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説教「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」

2009-06-30 13:52:52 | 主日礼拝説教
聖書 ヨハネによる福音書15章1~8節

 今日の福音書で主イエスは、神とわたしたち人間との関係を、二つの譬えで語られます。一つは、15章1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」もう一つは5節「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という御言葉です。ここでまず1節では父なる神と主キリストとの関係が語られていて、5節ではぶどうの木である「わたし」、つまりまことのぶどうの木である主イエス・キリストとわたしたちとの関係が語られています。
 まず1節ですけれど、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と記されていました。父である神は、ぶどう園の農夫であり、主キリストはぶどうの木であると語られているわけです。続く2節ですけれど、「15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」ここでは、まことのぶどうの木に繋がったわたしたちキリスト者の姿を「枝」であると語られています。ところが、この枝でも「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」と記されていますので、わたしたちは大丈夫だろうかと不安に思ったりするわけです。

 ここに「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」とありましたけれど、しかしまず注目したいのは、実を結ばない枝は取り除かれるということは、逆を言えば、わたしたちは実を結ぶ枝であることが求められているということなのです。ぶどう園の農夫である父なる神は、あなたが実を結ぶものであることを期待してくださっているのです。
 
 続く3節~4節にこのようにありました。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」ここに「あなたがたは既に清くなっている。」とありました。清くなっているというのは、それはもはや剪定される存在ではないということです。
 今日丁寧に取り上げることはできませんけれども、ユダヤの社会においては、族長たちがまことのぶどうの木と考えられた時代がありました。モーセがその木だと考えられたこともありました。しかしヨハネ福音書は、イエス・キリストがまことのぶどうの木であると語るのです。このまことのぶどうの木であるキリストに結ばれるとき、十字架によって罪が清められ、豊かな実をたわわに結ぶものとされていくんだということを語っているわけです。このまことのぶどうの木であるイエス・キリスト以外に、それは族長たちであれ、モーセであれ、主イエス・キリスト以外のいかなるものに繋がろうとも、本当に豊かな実を結ぶことは出来ないということを語っているのです。
 ぶどうの枝が実を実らせるのは、その枝に力があるからではありません。枝がしっかりとぶどうの木に結ばれている。そのときはじめて、ぶどうの木は豊かな実りを結ぶことが出来るのです。実の実らないぶどうの枝は取り除かれると記されているわけですけれど、実が実らない枝というのは、まことのぶどうの木につながることのない枝、まことのぶどうの木からいのちの養いを受けていない枝、そのことが語られています。
 主がぶどうの木である、キリストがまことのぶどうの木であるというのは、わたしたちのこれ以上無い安心でもあるのです。主イエス・キリストは、わたしたちの救いのための一切を成し遂げてくださり、豊かな実りを結ぶ者、永遠のいのちに与る者としてくださいました。このこれ以上ない養いをくださる主キリストに結ばれている限り、主がご自身にかけて豊かな実りを結ばせてくださるのです。

 15章の5節後半にこのように記されていました。「15:5b 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」4節にも同じように「15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と記されています。ここに、「人がわたしにつながっており」そして「わたしにつながっていなさい」とありました。
 わたしたちは、信仰というのは、このまことのぶどうの木であるイエス・キリストに繋がることだと理解していまして、まさしくその通りであるわけです。わたしたちは洗礼によって、イエス・キリストと結ばれるのですけれども、では逆に、主がわたしたちにつながっていてくださる、わたしたちをしっかりと支えてくださっている、主がしっかりと結び付けてくださっているということを、どれほど意識しているでしょうか。5節の後半の御言葉に、注目したいのです。そこではこのように語られています。「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とありました。4節の後半には「わたしもあなたがたにつながっている。」と記されています。
 ここでは、「わたし」つまり、イエス・キリストが、あなたに繋がっていて下さるということが二度繰り返して語られているわけです。

