ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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聖霊の続唱

2007-05-31 12:57:04 | 今日の祈り
来て下さい 聖霊
そしてあなたの天の光からの光明を送ってください
来て下さい 貧しい者らの父
来て下さい 諸々の賜物の与え主
来て下さい わたしどもの心の光
いとも優れた慰め主
魂の甘美な賓客
甘美な清涼剤
労苦の中での安らぎ
灼熱の中での涼しさ
悲嘆の中での慰め
おお いとも幸いなる光
あなたのものである信ずる者らの
心の奥底を満たしてください
あなたの神としての力なしには
人々の間には何もない
害をもたらすものは
清めてください 汚れたものを
潤してください 乾き切ったものを
癒してください 傷ついたものを
和らげてください 硬直したものを
暖めてください 冷え切ったものを
正しく導いてください 道を踏み外したものを
お与えください あなたを信じる者らに
あなたに信頼を寄せる者らに
聖なる七つの賜物を
お与えください 徳の報いを
お与えください 救いの成果を
お与えください 永遠の喜びを

「天に一人を」植村正久訳

2007-05-30 18:18:50 | 今日の祈り
天に一人を増しぬ

家には一人を減じたり 楽しき團欒は破れたり
愛する顔 平常の席に見えぬぞ悲しき
されば天に一人を増しぬ 
清められ救はれ全うせられしもの一人を

家には一人を減じたり 歸るを迎ふる聲一つ聞こえずなりぬ
行くを送る言一つ消え失せぬ
別るゝことの絶えてなき濱邊に 一つの霊魂は上陸せり 
天に一人を増しぬ

家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れに堪えず 
内に入れば空しき席を見るも涙なり
さればはるか彼方に 我らの行くを待ちつゝ 
天に一人を増しぬ

家には一人を減じたり 弱く浅ましき人情の霧立ち蔽ひて 歩みも四度路に眼もくらし
さればみくらよりの日の輝き出でぬ
天に一人を増しぬ

實に天に一人を増しぬ 
土の型にねち込まれて 基督を見るの眼も暗く 愛の冷かなる此処
いかで我らの家なるべき 顔を合わせて吾が君を見奉らん
彼所こそ家なれまた天なれ

地には一人を減じたり 其の苦痛、悲哀、労働を分かつべき一人を減じたり
旅人の日毎の十字架を擔うべき一人を減じたり
されば贖はれしたましひの冠を戴くべきもの 
一人を天の家に増しぬ
天に一人を増しぬ 

曇りし日も此一念輝かん
感謝賛美の題目更に加はれり

吾らの霊魂を 天の故郷に引き揚ぐる
鏈の環更に一つの輪を加へられしなり
家には一人を増しぬ 分るゝことの断えてなき家に
一人も失はるゝことなかるべき家に

主耶蘇よ 天の家庭に 君とともに座すべき席を 我ら全てにも あたへたまえ

【原文はSarah Geraldine Stockによる】


聖霊降臨日子供の説教

2007-05-27 06:33:57 | 子供の説教
使徒言行録2章1節~ 
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
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今日弟子たちに聖霊が注がれたということを聞きました。不思議な出来事でした。弟子達が集っていると、突然風がビュウッと吹いてきて、炎のような燃える舌が現れて、そこにいた一人一人の上に留まったんだって言います。

神様が注がれた聖霊って何なのでしょうか。

聖霊は風のようだと言います。
風は見ることはできませんが、みんな風が吹いていることに気づきますよね。風はいつ吹いてくるか分からないし、わたしたちがいくら吹かせようと思っても出来ませんけれど、確かに風は吹いてきます。聖霊は、風のようで、見えないけれど、確かにわたしたちが気づくのです。

次に、聖霊は火のようだと書いてありました。
聖霊が注がれて、弟子達はこころが燃えた。汚いものを焼き尽くす火。冷たくなった心を暖かくしてくれる火のようです。

最後に、舌のようにと書いてありました。舌というのは、言葉を語るために神様が備えて下さったものです。聖霊が舌のような形で注がれたというのは、とても大切なことです。私たちの口は、友達のことを悪く言ったり、出来ない出来ない。どうせ何やったって無駄無駄・・・。否定的なことを言ったり。 イエス様が復活された?!そんなことあるわけないじゃん!!
ところが、聖霊を受けた弟子達は聖霊に満たされて語りだすのです。それを聞いた沢山の人たちは、神様はなんと素晴らしいんだろう。感動してイエス様のことを信じる人が次々と起こされたといいます。

聖霊は、弟子達のそばに注がれたのではありませんでした。弟子達は聖霊に満たされたんだと聖書に書いてあります。聖霊と一緒にでなくて、聖霊に満たされて。聖霊の側にではなくて、聖霊に満たされて。
弟子達の内側が聖霊で一杯にされたんだと言います。
今朝、電車の中で斜め前に立っていた人が、喉が乾いたんでしょう。炭酸水、スパークリングドリンクを飲もうとして、ペットボトルの蓋をあけたわけです。すると、ブワ~~ッ!!!と、中の水が溢れ出て、一面水浸しになりました。聖霊もこういうことかなと思いました。まるで押さえ切れないように、聖霊に満たされる。炭酸水が溢れ出るように、ブワァ~~ッ!!!と溢れ出る。
この聖霊は、神様の愛の贈り物です。

最後に洗礼のことを思い出してみたいと思います。洗礼の水は自分でかけるのではなくて、かけられたのです。洗礼の恵みは、自分でかけたのではなくて、かけられたということが大切なんです。
同じように、聖霊も弟子達が自分で注いだのではなくて、注がれたのです。聖霊は、神様からのお恵みとして注がれたのです。
何より、聖霊が弟子達に注がれて、しかも弟子たちの中を溢れるほどに満たしたのです。
もう、神様を外から眺めているだけではなくなったのです。イエス様は、その聖霊を今日も、私たち一人一人に注いで下さっています。見えないからと言って、注がれていないという必要はありません。自分は信仰がないからという必要もありません。それは、私たちが注ぐのではなくて、神様が注いでくださるからです。神様の霊が、わたしたちに注がれているのです。
ヨハネさんは、福音書の中でこう書いています。「神は聖霊を限りなく賜うからである。」(ヨハネ3:34)