ペトロの手紙Ⅱ.3章8節~18節 讃美歌 242. 170.
先ほど讃美いたしました、讃美歌242番にはこのようにありました。
「悩む者よ、我に来よと、恵みの主は招きたもう。光の主、救いの主は招きたもう。主のみもとに来たり憩え。」
私たちを招いて下さる主がおられるという讃美を歌ったのです。
今日開かれています神のみ言葉は、9節に、主は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」とありました。一人も滅びることなく、救いに与ることができるようにと、忍耐し待ちたもう神がおられるというのです。
しかし、わたしたちを忍耐し、待ちたもう神がおられるということは、残念なことではありますけれど、神とかけ離れたところに、わたしたちがいるということでもあります。聖書は、それが人間の罪の姿であるといいます。
聖書が語る人間の姿。聖書が語る人間の罪とは一体なんでしょうか。
それは、いなくなった一匹の羊のように、飼い主のもとを離れ、好き勝手な方向へと出てゆき、もはや帰る路すらわからなくなってさ迷っている、そういう迷える羊のような存在。また、神の前に罪を犯した人間は、失われた一枚の銀貨のように、持ち主のもとから失われ、自分で自分の持ち主を見出す力などとうていない、助けの声すらあげることができない、そういう存在であると聖書は語ります。
それに続く放蕩息子の譬も、父に背をむけて父のもとを去り、放蕩三昧する弟息子の姿を語ります。人間というのは、飼い主、持ち主、父である神のもとを離れて、好き勝手な方向へと向かっている。聖書が言う人間の罪の姿とは、神に背を向け、好き勝手な方向へと歩む、そしてもはや自分ではどうすることもできない絶望の中に叩き落されたかのようになっている。望みを見出すことができなくなっている。そういう存在であるといいます。ここに共通しているのは、神のもとを離れた存在であるということです。
そのような、神の前から失われてしまった所で、もはや先に進むことも、立ち上がることすらも出来ない私たちを、神はお見捨てにならなかったのです。
わたしたちを救うために独り子イエス・キリストを、この世にお遣わしになりました。そして、失われたものを必死で探し出して下さったのです。
神がわたしたちを招いておられるというのは、神が長く忍耐し、私たちの悔い改めを待っておられるというのは、あなたを誰にも変えられない尊い一人として、何をもってしても穴埋めすることのできない尊い一人として、あなたのいのちを肯定しておられるからに違いありません。あなたのいのちが失われてはならない。いのちがけであなたのいのちを肯定しておられる神の招き、それが語られているのであります。
神がわたしたちを長く忍耐し、悔い改めを待っておられるとは、言い換えますならば、確かにあなたの罪を赦し、あなたを救う方がおられるということでもあります。
そういう罪を赦す方、救い主である方が、わたしたちを待っておられるのです。ですから、わたしたちは絶望するのではなく、真心から悔い改めることができるのであり、罪を背負ってなお、苦しみ、痛みを背負ってなお、ゆるしと憐れみに豊かな父である神の前に出て行くことができるのです。
神の招きに応えて、いとながく待っておられる神のみ前に進んで行きたいのです。
救い主である神は、私たちの救いを完成するため、再び来られる。キリストの再臨を、今日のみ言葉は語っています。教会は、2000年前に十字架にかかり救いのみ業をなして下さった主イエスが、約束の通り、再びわたしたちを迎えに来て下さることを信じ告白して歩んできました。
しかし、主の再臨は今日も主の民に待ち望まれているのです。今日の聖書のみ言葉が記された時代にも、主はいつ来られるのか、いつまで私たちは待つのかといった、再臨がなかなか来ないということについての思いが教会の中にあったのです。
しかし、ペトロは、いやそうではないんだ。再臨がいまだないということは、一人も滅びることのないように、神が人間の悔い改めを待ってくださっている。そういう恵みの時なのだというのです。だから、真心から悔い改めて、神に帰ろうと語るのです。
この神は、ただ時が過ぎるのを黙って待っておられるのではありません。人間の罪はあまりに重く、わたしたちの負う重荷もまた、あまりに重くあります。もはや自分でそれを到底負い切れない、生きることの限界すら覚える人間を救うために、時至って独り子イエス・キリストを世に遣わし、十字架に私たちの贖いとし、いまなお聖霊によって救いのみ業をわたしたちの内に確かになしたもうお方なのです。