 わたしが主イエス・キリストに繋がるというのは、よく考えてみますと、ある弱さを抱えたものであることを気づかされます。わたしたちの信仰、わたしたちが主のもとに留まり続けるとことは決してた易い事ではありません。弟子たちの生涯というのを聖書を通してわたしたちは知ることができますけれど、あの弟子たちの信仰だって、それはなお弱さを抱えたものであるということがあるわけです。しかし、わたしたちの信仰生活というのは、わたしが繋がっているということの背後にといいますか、そのベースに、主があなたにしっかりと繋がっていてくださるという、神様は決してあなたの手をお放しにならないという、そういう神様の恵みの事実があります。つまり、わたしたちが主なる神に繋がることが出来るのは、まず主なる神が、あなたに繋がってくださる、あなたの手をとってくださった。そういう恵みによるものであるのです。そのことは主イエス・キリストがお生まれになり、十字架へと歩み、よみがえらせられる、その出来事において更に明らかにされていきます。ご自分を十字架につける、そのような罪人のために、まず神が、御子を世に遣わしてくださり、その十字架の死と復活、昇天によって、神様の側から、父なる神様のもとへと至る道、救いの道を与えてくださったのです。わたしたちの救いというのは、まず神様の側から差し出されているのです。

 さて、今日の福音書は、ぶどうの木とその枝という譬えをもって、キリストとわたしたちキリスト者との関係が語られています。主イエスは、キリストとわたしたちとについてお語りになる時、別々の二つのものを用いてその関係を語られたのではありませんでした。ぶどうの木とその枝というのは、例えば小鳥と木とか、昆虫と木いうように、あれとこれというそれぞれ別々のものではありません。木と枝というのは、別々のものではなくて一つのものであるわけです。それが救い主である主キリストとわたしたち信仰者との関係です。
 つまり、別々のものが、接着剤や磁石などでくっついているとか、一緒に居るという事とは違うのです。主が「あなたがたはその枝である」といわれたとき、その枝というのは、ぶどうの木とは別の何かということではなくて、ぶどうの木の一部だということです。このぶどうの木とその枝というのは、実際にぶどうの木を見てみますとわかりますけれど、どこまでが幹でどこからが枝というふうには言い難いものです。少し前まで、教会の前のハナミズキの木が綺麗な花を咲かせていましたけれど、あのハナミズキの木は、どこが幹で、どこが枝だとわかりやすいと思います。ところが、ぶどうの木はどうかといいますと、どこが木でどこが枝だと区別することは、なかなか難しいと思います。枝がどこで始まってどこで終わっているのか判らないわけです。キリストがぶどうの木であり、あなたがたはその枝であると言われるとき、それは、キリストとの非常に親密な一体性が意識されているということができます。
 ヨハネによる福音書においては、一つであるということが非常に重要な意味をもっています。主イエスは十字架におかかりになる直前、今日の聖書の箇所の少し後ですけれど、17章21節でこのように言われます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」これは十字架におかかりになる前の主イエスの祈りの言葉です。主イエスは十字架におかかりになる前に、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」このように祈られたわけです。
 
 今日の福音書の箇所でも、キリストと一つとされるということ、あなたはキリストと一つとされているということ、そのことが語られています。この一つとされるというのは、例えばあるものをわたしたちが所有するように、持っているような仕方で一つとされるのではありません。ぶどうの木とその枝の仕方を見ればわかるように、もはや完全に一つとされるということ、誰かがやってきて持っていくことができない仕方でキリストと一つとされるのです。先ほども申しましたように、ぶどうの木に鳥がとまっているとか、虫がとまっているというようなことではなくて、ぶどうの木と枝というのは、そこにいのちの流れる関係、一つのぶどうの木とされるという、それほどまでに深い、また枝は幹であるぶどうの木に生きることのすべてにおいて信頼しきった、そういう関係がぶどうの木と枝との関係です。
 
 誰ももはやキリストのものとされたあなたを、どこかへと連れ去ることは出来ないのです。それは闇の力がどんなに強く吹き付けるとしても、ぶどうの枝は、よいぶどうの木である主キリストがご自身にかけてしっかりと守って下さるのです。

