ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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説教「涙の拭われるとき」Ⅱテサ1:1-12

2007-12-15 16:45:50 | 主日以外の説教
■聖書:Ⅱテサロニケ1:1-12■讃:171/290
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。1:3 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。1:4 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。1:5 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。1:6 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、1:7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。1:8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。1:9 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。1:10 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
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今年初めてのクリスマスカードが届きました。誰も、大切な方から手紙を頂くと嬉しいものです。
今日開かれていますテサロニケの信徒への手紙は、イエス・キリストに結ばれたテサロニケの教会へと宛てられた手紙です。しかし、この手紙はまた、いまここにある私たちの教会にあてられた手紙でもあるわけです。わたしたちは聖書に記された手紙を、2000年近く前の古文書のようにして読んでいるのではありません。今日、ここに生きているわたし達に宛てられた手紙、主のみ言葉として、今ここに開いているのです。

さて、テサロニケの教会はどのような教会だったのでしょうか?3節にこのようにあります。「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」
ところが、そういう神の恵みの中にある教会が、4節。
「あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。」というのです。神の恵みの中に生かされているはずの教会が、ありとあらゆる迫害と苦難の中にいるというのです。手紙を受け取った教会は、キリスト者は、苦しんでいるというのです。

■私たちの苦しみ
信仰が成長し、愛が豊かにされていた。そういう恵みの中に入れられたはずの教会が、キリスト者たちが、迫害され、苦しんでいるのです。いまわたし達の生活のすぐ側には、このテサロニケの教会が迫害されたような、信仰のために命をも脅かされる、そういった苦しみはないかもしれません。しかし、人それぞれに、とても簡単には言い切れない悲しみや痛みがあります。涙を流し、助けを求めて叫んでいる人々がいる。ほかならない神の民がそういう痛みの中にいるというのです。

今年6月、一年の闘病生活の末に親しい人を天に送りました。その前夜式、聖歌隊の歌った故人愛唱歌は讃美歌106番。「荒野の果てに」でした。前夜式では異例のことですが、どうしてもとの希望でこのクリスマスの讃美歌が歌われました。
「荒野の果てに、夕日は落ちて、たえなるしらべ、あめより響く。」この方は、奥様と高校生の子供2人を残して御許に召されました。遺された者にしてみれば、まさに荒野の果てに夕日が落ちた。自分たちの大切な暖かい団欒が崩れ落ちた、そういう痛みであります。荒野の果てに夕日が落ちるような経験をするわけです。ところが、讃美の歌はそれで終わらないのです。そこで、天から響く声を聞いた。「グローリア!!」「神に栄光あれ!!」わたしたちは、あまりに辛い出来事のゆえに、もう自分の光はどこにもないのではないか、まさに荒野の果てに夕日が落ちてしまったかのような気持ちに沈むとき、そこに暗闇を突き破って響く天からの声がある。「神に栄光あれ!!」そして、神の憐れみをうけた地の民に、ほかならないあなたに平安があるように。
愛するものを失うことだけではありません。とても人には理解してもらえないと思うような、痛みや苦しみの只中で、私たちは自分たちのすがっていたものが見事に崩れていくことを知ります。しかしそこではじめて見えるものがあるのです。それは主イエスのみ姿です。苦しみの中で、わたしたちはこのお方にすがるしかない。この方に信頼するしか立ち上がることができない、そういうお方に出会うのです。
 わたしたちの人生の光が落ちたと思える所で、天から響くなぐさめの声があるのです。

テサロニケの手紙は、様々な苦しみの中にある者に、慰めの御言葉を語っています。安息を与え、報いを与えるために主イエスが来られるというのです。再び来られる主イエスがお与えになる安息、慰めとは何でしょうか。