神は、わたしたちの救いのための一切をなして下さいました。そのようにして、神はわたしたちを待っておられるのです。悔い改めるとは、背中を向けていた神の方へと、丸ごと自分を向けること。いのちの源である神のほうへと、丸ごと方向転換することであります。
その時はじめて、わたしたちは本当にいのちの喜びに溢れて生きる事ができるのです。そのように神が招いておられるのです。
その主は、やがてわたしたちを迎えに再び来られると聖書は語ります。神は、なんと言う慰めに満ちた御言葉を私たちに語っておられるのでしょうか。
私たちは荒涼とした世界に生きています。命が失われ、生きる気力が奪われたかのような現代にあって、皆それぞれに、必死で生きているのが現実ではないでしょうか。
しかし、そういう現実にあって、命を与えようと待っておられる神がおられる。一人も滅びることのなく、生きるようにと招いておられる神がおられる。教会は、その福音。神の救いを語っているのです。私たちの悔い改めを忍耐し、私たちの帰りを待っておられる、主のみもとへと、共に進んで参りましょう。
■祈りましょう。
いのちの源である神よ。
あなたは造られたものの、一人も滅びないで、皆が悔い改めるようにと、長く忍耐しておられると聞きました。どうか、わたしたちが、招きたもう主に応えて、あなたのみ前に出てゆくことができますように。
慈しみ深い神よ、わたしたちの愛する人々、ことに、生きる事に困難を覚える者、病の床にあってこころ沈める者、愛するものを失った悲しみの中にある者に、側近く居てください。また、様々な痛みや悲しみの中で、希望を失おうとしている人々に目をとめて下さい。
どうか慈愛のみ手を伸べて、この世の現実の中から、主を仰ぎ見る力を与え、
その悩み、苦しみ、すべてが相働いて益となるように導いて下さい。
どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせて下さるように。
私たちの主、イエス・キリストによってお捧げ致します。 アーメン
先ほど讃美いたしました、讃美歌242番にはこのようにありました。
「悩む者よ、我に来よと、恵みの主は招きたもう。光の主、救いの主は招きたもう。主のみもとに来たり憩え。」
私たちを招いて下さる主がおられるという讃美を歌ったのです。
今日開かれています神のみ言葉は、9節に、主は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」とありました。一人も滅びることなく、救いに与ることができるようにと、忍耐し待ちたもう神がおられるというのです。
しかし、わたしたちを忍耐し、待ちたもう神がおられるということは、残念なことではありますけれど、神とかけ離れたところに、わたしたちがいるということでもあります。聖書は、それが人間の罪の姿であるといいます。
聖書が語る人間の姿。聖書が語る人間の罪とは一体なんでしょうか。
それは、いなくなった一匹の羊のように、飼い主のもとを離れ、好き勝手な方向へと出てゆき、もはや帰る路すらわからなくなってさ迷っている、そういう迷える羊のような存在。また、神の前に罪を犯した人間は、失われた一枚の銀貨のように、持ち主のもとから失われ、自分で自分の持ち主を見出す力などとうていない、助けの声すらあげることができない、そういう存在であると聖書は語ります。
それに続く放蕩息子の譬も、父に背をむけて父のもとを去り、放蕩三昧する弟息子の姿を語ります。人間というのは、飼い主、持ち主、父である神のもとを離れて、好き勝手な方向へと向かっている。聖書が言う人間の罪の姿とは、神に背を向け、好き勝手な方向へと歩む、そしてもはや自分ではどうすることもできない絶望の中に叩き落されたかのようになっている。望みを見出すことができなくなっている。そういう存在であるといいます。ここに共通しているのは、神のもとを離れた存在であるということです。
そのような、神の前から失われてしまった所で、もはや先に進むことも、立ち上がることすらも出来ない私たちを、神はお見捨てにならなかったのです。
わたしたちを救うために独り子イエス・キリストを、この世にお遣わしになりました。そして、失われたものを必死で探し出して下さったのです。