 パウロはローマの信徒への手紙の8章でこのように語っています。35節以下です。「8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 キリストと一つとされるというのは、長い信仰生活の中で徐々にキリストのものとされていくということではありません。徐々にキリストと繋がっていくということではありません。十字架のキリストの前に額ずいて洗礼の恵みに与ったわたしたちは、その一回的な神の恵みの事実によって、まるごとキリストのものとされ、キリストに結ばれたものとされたのです。だからこそ、主イエスは今日福音書を通してあなたに語りかけておられるのです。「15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」
「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
ぶどうの枝になりなさいといわれているのではありません。ぶどうの枝としてくださるのは神の恵みなのです。主は、あなたはぶどうの木だ、わたしの大切な枝だといって下さっているのです。だから、そのキリストの愛のうちに留まりなさいと、御言葉は招いているのです。


「15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
「あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」わたしたちは、このことを主イエスのご生涯から知ることができます。主イエスのご生涯は、まさに父なる神様へのまったき信頼と、御言葉へのまったき信頼に貫かれた歩みでした。 
 わたしたちは「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」といわれますと、欲しいもののリストを作って懇願するように祈ろうとするのですけれども、主イエスがこの御言葉の前半にまず語っておられることをそっちのけにしてしまっているのではないでしょうか。つまり「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」者の祈りは、主イエスがそうであられたように、自分の願望に神様を振り回すのではなく、このわたしのために御言葉をもって最も幸いな生き方を示してくださった、神様のわたしに対する御心の実現することを祈り求めていく、そのようなものではないでしょうか。
 
 主イエスはヨハネから洗礼を受けられたあと、聖霊に導かれて荒野へと行かれました。そこで40日間の祈りと断食とをなさったわけです。そこに試みるものが来て主イエスに言い寄るわけです。石をパンに変えてみろ、ここから飛び降りてみろ天使が来て救ってくれるかもしれない。しかし主イエスは、御言葉によってこれらの誘惑を退けて行かれました。主イエスは、自分の喉の渇きがいやされること、空腹が満たされることを願われませんでした。それに表されているように、天の父に信頼し、御言葉に信頼された主イエスの願いは、自分の願いの実現することではなくて、御言葉の実現すること、神様の御心の実現することにありました。それが神に結ばれ、神の御言葉が内にあるものの生き方なのではないでしょうか。
そのとき、神は何でも叶えてくださるのです。またそのような、わたしたちに対する神様のご配慮に信頼して歩む歩みこそ、本当に豊かな、幸いな生き方であるのではないでしょうか。
 この何でも叶えてくださるというのは、神への忠実さに対するご褒美なのではありません。神様を第一にし、御言葉に豊かに養われて生かされる者は、主イエスがそうであられたように望むものを何でも求めることが出来るし、神はそれを豊かに与えてくださるのです。
 

 さて、今日の礼拝では15章の8節までが朗読されました。8節にはこのように記されていました。「15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
ここで語られていることは、ぶどうの枝であるキリスト者が、まことのぶどうの木である主キリストに結ばれて、主キリストの豊かな養いを頂いて実を結ぶとき、ぶどうの木につながりつづけるとき、それはここでは弟子という仕方で語られていますけれど、そのとき、わたしの父、つまり神が栄光をうけてくださるというのです。
 わたしたちは何かができたら神様に栄光をささげることができるとか、わたしは何も出来ないから神様の栄光のために何もしていないなどと思う必要は無いのです。真のぶどうの木である主キリストに繋がり続ける、神を礼拝し続けるそういう生活がまさに、神の栄光なんだと語られているのです。神は、お造りになったわたしたち人間が、創造主であり、天の父である神様のもとに結ばれて生きることを、望み、また喜んでくださっているのです。


説教(花の日こども合同礼拝)「思い悩むな」マタイ6章25-34節

2009-06-14 12:05:34 | 主日礼拝説教
 みなさん、イエス様は、どんなお方だったのでしょうか。イエス様に直接あって、イエス様のお話を聞くことが出来たら、どんなに嬉しいだろうと思いませんか。きっと、イエス様のお話を聞いたら、イエス様はどんな方だったのか、よく分かると思います。
 わたしたちは、誰かはじめての人に会った時、その人の外見を見ただけではその人がどういう人なのかよく分らないと思います。でも、その人とお話をしていると、この人はこういう人なんだと分ってきます。

