ろごするーむ

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説教「クリスマスの馬小屋」教会学校クリスマス礼拝

2009-12-20 00:58:30 | 子供の説教
2009/12/20待降節第四主日・教会学校クリスマス礼拝・説教
「クリスマスの馬小屋」ルカによる福音書2章1-8節

 もうすぐクリスマスを迎えます。教会の前の道には、夜になると沢山のイルミネーションが飾られていて、とても綺麗です。街を歩いていると、大きなクリスマスツリーや、クリスマスの飾りが沢山あって、どれも綺麗だなぁと思います。きっと、みんなもお家にクリスマスの飾りをしたり、ツリーを飾ったりしていると思います。イエス様のお誕生を喜んで、綺麗に飾り付けてお祝いをしたいと思います。
 
 ところで、みなさんは教会に来ると、この礼拝堂に上がる階段の下に、馬小屋を飾ってあるのを見ましたでしょうか。綺麗な金や銀の飾りも、華やかなリボンもありませんけれど、モミの枝が敷かれただけの地味な馬小屋です。
 わたしたちは、このクリスマスの馬小屋を見つめるときに、その時初めて、クリスマスの本当の意味が分かってくると思います。クリスマスの馬小屋、そこには、マリアとヨセフがいます。羊飼いやヒツジがいます。牛やロバもいます。わたしたちが知っているような、クリスマスの華やかで綺麗な飾りつけとは全く違う、決して綺麗ではない馬小屋です。
 冷たい風が吹いてくるかもしれません。赤ちゃんを産むことのできるような場所ではありません。生まれてきた赤ちゃんを洗ってあげる暖かいお湯はあったでしょうか。赤ちゃんの寝る暖かなベッドがあったでしょうか。馬小屋にはそんなものはありません。
 クリスマスの馬小屋には、決して綺麗な飾りも、それを見た人達が何か幸せを感じることができるような美しさもありません。馬小屋は綺麗な飾り物ではありません。よくよくそれを見つめたら、そこに美しい夢の世界を思い描いたりすることはできません。

 どうしてかと言うと、お腹の大きなマリア様を、誰一人わたしのお家に泊まってと言わなかった。赤ちゃんイエス様がお生まれになるのに、誰一人暖かなお家へどうぞとは言いませんでした。長い旅を続けてきたマリアとヨセフ、そしてイエス様を暖かく迎えてくれる人はどこにもいませんでした。これを人間の罪といいます。
 自分は暖かいお家で、美味しいものを食べて、ゆっくりとフワフワのベッドで寝れたら、それでいい。「どこの誰か判らないあの若いお腹の大きな二人連れのことなんて知らないよ」そんなふうに思ってしまう人間の冷たい心、それがベツレヘムの馬小屋には見えてきます。クリスマスの馬小屋を見つめるときに、わたしたちが気付くことというのは、決して人間の暖かな心とか、美しい光景ではありません。自分のことばかり考える人間の罪、イエス様をお迎えすることをしない人間の罪の姿が、見えてきます。
 そして、あんな寒い、赤ちゃんを産むのはとても危険な馬小屋にいるマリアとヨセフを、そしてイエス様を、何とも思わない人間の罪、そのような冷たい人間の罪が見えてきます。

 でも、そこにイエス様はお生まれになりました。そういう人間の罪、冷たさ、人のことを何とも思わない自分中心的な心、まして神様の御子イエス様をお迎えする気持ちなんてどこにもない、そういう人間の罪の只中に、イエス様はお生まれになったのです。そこにこそ、救い主のお誕生が必要だったからです。

 決して綺麗ではない馬小屋ですけれど、でも、そこにイエス様が生まれてくださることによって、馬小屋はパッと明るくなります。喜びが溢れてきます。
それは、馬小屋が立派だからでも、綺麗だからでもありません。そこにイエス様がいてくださるから、馬小屋は明るく照らされるのです。

 わたしたちの心は、それはこの馬小屋のようなものです。それは決して立派な、暖かい、綺麗な馬小屋ではありません。気がつくといつのまにか隣にいるあの人この人のことよりも自分のことばかり考えている。気がつくと、神様にお従いすることよりも、自分の願いのままに神様を振り回そうとしたりする、そんな心の馬小屋です。でも、そこにイエス様は生まれたいと望んでくださったのです。そして、わたしたちの心の馬小屋にイエス様は生まれてくださるのです。わたしたちはみんな、イエス様のお誕生が必要です。わたしたちの暗く、冷たい、そして汚い馬小屋が明るくなるためには、イエス様が生まれてくださらなければいけません。

