ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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「和解」マタイ5:21-26

2006-08-27 19:48:47 | 主日礼拝説教
聖書は私達に「赦し」ということを語ります。今朝開かれました福音書の中にも、そのことが重ねて語られております。この福音書が記されました時にも、主イエスが、そのご生涯においてこの福音書の御言葉を語られました時にも、やはりそこには、今日の私達のおります社会、世界と同じように、様々な事でいがみ合い、敵対し、毒のある言葉や中傷が飛び交う姿があり、主イエスの御言葉を聴こうと集まっている者の中にも、又、マタイがおりました教会の中にも、やはりそのような現実がありました。今日主の前に集う私たちも自らを省みつつ、語られた主イエスの御言葉を聞きたいと思うのです。

共に御言葉を聞きましょう。マタイによる福音書5章21節。5:21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 ここで主イエスは弟子たちも、そこにいるユダヤの人たちも良く知っている旧約の律法を取り上げて語られます。けれども、その後に更に続けてこのように言われます。22節。5:22 しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。主イエスの前に御言葉を聞いている者たちは、自分は主イエスが言われた先の律法の通り、人を殺したりしていない。自分は神様のご意思を果している。と、そのように思っていた事でしょう。けれども、主イエスはその人を殺すという行為だけではなくて、私たちの心の悪にまで突き詰めてお語りになられます。
人間の裁きというものは、私達の心にまで入り込んでくることは出来ません。しかし神は、出来上がった犯罪行為だけではなくて、私共の心の中のどうしようもなく湧き上がってくる怒りや、隠れた思いまでをも問われるのです。
私達も、昔の弟子たちと同じように、どんなに心に怒りが煮えたぎっていたとしても、自分で何とかその怒りを押さえつけて、それで神の前には、自分は誰をも傷つけていないと澄ましている。そのようなことをしておりませんでしょうか。
主イエスは、そのような私達の心の思いまで、神の前に裁かれるのだと、厳しくお語りになりました。
神の愛は、たとえ私たちの心の内に隠れた、奥深くにあるものであっても、その悪いものを受け止めることも、耐えることも出来ないほどに厳しく強いものであります。私達は、あの愛に満ちた慈愛の父が、あのお優しい神様が、どうしてこんなにも厳しく、攻められるのでしょうか?厳しいことをおっしゃるのでしょうか?と、そのように考えたり思ったり致します。 これほどまでに悪をお嫌いになり、それほどまでに真剣に私たちの中にある悪というものを見られ、その悪をはっきりと断罪されるのは、一体どういうことでありますでしょうか?

しかし、このあまりに厳しいと思われる裁きの厳しさこそ、神の愛の迫りであります。神は罪を受け入れることが出来ない聖なる神であります。しかし、罪人を愛される、しかも十字架に御独り子の命を差し出しすほどに、罪人、私たち一人一人を愛される神であります。あなたという存在、また私達一人一人という存在の決して失われることのないようにであります。
神の前に罪は、いかにしても受け難き事柄なのであります。ですから聖なる神はこの私たちの罪と言うことについて非常に厳しく問われるのであります。それと同時に、私たちではどうしようもない事柄であるからこそ、主イエスの命を差し出して神の側から私たちに歩むいのちの道を備えて下さったのであります。

そうは申しましても、人間はそう簡単に人の罪を赦すことも、和解することも困難な者であります。私を含めてのことですのでお許しいただきたいのでずが、皆それぞれに、「赦しなさい」と言われても、なかなか赦すことが出来る者ではありません。けれども主イエスはそれをせよと、赦しなさいと、早く和解しなさいとお語りになるのです。
「主よ私の罪は赦して下さい。でもあの人だけはどうしても赦せません」「主よ、どうしてもこの人だけは、この事だけは赦せません」そのように思ったり祈ったり呻く訳であります。
けれども、今日も主イエスは「まず仲直りをしなさい。」「早く和解しなさい」と、そのように語られるのです。私達はこの御言葉を聞いて、その主の声に促されて、あの人の方を、この人の方を向くわけです。なんとか赦したいと思うのであります。そこにおいて、私達はその「心」を主イエスによって和解へと向けるのです。しかしそれでも私達は赦せない、自分の力でどうすることも出来ないと、思ったり、悩んだり致します。自分で赦すことが出来る事には限界もあります。
ある司祭は、罪を赦すということは、あの人が神の前で元気に生きるようにと願うことだと申しました。あの人も神に造られた者、あの人も、神の前に元気に生きてほしい。それはただ健康にとか、元気になどという話しではなくて、主の前に正しくと生きてほしいと言う意味に受け止める事でしょう。そういう、あの人、この人のまことの命への道を願う、それが罪の赦しを願うことなのだと言うのです。