 今日は、聖書が読まれて、わたしたちはその御言葉を聞きました。今日の礼拝で読まれた聖書は、イエス様のもとに沢山の人たちが集まってきたとき、その沢山の人々を前にしてイエス様がお話しになった御言葉でした。
 ですから、今日わたしたちが聞いているイエス様の御言葉に、よく耳を傾けていくと、イエス様はどんな方だったのか、神様はどんなお方なのか、わたしたちは知ることができると思います。

 わたしたちは、直接イエス様に出会わなくても、イエス様の御言葉を聞くときに、イエス様のお姿が見えてきます。イエス様がいらした時代の沢山の人たちがイエス様に出会って「あぁイエス様ってこんな素晴らしい方なんだ!」と信じることが出来たように、わたしたちに今日語りかけてくださるイエス様のお言葉を聞くときに、イエス様はどんな方だったのか、イエス様の思い、イエス様の御心を知ることができるんですね。
 わたしたちも神様の御言葉に耳を傾けるときに「あぁイエス様ってこんなに素晴らしい方なんだ!」と知ることが出来る。イエス様との出会いが与えられるんですね。

 今日もみなさんと一緒に、イエス様の御言葉に耳を傾けて聞きたいと思います。


 主イエス様は、ある日、御許に集まってきた大勢の人々を前にしてお語りになりました。何を語られたのでしょうか。こんなふうにお話しになりました。
「空の鳥をよく見なさい。種を蒔いたり、刈り入れをしたり、その収穫を倉に納めたりしない。だけれど、みんなの天の父なる神様は、鳥たちを養ってくださる。みんなは、鳥よりもずっと価値あるもの、神様に大切にされている一人一人なんですよ。」
 世界中には何種類くらいの鳥がいると思いますか? 一万種類くらいの鳥がいるそうです。日本にはその中の542種類がいるそうです。すごい数ですね。
ちょっと広げて、世界中に何種類くらいの動物がいるか調べてみました。そうしたら、神様のお造りになった世界には、なんと175万種類もの動物がいるそうです。これもびっくりする数ですね。
最後に、今日は花の日ですから、世界中に何種類くらいのお花があるのかなぁって調べてみました。そうすると、お店で売るために改良されたお花を含まないで数えても、25万種類ものお花があるそうです。
 神様がお造りになった世界には、こんなにも沢山のいのちが生かされているんだなぁと思って、驚きました。


 こどもさんびかに「ことりたちは」という讃美歌があります。みんなよく知っていると思います。「ことりたちは小さくても、お守りなさる神様」という讃美歌です。小鳥たちは、自分で畑に種を蒔いて、それを育てて、そして実が実るとそれを収穫して、と、そういうことをしません。でも、神様は、ちゃんと鳥たちを養って下さる。必要なものを与えてくださる。その神様は、みんなのためには、なおさら良くして下さるんですよと、語りかけてくださっているのです。


 それから、もう一つ、こんなことをお話になりました。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。野の花は働きもしないし、糸を紡いで布を作ったりもしない。―― それだけではなくて、今日は生えているけれど、明日は焼かれてしまう草だって、神様は綺麗に装ってくださっている。まして、あなたがたには、みんなにはなおさらのことではないですか」
 さっき、世界中には25万種類くらいのお花があると言いましたけれど、お花は自分の植えられたところが嫌だからあっちの畑に行きたいなぁと思っても行けませんね。今日は暑いから日陰に咲きたいなぁと思ってもそうはできません。でも、そんな野の花も、神様はちゃんと育ててくださっている。綺麗に咲かせてくださっている。
 空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、主イエス様はそう仰って、空の鳥や、野の花の姿をとおして、創造主である恵み深い神様のお姿を示されました。
 

 今日は、綺麗なお花を教会に持ってきて、神様にお捧げしました。お庭に咲いたお花や、お花屋さんに行って沢山あるお花の中から、どれにしようかぁと考えて、選んできたお花。色々なお花があります。自分の好きな色のお花をもってきてくれたお友達もいると思いますし、大切に育てたお花を持ってきてくれたお友達もいると思います。だけれど、葉っぱやお花を自分で作った、今日のお花は自分で作って持って来たというお友達は、きっといないと思います。わたしたちは、いのちのある綺麗なお花の葉っぱ一枚だって、何もないところから作ることができないんじゃないでしょうか。
 