 人間は自分で自分の心を照らすことは出来ません。人間は自分で自分を救うことはできません。イエス様をわたしたちみんなが、心の中にお迎えして、クリスマスをこころからお祝いしたいと思います。

こどものための復活祭メッセージ

2009-04-12 16:14:57 | 子供の説教
イースターおめでとうございます。

今日は何のお祭りなんでしょうか。
わたしたちは何をお祝いするために礼拝をしているんでしょう。
イースターというのは、日本語では復活祭と言います。復活をお祝いするんですね。
誰の復活をお祝いするんでしょうか。それはイエス様のご復活をお祝いするんですね。

 十字架におかかりになって、十字架の上に死なれたイエス様は、アリマタヤのヨセフという人が用意したお墓にうめられました。ところが、今日、日曜日の朝のことです。マリアたちが墓に行って見ると、イエス様の葬られたお墓をふさいでいた大きな石が転がしてあって、中にイエス様はおられなかった。そこには白い衣を着た神様の使いがいて、マリアたちに言いました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
 イエス様は十字架で死なれて、お墓に葬られた。うめられたわけですね。
 だけど、日曜日の朝、マリアたちがお墓に行って見ると、お墓は空っぽで、イエス様はそこにおられない。そこには神様の使いがいて、マリアたちに言いました。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」

 死んだはずのイエス様を、父なる神様はお見捨てにはなりませんでした。父なる神様は、十字架に死んでお墓に葬られたイエス様をいのちに呼び出してくださいました。
 十字架に死んでくださったイエス様が、死なれたのにですね、父なる神様にいのちを与えられた。わたしたちはそのことをお祝いするんですね。
 
 クリスマスにわたしたちは、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった、赤ちゃんイエス様のお誕生をお祝いしました。
 今日、イースターの日にわたしたちは、死んでお墓に葬られたイエス様が、父なる神様によっていのちに呼び出された、復活させられたそのことをお祝いしているんですね。

教会のお祭りはいのちのお祭りです。
いのちに満ちて生きておられるイエス様をお祝いするんですね。

 普通、わたしたちの知っているお祭りっていうのは、沢山の収穫があった秋に、その収穫を喜んでお祭りをしたり、お正月には新しい年が来たからといってお祝いをしたりしますよね。
 でも教会のお祭りはちょっと違うんですね。沢山の食べ物やいいことがあったことを喜んでお祭りをするのではないんです。
 では、何を喜んでお祭りをするんでしょうか。それは、いのちを喜んでお祝いをするんですね。イエス様がお生まれになった。イエス様が復活させられた。このイエス様がいのちに満ちて生きておられる。だからお祝いをするんです。

 ただイエス様が生きておられることだけをお祝いするのではありません。イエス様にいのちをお与えになった父なる神様は、わたしたち一人一人にも、いのちを与えて下さっていて、それをとても喜んでくださっている。みんなのいのちを心から慈しんでくださっている。大切にしてくださっているんですね。だから、みんなのいのちが失われてはいけない。滅びてはいけない。そうお望みになって、イエス様の十字架によって、わたしたちの罪を赦して、わたしたちがたとえ死んでも、イエス様をいのちに呼び出してくださった神様は、わたしたちを、みんなのことをも、いのちに呼び出して下さるのです。

 みんながお母さんから生まれてきた日、お父さんやお母さん、家族のみんなは何ていってお祝いしてくれたでしょうか?きっと「おめでとう」と言ってお祝いしてくれたと思います。イエス様のご復活を「おめでとう」と言ってお祝いするわたしたちは、そのイエス様から永遠のいのちを頂いて、神様から「おめでとう」と喜ばれている一人ひとりなんですね。
 イエス様が生きておられるというのは、わたしたちも生きるようにという父なる神様の御心です。与えられたいのちを楽しく喜んで生きるように、そして自分のいのちの終わりを迎えるときには、イエス様に罪を赦されて、永遠のいのちを頂いて、また神様によって生かされるように、そう父なる神様は望んでくださっているんですね。

 復活されたイエス様は、いつもみんなと一緒にいてくださって、みんな一人一人のことをお守りくださいます。わたしたちを大切にし、何よりも心にかけてくださるイエス様に感謝して、毎日を大切に生きて生きたいと思います。