■神は裁いて下さる。
ところが、その先を読んでいきますと、厳しい裁きの言葉が続けて記されています。
1:8 主イエスは来られ、神を認めない者や、福音に聞き従わない者を罰し、彼らは、主の前から退けられ、切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受ける。
主イエスが来られるとは、私たちの「救いの時」であると同時に「裁きの時」でもあります。神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます。きょうの聖書の箇所では、この「裁き」が語られています。しかし、本当の慰め、本当の休息は、この裁きなくしてはありえないのです。神は、わたしたちに全き慰めを与えるために、裁きを行われるのです。テサロニケの教会は、そしてここに集うキリスト者たちは、ほかならない私たちは、御子イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、救われた者であります。神が、神を認めない者や、福音に聞き従わない者をまったく滅ぼされるというのは、わたしたちを苦しめている一切のものから、私たちを完全に解き放って下さるということであります。
けれども、このような裁きのみ言葉を聞きますと私たちは怖くなるのではないでしょうか。やはりわたしたちの内には罪があります、神の前に相応しくない者であったわけです。ですから、自分の姿を見ますと怖くなるのです。しかし手紙は、11節。「 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとして」くださるように。神があなたを相応しいものとして下さるように祈っていると言うのです。
手紙は、わたしたちを脅そうとしているのではなくて、痛み傷ついた教会を、わたしたちを癒そうと、励まそうとしているのです。元気付けようとしているのです。

主イエスを待つとは、恐れ不安に脅えて待つのではありません。この裁き主、主イエスは、自ら私たちの裁きを身に負って、わたしたちを贖って下さった救い主でもあるのです。罪と絶望の中にあった私たちを愛して、ベツレヘムの馬小屋に生まれ、わたしたちの罪、裁かれるべきわたしたちの裁きを身に負って十字架に死なれ、ただ滅びに向かうしかなかった者に、ほかならない私たちに、永遠の命の希望を与えて下さった。この主イエスが、再び来られ救いを完成して下さるのです。ですから、神の愛と救いの喜びに包まれた待望の時として、わたしたちは主イエスがふたたび来られるのを、まことの裁きをなし、救いを完成して下さることを待ち望んでいるのです。ここにわたしたちの慰めがあるからです。と同時に、わたしたちは神の裁きの前に生き方を問われているのです。

聖書は主イエスが来られるといいます。わたしたちは御言葉を信じて待つのです。そういう恵みへと主が私たちを招いて下さっているのです。
ベツレヘムに私たちの主がお生まれになったように、また主イエスは再び私たちのもとに来て下さる。そして全き平安と休息を下さるのです。苦しむテサロニケの教会の涙、地上を生きる私たちの涙を、主がぬぐって下さるのです。

そのとき、12節。
1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
という御言葉が、わたしたちの上に現実のものとなるのです。
神は独り子を賜うほどに、私たちを愛し、死から命へ、絶望から希望へ、十字架から復活へと導きのぼって下さる。わたしたちは、この愛の御手にすべてをゆだねて、再び来たりたもう主イエスを心待ちに歩んでいくのです。

クリスマス説教「クリスマスの王様」マタイ2:1-12

2007-12-13 23:11:22 | クリスマス説教
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
イザヤ書9章に記された、救い主の誕生の預言はこのように語ります。
ユダヤの民も、東の博士達も、暗闇の中に暮らしていました。夜の闇のように暗い、不安や恐れという闇の中に生きていたのです。今を生きるわたしたちも同じかもしれません。しかし時代を経た今、なお一層、暗闇は深くなっているのかもしれません。
クリスマス。街中が美しいイルミネーションで輝いています。ショーウィンドーは美しく飾られて、寒い暗い冬の夜を暖かく見せています。私たちは光がほしいのです。寒く冷え切った身体を温めてくれる光だけではなくて、私たちの冷え切った心を暖めてくれる光がほしいのです。先の見えない道を照らす光がほしいのです。

私たちの求めている光、私たちを照らす光とは何でしょうか。
その光とは、安定した生活が送れることでしょうか。決して病気をしない健康な身体でしょうか。自分の地位が脅かされない安心感でしょうか。願い事が何でも叶う達成感でしょうか。そういったものが、わたしたちの本当の光となることができるのでしょうか。
人間の願望、人間の欲望は尽きることがありません。欲しいものが、叶って欲しい願い事が、いくらでもあるのです。