 聖書の一番最初に、創世記というのがあります。そこには、神様がこの世界をお造りになったことが書かれています。神様は何もないところから、光をお造りになって、海や陸地をお造りになって、草や木や花、さっき讃美歌を歌いましたけれど、魚や鳥、動物たち、すべてのいのちをお造りになって、最後にわたしたち人間をお造りになったと書かれています。神様ってすごいですね。神様は、何もないところから、いのちを造り出すことがおできになる。いのちは神様がお与えになるんですね。そして、神様はお造りになったいのちを見て、世界を見て、なんて素晴らしい世界!そう言って喜んで下さるんですね。神様は、神様がお造りになったみんなのことをご覧になって「なんて素晴らしいナントカちゃん」「なんて素晴らしい○○くん」と、そう言ってくださるんですね。

 さっき、イエス様は野の花、空の鳥を御覧なさいと言われました。どうしてイエス様は野の花や空の鳥を見てごらんと言われたのでしょうか。それは、自分の力で生きていると思い違いをしている人間に、本当はそうじゃないでしょ、神様が、天の父なる神様が、この鳥や野の花をお造りになったように、みんなのこともお造りになった、みんなのことも創造されたんですよ。空の鳥や野の花が、神様のお恵みにすべてをまかせて生きているように、みんなもそうすることが出来るんだよと、そう教えて下さるんですね。

 
 今日の聖書の御言葉の中で、イエス様は二度「あなたがたの天の父は」と言っておられます。今日イエス様は二度、天の神様は、「あなたがたの天の父」「お父さんなんだよ」と言われます。
「神様は、みんなの天のお父さんだ」と言われるんですね。
それは、言い方を変えれば、みんなは天の父なる神様の子供なんだよということではないでしようか。

 イエス様がわたしたちに、神様は「あなたがたの天の父」と言われるときには、いつでも、みんなは天の父なる神様の子供たちなんだよと、語りかけてくださっているのです。
 イエス様が、「あなたがたの天の父」と語られている背後には、「あなたたちは神様の子とされているのだ」という神様の恵みが示されているのです。
 ここにいるみんなは、天の父の子とされているのだから、思い悩まなくていい。心配しなくていい。創造主であり、天の父である神が、みんなのことを配慮し、養い、必要を与えてくださる。そういう恵みが語られているのです。

 
 それと同時に、空の鳥や野の花が神の恵みを証しして生きるように、天の父の子とされたわたしたちも、神様の恵みを歌い、また神様ってこんなに素晴らしい方なんだよと、神様のことを証しする、みんなに伝えるものとして用いられるのです。


 わたしたちは自分自身の姿を見つめる時には、思い煩い、いろいろな悩みに支配されていくのではないでしょうか。
けれど、だからこそ創造主であり天の父なる神様に目を上げて、「神の国と神の義」つまり神様ご自身に希望をおいて生きるようにとイエス様は語りかけてくださっています。
「あなたがたの天の父」、わたしたちの神様は、神様の子どもであるみんなのことを、ひと時も忘れることなく、いつくしみ深い眼差しを注ぎ、養い育ててくださると、イエス様は教えてくださいました。


 今日の聖書の一番最後のところで、イエス様はこのように言われました。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
「明日の心配はしなくていい。」と言われました。どうして心配しなくて良いと言われたのでしょうか。
 心配したってなるようにしかならないんだからということでしょうか。明日は明日で、どうにかなるから心配しなくてもいいということでしょうか。
そうではないんですね。イエス様はどうして「明日のことまで思い悩むな。」といわれたんでしょうか。

 それは、明日のことは分からないから心配しなくていいとか、どうにかなるから心配しなくて言いというのではないんですね。
 
 イエス様が明日のことを心配しなくていいといわれたのは、天の父なる神様がみんなの明日を支えていてくださる。神様がみんなの天のお父様なんだから、心配しなくていいんだよ。思い悩むなと仰るんですね。
 それは、あきらめではありません。神様にお委ねして、安心して生きて生きなさいと言われているんですね。


