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説教「クリスマスの馬小屋」教会学校クリスマス礼拝

2009-12-20 00:58:30 | 子供の説教
2009/12/20待降節第四主日・教会学校クリスマス礼拝・説教
「クリスマスの馬小屋」ルカによる福音書2章1-8節

 もうすぐクリスマスを迎えます。教会の前の道には、夜になると沢山のイルミネーションが飾られていて、とても綺麗です。街を歩いていると、大きなクリスマスツリーや、クリスマスの飾りが沢山あって、どれも綺麗だなぁと思います。きっと、みんなもお家にクリスマスの飾りをしたり、ツリーを飾ったりしていると思います。イエス様のお誕生を喜んで、綺麗に飾り付けてお祝いをしたいと思います。
 
 ところで、みなさんは教会に来ると、この礼拝堂に上がる階段の下に、馬小屋を飾ってあるのを見ましたでしょうか。綺麗な金や銀の飾りも、華やかなリボンもありませんけれど、モミの枝が敷かれただけの地味な馬小屋です。
 わたしたちは、このクリスマスの馬小屋を見つめるときに、その時初めて、クリスマスの本当の意味が分かってくると思います。クリスマスの馬小屋、そこには、マリアとヨセフがいます。羊飼いやヒツジがいます。牛やロバもいます。わたしたちが知っているような、クリスマスの華やかで綺麗な飾りつけとは全く違う、決して綺麗ではない馬小屋です。
 冷たい風が吹いてくるかもしれません。赤ちゃんを産むことのできるような場所ではありません。生まれてきた赤ちゃんを洗ってあげる暖かいお湯はあったでしょうか。赤ちゃんの寝る暖かなベッドがあったでしょうか。馬小屋にはそんなものはありません。
 クリスマスの馬小屋には、決して綺麗な飾りも、それを見た人達が何か幸せを感じることができるような美しさもありません。馬小屋は綺麗な飾り物ではありません。よくよくそれを見つめたら、そこに美しい夢の世界を思い描いたりすることはできません。

 どうしてかと言うと、お腹の大きなマリア様を、誰一人わたしのお家に泊まってと言わなかった。赤ちゃんイエス様がお生まれになるのに、誰一人暖かなお家へどうぞとは言いませんでした。長い旅を続けてきたマリアとヨセフ、そしてイエス様を暖かく迎えてくれる人はどこにもいませんでした。これを人間の罪といいます。
 自分は暖かいお家で、美味しいものを食べて、ゆっくりとフワフワのベッドで寝れたら、それでいい。「どこの誰か判らないあの若いお腹の大きな二人連れのことなんて知らないよ」そんなふうに思ってしまう人間の冷たい心、それがベツレヘムの馬小屋には見えてきます。クリスマスの馬小屋を見つめるときに、わたしたちが気付くことというのは、決して人間の暖かな心とか、美しい光景ではありません。自分のことばかり考える人間の罪、イエス様をお迎えすることをしない人間の罪の姿が、見えてきます。
 そして、あんな寒い、赤ちゃんを産むのはとても危険な馬小屋にいるマリアとヨセフを、そしてイエス様を、何とも思わない人間の罪、そのような冷たい人間の罪が見えてきます。

 でも、そこにイエス様はお生まれになりました。そういう人間の罪、冷たさ、人のことを何とも思わない自分中心的な心、まして神様の御子イエス様をお迎えする気持ちなんてどこにもない、そういう人間の罪の只中に、イエス様はお生まれになったのです。そこにこそ、救い主のお誕生が必要だったからです。

 決して綺麗ではない馬小屋ですけれど、でも、そこにイエス様が生まれてくださることによって、馬小屋はパッと明るくなります。喜びが溢れてきます。
それは、馬小屋が立派だからでも、綺麗だからでもありません。そこにイエス様がいてくださるから、馬小屋は明るく照らされるのです。

 わたしたちの心は、それはこの馬小屋のようなものです。それは決して立派な、暖かい、綺麗な馬小屋ではありません。気がつくといつのまにか隣にいるあの人この人のことよりも自分のことばかり考えている。気がつくと、神様にお従いすることよりも、自分の願いのままに神様を振り回そうとしたりする、そんな心の馬小屋です。でも、そこにイエス様は生まれたいと望んでくださったのです。そして、わたしたちの心の馬小屋にイエス様は生まれてくださるのです。わたしたちはみんな、イエス様のお誕生が必要です。わたしたちの暗く、冷たい、そして汚い馬小屋が明るくなるためには、イエス様が生まれてくださらなければいけません。

 人間は自分で自分の心を照らすことは出来ません。人間は自分で自分を救うことはできません。イエス様をわたしたちみんなが、心の中にお迎えして、クリスマスをこころからお祝いしたいと思います。

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