今日の福音書を見ますと、ヘロデと言うユダヤを支配していた王が出てきます。
ヘロデには立派な王宮も、美しい飾りも、美味しい食事も、家来も、言うなれば金も富もすべてがあった訳です。ところが、ヘロデは不安なのです。立派な王宮の窓から見渡せば、見渡す限り自分の領土。あらゆるものを持ってみたけれど、それでもヘロデは恐れるのです。怖いのです。

ヘロデは自分が王でありつづけることに必死なのです。ヘロデは自分の力で、必死で今の地位を築いてきた人です。自分こそ人生の主だと思っているのです。そして自分こそ人生の王であり続けたいと思っているのです。一方の民衆もそうです。人間は誰しも、自分の人生は自分のものだ。自分の人生の主は自分だと思っているのです。
ですから、博士達からきいた救い主、新しい王の誕生に脅えます。新しい王が生まれる?! そう簡単に私の人生など渡すものかと必死なのです。
ヘロデは新しい王の誕生の知らせを聞いて不快になったのです。自分を脅かすものならば、二歳以下の幼子さえ皆殺しにする。ヘロデも、エルサレムの人々も、いまのままで十分、好き勝手できるいまが一番と思っていた。新しい王などこのわたしの人生に必要などないと思っているのです。

先ほど歌いました讃美歌に、三人の博士が出て参りました。東の国の博士達は、救い主の誕生の知らせを聞いて旅立つのです。一つの星に導かれて、歩き出します。彼らは全てを置いて旅立ったのです。
一つの星に導かれた博士達は、長い旅の果てに、大きな光を目の当たりにします。博士達が見た大きな光。それは、飼い葉おけに眠る無力な幼子イエスでした。そして、この主イエスの前にひざまずくこと。主イエスを礼拝すること、ここに大きな光を見つけたのです。聖書は、博士達は喜びに溢れたというのです。
博士達は、主イエスのまえにひざまずくことによって、主イエスを自らの王として礼拝することによって、つまり、自分自身を主イエスの前にまるごと差し出したことによって、本当の喜び、消えることのない光を頂いたのです。
博士も、言ってみるなれば、この世において祝福された人生を歩んでいた人たちです。学識があり、立派な家があり、家来達がいて、不自由なく暮らしていたわけです。伝説ではこの3人の博士は東の国の三人の王様だったと言う話があります。いずれにしても、家族に、富に、持ち物に恵まれた人々です。しかし、博士達はそれを置いて旅立った。そして、それで良かった。それにもかえられないと思うほどの方に出会ったのです。博士は、聖書が「喜びに溢れた」と言うほどの主イエスとの出会いをしたのです。それがクリスマスの喜びです。

博士達は恵まれた日常を一度すべておいて、主イエスの前に出た。そして礼拝をするのです。その時、本当の光に出会った。本当の喜びを知ったのです。神様なんていなくても今日の幸せがあれば満足だと思って、必死で富をかき集め、地位ある王位に上り詰め、そして必死で権力の座を死守するヘロデ。あらゆるものを持っていましたがなお、不安と恐れで一杯なのです。博士とヘロデの間になんと大きな隔たりがあるでしょうか。

蝋燭は自らでは輝くことができません。誰かに光を灯されてはじめて輝くことが出来るのです。わたしたちの喜び、平安、そして人生の旅路の光は、主イエスに灯されて、主イエスから光を頂いてこそ輝くことが出来るものなのです。三人の博士達はその光が、まさにこの飼い葉桶に眠っておられる幼子主イエスであることを知ったのです。そして、そこから再び日常へと出て行ったのです。自分の王であるお方の前に、すべてをおいて礼拝するのです。
そこにわたしたちを照らす本当の光があるからです。そしてもはや来た道とは違う、別の道を通って帰っていく。いままでとは違う、主が示された道を旅するのです。今までとは別の道を備えられて、旅を続けるのです。地上の日常に戻っていくのです。この主イエスに出会って初めて、幼子イエス様を礼拝して初めて、博士達は本当の光を知ったのです。本当の平安を知ったのです。

