書いています。

主イエスはペトロに、あなたがたは試みられるが、「あなたの信仰がなくならないように祈った」と、仰るわけです。ところが、その主イエスに対してペトロは「主よ。御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言います。何とも勇ましい言葉です。言い換えますならば、「イエス様、わたくしはあなたがどこに行くにも、あなたと共にいます。たとえ牢にも一緒に参ります。あなたの身に危害が及ぶようなことがあれば、私が全力でお守りいたします。心配しないで下さい。恐れないで下さい。」このような内容のことであります。ペトロは熱心だったのです。真心からこういう態度をとったのでしょう。ところが、ペトロの間違いというのは、ペトロのほうが主イエスをお助けしようとしていたという所にあります。ペトロが主イエスを助けようと、救おうと思い、自分の方こそキリストに助けられ、救われなければならないことを忘れていたのです。
つまり、ペトロは主イエスをお助けしたかったのですが、救われなければならなかったのは、他ならないペトロ自身であることに気づいていなかったのでした。
自分に頼ることには沢山の魅力があります。自分の実力も達成感も感じます。自分で自分の人生を支えているという満足感もあります。
この日までのペトロは、自分で主に従えると思っていた。自分の力量をみて、主イエスに従っていけると思っていた。ですから、私はたとえ死んでもあなたに従っていきますというようなことを言うわけです。自分の力量をみて、自分の努力で、熱心さで信仰が建て上げられると思い込んでいた。
ところがそこが大きな間違いだったわけです。
このペトロの勇ましい告白、ペトロの自己依存は、ものの見事に崩れ落ちるのです。ペトロはこの告白の僅か数時間後には、キリストを知らないと三度主イエスを否むのです。
キリストを信じ、従うというのは、自分の忠誠の問題ではありません。ペトロの人生、キリスト者、更には主に召しだされた者の歩みというのは、自分の力ではなく、主イエスのとりなしによってこそ立ち続けることが出来るものなのです。
その意味で、ペトロは自分の務め、自分の役割や力ばかりを見て、主イエスの「あなたのために祈った」という御言葉を聞こうとしていなかったと言えますでしょう。

■どん底の恵み
34節の御言葉にお眼をお留め下さい。
「イエスは言われた。『ペトロ。言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」
ペトロは、たとえ死んでもあなたに従っていきますと言った直後、三度主を知らないと否むわけです。ペトロも、まさか自分がここまで落ちるとは思っていなかった。言ってみるならば、人生のどん底を体験したわけです。これ以上に落ちるところはない所まで突き落とされたわけです。ヨブの場合とは違う人生のどん底を体験したのです。
しかし、そのどん底で、まさしく主イエスが言われたように、麦がふるいの上でふるわれるにまかせ、もはや自分の力では立つことも起きることもできない、命の抜けきったようなどん底の中で、ペトロは気づいたのです。
もはや、この自分は、神の前で、愛されるに任せ、赦されるに任せ、救われるに任せるほか、何も出来ないことを知るわけです。それが宣教者ペトロ、神に召し出されたペトロの新しい土台となったのです。

イエスのために死ぬことさえいとわないと言ったペトロでしたが、実は主イエスの方こそ、ペトロのために死んで下さった。信頼し、身を任せるべきは、ほかならないこの私自身なのです。

クリスチャンとは、何の試みも痛みもないそういう安穏な人生をいく人々のことではありません。たとえ、そういう試みや問題の中にあっても、今日のペトロのように、主イエスの祈りに支えられ、たとえ倒れても、失敗しても、再び立ち上がっていく。私たちはそういう歩みを歩むことが出来る。
今日の福音書の御言葉をみますと、信仰者がふるわれる、そしてことによると主イエスを裏切るほどに失敗することがあることがよくわかります。しかし、失敗したとしても、話しはそれで終わらないのです。キリストのとりなしの祈りによってそこから立ち上がり、「立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、主がそういうペトロに、私たちに新しい務めを委ねてくださるのです。言うなれば、主イエスは、失敗者の前に、将来を描き出して下さったのです。
キリスト者に求められているのは、決して失敗しないことではなくて、たとえ失敗したとしても、試みの中にあったとしても、再びそこから立ち上がっていく、そのことであります。そしてそのための一切を、主イエスがなして下さったのです。