子供説教「いなくなったひつじ」

2008-03-11 12:37:01 | 子供の説教
「小さい羊が家を離れ」という讃美歌を知っていますか? 今年も何度か礼拝で歌いました。僕はこの子供讃美歌が大好きです。どういう歌だったか覚えていますか?
こんなおはなしです。

小さい羊が家を離れて遊びにいった。すると綺麗なお花畑や、おもしろいことが沢山あって、あっという間に一日が過ぎて、気がつくと辺りは暗くなってしまっていた。一匹の小さな羊は、羊飼いのもとを離れて、迷子になってしまっていたのです。帰る道がわからなくなって、悲しそうに泣いています。優しい羊飼いさんの声が聞こえない。仲良しのお友達もいない。この小さな羊は悲しくて寂しくて鳴いているのです。
そのころ、一日の仕事を終えて羊飼いは、一匹二匹・・・と羊を数えながら羊を家につれて帰ります。すると、何度数えても一匹足りないのです。大変です。迷子になったと気づいたのです。あの小さな羊の一匹がいなくなってしまった。
羊飼いは暗くて寒い夜がもうすぐにやってくるという中を、杖を手に取り、用意をして、この一匹の羊を探しに野原に出て行くのです。羊飼いは必死で探します。「おぉーい!!」もう辺りは真っ暗です。
羊飼いのもとを離れて、迷子になった羊は暗闇が迫ってきて、怖くて、悲しくて、メェメェ泣いています。どんなに寂しかったでしょう。真っ暗な夜、お家に帰る道がわからなくなって、どこかわからない所でひとりぼっち。もし私たちがそうだったら、きっと怖くて、悲しくて、何も出来なくて、立ち尽くして泣いてしまうかもしれません。

優しい羊飼いさんは、必死で探します。お花畑も、楽しい広い野原も、お昼ご飯を食べた草っ原も・・・。でも迷子の羊はいません。羊飼いはおもいつきました。あの暗く深い谷に落ちたのかもしれない。岩だらけで、危険な誰も近寄らない谷があったのです。
羊飼いは一歩一歩その谷に降りていきます。大声で羊の名前を呼ぶのです。
すると、遠くから、小さな泣き声が聞こえてきました。メェメェ・・・。
優しい羊飼いは、すぐに気づきました。私の大切な小さな羊。あの羊の声に間違いない!!
羊飼いは大急ぎで迷子の羊のところにかけて行き、急いで腕に抱き上げました。
迷子の羊は優しい羊飼いに会えた喜びで、こころがホッとしました。嬉しくなったのです。
羊飼いはこの迷子の羊を大切に腕に抱いて、お家に連れて帰ってくれたのです。


皆さん。この羊は誰でしょうか? 
それは、みんなのことです。この羊に名前をつけるのなら、みんなの名前をつけてあげてください。花ちゃん羊さん。太郎君羊さん。みんなの名前を入れた羊さんです。
どうしてこの迷子の小さな羊が私のことなのでしょうか。

イエス様は教えて下さいました。
私たちは神様につくられた、神様のもとにいるはずの、神様の大切な子供たちです。
ところが、この迷子の羊のように、羊飼いである神様のもとを離れて、楽しい野原、綺麗なお花畑、自分の好き勝手な方向へ向っていって、神様のもとを離れて行ってしまった。良い羊飼いであるイエス様のもとを離れて、自分勝手に生きている。それが迷子の羊さんなんだよと仰います。
しかし、そういう迷子の羊さんをイエス様はお見捨てになりませんでした。迷子の羊さんである私たちを救うために、イエス様はこの世にこられたのです。

教会や教会の絵本などを見ると、よくイエス様が羊を抱いておられる絵があります。それは、この聖書のお話しを描いたものです。
有名な詩編にこのようにあります。
主はわたしの羊飼い。わたしには何もかけることがありません。

聖書は、イエス様はわたしたちを本当に大切に養い、育てて下さる羊飼いであるといいます。わたしたちはイエス様の羊です。良い羊飼いであるイエス様は、自分のいのちよりも、わたしたちを大切に思ってくださるのです。イエス様はわたしたちのためになら、自分のいのちさえ惜しくないと思われるほどに、わたしたちを大切に思ってくださるのです。
良い羊飼いであるイエス様は、迷子のわたしたちを探し出して下さいました。
イエス様のおそばで生きて生きたいと思うのです。

お祈りしましょう。            
よい羊飼いであるイエス様。
あなたがいつも、わたしたちのことを大切に思って下さる、良い羊飼いでいらっしゃることを感謝します。どうかイエス様のおそばに、いつも私たちをいさせて下さい。
イエス様のお名前によって、お祈り致します。アーメン