クリスマスのこの時、わたしたちは自らの姿を静かにかえりみてみたいのです。ヘロデのように、この世のいろいろなもので着飾っている自分の飾りを、一つ一つ取り除いてみたいのです。そうしますと、そこに見えてくるのは傷だらけの自分の姿かもしれません。罪深い自分の姿かもしれません。しかし恐れないでよいのです。なぜなら、その汚く貧しいベツレヘムの馬小屋のような所にこそ、主イエスはお生まれ下さったのです。博士の3つめの贈り物は「没薬」です。先ほどの讃美歌にこうありました。「わが持ち来たれる、没薬ささげて、み苦しみの日に備えまつらん」生まれたばかりの幼子、主イエスは、私たちの罪のため、十字架の上に死なれるために、私たちの罪の身代わりとなるために、私たちの傷を癒すために、お生まれになったのです。神は、わたしたちを愛して下さいました。私たちはこの方にすべてを委ねて良いのです。自分の罪も、負いきれない重荷も、あなたのためにお生まれになった、十字架へと向かわれた幼子イエスに、すべて委ねてよいのです。主イエスは、私たちの罪を身代わりに死に、わたしたちの絶望を希望に変えて下さいました。暗闇に光を下さったのです。クリスマスの光は、私たちをキラキラと飾るアクセサリーのような光ではありません。私たちの奥底から、私たちの存在を根底から照らしあげるような、力強い決して消えることのない神からの光が輝くのです。
わたしたちの人生の光は、この飼い葉おけ、ベツレヘムの貧しい馬小屋の幼子、主イエスにこそ輝いているのです。聖書は、この方こそ王の王、主の主であると告げているのです。いま私たちも、博士達とともに幼子イエスの前にひざをかがめて、「あなたこそキリスト。わたしの救い主です。」と礼拝を捧げたいのです。

祈りましょう。
主イエス様。あなたは私たちの救いのためにベツレヘムの馬小屋にお生まれになりました。そして、暗闇に閉ざされた世界に大きく輝く光を下さいました。どうか主よ、あなたの光を御前にひざまずく私たちの心に輝かせて下さい。そして、恐れることなくあなたの光に照らされてこの地上の旅路を歩んでいくことが出来ますように。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

子供説教「バプテスマのヨハネ」マタイ3:1-6

2007-12-09 07:48:13 | 子供の説教
■待降節第二主日/子供説教/2007.12.9.

これはアドベントカレンダーといいます。毎日一つずつあけます。そうして、クリスマスを待っているのです。クリスマスを待つというのは、主イエス様のお生まれを待つことです。昔しユダヤの人々は、神様のお約束された、救い主イエス様のお生まれを長い間待ち続けてきました。

今日は「待つ」ということについて考えてみたいのですが、どうして私たちは「待つ」のでしょうか? クリスマスプレゼントを頂けるのを待ちますよね。クリスマスイブの夜は次の日の朝を楽しみにして寝ますね。わたしたちがまだもっていない、素敵なプレゼントを頂けるのを楽しみに待ちます。きっともう、みんなは今年のクリスマスプレゼントを楽しみにして待っていると思います。
お友達を待つ時もありますね。仲のいいお友達と会えるのはとても嬉しいです。どんなに仲のいいお友達でも、いつもずっと一緒にいれるのではありません。だから、わたしたちは次にお友達と会えるのを、遊びに来てくれるのを楽しみに待ちます。

昔しユダヤの人々は、イエス様のお生まれを待っていましたといいました。イエス様のお生まれを待っていた人々の中に、洗礼者ヨハネ。バプテスマのヨハネとも言いますけれど、ヨハネがいました。洗礼者ヨハネは、イエス様が来れられるのを待っていました。

洗礼者ヨハネは、どのような人だったのでしょうか?
聖書を読むと、ユダヤの荒野で、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯をしめ、いなごと、野蜜とを食べ物としていた。そして、ユダヤ中から、人々はヨハネの所に来て、罪を告白し、神様に背を向けていたことを悔い改めて、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたとあります。