しかしそれでも私達は、赦せないその時にこそ、赦せないというそのままの姿で、主イエスの十字架の前に出て行くのであります。自分には人を赦す力も何もない。どうにも自分の力で赦すことも和解することもできない。だからこそ、主イエスの十字架が必要なのです。十字架の前にお手上げするほかないのであります。
福音書に語られております主イエスのこれらの厳しい言葉は、言ってみれば私達への死刑判決のようなものです。しかしこれほどまでに厳しくありますのは、その主が、また罪の赦しの主であり、和解の主であるからにほかなりません。

私達はいともたやすく兄弟に、また周りにいる人たちに腹を立てるような者でありますし、聖書に主イエスが言われたように「あいつは馬鹿だ」とか「愚か者だ」とか思ったり言ったりするものでもあります。主イエスはそのような心の内の私たちの罪にまでその責任を問われるのであります。けれども、だからと言って「こうなったらお終いだ」と人を切り捨てるような事はなさいませんでした。それでも神は、わたしたちを愛して下さった。あまりに多くの罪の為に死んでいかなければならなかった私たちの罪を、裁きを身におって、主イエスはその身代わりに、あの十字架の上に死なれたのであります。

私達はどうして罪を知るのでしょうか?それはまさに十字架の上にであります。
私達はどうして赦しを知るのでしょうか?それも十字架の主を仰ぐ時にであります。私達はどうして赦されたのでしょうか? それは、あの見るに耐えない十字架の上に、主イエスが死んで下さったからであります。
私達は自らの姿を見ているだけで、自分の本当の姿に気づくことはできません。自分の本当の姿。自分の汚さに気づくものではありません。私たちは気が付くとその臭い物にふたをして、別の方向をむいて平気で暮らしております。けれどもそのような私達でも、主イエスの前に立ちますとき、自分の本当の姿に気づかされるのです。23節以下の御言葉にお目をお留め下さい。
23節 5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
祭壇の前に立つときに、自分の罪、自分の問題が見えてくる。・・・自分は大丈夫だ。ほどほどにイイ人間だと思っていた自分が、主イエスの前に立ったときに始めて、このままではダメなんだと思い切り知らされるのです。先週のペトロやマタイの話と同様であります。自分は主イエスと出会ったから、このままの自分で大丈夫だ。何とかうまくやっていけると思っていた。しかしそこに問題があったと気づくのです。自分を見つめるだけでは自分の本当の姿に気づくことは出来なかった。キリストと出会い、キリストを見つめるとき、そのときに自分の真の姿が見えてくる。自分の罪深い姿を真摯に受け止めるのです。しかしあまりに厳しいとも思われるそのことも、また同時に神の前に立つ者に与えられる、神の計り知れないほどに豊かなお恵みにほかならないのです。

自分の罪があらわにされることが、どうして恵みだと言えるのでしょうか。私達は、主イエスの前に自分の罪に気づくとき、同時にわたしたちの為に、わたしの為に血を流された主イエスを見るのです。主は私達を罪の中に捨て置くことを決してなさいませんでした。わたしたちはあの聖い神の前に立てるものではなかったのに、神からはなれ、自分勝手に罪を犯し、好き放題生きて、人を傷つけ、自分を傷つけ、死んでいくしかなかったそういう存在でありましたのに、主イエスはそれを代わって負われ、十字架に身代わりとなられたのであります。その愛のゆえに、私達は悔い改めて生きる事ができるようになったのです。悔い改めて生きるというお恵みが与えられたのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
キリストのあまりに厳しい裁き、小さな罪の一つも見過ごしにはなさらない神、しかしそれは、そんなことであなたが失われてはならない。あなたは神の子なんだ。わたしの目に高価で尊い、主が命をかけて愛しておられる存在なんだ、あなたのためなら、独り子イエスを十字架にかけても惜しくはない、それほどまでにあなたを、私達一人一人を愛される神の愛の大きな迫りにほかならないのです。

わたしたちの人生は聖書の言う通り「あなたを訴えるものと一緒に道を行く」そういう道行きです。私達の歩みは、教会にあって、またこの世界にあって、神の子達と共に天を目指す、そういう旅であります。ひとつの神の国へと歩む者であり、そのように招かれている者であります。
そういう人生を、わたしたちはどう生きるのか、キリストはその地上での生涯を通して、私達にお示しになりました。人をののしり、いがみあいつつ生きるのか、それとも主の愛を仰ぎつつ、赦された証として赦しを祈りつつ、求めつつ生きていくのか、平和を考えさせられる月、八月の歩みの最後の聖日にあって、わたしたちはいま一度主の御言葉を聴き、わたしたちが赦されたあの主イエスの十字架へと、愛の神へと目を上げることと致しましょう。

日本基督教団聖徒教会・2006年8月27日・主日礼拝説教


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