子供説教「十戒」出エ20章

2008-01-07 17:11:26 | 子供の説教
 新しい年を迎えました。神様が、わたしたちの新しい一年にどんなに素晴らしいことを用意して下さっているでしょうか。神様はわたしたちのことをいつも心にかけて下さる神様です。ですから、今年も毎日が神様の暖かい眼差しの中にあります。教会で神様を礼拝して力を頂き、そして一年を歩んでいきたいと思います。

 さて、みなさんは「十戒」というのを聞いたことがありますか? 
十戒は、旧約聖書の中に出てくる神様の10の戒めの言葉です。
こどもさんびかの183頁、後ろのほうにありますから、一緒に開いてみて下さい。

 ここに十戒が書かれています。
何が書いてあるのか、一緒に読んでみたいと思います。一緒に声に出して読んでみましょう。

■十戒
わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、
どれいの家から、みちびきだしたものである。 
1.あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
2.あなたは自分のためにきざんだ像をつくってはならない。
3.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日をおぼえて、これを聖とせよ。
5.あなたの父と母をうやまえ。
6.あなたは、殺してはならない。
7.あなたは、姦淫してはならない。
8.あなたは、ぬすんではならない
9.あなたは、隣人について、偽証してはならない。
10.あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。

 これが十戒です。
 昔、イスラエルの人々はエジプトの奴隷になって、長い間エジプトの国で苦しい思いをして働かせられていました。みんな疲れきっていました。楽しいことなんて何にもない。本当に辛い毎日でした。ところが、神様はモーセという人を選んで、イスラエルの人たちをエジプトから脱出させられました。苦しいエジプトの生活から神様は救い出して下さったのです。そこでイスラエルの人たちは、神様が下さる素晴らしい約束の土地を目指して旅立ったのです。そういう旅の途中で、神様がイスラエルの人々にお与えになったのが、この十戒です。

 いま読みましたように、何々しなさい。何々してはいけない。沢山書いてあります。随分厳しいなぁ。そう思いませんか? 神様が救って下さったんだから、もう十戒なんていらないんじゃないかと思うかもしれません。
ところが神様は、苦しいエジプトの生活から救い出された人々に、この十戒をお与えになったのです。

 いま十戒は、救われた人たちに与えられたといいました。神様が奇跡的な力で救い出して下さった人々に与えられたのです。この十戒は、これを達成して救いのために励みなさいということではなくて、救われた私たちの新しい生き方を神様が示しておられるのです。
 神様に救われたものらしく生きるとはこういうことですよ。神様に自由にされた私たちの新しい生き方はこうですよと、主なる神様は教えて下さったのです。そして、この十戒によって神様の民、救われた私たちは守られているのです。

 十戒の一番初めは何と書いてあったでしょうか? そこには、「わたしはあなたの神である」と書いてありました。
 全能の、世界を治めておられる、最も高い所におられる栄光の神様が、わたしたちのような罪深い者を救い出して、「わたしはあなたの神である」とそう仰って下さっているのです。
 わたしたちは綺麗なものや立派なものをもっていると、これは私のものなんだと自慢したくなるでしょう。ところが、汚いものや失敗作は、「私のものだ」と周りの人にいうのも嫌です。
 神様は違います。なんの躊躇もなく、ここにいるみんなに「わたしはあなたの神だ」そう仰って下さっているのです。私たちは、この神様の救いを頂いて、感謝しながら新しい生き方をすることができるようにと、十戒を与えられているのです。
今年もこの神様に信頼して歩んでいきましょう。

お祈り致します。
天の父なる神様。あなたはわたしたちに新しい年を与えて下さり、今年も神様の子供として歩むことをゆるして下さりありがとうございます。あなたが私たちを救って下さったお恵みに感謝して歩むことができますように。今年も教会に集う大切なお友達の一人一人をお守り下さい。イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン

子供説教「バプテスマのヨハネ」マタイ3:1-6

2007-12-09 07:48:13 | 子供の説教
■待降節第二主日/子供説教/2007.12.9.