 神様がみんなの明日をしっかりと守っていてくださる。だから、自分で自分の将来を心配しなくていいんです。わたしたちの毎日は、またわたしたちのいのちは、すべてのいのちの創造者である天の父なる神様にしっかりと守られ、また支えられているんですね。この世界も、またそこに生きているいのちも、何より、みんな一人ひとりは、神様がお造りになった神様のものなんだよと聖書は語っています。
わたしたちは、わたしたちを創造して、いのちを与えて生かして下さっている神様から、毎日、沢山のお恵みを頂いて、安心して生きていくことができます。

 みんなは神様の子供です。神様が毎日をしっかりとお守りくださいます。空の鳥、野の花を養い、育ててくださる神様に、わたしたちは信頼して、歩んでいくことができます。神様はわたしたちの思い悩むことではなくて、苦しむことではなくて、幸せを望んでくださる神様です。

 はじめに、イエス様の御言葉を聞くと、イエス様がどんなお方なのか、神様がどんなお方なのか分って来ますと言いました。

 イエス様が、わたしたちに語りかけてくださる御言葉は、いつもわたしたちを元気付けてくれます。どうして神様の御言葉はわたしたちを元気付けてくれるのでしょうか。それは、神様に創造されたみんなが、神様に結ばれて、元気に、神様の恵みの中で生きるように望んでくださっているからです。わたしたちに語りかけてくださっている神様の御言葉を聞きながら、毎日を喜んで歩んでいきたいと思います。

◇お祈りしましょう
天の父なる神様。
あなたは、空の鳥、野の花を美しく養い、育ててくださいます。今日イエス様は御言葉を通して、わたしたちにはなおさら神様はお恵みを与えてくださり、しっかりと支えてくださることを知りました。わたしたちが色々なことに心配したり、心を奪われたりしないで、いつも注がれている神様の眼差しを感謝して、歩むことができますように。
わたしたちの救い主、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

説教「聖霊の力により、望みに溢れるように」

2009-06-04 12:06:14 | 主日礼拝説教
【聖書】ローマの信徒への手紙5章1~5節、15章13節

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」
神のみ言葉は、希望の源である神が、聖霊の力によって、つまり神ご自身の働きによって、神ご自身にかけて、わたしたちを希望に溢れさせて下さる、望みに溢れさせてくださるというのです。
ペンテコステの日、弟子たちは一つに集まって祈っていました。そのとき使徒言行録二章の御言葉の通り、聖霊が教会に注がれて、弟子たちは喜びに溢れて、力強い歩みをはじめます。
聖霊降臨は、希望の源である神ご自身が、弟子たちのうちに来て、留まって下さると言うことです。希望の源である神、希望そのものである神が、わたしたちの内側に留まって下さる。そのことによってわたしたちの存在が、希望に変えられていく。それが聖霊の力によって望みに溢れる、聖霊の力によって与えられた希望なのです。

人間は希望がなければ生きることは困難であると誰もが知っているのではないでしょうか。大きな夢や希望をもって生きて行こうと言われます。その反面、どんな大きな希望を抱いても、叶うか叶わないか判らない。希望はまるで馬が勢いよく走るために絶えず目の前にぶら下げられているニンジンであるかのように、走っても走っても手に入れることができない。そんなものであるかのように語られることもあります。しかし、希望とはそういうものでいいんだという人もいます。フランスのカミュという人は「望とは、あきらめにも等しいものである」と言います。別の人は「希望は頼りにならないものであるが、我々を人生の終わりまで運ぶことくらいはしてくれる。」と言いま
す。それが希望だというのです。

では聖書はどういう希望を語ってきたのでしょうか。パウロは自らの記した手紙の中で、繰り返し希望について語ります。それはその希望が、パウロのキリストを信じる信仰において、重要な位置を占めているからです。パウロにとって、希望とは福音そのものでした。十字架にわたしたちを贖ってくださった神、信じる者の希望である神が、聖霊によってわたしたちのうちに宿って下さる。それによって、彼方にあったものが、内なるものとされた。彼方にあった希望が、わたしの内側に宿るものとされた。その意味で、希望は信じるものにとって福音そのものであるわけです。

