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詩編84編「あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう」

2010-03-04 16:30:23 | 主日以外の説教
「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。」(詩編八四編二節)

 詩編八四編全体は「あなたのいますところ」への憧れ、それを慕う思いに貫かれています。讃美歌の一九六番は、詩篇八四編を基にして一七一九年にアイザック・ウォッツが作った讃美歌です。一節に「うるわしきは神のみとの」とあり、その一節の結びの詩は「御神を慕いて燃え立つ」とあります。神の宮を慕う思いは「御神を慕いて燃え立つ」ことと緊密に結びついています。つまり神の宮を慕う信仰は、神ご自身を慕い求める信仰と一つのこととして受け止められています。

 これは、詩篇八四編でも同様のことが言われます。八四編二節「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。」との神の宮を慕う言葉によって始められた詩編は、一三節で「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう。」と結ばれているのです。
 
 わたしたちは、信仰というものをとかく個人主義的に捉えやすい傾向があると思います。信仰というのは、自分が心の中で神様を信じていることが大切なのであって、自分と神様との関係のことであるというふうに考えやすいのです。勿論それも大切なことではありますが、キリスト教会の信仰というのは、わたしと神様と言う一対一の関係だけで完結するわけではありません。わたしという個人が、神様を礼拝する信仰の共同体である、神の民(教会)の一員となる。そして生涯、信仰共同体である教会に結ばれて礼拝の生活を送っていく、そこからわたしたちの信仰というのは養われ、そこで守られているということを覚える必要があると思います。
 
 もし信仰が、本当に自分と神様だけで成り立つとしたら、洗礼も教会も意味がなくなります。洗礼によって、信仰共同体、キリストのからだである教会に結ばれた一人とされることの意味がなくなってしまうわけです。洗礼は単なるお印でも、まじないのような効果をもたらす儀式でもありません。洗礼を受けるというのは、キリストのからだである教会に迎えられ、その一員とされ、礼拝共同体の中で、生涯神様を礼拝しながら生きていくということです。ですからキリスト教の信仰というのは、こうした神様を礼拝する信仰の共同体の中で生きる信仰であると言えます。
 
 詩編の信仰者は二節の「あなたのいますところ」を一一節では「わたしの神の家」と言い換えています。ただあなたのものとしての神の家、神の宮ということではなくて、それは、「わたしの神」のそれなんだということ。慕わしい神の家が、このわたしに関わることとして受け止められている、そのことは非常に大切なことです。
 
 主イエスはマルコによる福音書の一一章一七節で「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」そう仰せになりました。主イエスは、「わたしの家」とは、すべての国の人の家だと仰せになるのです。「すべての国の人」の家であるとは、そこには当然あなた自身の居場所が備えられているということです。そこにあなたの居るべき場所があるという事を主は言っておられるのです。
 
 この詩編八四編は、「宮詣の詩編」であるといわれます。そこでは神の宮に向かう人々の心が歌われています。
 詩編は神殿を見て深い喜びに満ちて語ります。三節では「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」と言います。この当時の礼拝の状況というのを考えてみますと、巡礼者また礼拝者であるいわゆる信徒は、神殿の前庭までしか入ることができませんでした。けれども、この詩編の御言葉を聞くときに、わたしたちはこの詩篇の信仰者が、まるで神殿のもっとも奥深くに、神様ご自身とのリアルな出会いを体験しているかのように、その礼拝の経験を捉えているということに驚かされます。この詩篇の信仰者にとってどれほど神の宮、そして神殿での礼拝が自分自身にとっての、喜びに満ちた、また慰めに満ちた経験であったかを思わせるのではないでしょうか。
 
 五節にはこのようにあります。「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら。」神の家に結ばれた信仰者のあり方を、詩編は「いかに幸いなことでしょう」と言います。別の訳の聖書では「幸いです。あなたの家に住み、とこしえにあなたをほめたたえるものは」と訳されています。更には、この神の家を慕う信仰者の生き方というのは、五節後半に「まして、あなたを賛美することができるなら。」とあるように、神様を讃美して生きていくこと、そこに幸いを見出しているということが言えます。
 
 六節から八節にこのように記されています。「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」 
 この六節の「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は」という箇所は、原文のヒブル語をそのまま訳すと「あなたを力とし、その心が宮詣へと向かう者は」というふうになります。主なる神様を力とし、心に広い道を見る、それは神様の宮を慕い求めつつ、神様の前に立つことを喜びとした者の生き方です。現代に生きるわたしたちにとっても、主の日の礼拝というのは、こうした信仰のリアリティーが見出されるものではないでしょうか。
 主を力とし、神様の宮、主の御国を目指して旅を続けていく、それがわたしたち信仰者の旅路であり、その歩みであると思います。そしてその神の宮を慕う思いは、天のふるさと、帰るべき主の家を慕い求めつつ生きる信仰の歩みでもあります。例えば詩編二三編においてもそうですけれども、わたしたちはこの地上の生涯を神様の恵みに支えられて、礼拝を捧げつつ、生き、そして主の家に帰る。そうした信仰の姿が語られます。
 
 主の家を慕う思い、それは地上にある神殿、また教会を愛し慕う生き方であると同時に、その信仰は天上の神殿を愛し慕いつつ、神様ご自身の御前に立つという恵みの出来事に望みをおく生き方でもあります。
 
 詩編の信仰者は、年老いて神殿に詣でることができなくなったとしても、神の宮を愛し慕う想いと、神の民の一員であるという恵みの事実は不変の事柄であったでしょうし、その喜びの深さ、恵みの大きさに一層気付かされていったことでしょう。洗礼によって神の家族の一員とされたわたしたちも、主の教会を愛しつつ神の国を目指し共に歩みましょう。

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