これはアドベントカレンダーといいます。毎日一つずつあけます。そうして、クリスマスを待っているのです。クリスマスを待つというのは、主イエス様のお生まれを待つことです。昔しユダヤの人々は、神様のお約束された、救い主イエス様のお生まれを長い間待ち続けてきました。

今日は「待つ」ということについて考えてみたいのですが、どうして私たちは「待つ」のでしょうか? クリスマスプレゼントを頂けるのを待ちますよね。クリスマスイブの夜は次の日の朝を楽しみにして寝ますね。わたしたちがまだもっていない、素敵なプレゼントを頂けるのを楽しみに待ちます。きっともう、みんなは今年のクリスマスプレゼントを楽しみにして待っていると思います。
お友達を待つ時もありますね。仲のいいお友達と会えるのはとても嬉しいです。どんなに仲のいいお友達でも、いつもずっと一緒にいれるのではありません。だから、わたしたちは次にお友達と会えるのを、遊びに来てくれるのを楽しみに待ちます。

昔しユダヤの人々は、イエス様のお生まれを待っていましたといいました。イエス様のお生まれを待っていた人々の中に、洗礼者ヨハネ。バプテスマのヨハネとも言いますけれど、ヨハネがいました。洗礼者ヨハネは、イエス様が来れられるのを待っていました。

洗礼者ヨハネは、どのような人だったのでしょうか?
聖書を読むと、ユダヤの荒野で、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯をしめ、いなごと、野蜜とを食べ物としていた。そして、ユダヤ中から、人々はヨハネの所に来て、罪を告白し、神様に背を向けていたことを悔い改めて、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたとあります。

洗礼者ヨハネは、荒野で何を叫んでいたのでしょうか?人々は何を聞いて悔い改めて、洗礼をうけたのでしょうか?
洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒野でこのように叫んだのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」洗礼者ヨハネは、天の国が近づいた。わたしたちの救いが近づいた。だから、悔い改めなさいと言ったのです。

イエス様が来られるのを待つ時に、洗礼者ヨハネは、悔い改めて待つんですよと言いました。心を神様に向けて待つんですよといいました。聖書は、わたしたち人間は、悪いことをして、罪をおかして、神様に背中を向けているといいます。
悔い改めるというのは、背中をむけていた神様のほうへ、グルッとむきなおすことです。お祈りをするというのは、神様のほうにむきなおることです。

クリスマスが嬉しいのは、クリスマスが待ち遠しいのは、ただプレゼントがもらえるからだけではありません。美味しいケーキが食べれるからだけではありません。
わたしたちの罪が赦されるからです。

アダムとエバは罪を犯して、神様からあなたたちは死ぬと宣告されてしまいました。罪というのは、恐ろしいものです。悲しいことですが、人間は、どんなに頑張っても悪いことをしてしまいます。気がつくと神様の方に背中を向けています。
そういう人間、わたしたちを救うために、イエス様がお生まれになった。クリスマスの嬉しい気持ち、待ち遠しい気持ち、それは、このわたしたちの救われた喜びにあるのです。

今日歌う讃美歌は、「かみさまはそのひとりごを」という子供讃美歌です。みんなで一緒に歌詞を読んでみたいと思います。
『①かみさまは、そのひとりごを、よのなかにくださったほど、よのひとを、あいされました。②かみのこを、しんじるものが、あたらしい、いのちをうけて、
いつまでも、いきるためです。』

クリスマスは、神の子イエス様を信じる者が、決して一人も滅びることのないように、天の父なる神様が、イエス様をベツレヘムの馬小屋に生まれさせて下さった。そのことを喜ぶ日なのです。

今日は、洗礼者ヨハネのことを聞きました。
ヨハネは今日も、みんなに向かって叫んでいます。
『悔い改めなさい。天の国は近づいた。』
わたしたちも、神様のほうへと心を向けて、罪を赦されて、クリスマスを待ちたいと思います。


子供説教「サマリヤの女」ヨハネ4章

2007-11-11 07:59:11 | 子供の説教
イエス様に出会った人たちのお話を続けています。
今日は、イエス様がユダヤからガリラヤへと旅をしておられるとき、サマリヤのシカルという町を通られたときのお話です。
暑いお昼頃のことでした。このサマリヤのシカルという町の井戸の側で、旅に疲れたイエス様は休んでおられました。すると、一人の女の人が井戸に水を汲みにきたのです。
そのとき、イエス様はこのサマリヤの女の人に話しかけられたのです。

聖書をお読みしますので、どうぞ聞いて下さい。
ヨハネによる福音書の4章7節から14節です。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

イエス様は、井戸のそばで、わたしがあなたにあげることのできる水がある。それは、決して乾くことのない永遠の命の水だとおっしゃいました。

いまは、あまり井戸をみることがないのですけれど、みなさんは見たことがありますか?
僕も何度か見たことがあります。深い穴を掘ると、その底から水が沸いてきますから、それを長いロープの先にバケツをくくりつけたものなどで汲み上げるわけです。もう少し最近まで使われていた井戸は、それとは違って、ポンプで汲み上げる井戸もあります。そして、生活に使うのですけれど、井戸の水は雨が降らない日が続くと、カラカラに乾いて水がなくなってしまうことがあります。

イエス様は、わたしのあげる水は乾かない。しかも永遠のいのちの水をあげると言われました。
乾かない永遠のいのちの水って何でしょうか?