聖霊の力によって望みに溢れるというのは、ちょっと神様のお助けをいただくということではありません。希望の源であり、わたしたちの希望そのものである神が、わたしたちの内に留まって下さる。わたしたちの存在を丸ごと希望に変えてくださる。あなたの存在が希望だといわれるのです。聖書は、大きな夢を持てば、人生をしっかりと生きていくことができるのだから、大きな夢を持とうと言っているのではありません。
わたしたちが希望に溢れて生きることが出来るのは、大きな夢を持っているからでも、大きな幻を抱いたからでもありません。
わたしたちは、様々な希望を抱いて生きています。成功への希望であったり、健康を手に入れるという希望や、あることを達成するという希望もあります。しかし、そういう希望は達成してしまえばもはや希望ではなくなってしまうのです。では希望とは一体何でしょうか。パウロはどこに、何に希望を見出していたのでしょうか。それは神ご自身に他なりませんでした。

パウロにとって希望とは、将来に起きてくる幸せな出来事でも、夢でもありませんでした。パウロの希望は神ご自身でした。なぜなら、この神こそ、パウロを、そして信じる者を、絶えず配慮し、最善をなし、どんな時にも、どんな境遇においても、しっかりと支え守って下さる方であるからです。どんな希望よりも、どんな夢よりも、神にある希望こそ、それは神ご自身こそと言っても良いと思いますけれど、わたしたちを力づけ、励まし、生きる力を与えるのです。だから、パウロは、神は「希望の源である」と、そう語るのです。

さて、教会では洗礼が行われますけれど、あの洗礼というのは、単に水を注ぐだけ入会の儀式なのではありません。神が、受洗者に聖霊を注いでくださるのです。聖霊があなたと共にいてくださる。それが洗礼式の恵みです。そこには、希望の源である聖霊があなたと共に居て下さるという確かな事実があるのです。聖霊があなたの内にあって、あなたを守り、導いてくださるのです。
聖霊を受けていると言うのは、信仰の浮き沈みで判断するようなものではありません。気分が良い充実した信仰生活が送られているから、聖霊はわたしと共におられるとか、最近は祈れないし悪いことばかりだから、聖霊はわたしと共におられないんじゃないかと、そういうことでは決してないのです。
洗礼を与ったわたしたちは、いつか聖霊が注がれ、いつか希望を持って生きていけるというのではないのです。既に、あの洗礼の水が注がれたとき、聖霊を受け、わたしたちの希望そのものである神が、わたしたちの内に宿って下さる。わたしたちの存在が希望へと変えられている。それが洗礼ということです。ですから、キリスト者というのは、希望する民とされているのです。神の恵みによって、希望を内に宿して生きていく、希望そのものとされているのです。

パウロは、「希望はわたしたちを欺くことがありません」と語ります。口語訳聖書では、「希望は失望に終わることがない」と訳されていました。どうして希望は失望に終わらないのでしょうか。断じて失望されることのない神が、とこしえからとこしえにあなたと共に居て下さるからです。あなたのいのちは、あなたの現在、過去、未来は神の手の中にある。だから、希望は失望に終わることがない。希望はわたしたちを欺くことはないのです。
 わたしたちの生活を支えるものは何でしょうか。幸せな時だけではない、苦しみの時に、絶えがたい痛みの中にあるときに、あなたを支えるものは何でしょうか。積極的な考え方を持つ事でしょうか。良いことを考えることでしょうか。それとも諦めることでしょうか。そうではないのです。パウロを支えたもの、それは神ご自身でした。
 この神は、わたしたちを愛し、罪人の滅びることではなく、救われることを望み、わたしたちの苦しみではない、幸いを望んでくださる神です。神が、あなたの救われることを、あなたの幸いを、あなたの生きることを望んでくださっている。聖霊を注いで、あなたの存在をまさに希望そのものに造り替えてくださっているのです。キリスト者の生は、そこに守られているのです。
喜びのときだけではありません、病の中にあっても希望が与えられ、苦しみの中にあっても希望が与えられているのです。それはどうしてでしょうか。 
わたしたちの唯一の希望である神ご自身が、聖霊によって、あなたと共に、あなたの内側に、あなたの全存在を守る仕方で、あなたと共に居て下さるからです。だから、あなたは勇気を持って、希望をもって生きていくことができるのです。神の愛が、あなたをしっかりと支えていてくださるからです。