洗礼者ヨハネは、荒野で何を叫んでいたのでしょうか?人々は何を聞いて悔い改めて、洗礼をうけたのでしょうか?
洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒野でこのように叫んだのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」洗礼者ヨハネは、天の国が近づいた。わたしたちの救いが近づいた。だから、悔い改めなさいと言ったのです。

イエス様が来られるのを待つ時に、洗礼者ヨハネは、悔い改めて待つんですよと言いました。心を神様に向けて待つんですよといいました。聖書は、わたしたち人間は、悪いことをして、罪をおかして、神様に背中を向けているといいます。
悔い改めるというのは、背中をむけていた神様のほうへ、グルッとむきなおすことです。お祈りをするというのは、神様のほうにむきなおることです。

クリスマスが嬉しいのは、クリスマスが待ち遠しいのは、ただプレゼントがもらえるからだけではありません。美味しいケーキが食べれるからだけではありません。
わたしたちの罪が赦されるからです。

アダムとエバは罪を犯して、神様からあなたたちは死ぬと宣告されてしまいました。罪というのは、恐ろしいものです。悲しいことですが、人間は、どんなに頑張っても悪いことをしてしまいます。気がつくと神様の方に背中を向けています。
そういう人間、わたしたちを救うために、イエス様がお生まれになった。クリスマスの嬉しい気持ち、待ち遠しい気持ち、それは、このわたしたちの救われた喜びにあるのです。

今日歌う讃美歌は、「かみさまはそのひとりごを」という子供讃美歌です。みんなで一緒に歌詞を読んでみたいと思います。
『①かみさまは、そのひとりごを、よのなかにくださったほど、よのひとを、あいされました。②かみのこを、しんじるものが、あたらしい、いのちをうけて、
いつまでも、いきるためです。』

クリスマスは、神の子イエス様を信じる者が、決して一人も滅びることのないように、天の父なる神様が、イエス様をベツレヘムの馬小屋に生まれさせて下さった。そのことを喜ぶ日なのです。

今日は、洗礼者ヨハネのことを聞きました。
ヨハネは今日も、みんなに向かって叫んでいます。
『悔い改めなさい。天の国は近づいた。』
わたしたちも、神様のほうへと心を向けて、罪を赦されて、クリスマスを待ちたいと思います。


待降節説教「マリアの召命」

2007-12-05 11:32:20 | クリスマス説教
■讃94/95
■聖書 ルカによる福音書1章26~38節
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。1:37 神にできないことは何一つない。」1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
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 待降節を迎えました。何となく慌しい季節、気がつくとクリスマスを迎え、年末を迎えていたというような12月ではありますけれど、忙しさ、慌しさの中にあっても、「待つ」ということを忘れずにいたいのです。イルミネーションやオーナメントで飾るだけのクリスマスではなくて、私たちの心を飾っているものを一つ一つ取り除いてみる。私たちを着飾っているものを一つ一つ取り除いてみる。そうして、主の前に、自分自身の姿を省みてみたいのです。そのとき、そこに見えるのは誰にも見せたことのない、ベツレヘムの馬小屋のような汚く貧しい自分の姿かもしれません。しかしそのとき、本当にこの私のために、主のご降誕が必要なんだと思い知らされるのです。
 慌しさの中に生きているからこそ、また、クリスマスの行事やプログラムが盛りだくさんだからこそ、心静かに主の前で心を備える、そういう時を大切にしたいと思うのです。イスラエルの民が主の降誕を長い間待ち望んだように、私たちも祈りのうちに待降節の歩みを歩んでいきたいと思うのです。

 今朝開かれています福音書のみ言葉は、受胎告知の箇所です。
マリアは天使のみ告げを聞きます。「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられる。」「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。」マリアは言います。「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに。」
 ナザレの貧しい処女マリア。そのマリアが、ある日、思いもかけない声を聞いたのです。「あなたは身ごもって男の子を産む」。 「どうしてそのようなことがありえましょう」とはマリアの心情そのままの言葉であります。マリアは納得がいかないのです。おじまどう訳です。