イエス様はサマリヤの女の人の心をよくご存知でした。
女の人が、飲む水はここにあっても、心の中は本当は乾いたままだったことをよくご存知でした。
この女の人は、あまり人には言いたくないような人生を過ごしてきた人でした。暑い昼間に水を汲みに来なくても、朝涼しいうちに水を汲みにきたらいいのです。でも、この女の人は人目を避けて、誰も出てこない熱い昼間に水を汲みにきていたのです。


今日はここに一杯のお水を持ってきました。(金色の箱をあける)
わたしたちは喉が渇くと、お水がほしくなります。人間はずっとお水を飲まないでいると、身体の力がなくって、いのちも危なくなります。私たちの心も同じです。こころが乾くと、本当につらいと思います。わたしたちの心も水を必要としています。それは、このコップにあるような水ではなくて、イエス様が今日下さろうとしている永遠の命にいたる水です。

サマリヤの女の人が抱えていた罪は、イエス様によって赦されました。
女の人の心の中に、救われた喜びが溢れてきました。
この女の人もイエス様に祝福された人なのです。

自分は罪人だと、自分は人にあわせる顔なんてないと思っていた女の人が、イエス様に出会って、わたしはイエス様に救われたんだ、罪赦されたんだ、イエス様に祝福された人生を歩めるんだ。そういう希みを頂いたのです。

イエス様は、むかし井戸のそばで女の人に下さったように、今日ここにいる私たちにも、永遠の命の水を下さろうとしているのです。わたしたちに、けっして乾くことのない永遠の命の水を豊かに下さるのです。そして、弱った心を元気付け、新しい力を頂いて歩むことができるようにとしてくださるのです。そのとき、イエス様こそ、本当に私の救い主なんだと告白することができるのです。

お祈りいたします。
天の父なる神様。わたしたちを礼拝に招いて下さってありがとうございます。
今日あなたの御言葉を聞きました。あなたは、わたしたちに、決して乾くことのない永遠の命に至る水を下さるとおっしゃいました。わたしたちにも、そのお恵みをお与え下さい。そして、わたしたちも救われた喜びをまわりの人々に伝えることができますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

子供説教「ペテロ」ルカ5:1-11

2007-10-27 18:17:23 | 子供の説教
子供説教「ペテロ」 ルカ5:1-11.

5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


 イエス様と出会った人たちのお話を続けてきました。
 今日は、イエス様に出会ったシモンという人のことをお話ししたいと思います。
シモンという漁師さんは、ガリラヤ湖という大きな湖の漁師さんをしていて、船をガリラヤ湖に漕ぎ出して、網をおろして漁をする。そういうお仕事をしていた人です。ある日、イエス様は、このシモンという若い男の人が舟から上がって網を洗っていたとき、このシモンの側にやってこられました。

 そこでイエス様は、シモンの舟に乗って、シモンに言われました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えて、イエス様のおっしゃるとおり、網をおろしてみたのです。すると、数え切れないほど沢山の魚がかかって、網が破れそうになりました。
 イエス様はシモンに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエス様に従っていったのです。

 シモンはお魚をとる仕事をしていたのですが、イエス様に呼ばれて、イエス様に従っていきました。実は、わたしたちも、イエス様に呼ばれているのです。
聞こえるでしょうか。イエス様の呼んでおられる声が。心を静かにしないと聞こえない、小さな小さな声かもしれません。

 みなさん、呼ばれているって嬉しいことだと思いませんか?
 わたしのことを、呼んでくれる、期待してくれる人がいる。しかもそれがイエス様だって、何と素晴らしいことだと思いませんか。私に何か出来るからイエス様が呼ばれたのではないのです。シモンは漁師さんです。しかしイエス様は、シモンを、イエス様のことを世界に伝える人になるように、呼ばれたのです。
何もかも立派にできる人を、イエス様が呼ばれたのではありませんでした。