神がわたしたちを招いておられるというのは、神が長く忍耐し、私たちの悔い改めを待っておられるというのは、あなたを誰にも変えられない尊い一人として、何をもってしても穴埋めすることのできない尊い一人として、あなたのいのちを肯定しておられるからに違いありません。あなたのいのちが失われてはならない。いのちがけであなたのいのちを肯定しておられる神の招き、それが語られているのであります。
神がわたしたちを長く忍耐し、悔い改めを待っておられるとは、言い換えますならば、確かにあなたの罪を赦し、あなたを救う方がおられるということでもあります。
そういう罪を赦す方、救い主である方が、わたしたちを待っておられるのです。ですから、わたしたちは絶望するのではなく、真心から悔い改めることができるのであり、罪を背負ってなお、苦しみ、痛みを背負ってなお、ゆるしと憐れみに豊かな父である神の前に出て行くことができるのです。
神の招きに応えて、いとながく待っておられる神のみ前に進んで行きたいのです。
救い主である神は、私たちの救いを完成するため、再び来られる。キリストの再臨を、今日のみ言葉は語っています。教会は、2000年前に十字架にかかり救いのみ業をなして下さった主イエスが、約束の通り、再びわたしたちを迎えに来て下さることを信じ告白して歩んできました。
しかし、主の再臨は今日も主の民に待ち望まれているのです。今日の聖書のみ言葉が記された時代にも、主はいつ来られるのか、いつまで私たちは待つのかといった、再臨がなかなか来ないということについての思いが教会の中にあったのです。
しかし、ペトロは、いやそうではないんだ。再臨がいまだないということは、一人も滅びることのないように、神が人間の悔い改めを待ってくださっている。そういう恵みの時なのだというのです。だから、真心から悔い改めて、神に帰ろうと語るのです。
この神は、ただ時が過ぎるのを黙って待っておられるのではありません。人間の罪はあまりに重く、わたしたちの負う重荷もまた、あまりに重くあります。もはや自分でそれを到底負い切れない、生きることの限界すら覚える人間を救うために、時至って独り子イエス・キリストを世に遣わし、十字架に私たちの贖いとし、いまなお聖霊によって救いのみ業をわたしたちの内に確かになしたもうお方なのです。
神は、わたしたちの救いのための一切をなして下さいました。そのようにして、神はわたしたちを待っておられるのです。悔い改めるとは、背中を向けていた神の方へと、丸ごと自分を向けること。いのちの源である神のほうへと、丸ごと方向転換することであります。
その時はじめて、わたしたちは本当にいのちの喜びに溢れて生きる事ができるのです。そのように神が招いておられるのです。
その主は、やがてわたしたちを迎えに再び来られると聖書は語ります。神は、なんと言う慰めに満ちた御言葉を私たちに語っておられるのでしょうか。
私たちは荒涼とした世界に生きています。命が失われ、生きる気力が奪われたかのような現代にあって、皆それぞれに、必死で生きているのが現実ではないでしょうか。
しかし、そういう現実にあって、命を与えようと待っておられる神がおられる。一人も滅びることのなく、生きるようにと招いておられる神がおられる。教会は、その福音。神の救いを語っているのです。私たちの悔い改めを忍耐し、私たちの帰りを待っておられる、主のみもとへと、共に進んで参りましょう。
■祈りましょう。
いのちの源である神よ。
あなたは造られたものの、一人も滅びないで、皆が悔い改めるようにと、長く忍耐しておられると聞きました。どうか、わたしたちが、招きたもう主に応えて、あなたのみ前に出てゆくことができますように。
慈しみ深い神よ、わたしたちの愛する人々、ことに、生きる事に困難を覚える者、病の床にあってこころ沈める者、愛するものを失った悲しみの中にある者に、側近く居てください。また、様々な痛みや悲しみの中で、希望を失おうとしている人々に目をとめて下さい。
どうか慈愛のみ手を伸べて、この世の現実の中から、主を仰ぎ見る力を与え、
その悩み、苦しみ、すべてが相働いて益となるように導いて下さい。
どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをわたしたちに満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせて下さるように。
私たちの主、イエス・キリストによってお捧げ致します。 アーメン