 この聖書の箇所は受胎告知と言われていますけれども、言い換えますならば、「マリアの召命」と言うこともできます。マリアが召された。ナザレの貧しい処女、マリアが、突如として主に召しだされたということであります。しかも、神の子を身ごもると言うのです。

 今朝私たちは、マリアがどのようにこの主の召しに応えたかということに心を向けたいのです。マリアは確かにおじまどいます。納得がいかないのです。そうです。起きているのは納得がいくような出来事ではないのです。まさに、納得などいくはずのないことがここに起きているのです。それが召し出しということです。召し出されるとりえなど全くない罪人の私たちが、神の召しを聞いた。ですから、ありえないことが起こっているのです。
 マリアにしてみれば、言うなれば絶望的な事態がおこったわけです。まだ未婚のマリアが神の子をみごもるというのです。ところが、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉の通り、この身になりますように」と言います。「お言葉通りこの身になりますように」どうしてマリアは、この召しを受け取ることができたのでしょうか。マリアの決心がついたからでしょうか。それとも、どうにでもなれと諦めたからでしょうか。どちらとも違います。

「お言葉の通りなりますように。」マリアはそのお言葉。神のみ言葉に信頼したのです。マリアは思いがけない召しの言葉に、恐れ、おじまどいます。マリアはあまりに重い召しを受けたわけです。ルカ5章を見ますと、ペトロの召命の記事が記されています。ペトロは主の召し出しの前に「私は罪人です」と叫びます。主の前に立つときに気づいたのは、ほかならないこの私が、罪人だったということであります。
 私たちも同じです。主が私たちを召されたというのは、あまりにおそれ多い、重い出来事であります。あまりに自分が無力で、私の内には到底この召しに応える力などないことを思い知らされるのです。しかし、あまりに相応しくないからこそ、もはや私たちは神にすがるほかないのです。

 恐れ、不安に満ちた私たちの心、思い乱れた心に、主のみ声が響きます。
「主があなたと共におられる」「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む」「神には出来ないことは何一つない」マリアは自分の力。自分の足元を見て納得がいったから主の召しを受け入れたのではないのです。納得など到底いかない出来事。まさにマリアが全身全霊で御子イエスを身ごもる。そういう事態の中で、それでも「主があなたと共におられる」「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む」「神には出来ないことは何一つない」そう言われる、神のみ言葉に信頼したのです。

 マリアは、主の召し出しの前にあって、もはや自分の貧しさ、みすぼらしさ、足りなさを思い煩うのではなく、神のみ言葉に信頼したのです。わたしたちもまた、この神のみ言葉に信頼して主の召しだしに応えていくのです。それが、マリアの召命の出来事です。

 しかし、そこにこそ恵みがあらわになるのです。ここで明らかになるのは、マリアの立派さ、つまり召された者がほめられることではなくて、神がそういう何の相応しさもない罪びとの我々を選び、憐れんで用いたもう神の恵みそのものであります。
 み使いは告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この「おめでとう」とは「喜びなさい、マリア」そういう言葉であります。おめでとう。喜びなさい。主があなたを召して下さった。恐れなくていい。あなたは神から恵みを頂いた。私たちの貧しさ、にもかかわらず、神があなたを召しておられる。ただほめたたえられるのは、この神のみなのです。
 私の生きているのは、私が召されたのは、ただ神の恵みによる。わたしは神をたたえるほかない。数に足らぬ私をも、主はお見捨てにならなかった。そのことであります。
 待降節の歩みにあって、わたしたちもまた、「お言葉通りこの身になりますように」、そのような心を整えたいと思うのです。

■祈り
 主なる神よ、自らの姿を見れば、小さく、貧しいものであり、悩みと迷いとのうちにある、弱い私たちを助け支えてください。どうか主の全き愛、神のみ言葉にすべてをゆだね、あなたの召しに応える者とならせて下さい。私たちの主。イエス・キリストによってお祈り致します。アーメン


東京神学大学・礼拝説教2007/12/05.Wed.