 シモンさんは、後でイエス様からペテロという名前をつけて頂きました。
ですから、聖書は、シモン・ペテロと言います。
 ペテロさんは、イエス様のお弟子さんですけれど、実は失敗も沢山したのです。ある日、「オマエはイエスと一緒にいただろう?!」「さては、オマエもイエスの仲間だな?!!」と言われたとき、3回も違うと言ったのです。
 イエス様は、失敗することをご存知なのに、シモン、ペテロを呼ばれたのです。
神様のお言葉を伝えるために、シモン、ペテロはイエス様の呼びかけについていきました。
 イエス様は、失敗しない何でも出来る人だけを呼ばれるのではなくて、ここにいる、わたしたち一人一人に語りかけておられるのです。

 恐れなくていい。あなたは人間を獲る漁師、神様のお言葉を伝える人になるんだ。何も牧師さんになることだけではありません。みんな一人一人が、イエス様のお言葉を頂いて、沢山の人にそれを伝えるのです。そうして、沢山の人たちがイエス様のもとに集められ、本当の救い、喜びを頂くように、私たちをイエス様は呼んでおられる。用いてくださるのです。


お祈りいたしましょう。
 シモンに語りかけられたイエス様。あなたは、わたしたちのそばにも、今日おられます。そして、わたしたち一人一人に静かに語りかけておられます。「恐れなくていい。あなたを人間を獲る漁師にしてあげよう。」わたしたちを助けて、イエス様と一緒に歩むことができるようにしてください。聖霊がわたしたちを導いて、今週も元気に過ごすことができますように。あなたの助けを必要としている、すべての人たちのそばにいて下さい。イエス様のお名前によって、お祈り致します。アーメン

やもめと裁判官のたとえ話  ルカによる福音書18:1-8

2007-07-23 12:45:57 | 子供の説教
ある日イエス様は、お祈りをすることについて、教えるために、こんな例え話をされました。

ある町に、神をおそれず、人を人とも思わない、悪い裁判官がいました。

その町に、早くにご主人をなくした女の人がいました。ところが、この人は、あらぬことである人に責められて困り果てていました。何とか助けてほしいと思って、その町の裁判官の所へ何度も行っては、自分のために裁判をしてほしいとお願いをしていました。しかし、裁判官はなかなかとりあってくれません。

裁判官はある日考えました。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
しかし、あの女は、いつもやってきて、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、これからも毎日のようにやってきて、わたしを困らせるだろう。」

こんな例え話をされたあとで、イエス様は言われました。
あなたたちの神様は、昼も夜も叫び求めている者を放っておかれるだろうか?

悪い裁判官は、女の人がひっきりなしにやってきて、自分を困らせるので、うるさく思って裁判をしてやることにしました。しかし、わたしたちの神様は私たちのことを、煩わしく思って、助けてくださるのではありません。独り子イエス様のいのちを下さるほどに、私たちを愛してくださる神様です。それほどまでに、私たちのことを大切にし、心にかけて下さる神様なのです。ですから、わたしたちは、この女の人のように、いま私たちが困っていることを神様にお話しするのです。良い神様は、私たちの祈りの声にいつも耳を傾けておられ、わたしたちの祈りを聞いて下さるのです。



子供説教「イチジクの木」のたとえ ルカ21:29-33

2007-07-08 06:52:25 | 子供の説教
■「いちじくの木」のたとえ  ルカ21:29-33  こどもさんびか14

21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。21:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。21:31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。21:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
21:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
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ある日イエス様は、世界の終わりについてお話されました。みなさん、世界の終わりはどんなだと思いますか? 今日の聖書のすぐ前を見ると、そのことが書いてあります。その時には、わたしこそキリストだ!! 自分こそ救い主!! そういう偽者のキリストが大勢現れて、みんなをだまそうとする。 戦争とか暴動のことを聞いたり、大きな地震があって、あちこちに飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れるんだと言います。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うと言われました。

こういう世界の終わりについてお話しをされたすぐ後で、今日の、イチジクの木のたとえ話をされました。今日のたとえ話は、イチジクの葉っぱが茂ると夏が近いのがわかりますよね。そう言うお話しでした。木に葉っぱが青々と茂ると、私たちは夏が近いことがわかります。この葉っぱが黄色や赤にかわってくると、もう秋なんだと分かります。