■十字架のキリストによって
「あなたのために祈った」そう仰せになる主イエスは、ゲッセマネへと向かい、そして十字架へと向かって行かれました。主イエスのとりなし、その究極は、まさにあの十字架にあります。自らの罪のために、神のもとを離れ、ただ滅びに向かうしかなかった私たちの為に、天の父は御子イエス・キリストを世に遣わし、キリストは自ら十字架を負って、わたしたちの罪の身代わりとなられました。
私たちは、私たちの悲惨の姿を自分の中に見て、自分は何と惨めな存在なのだと悲嘆に暮れます。自らの惨めさを自分の中に見て絶望しそうになるのです。
しかし、あの十字架の上に、そこに苦しむ主イエスの御顔を仰ぐとき、そこにこそ私たちの苦難、絶望の姿がまざまざと示されているのであります。もはや私たちの身代わりに主イエスがそれらすべてを負って死なれた、そして復活された!!
私たちを絶望から解き放ったのは、神の愛、しかも独り子をたもう程に愛したもう天の父の熱情以外の何ものでもないのです。
主イエスの十字架!! 主イエスのこの苦しみの只中にこそ、この私たちが復活の朝へと向かう希望が示されていることを知るのです。
ドイツのある牧師が自らの愛するものを壮絶な仕方で亡くしました。そのしばらく後にラジオでこのような説教をしました。「すべての試みに潜む危険は、わたしたちが諦めてしまうことです。苦難と悲しみの中にあっても、神が将来への道を開いて下さる。過去の自分しか見ることのできない私たちを、将来へと向かわせて下さるのです。」
まさに、私たちの救いのための一切を、主イエスは成して下さいました。ですから、私たちは、無力さの只中でも、人生のどん底でも、ただこの主イエスに信頼し、愛されるに任せ、赦されるに任せ、救われるに任せるのです。たった一人だと思っていた私たち、誰も私のことなどわかってくれないと思っていた私たちのそばに、主キリストが立っておられるのです。

■それでも召された私たち
主イエスは、自分を裏切る、失敗をする、そういうペトロの弱さをご存知の上で、なおペトロを召し、主の弟子とされたのです。ここにいる私たち一人一人も同じです。神はそれでもなお、そういうあなたを、私たち一人一人を、お召しになったのです。まさに、神の一方的な恵みによって選ばれたということであります。
わたしたちは、弱く、貧しく、情けない、嵐がくるとたちどころに揺れて進まない舟のような存在です。けれども、そういう自分も神の子とされた。もはや、キリスト者の生は、神の御手の中にしっかりと握られているのです。神は決してその手をお放しにならないのです。

■教会に生きる私たち
この朝、私たちは教会に集い、主の日の礼拝を共に捧げております。教会は、この主イエスの祈りによって再び立ち上がった者たちの集いです。わたしたちは一人で空しく生きているのではありません。主イエスは教会へと私たちを迎えて下さったのです。もし私たちが神への讃美を歌えない悲しみの時にも、教会は神への讃美を歌い、祈れないその日にも、教会は神の民のために、あなたのために、祈りを捧げ続けているのです。わたしたちは、そういう共同体の中に生かされる恵みを頂いているのです。何と心強いことでしょうか。

あなたのために祈った。わたしたちの歩みは、このキリストの祈りに支えられ、再び立ち上がる希望を頂いた歩みなのです。
主は皆さんと共におられます。主が下さる平安のうちに、この所から立ち上がって行きましょう。

今日の祈り36

2007-11-16 08:12:26 | 今日の祈り
愛の主よ。

わたしは、わたしがあなたと共に歩んでいると
思っていました。

けれども主よ、
わたしと共に歩んで下さっているのは、
ほかならないあなたご自身であることを知りました。

わたしがあなたを見上げることの出来ないほどに
思い煩い、苦しむとき、
あなたは私の手を離されませんでした。
わたしを祝福し、わたしの生涯に希望を与えて下さいました。
アーメン


子供説教「サマリヤの女」ヨハネ4章

2007-11-11 07:59:11 | 子供の説教
イエス様に出会った人たちのお話を続けています。
今日は、イエス様がユダヤからガリラヤへと旅をしておられるとき、サマリヤのシカルという町を通られたときのお話です。
暑いお昼頃のことでした。このサマリヤのシカルという町の井戸の側で、旅に疲れたイエス様は休んでおられました。すると、一人の女の人が井戸に水を汲みにきたのです。
そのとき、イエス様はこのサマリヤの女の人に話しかけられたのです。

聖書をお読みしますので、どうぞ聞いて下さい。
ヨハネによる福音書の4章7節から14節です。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

イエス様は、井戸のそばで、わたしがあなたにあげることのできる水がある。それは、決して乾くことのない永遠の命の水だとおっしゃいました。

いまは、あまり井戸をみることがないのですけれど、みなさんは見たことがありますか?
僕も何度か見たことがあります。深い穴を掘ると、その底から水が沸いてきますから、それを長いロープの先にバケツをくくりつけたものなどで汲み上げるわけです。もう少し最近まで使われていた井戸は、それとは違って、ポンプで汲み上げる井戸もあります。そして、生活に使うのですけれど、井戸の水は雨が降らない日が続くと、カラカラに乾いて水がなくなってしまうことがあります。

イエス様は、わたしのあげる水は乾かない。しかも永遠のいのちの水をあげると言われました。
乾かない永遠のいのちの水って何でしょうか?

イエス様はサマリヤの女の人の心をよくご存知でした。
女の人が、飲む水はここにあっても、心の中は本当は乾いたままだったことをよくご存知でした。
この女の人は、あまり人には言いたくないような人生を過ごしてきた人でした。暑い昼間に水を汲みに来なくても、朝涼しいうちに水を汲みにきたらいいのです。でも、この女の人は人目を避けて、誰も出てこない熱い昼間に水を汲みにきていたのです。


今日はここに一杯のお水を持ってきました。(金色の箱をあける)
わたしたちは喉が渇くと、お水がほしくなります。人間はずっとお水を飲まないでいると、身体の力がなくって、いのちも危なくなります。私たちの心も同じです。こころが乾くと、本当につらいと思います。わたしたちの心も水を必要としています。それは、このコップにあるような水ではなくて、イエス様が今日下さろうとしている永遠の命にいたる水です。

サマリヤの女の人が抱えていた罪は、イエス様によって赦されました。
女の人の心の中に、救われた喜びが溢れてきました。
この女の人もイエス様に祝福された人なのです。

自分は罪人だと、自分は人にあわせる顔なんてないと思っていた女の人が、イエス様に出会って、わたしはイエス様に救われたんだ、罪赦されたんだ、イエス様に祝福された人生を歩めるんだ。そういう希みを頂いたのです。

イエス様は、むかし井戸のそばで女の人に下さったように、今日ここにいる私たちにも、永遠の命の水を下さろうとしているのです。わたしたちに、けっして乾くことのない永遠の命の水を豊かに下さるのです。そして、弱った心を元気付け、新しい力を頂いて歩むことができるようにとしてくださるのです。そのとき、イエス様こそ、本当に私の救い主なんだと告白することができるのです。

お祈りいたします。
天の父なる神様。わたしたちを礼拝に招いて下さってありがとうございます。
今日あなたの御言葉を聞きました。あなたは、わたしたちに、決して乾くことのない永遠の命に至る水を下さるとおっしゃいました。わたしたちにも、そのお恵みをお与え下さい。そして、わたしたちも救われた喜びをまわりの人々に伝えることができますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

今日の祈り35

2007-11-07 06:51:19 | 今日の祈り
わたしたちの喜び、旅路の光である主よ。

あなたからの光に照らされた世界と共に
讃美の歌を歌います。

地上の旅路を歩むわたしたちの唇に、絶えず
あなたへの讃美を歌わせてください。

あなたが私にくださった、数え切れない恵みを、
あなたの愛の深さ、広さを、
そして、独り子をも下さるほどに愛された天の父を、
いつまでもほめたたえることができますように。

そして、あなたの御国に迎えられるその日まで、
わたしたちの口に讃美の歌を歌わせて下さい。
アーメン

今日の祈り34(諸聖徒日・召天者記念日)

2007-11-02 15:17:16 | 今日の祈り
いのちの源である神よ。
あなたは罪人であった私たちを愛し、御子キリストを十字架につけ、
その死と復活によって永遠の命の希望を確かにして下さいました。

諸聖徒の日に際して祈る私たちの祈りに耳を傾けて下さい。

復活の主よ。
世を去ったすべての逝去者を覚えて祈ります。
愛するものをあわれみ、あなたの平安と慰めの御腕に憩わせてください。

私たちもいつの日か、あなたの御国に迎えられ、永遠の喜びに与る
ことができますように。
アーメン