それと同じように、さっきイエス様がお話になったような事が起こったら、世界の終わりの日が近いのです。イチジクの葉っぱが青々と茂ったら夏が近いことを知るように、こういう知らせを聞いたら世界の終わりが近い事を知って、「身を起こして頭を上げなさい。」と言われました。
身を起こして頭を上げていなさいとは、ビクビクしないで、神様を信頼していなさいということです。
わたしたちは、世界が終わりの日がくるとか、戦争や地震の知らせがあって、恐ろしい現象が起こると、「恐ろしさのあまり気を失うだろう」とイエス様が言われたように、怖くて不安で一杯になります。怖いなぁと思うのです。

しかし、この世界の終わりは、破滅や絶望ではありません。天地をつくられた神様、私たち一人一人を大切に、心を込めて創造し、いのちを吹き込んで生かして下さった愛の神様。 私たちの罪のために十字架にかかって、死んで復活されたイエス様が来られるのです。

ですから、私たちは、世界の終わりだと言って、偽物の預言をする人たちに耳を傾けることもないし、地震や戦争のうわさを聞いても、ビクビクしなくて良いのです。世界の終わりは私たちの絶望ではないのです。
イエス様は、それは、「このようなことが起こり始めたら、あなたの解放の時が近い」と、言われました。あなたがたの解放の時。
わたしたちが愛の神様によって、本当に自由にされるとき、神様の国の恵みに生きるとき、そういう時が来るんだということです。世界の終わりとは、そういう恵みの中に私たちが迎えられるということなのです。
わたしたちはいつも、神様にお委ねして過ごしたいと思うのです。


お祈りいたしましょう。
すべてのものの造り主である神様。今日、あなたの御言葉を頂きありがとうございます。私たちは毎日を神様に委ねて歩むことができますように。そして、あなたが再び来られる日を、心を備えて待ち望むことができますように。私たちの主、イエス・キリストによってお祈り致します。アーメン

子供の説教「実のならないいちじくの木」の譬

2007-06-25 07:41:58 | 子供の説教
「実のならないいちじくの木」のたとえ ルカによる福音書13:6-9

13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
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ある日イエス様は、こんなたとえばなしをされました。
イチジクの木に、3年たっても実が実らなかった。それで、木を植えた人は、「実がならないから、切り倒してしまえ」と言うのです。園丁といって、木のお世話をする人は「今年、木に肥料をあげて、大切に育てます。来年は実がなるかもしれませんから」と、そう言って、切り倒さないようにされました。そういうお話でした。

イチジクの木は、私たちの事です。本当は、私たちにも、実がなるんだって言うのです。でも、「実がならなかったら、切り倒して下さい。」と書いてありました。なんだか、わたしたちに実がならなかったら切り捨てられてしまうなんて怖いと思ってしまいます。

けれど、皆さん、その木の世話をして、大切に育ててくださるのはイエス様です。決して悪い、何もしない園丁や、木の世話人ではありません。わたしたちが良い実を結ぶことができるように、イエス様は、木の周りを掘って、肥料を下さって、毎日毎日、朝も、夜も、みんなが寝ているときも、お世話をしてくださるのです。

良い実が実るためには、よい世話人の人が必要です。わたしたちのお庭に植えてあって、だれもお世話をしない木にはいい実はなりません。けれど、果物の専門の人が作る果物は、とっても大きくて、立派な実がなって、そして甘くて美味しい果物ができます。
むかし、お庭に落ちたスイカの種から芽が出て、それがどんどん伸びて、何もしなかったのに小さなスイカが出来ていました。僕たちは喜んで、それを切って食べたのですが、あまり美味しくなかったんです。肥料もあげていないし、お水だってほとんどあげていなかったんです。でも、夏に贈り物で頂いたスイカは、大きくて、真っ赤で、甘くて、とっても美味しかったです。きっとスイカを作る専門家の人たちが、心を込めて、大切に大切に育てて下さったからだと思います。

イエス様は、木である私たちを心を込めてお世話をして下さって、いつか、良い実がみのるようにして下さいます。ですから、わたしたちは、イエス様が下さった肥料、神様のみことばを、しっかりと吸収して、神様の下さる恵みの太陽の光をいっぱい浴びて、聖霊の下さるいのちの水を沢山頂いて、大きく育つと良いのです。
お祈りいたしましょう。

イエス様。あなたがいつも、私たちをお守り下さっていることを感謝します。どうか、私たちがあなたのお恵みを沢山頂いて、実を実らせることが出来ますように。今週も私たちの家族、お友達、みんなをお守り下さい。イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン